甲子夜話卷之一 32 加藤淸正石垣の上手なる事
32 加藤淸正石垣の上手なる事
加藤淸正は石垣の上手なりしとぞ。今肥後隈本城の石垣はもとより高きが、其下に至り走り上るに、二三間は自由に上らるれど、それうへの所は頭の上にのぞきかゝりて、空は見えずとなり。傳云ふ、淸正の自ら築く所と。是は隈本に往たる者の話なり。
■やぶちゃんの呟き
ウィキの「熊本城」によれば、『清正は特に石垣造りを得意とし、熊本城では、始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。熊本城で使用されている武者返しは慶長の役の際に朝鮮に築かれ、難攻不落と呼ばれた蔚山倭城(うるさんわじょう)に使用した築城技術を元にしたものである。上益城郡山都町(旧・矢部町)にある通潤橋は、江戸時代末期にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに架けられた。江戸幕府の仮想敵であった薩摩藩に対する備えとして建造されているため、南側が非常に堅固(その分北側がかなり手薄)な構造になっている。この構造が西南戦争で薩摩軍の包囲戦をしのぐことができた要因の一つとなっている。熊本市役所前の石垣は、長さとしては日本最長である』とある。熊本城公式サイト内の「熊本城の石垣」によると、荻生徂徠が享保一二(一七二七)年の著書「鈐禄(けんろく)」の中に『石垣ハ加藤淸正ノ一流アリ。彼家ノ士ニ飯田覺兵衞。三宅角左衞門ヲ兩カクトシテ石垣ノ名人ト云シモノナリ。石垣ヲ築クニハ、幕ヲ張テ、一円ニ外人ニ見セズト云。今ハ町人ノワザトナリ、武士ハ皆其術ヲ不知。淸正ノ築ケルハ大坂・尾州・肥後ノ熊本ナリ』と引いてある。
「隈本」熊本。
「二三間」約二・四~五・四メートル。
「往たる」「ゆきたる」。
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