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2015/04/12

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅸ)

一 文化十二亥年六月、南町奉行根岸肥前守久々相勤(あひつとめ)候に付(つき)御加增(ごかぞう)として五百石被下置(くだしおかれ)都合千石高(だか)と成(なる)。但(ただし)町奉行當年まで十八年、其外(そのほか)佐渡奉行、御勘定奉行等およそ奉行役三拾有餘年相(あひ)つとめ、享年七拾九歳。當時悴九郎兵衞御先手(おさきて)相勤(あひつとめ)、孫榮太郎には御小納戸(おこなんど)、父子孫三人勤(づとめ)といへる、多からぬ例(ため)しなれば、誠にあやかりものなりとの噂也。此節自詠の狂歌あり。

  御加恩(ごかをん)をうんといたゞく五百石八十(やそ)の翁(おきな)の力(ちから)見てたべ

右はじめの句、御加恩をどんといたゞくとせし處、永田備後守、「とてもの事にうんといたゞくとし給はゞ、運と響(ひびき)て一入(ひとしほ)よからん」と言(いひ)しかば、うんと直したりける。扨また同じころ、御勘定奉行肥田(ひだ)豐後守事不出來(ふでき)にて、西丸御留守居被仰付(おほせつけられ)千石減じたりける。肥田氏は牛込神樂坂(かぐらざか)に住居(すまゐ)す。時に落首(らくしゆ)あり。

    神樂坂の住人に代りてよめる

  五百石うんといたゞく何のその我は千石さしあげて行く

[やぶちゃん注:鎮衛は亡くなる五ヶ月前の文化一二(一八一五)年六月二十八日(岩波の長谷川強氏の解説では七月ともいわれると附記有り)に永年の町奉行職勤続等によって五百石加増され、家禄千石となった(町奉行は役高三千石)。以前に述べたが、在職のまま同年十一月四日に死去したが、公には五日後の十一月九日没とされた。以下に記された根岸の事蹟の詳細は、『「耳嚢」吉見義方識語』の私の注を参照されたい。

・「十八年」数えである。事実上、丸十七年である。

・「奉行役三拾有餘年」佐渡奉行・勘定奉行(後期は道中奉行兼任)・南町奉行と奉行職は通算三十一年に及んだ。

・「享年」亡くなった年の意ではなく(たまたま結果はそうなるのであるが)、当年までの年齢の意。

・「悴九郎兵衞」鎮衛の嗣子根岸杢之丞衛粛(もりよし)。

・「御先手」既注。御先手組組頭は、布衣で役高千五百石に役扶持として六十人扶持が支給された。ウィキ御先によると、『先手頭は「各大名家の『御頼みの旗本衆』とされ、幕府との事前打合や報告同行などを勤めるため、由緒ある旧家の人が任命され』たともある。

・「孫榮太郎」衛粛の嗣子栄太郎衛恭(もりやす)。

・「御小納戸」前条に既注。御小納戸衆。若年寄支配で御目見以上、布衣着用が許された。役高は三百から五百石。

・「永田備後守」何度も登場している同僚の北町奉行永田正道(まさのり)。時代劇では南と北はえらく仲が悪く、北町奉行は冷血漢というのが定番だが、実際には月交替の輪番制でライバル関係にはなく、寧ろ、業務引き継ぎや判例の均衡をとるために、人によっては頻繁に接していたものとも思われる(武官である先手頭(さきてがしら)の火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)と、言わば一種の文官である町奉行は全くの別組織で、この相互の関係は実際に良くなかった)。それにしてもこの二人、これを見ても個人的に相当に親しかったことが分かる。

