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2015/04/03

耳嚢 巻之十 文化十酉年六月廿八日阿蘭陀一番舟渡來象正寫の事

 文化十酉年六月廿八日阿蘭陀一番舟渡來象正寫の事

 

 今年五歳に相成申(あひなりまうし)候由、大(おほい)さ日本の牛より十倍、平生(へいぜい)米を六升程、萱(かや)三荷(か)、砂糖一斤半程、水(みづ)擔(たご)に貮荷程づゝ、折々喰ひ候由。不快の節は□て土を食す。其節は、水一荷程に酒一升五合程入れ、飮(のま)する時は大方(おほかた)治(ぢ)するといふ。日本里數一日に五六里宛(づつ)歩行(ありく)といふ。鼻の長さ六尺程、延縮自在にして、人の手に准ずるもの也。此獸御用なしにて、長崎より直(ぢき)に御返しに成(なる)。

 

Bunka10zousan

        惣身鼡色髭黑シ

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。奇獣来日。私は象が大好きである。従ってちょっと拘って注を附したい。これ以前の象の日本来日の記録は、ヤフー知恵袋の江戸時代に最初期日本に来た象の運命についての質問の回答によれば、江戸時代までに象は七回来日しているとあり、以下、次のような主旨が記されてある(一部には私が大幅に手を加えてある)。

   *

①応永十五(一四〇八)年

 象の初来日。東南アジアから南蛮船に乗って若狭国に上陸、室町幕府第四代将軍足利義持に献上された。

②天正二(一五七四)年及び③翌天正三年

 明船が博多に象と虎を持ち込み、翌年にも象一頭が来日。この象は間もなく死亡した。

④慶長二(一五九七)年

 マニラ(フィリピン)総督から秀吉に象が贈られた。

⑤慶長七(一六〇二)年

 江戸幕府開府の前年。交趾国(こうちこく/こうしこく:現在のベトナム。)から家康に象が贈られた。その後については記録になく、恐らくは間もなく亡くなったものかと思われる。

