志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅷ)
一 文化十酉年十二月十二日、肥前守孫榮太郎御小納戸(おこなんど)被仰付(おひせつけられ)、同十四日講釋終會(しふくわい)祝儀申述(まうしのべ)かたがた罷越(まかりこ)したりしかば、肥州大喜びにて、「扨々難有(ありがたき)事なり、孫まで御番入(ごばんいり)にて、布衣(ほい)以上のもの悴共(せがれども)に三人勤役(きんやく)する事、實にめで度(たき)此(この)親仁とおもはれ候へ」とて、樣樣(さまざま)馳走などありて、「緩緩(ゆるゆる)と酒を飮み給へ」などなど老人大かたならぬ悦びなり。予申(まうし)けるは、「扨もめづらしき御繁榮の吉事(きちじ)共(ども)也(なり)。諺(ことわざ)に笑ふ門(かど)には福來ると申(まうす)ごとく、こなたにては今度(このたび)の如くめで度(たき)慶事あるは、是(これ)則(すなはち)諺の笑ふ門なれば斯(かく)あるべき筈なり。いかんとなれば榮太郎殿は君の御孫にて九郎兵衞殿の御子なり。爰を以(もつて)考(かんがふ)るに九郎兵衞の子といへるを數篇(すへん)はや言(こと)に申(まうす)ときはをのづから笑ふべし。是(これ)諺の意にかなへるか」と滑稽の挨拶に及びければ、肥州には兼(かね)てかゝるたはぶれは大(おほき)に好む處なれば、其事をいひて吐(どつ)と笑(わらひ)たりき。
[やぶちゃん注:親馬鹿鎮衛、洒落好きの彼の等身大の姿が髣髴としてくるエピソードである。
・「文化十酉年十二月十二日」グレゴリオ暦では一八一四年二月一日。因みに鎮衛は文化十二年十一月四日(グレゴリオ暦一八一五年十二月四日)に亡くなっている。
・「肥前守孫榮太郎」鎮衛嗣子衛粛(もりよし)の嗣子栄太郎衛恭(もりやす)。
・「御小納戸」若年寄支配で将軍に近侍し、理髪・膳番(ぜんばん)・庭方・馬方などの雑務を担当した。旗本や譜代大名の子弟が召し出され、御目見以上で布衣。ウィキの「小納戸」によれば、小納戸に任命されると、三日以内に登城し、『各人が特技を将軍の前で披露する。小納戸には、御膳番、奥之番、肝煎、御髪月代、御庭方、御馬方、御鷹方、大筒方などがあり、性質と特技により担当を命ぜられた。また、いっそうの文芸を磨くため、吹上庭園内に漢学、詩文、書画、遊芸、天文、武術の学問所と稽古場があり、習熟者は雑役を免ぜられ、同僚の指導をおこな』った。『将軍が中奥御小座敷での食事の際に、膳奉行の立ち会いの上、小納戸御膳番が毒味をおこなう。異常がなければ膳立てし、次の間まで御膳番が捧げ、小姓に渡す。給仕は小姓の担当であった』。『将軍が食べ終わった後、食事がどのくらい残されているかを秤に掛け計測し、奥医師から質問された場合には応答し、小納戸は、毒味役と将軍の健康管理を兼ねていた』とある。『その他、洗顔、歯磨きの準備も小納戸の仕事で、将軍の月代と顔を剃り、髪を結うのが御髪月代であり、将軍の肌に直接触れることで失敗は許されず、熟練の技を要した。お馬方は、江戸市中に火災が起こると、現場に駆け付け、状況を将軍に報告した』。『小納戸は、将軍に近侍する機会が多く、才智に長ける者であれば昇進の機会が多い役職であった』とある。鎮衛の手放しの悦びようも納得出来る。
・「御番入」非役であった小普請や部屋住みの旗本・御家人が選ばれて小姓組・書院番・大番などの将軍近侍の役職に任じられることを言う。
・「九郎兵衞の子といへるを數篇はや言に申ときはをのづから笑ふべし」……一応、訳ではやらかしてみましたが……理斎先生……これ……ちょっと無理、ありません?……
■やぶちゃん現代語訳
一 文化十酉年十二月十二日、肥前守殿御孫(おんまご)栄太郎殿、御小納戸(おこなんど)を仰せつけられ、たまたまその同十四日、肥前守御屋敷にての私の軍書講釈の会の終わった後、御祝儀を申し述べかたがた、御前に罷り越し、御挨拶申し上げたところ、肥前守殿、これ殊の外、大喜びにて、
「――さてさて! ありがたきことじゃ!――孫まで御番入(ごばんい)りと相い成って、布衣(ほい)以上の者、これ、悴と合わせて実に三人!――勤役(きんやく)し申し上げることは相い成って御座るよ! 実(げ)にめでたき、この幸せ者(もん)の親爺(おやじ)と思うて下されぃ!」
とて、さまざまの馳走などなし下され、
「――まずは! ゆるりと酒をお飲みなされよ!」
などなど、御老人、大方ならぬ、お悦びようにて御座った。
そこで、私も例によって大音声に申し上げたは、
「――さてもさても! どこれもこれも、珍しき御繁栄の吉事(きちじ)にて御座いまるす!――諺に『笑う門(かど)には福来たる』と申しますが如く、こちらさまにて、このたびの如(ごと)、いよよめでたき慶事の御座ると申しまするは、これ則ち、諺の『笑ふ門(へ)』と御座いますれば、まさにかくあるべきはずで御座いましょうぞ! 如何(いかん)となれば、栄太郎殿は御翁様の御孫様にて九郎兵兵衛殿の御子(おんこ)にて御座る。これを以って考えまするに、
――九郎兵衛の子
と言う御言葉(おんことのは)を、これ数度、早口にて申してみまする時は、これ、自ずから……
――くろべえのこ……くろうべうのく……くわろうべのくる……わろうへにくる……笑う辺(べ)には来る!……
……さてさて!!
……これ、自ずと笑みの浮かんでは参りませぬか?
……これ、諺の意に叶うて御座ろう言上(ことあ)げと、これ、存じ上げ奉りまする!……」
と、いささか無理のある滑稽の御挨拶をやらかしたところが、肥前守殿にはこれ、かねてより、かかるお戯(たわぶ)れ、大いに好まるるところで御座られたによって、御自身、
「――うむ?……九郎兵衛の子……くろべえのこ……くろうべうのく……くわろうべのくる……わろうへにくる……笑(わろ)う辺(べ)には来る!……か?!――笑う門には、これ、福の来る!――ってか!」
と復唱なされ、これ、同時に、どっと! お笑いになっておられて御座ったよ。……]
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