・「肥田豐後守」肥田頼常(生没年不詳)はウィキの「肥田頼常」によれば、従五位下豊後守三千石で知行地は武蔵国榛沢・比企郡・上総国。『祖先は土岐肥田氏で肥田忠政の孫、徳川秀忠旗本肥田忠頼の系』。安永五(一七六六)年表御右筆となり、以降、奥右筆・同組頭・御勘定吟味役組頭・日光東照宮御霊屋普請を経て、寛政一一(一七九九)年から文化三(一八〇六)年まで長崎奉行職、天草の乱後は治安安定と経済復興のために長崎伊良林(いらばやし)に製陶所を設け、大神甚五平(おおがみ じんごへい)らに染付磁器の陶窯を天草焼(後に亀山焼)として創始させ、援助した。『在任中、ロシアのレザノフが長崎に来航、成瀬正定や遠山景晋』(とおやまかげくに/かげみち:当時は目付であった。遠山の金さん、遠山景元の実父である。)『と共に事態を無事終息』させている。文化三(一八〇六)年に小普請奉行となり、次いで作事奉行から文化七(一八一〇)年に勘定奉行に就任している(勘定奉行は役高三千石に役扶持三百両)。確かにこの文化一二(一八一五)年に西丸留守居に転じているが、その具体的理由を記している公式なデータは見出し得なかった。但し、太田南畝の「半日閑話」(明和五(一七六八)年から文政五(一八二二)年までの記録。翌文政六年に南畝は死去した)の巻十五の冒頭から二番目の「殿中爭論」の条に以下のようにある(底本は吉川弘文館昭和五〇(一九七五)年刊「日本随筆大成 第一期第八巻」を用いたが、恣意的に正字化した。読みは私が歴史的仮名遣で附した。本文に入る『割註』の語と記号の一部を省略、その注を〔 〕で挟んだ)。

   *

○殿中爭論 文化十二亥年六月の頃かとよ。御勘定奉行に肥田豐後守といふ佞者(ねいしや)あり。彼は元來御右筆より經登(へのぼ)り出頭(しゆつたう)隨一にて、專ら御儉約を第一とし、下の痛も不顧(かへりみず)、上を佞口(ねいこう)を以(もつ)て相繕ひしが、此頃御政道筋の義にて長崎奉行牧野大和守と、御勘定所にて爭論致し、後には肥田惡口(あくこう)を吐き候由、右爭論は漸々(やうやう)大目付取押(とりおさ)へ事濟(ことすみ)し候處、牧野大(おおき)に怒(いかり)て直樣(ぢきさま)同姓備前守(是は此時之(の)老中)宅へ罷越(まかりこし)、夫(それ)より御用御側平岡美濃守幷(ならびに)巨勢日向守〔此(これ)巨勢大和守弟。〕右の方へ退出がけ相廻(あひまは)り、委細訴へ歸宅し、翌日より引込(ひきこみ)しとかや。扨右の爭論直(ぢき)に上の御耳へも入る所、以(もつて)の外御機嫌不宜(よろしからず)して仰(おほせ)には、役人たるもの相談は尤(もつとも)の事なれども、於殿中(殿中に於いて)論におよぶ段、重疊(ちようでふ)不屆の奴なりと仰之(の)由、依之(これによつて)不日(ふじつ)に肥田は西丸御留守居被仰付(おほせつけられ)御足高(おんたしだか)千石御取上(おとりあげ)、牧野は新番頭(しんばんがしら)え御役替(おやくがへ)なり。此(この)沙汰專ら其頃ありしとなり。

   *

以下、簡単に語注する。

●「文化十二亥年六月」本鎮衛の加増による家禄千石となった、まさに同時の出来事。これでは、江戸っ子が黙っていられるはずもないのが痛いほど分かろうというもんでえ!

