『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 絹張山
●絹張山
絹張山は高五町許。往時賴朝大藏に在住の時。夏頃此山に絹を張り雪降(ふり)たるか如くにして一覽せり。故に云ふ。昔此地に尼寺あり。住持の尼松樹の枝に衣を掛晒せしか故に名くともいふ。其松枝葉繁茂して今猶山上にあり。絹張松(きぬばりまつ)と呼へり。里俗山麓犬懸谷を衣掛(きぬかけ)と呼も此故なりと云。山中に大平。西ケ谷。蛇屋藏。地藏。久保など唱ふる所あり。山麓に岩窟十所あり。其内に古墳を存す。〔何人の墳墓なるや詳ならず〕又山上に短册石(たんざくいし)と云へるありと。鎌倉志に見えたれと今はなし。
[やぶちゃん注:本記載はやはり「新編相模國風土記稿」の「卷之九十四」の頭にある解説をほぼ引き写したものである。そこでは、「絹張松」の上に割注で、『圍一丈餘』(松の根方の円周約三メートル)とある。さらに「久保など唱ふる所あり」と「山麓に岩窟十所あり」の間にある、『又本巡禮道とて坂東二番、三浦郡久野谷村岩殿寺に達す、別に今巡禮道と唱へ峯通りに便路あり』という記載が省略されている(この巡礼道は寸断されているものの、跡が現在も残っているもので、この当時消失しつつあったこれ外したのは『風俗画報』の痛恨のミスと私は勝手に思っている)。また、最後の『此山報國寺境内に屬せり』という一文も何故か省略されている。案内書としては山の位置を測り難くしてしまう、頗る不親切な省略と言える。なお、実はこの山周辺(伝北条時政邸跡を含む)は鎌倉市内で唯一、私が未踏査の地である。そこをまことに行ったように感じさせてくれるのが、個人サイト「テキトーに鎌倉散歩」の「秘密の場所」である。必見!
・「高五町許」約五四五メートルであるが、これはおかしい。現在、絹張山の標高は百二十一メートルである。鎌倉の最高峰の大平山でさえ標高百五十九メートルである。これは思うに金沢街道から山頂までの距離と標高を「新編相模國風土記稿」が誤って記載してしまったものではなかろうか? 因みに地図上で単純徒歩実測すると、だいだいこれと同じ距離が出る。
・「鎌倉志に見えたれと今はなし」。「新編鎌倉志卷之二」には、『○犬懸谷〔附 御衣張山短尺石〕』の項(前半は前条に引用した)に、
此の上の山を衣張山(きぬはりやま)と云ふ。相ひ傳ふ、賴朝卿、大藏が谷(やつ)に御座の時、夏日、此山にきぬをはり、雪の降掛(ふりかか)るが如くにして見紛ふ故に名づくと也。或ひは云ふ、昔の此の地に比丘尼寺(てら)ありしに、彼の比丘尼、松の枝に衣(くぬ)を掛晒(かけさら)せしが、其の木、後に枝葉榮(さか)へて、今、山の上にある二本の松の大木なりと云ふ。犬駈(いぬかけ)を、俗に衣掛(きぬかけ)と云ふも此の意なり。短尺石(たんじやくいし)と云ふ石、山上にあり。其所謂(いはれ)を知らず。
とある。この時点で「短尺石」は由来も不明であり、実見検証された様子もない。「鎌倉攬勝考」にも載らぬから、江戸の終りには完全に忘れられ、消失していたものらしい。]
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