⑥享保十三(一七二八)年六月十三日

 江戸以前の来日象の中で最も知られたもの。将軍吉宗の希望によって中国商人の手で安南(ベトナム)からペアの象が来日、この時初めて江戸の多くの庶民、日本人の大衆が初めて象を目にした。♀の象は体調不良により三ヶ月後に死亡した。翌享保十四年には♂の象が来日、長崎から京、東海道を経て江戸に辿りついて動物好きの吉宗に拝謁した。途中、都では中御門天皇にも謁見、この時には天皇に会わせるために「広南従四位白象」の名が授けられている(この時ベトナム人調教師タンスー氏とヒヨメン氏の二名が同行している後掲する中野区東部区民活動センター運営委員会公式サイト内のささご会製作になる『紙芝居「江戸に象が来た」』に拠る)。その後も十年以上に亙って浜御殿で飼育された。なおこの間、飼育員が象に殺される事件が発生している。その後、浜御殿出入りの中野村の百姓源助という者に下げ渡されたが(『紙芝居「江戸に象が来た」』によればこの源助は幕府から飼育代として年に百三十両を受け取り、見世物として入場料を取ることも許された、その堀を巡らし柵を構えた象小屋は現在の中野区本町三丁目にある朝日が丘公園附近とある)、飢えと寒さで間もなく死亡したという。没年は寛延二(一七四九)年とされ、死因は栄養失調とされる。この♂象の皮は剥がされて頭蓋骨・牙・鼻部分の皮が源助に与えられ、これが現在の中野区にある宝仙寺に伝わる「馴象之枯骨(じゅんぞうのここつ)」で、鼻の皮一部も残っているとされている(非公開。牙や頭蓋骨は昭和二〇(一九四五)年五月二十五日の東京大空襲で一部を残して焼失したと伝える)。加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「浮世絵辞典」の「☆ ぞう 象」の項に、文政八(一八二五)年以前に成立した加藤曳尾庵の随筆「我衣」を引いて(恣意的に正字化し、句読点や記号の一部を変更追加省略し、割注と思われる記号も〔 〕に変え、読みを独自に附した)『元文五申年、御濱御殿に飼(かふ)所の白象、中野と云(いふ)村より願(ねがひ)に出、拜領す。前々象飼料御物入(ものいり)多きゆへ、儉約に付(つき)、望(のぞみ)の者は願出(ねがひいづ)べき由御觸(おふれ)に付、中野名主願出る、象「洞(どう)」十六文づゝに賣る、見せたる後、酉戌の年死(しに)けると云(いふ)。死する前は大象となり、高(たけ)一丈二三尺、長(ながさ)四間ほど、大なる土藏の動(うごく)が如し、御濱にて飼付(かひつけ)の者、常に御上(おかみ)より渡る飼草(かひぐさ)を減(へら)して養ひたり、依之(これによつて)、象彼(かの)飼者(かふもの)を鼻にて卷(まき)て投殺(なげころ)せり、佞臣(ねいしん)を知りて不通(とほさず)と云(いふ)事誠(まこと)なり、能(よく)理非を正す靈獸也(なり)〔「象志」と云ふ本、別に所持す。〕。象の糞は、牛の如く生にてゆるく下す故に、「洞」と云、痘瘡(とうさう)の藥とて賣(うり)たれども、功を見たるもの一人も無し、賣(うり)たき故の談なるべし』とある。「高一丈二三尺、長四間」背高三・六四メートル、四足で立っている際の全長が約三・七メートル。「酉戌の年」とは元文五(一七四〇)年を基準とする謂いであるから没年は寛保元・元文六(一七四一)年辛酉(かのととり)か翌寛保二年壬戌(みずのえいぬ)で先の死亡年より七、八年前であるが、記載内容から見ると、この方が正しい感じがする。中野区東部区民活動センター運営委員会公式サイト内のささご会製作になる『紙芝居「江戸に象が来た」』でも没したのは中野の源助に飼われるようになって僅か一年八ヶ月目の寛保二年十二月一日とする(この紙芝居、大井川の渡しの象の渡河のシーンなどすこぶる必見!)。先の記載は「寛保二年」読み違えたものかも知れない。「象志」はこの時に来日した象の形態その他を纏めた書で著者は不明とされているが、記述に普賢菩薩と白象に注目した記述があり、京都の仏僧との説もある(ここは「馬込と大田区の歴史を保存する会」公式サイト内のこちらのデータに拠った)。なお、先行する『「耳嚢 巻之十 怪倉の事」追加資料 釈敬順「十方庵遊歴雑記」より「本所数原氏石庫の妖怪」』も是非、参照されたい。……このぞうさん、何だか、とっても可哀そう……

⑦文化十年(一八一三)年

 本話の象。セイロンの♀象が来日。但し、本文にもある通り、幕府老中の評議の結果、この象は送り返されている。⑤と同様に加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「浮世絵辞典」の「☆ ぞう 象」の項に、石塚豊芥子編の随筆「街談文々集要」(万延元(一八六〇)年序)の文化十年の記事「和蘭象持渡」を引いて(恣意的に正字化し、句読点や記号の一部を変更追加省略し、読みを独自に附した)

   《引用開始》

右來舶の内、象を初め珍らしき禽獣之(の)類、江戸表へ御伺(おんうかがひ)候處、御差(さし)もどしに相成(あひなり)候、是(これ)珍禽(ちんきん)奇獣不蓄於(たくはへざるによる)。

   國といへる、聖のいましめもありがたし。此節、

     めづらしな象(キサ)のさし櫛さし連(つれ)て寄合町(よりあひまち)に出(いづ)る新象(しんぞう)