●「佞者」口先巧みに諛(へつら)いつつ(後に出る「佞口」もそれ或いは「嘘」の意)、心の邪(よこし)まなる輩を言う。

●「長崎奉行」幕府が直轄領長崎に置いた執政官。老中直属で対蘭・対清貿易の監察にあたるとともに市政を統轄した。ウィキの「長崎奉行」によれば、役高千石、在任中役料四千四百俵あったが、この長崎奉行に限っては公的収入よりも余得収入の方が遙かに大きかった。『輸入品を御調物(おしらべもの)の名目で関税免除で購入する特権が認められ、それを京・大坂で数倍の価格で転売して莫大な利益を得た。加えて舶載品をあつかう長崎町人、貿易商人、地元役人たちから八朔銀と呼ばれる』年七十二貫余りにも及んだ献金や、『清国人・オランダ人からの贈り物や諸藩からの付届けなどがあり、一度長崎奉行を務めれば、子々孫々まで安泰な暮らしができるほどだといわれた。そのため、長崎奉行ポストは旗本垂涎の猟官ポストとなり、長崎奉行就任のために使った運動費の相場は』三千両といわれたが、『それを遥かに上回る余得収入があったという』とあるから、私は別に肥田の肩を持つ者ではないが、案外、この論争というのも、私腹を肥やしている牧野への当てこすり辺りが、言い争いの元だったのではあるまいか? 孰れにせよ、肥田のみならず、牧野も栄華の頂点から一瞬にして転落した様子が窺える。どうでもいいことだが、牧野の長崎奉行在任は文化一〇(一八一三)年からこの文化十二年初めまでということになるから、正味二年も勤めていないのではなかろうか? その間、しっかり溜め込んでいただろうか? この告げ口など見ていると、どうもそうした蓄財に気が向くような性格には見えない。せっかく手に入れた長崎奉行職、失ってみたら手元には大した金もなかったのでは、これ、なかろうか?――「佞人」肥田だけではなく、こいつも一緒に……というのが私の本音ではある……。

●「牧野大和守」牧野成傑(「しげたか」或いは「しげたけ」か?)。

●「取押へ」とりなして。仲裁に入って。

●「直樣」直ちに。すぐさま。

●「同姓備前守」牧野忠精(ただきよ)。越後長岡藩第九代藩主。長岡藩系牧野家宗家十代。寛政の遺老の一人。

●「御用御側」御側御用取次(おそばごようとりつぎ)。享保の改革時に新設された最強の将軍側近職。時に老中・若年寄などの幕閣をも越える権勢を振るった。

●「平岡美濃守」平岡頼長。彼は寛政三(一七九一)年から文化一三(一八〇四)年までの実に二十五年六ヶ月の永きに亙って御側御用取次を勤めた。この辺りから恐らくは将軍家斉の耳に入ったものであろう。

●「巨勢日向守」不詳。旗本に巨勢家が二家あり、孰れも徳川吉宗に従って紀伊藩臣より移った者で、同じく五千石である。巨勢利和(こせとしまさ 明和四(一七六七)年~天保五(一八三四)年)なる日向守であった人物が同時代にはいるが、この人物は旗本松平家からの養子で以下の割注「此巨勢大和守弟」という記述がしっくりこないから別人か?

●「巨勢大和守」不詳。ネットで調べると、かく名乗った人物には故巨勢大和守利啓(「としひろ」? 享保九(一七二四)年~宝暦一三(一七六三)年)がいるが、時代が合わない。

●「重疊」幾重にも重なっていること。この語は、この上もなく喜ばしいこと、極めて満足なことに対して、感動詞的に用いたりするケースにしばしば出逢うが、ここは重過失であることを示す、悪い謂いである。

●「不日に」多くの日数を経ないこと。近いうちに。多く副詞的に用いる。

●「新番頭」平時の将軍外出用の警備隊(SP)としての新番の責任者。役高二千石だが、諸太夫格の長崎奉行から布衣格のそれで、あからさまな降格懲罰人事である。

 これを見るに――冒頭から「佞者」と断ぜられ――下々の民草の痛みを一切省みることなく――上には只管、諛(へつら)いをもって上手く言い繕って手玉に取り巧みに世渡りしていた――城内上御勘定所に於いて長崎奉行牧野成傑と論争に及ぶに牧野に対して許し難い侮蔑的な悪口(あっこう)に及ぶ(と考えないと、後の牧野の異常なまでに執拗な告げ口行動の説明がつかない)――というトンデモ勘定奉行であったということになる。さて資料としてのみ挙げておくが、かの太田南畝が実名を示した上で「佞人」とするのは、火のないところに……ではあろうと私は考える。

