耳嚢 巻之十 不計盜賊を捕へし笑談の事
不計盜賊を捕へし笑談の事
或町家へ盜賊立入りしが、未(いまだ)寢鎭(ねしづま)らざる樣子故、臺所口の椽下(えんした)に忍び居(をり)しが、最早寢やせしと椽下より顏を出し見しに、家内寢ける樣子なれ、一人の女燈のもとに齒黑を染居(そめをり)候樣に思ふ故、尚忍び居しに、右の女も、何か上り口に物音致候故、不思議に思ひ心附(こころづき)見たりしが、與風(ふと)右盜賊人首出し候を見候て驚き候紛(まぎれ)、口を大きくや明(あき)けん腮はづれしを、盜賊は、髮振亂(ふりみだ)せし女の、口を大きく明(あけ)、齒黑々と見張り居しを、妖怪とや思ひけん、目をまはし即倒せしを打寄捕(うちよりとら)へしとや。其後は如何(いかが)なりしや不聞(きかず)。
□やぶちゃん注
○前項連関:お美事! 腮が外れるで直連関! 無論、一読、私は妖怪「お歯黒べったり」を思い出した(リンク先はウィキの「お歯黒べったり」の竹原春泉画「絵本百物語」の「歯黒べったり」の画像。因みによく考えてみると、恐らく口裂け女の民俗学的なルーツはこれだな)。この場合、夜間でしかも顎関節脱臼をして異様に腮が下がっているとまさに目鼻が見えず、異様に下がった下顎とそこに開いたありありと剥きだされた鉄漿(おはぐろ)べったりの歯と歯茎は、これ、まさに「お歯黒べったり」!
・「紛(まぎれ)」は底本の編者ルビ。但し、何だかおかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見るとここは『驚き候儘(まま)』である。これがよい。
・「即倒」底本には「即」の右に『(卒)』と補正注がある。
■やぶちゃん現代語訳
計らずも盜賊を捕えた笑い話の事
ある町家へ一人の盜賊が忍び込んだが、いまだ寝静まっていない様子であったがため、台所口(ぐち)の縁の下に忍んでいたと申す。
『……さて……そろそろ皆……寝たか?……』
と縁の下よりそろそろと顔を出して覗き見たところ、家内は殆んど寝ておる様子では御座ったものの、障子の影を垣間見るに、一人のお女中が燈火の下(もと)に、これ、お歯黒(はぐろ)を染めておるように見えたによって、なおも縁の下に下がって忍ばんとした。
ところがこの時、かのお女中、縁の下にて幽かに妙な音のしたように感じ、障子を開けて音のした台所口の方を透かし見たところ、何か、縁側の上り口の辺りにて、ごそごそと物音の致いて御座った。されば不思議に思い、野良猫でも入り込んだものかと、音を忍ばせ、縁側をそうっと、かの辺りまで忍び足に参り、やおらその下を覗き見んとした――ところが――
――フッ!
と、同時にかの盗賊も
――首を出す!
互いの顔、これ、縁先にて数寸ばかりも離れておらぬ! されば、お女中、
――キェエッツ×××!!! ×××!
と、盗賊のむくつけき間近なる顔に鉢合わせ致いたなり、あまりに口を大きく開け過ぎたからであろうか――驚愕(きょうガク)の余り愕然(ガクぜん)とし下顎(かガク)をこれガクっくり落して――腮(あご)が外れた。その上に腰をも抜かしたがめ、いっかな動けずなった。
片や、盗人(ぬすっと)はと言えば、これ、
――髪振り乱した女の!
――口を鰐の如(ごと)大きく開け!
――歯黒々としたが!
――凝っと己(おの)が顔を見詰めてピクリとも動かぬ!!!
となれば、てっきり妖怪ならんと思うたものか、そのまま――目を回して――卒倒してしもうたと申す。
矯声と物音に家中の者ども皆、起き出だし、かの盗人(ぬすっと)はこれ、皆うちよって手もなく捕えられたとか申す。
その後――腮の外れた女中は――また、頓馬な盗人(ぬすっと)は、これ、如何(いかが)相い成ったかは、残念なことに聴き逃してしまった。
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