     應永ハ初會(しよくわい)享保ハうらなれど三會目にハよバぬ新象

                             右蜀山人詠

   《引用開始》

とある。蜀山人の狂歌二つは孰れも遊郭の水揚げの済まない見習い女郎の新造(しんぞう/しんぞ)に掛けた洒落で実に面白い。一首目の「さし櫛」(女が髪飾りとして挿す櫛)の原材料は鼈甲の他、象牙も用いられた。「寄合町」は長崎の丸山遊郭の町名。二首目は、遊郭に客が初めて登楼することを「初會」と言い、二回目を「うら」、「裏を返す」と言った(遊女屋には遊女の名前を記した札が下がっているが、この札を客が指名すると裏返すことに由来)。三度目の登楼を「馴染み」と称し、客は遊女が気に入ったので長く通う意を含む「馴染み金」という祝儀を出してこの時、初めて遊女は客と寝る。三回目の登楼で客が「馴染み金」を出さないと「客人」と呼ばれて馴染みにはなれなかった(ここはネット上のサイト「性風俗用語辞典」の「裏を返す」に拠った)。まさにこうした遊郭の習慣を実にうまくこの象の返送の一件にインスパイアしてあるのである。前に出した「馬込と大田区の歴史を保存する会」公式サイト内のこちらには、この象の彩色画が載る。……よかったね、帰れて……

⑦文久二(一八六二)年

 アメリカ船が横浜港に象を持ち込み、翌年にはこの象が両国で見世物にかけられ、興行は大ヒットを飛ばし、その後も興行師によって明治維新を生き延び、明治七(一八七四)年まで全国を巡回して各地で人気を博した。

   *

・「文化十酉年六月廿八日阿蘭陀一番舟渡來象正寫の事」は「文化十酉年六月廿八日、阿蘭陀(おらんだ)一番舟(いちばんぶね)渡し來たる象、正寫(しやううつし)の事」と読む。「正寫」は実物の姿形をそのまま忠実に写しとること、又はその絵を指す。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから、ちょうど一年前になる。

・「十九世紀初頭の出島には夏になるとオランダの貿易船が二隻来航するのが通例で、そのうち、先に長崎大波止(おおはと)に到着する船を「一番船」と読んだ。謂わば二艘の船団の旗艦であり、その船長が一番船船長として厚遇された(参考にしたuchiyama氏のサイト「史跡写真紀行」の「出島」に嘉永四(一八五一)年に来航したオランダ船船長デ・コーニングの「私の日本滞在記」などを参考にして再現された「一番船船長の部屋」の画像がある)。

・「不快の節は□て土を食す」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『不快の砌(みぎり)は極(きは)めて土を食す』とある。これで訳した。

・「萱」細長い葉と茎を地上から立てる草本のチガヤ・スゲ・ススキなどの総称であるが、これは藁と考えてよかろう。

・「荷」助数詞。一人が天秤棒で肩に担ぐ一度の物の量を単位として数えるのに用いる。

・「一斤半」九百グラム。

・「擔」水や肥やしなどを入れて天秤棒で担う桶。

・「五六里」十九・六~二十三・六キロメートル。

・「六尺」一・八二メートル。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 文化十年酉年六月二十八日、阿蘭陀(オランダ)一番舟(いちばんぶね)によって渡来せる象の写像の事

 

 生まれて今年で五歳に相い成ると申す由。大きさは日本の牛の十倍はある。普段は、一日に

・米     約六升

・茅(かや) 三荷(か)

・砂糖    約一斤(きん)半

・水     担(たご)にて凡そ二荷

ほどずつ、気がむくと折々喰らい、総て食い尽くす由。体長が思わしくない折りには、異様なほど土を食う。そういう際には、水約一荷宛、酒一升五合ほどを混入して吞ませると、大方、快癒するという。日本の里数にして一日に凡そ五、六里ほどは歩行するという。鼻の長さは凡そ六尺ほど。伸縮自在にして、人の手に準ずる役割をなすものである。

 この獣(けもの)、幕閣より「御用なし」との裁断の下って、長崎より直きに御返しとなった。

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