 

・「西丸御留守居」ウィキの「御留守居」を見ると、『西丸留守居は若年寄の支配を受け』、役高二千石で諸大夫役(五位の大名や旗本の官位相当に当たる職名呼称)。『長年勤仕を果たした旗本に対する名誉職であった反面、本丸留守居とは異なり左遷の意味合いを含むことも多かった』とあるので、飛ぶ鳥落す勘定奉行からの肥田の転任は明らかに懲罰人事であったことが分かる。勘定奉行が役高三千石であるから確かにきっちり千石減であった。

・「牛込神樂坂」新宿区早稲田通りの大久保通り交差点から外堀通り交差点までの坂である神楽坂を含む、現在の新宿区神楽坂。但し、複数の切絵図を確かめてみたが神楽坂附近には肥田豊後守の屋敷は見当たらない。

・「足高」「たしだか」なので注意。江戸幕府の職俸制度の一つで、家禄の低い者が役高の高い役職に就いた場合、在職中に限り、その差額を支給する制度。また、その支給される補足高を言う。享保八(一七二三)年、八代将軍吉宗の時に財政再建・人材登用の目的で定められた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 文化十二亥年六月、南町奉行根岸肥前守殿、久しく奉行職を恙のぅ相い勤めて御座ったにつき、御加増として五百石の下しおかれ、都合一千石の石高(こくだか)と相い成って御座った。

 但し、町奉行当年までの十八年のみならず、それ以前にその他(ほか)に佐渡奉行・御勘定奉行など、およそ奉行役をこれ、続けて三十有余年に亙って相い勤められ、当年とって七十九歳。

 現在、伜殿(せがれどの)九郎兵衛衛粛(もりよし)殿は御先手組(おさきてぐみ)を相い勤められ、その御子息にして肥前守殿御孫(おんまご)栄太郎衛恭(もりやす)殿には御小納戸役(おこなんどやく)――父・子・孫の――本日只今――三人が三人――これ――現役でのお勤めと申す――これは多くはあらぬ例(ため)しなればこそ

「まっこと! これにあやかりたいものじゃ!」

と、専ら、江戸市中の噂にて御座る。

 この折り、肥前守殿、自詠の狂歌をものされて御座った。その歌、

 

  御加恩(ごかおん)をうんといただく五百石(こく)八十(やそ)の翁(おきな)の力(ちから)見てたべ

 

 この狂歌、当初の句は、これ、

 

  御加恩をどんといたゞく

 

となさっておったが、かの知音(ちん)なる北町奉行永田備後守正道(まさのり)殿、肥前守殿より、この歌を示されたによって、一言、

「……この上の句で御座るが――とてもの事に――うんといただく――という心にて詠まれたならば、これ、「うんと」の「うん」が「運」と響き合(お)うて、一入(ひとしほ)、ようござろうぞ。」

と、助言なされたを受けて、「うん」と直された、とこのとで御座る。

 さてもまた、これと同じ年同じ六月のこと、かの知られた御勘定奉行肥田(ひだ)豊後守頼常(よりつね)殿、これ、不祥事の御座ったにつき、勘定奉行改め西丸御留守居(にしのまるおるすい)を仰せつけられ、役高これ、千石も減ぜられてしまうという出来事の御座った。

 肥田氏は牛込神楽坂(かぐらざか)に住いなさっておられたが、その折り、屋敷の塀に落首のあって、その歌に、

 

    神楽坂の住人に代りてよめる

  五百石うんといただく何(なん)のその我(われ)は千石さしあげて行く

 

とあったと申す。

 肥前守殿もこれ、お聴きになられたとならば、きっと、にんまり、なされたことであろう。]

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