北條九代記 卷第七 名越邊狼藉 付 平三郎左衞門尉泰時を諫む
〇名越邊狼藉 付 平三郎左衞門尉泰時を諫む
同二十七日名越の邊、俄に騷動す。越後守時盛の第(てい)に、敵打入りたりと風聞す。武藏守泰時は、評定の座におはしけるが、直(すぐ)に走(は)せ向はる。相摸守時房以下、出仕の輩、追々に行きければ、折節、越後守は他行にて、留主(るす)の侍(さぶらひ)下合(おりおう)て、悪黨兩三人を搦取(からめとり)りたり。其外の奴原(やつばら)は、或は自害し、或は打殺さして、事、靜まりけり。平三郎左衞門尉盛綱、申しけるやう、「武藏守泰時、御自分に於いては、重職に居給ふ御身なり。假令(たとひ)國敵(こくてき)なればとて、先(まづ)御使を以て左右(さいう)を聞召(きこしめ)されて、盛綱等(ら)を遣され、御計(おんはからひ)もあるべき事ぞかし。率爾(そつじ)に向ひ給ふこそ、不覺(ふかく)とは存じ候へ。向後とても、若(もし)輕忽(きやうこつ)に御振舞(おんふるまひ)にては、亂世の基(もとゐ)、世の誹(そしり)の種(たね)なるべきか」とぞ諫めける。泰時申されしは「人の世にある事は、親類を思ふが故なり。眼前に兄弟を殺害せられんは、人の笑(わらひ)を招くにあらずや。重職の詮(せん)なからんものか。武道は人躰(じんたい)に依るべからず。越後守、只今敵に圍(かこ)まるゝ由聞き候。他人は定(さだめ)て少事(せうじ)と思はるべし。泰時に於いては、建曆、承久の大敵に違(たがは)ずと存ずる所なり。聞く事なきの親者も其(その)親(しん)たる事を失ふ事毋(なか)れといへり。棠棣篇(たうていのへん)に云はずや、兄弟墻に鬩(せめ)ぐ外、その侮(あなどり)を禦ぐとあり。この大事を聞きながら、急(きふ)にせずして、子細を聞屆(きゝとゞ)けば、其間に如何なるベき。井を掘(ほり)て渇(かつ)を救ひ、舟を作りて溺れえたるを助くるがごとし。何の用にか立つべき」とぞ宣ひける。盛綱、理に伏して、面(おもて)を垂れて、敬屈(けいくつ)す。駿河〔の〕前司義村、傍(かたはら)にて承り、感涙をぞ流されける。越後守、この事を聞きて彌(いよいよ)泰時に歸伏(きふく)し、潛(ひそか)に誓狀(せいじやう)を參らせて、「子孫の末まで武州の流に對して、無二の忠節を存ずべし。逆心の企(くはだて)あるべからず」と涙と共に書き進ぜらる。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜三(一二三一)年九月二十七日の条に基づく。
「同二十七日」誤り。前条の続きならば「同月」は六月であるが、これは九月二十七日の事件である。
「越後守時盛」北条時盛で連署北条時房長男で泰時の甥に当たり、確かに「越後守」ではあったが、ウィキの「北条時盛」を見る限り、彼は貞応三(一二二四)年に時房が連署に就任すると、その跡目を継いで六波羅探題南方に就任して仁治元(一二四〇)年一月に時房が没するまで基本在京しており、以下の「折節越後守は他行にて」という叙述が何かおかしく、屋敷が名越にあるというのも実は解せない(後述)。貴志正造氏の新人物往来社版「全譯吾妻鏡」の当該条を見ると、これは時盛ではなく、北条朝時とある。これが正しい(なお、教育社の増淵氏の訳は時盛のママで訂正注などはない)。北条朝時(建久四(一一九三)年~寛元三(一二四五)年)は泰時の異母弟(十一歳年下であるが、但し、朝時は父義時の正妻姫の前の長子であった)で名越流北条氏の祖で、祖父北条時政の屋敷であった名越邸を継承したことから名越次郎朝時とも呼ばれる。以下、ウィキの「北条朝時」によれば、『北条義時の次男として鎌倉で生まれる。母は源頼朝の仲介で義時の正室となった姫の前で、正室の子としては長男であり、北条家の嫡子であったと考えられる』。ところが時十一歳の建仁三(一二〇三)年、『比企能員の変が起こり、母の実家比企氏が義時ら北条一族によって滅ぼされた事で両親は離婚し』てしまう(母姫の前は上洛して源具親に再嫁するが三年後に死去した。後に朝時は具親の次男源輔時を猶子としている)。また建暦二(一二一二)年五月、二十歳の時には、将軍実朝の御台所信子に仕えていた『官女である佐渡守親康の娘に艶書を送り、一向になびかないので深夜に娘の局に忍んで誘い出した事が露見して実朝の怒りを買ったため、父義時から義絶され、駿河国富士郡での蟄居を余儀なくされ』たが、一年後の建暦三(一二一三)年の『和田合戦の際に鎌倉に呼び戻されて兄の泰時と防戦にあたり、勇猛な朝比奈義秀と戦って負傷するなど活躍した。その後、御家人として幕府に復帰』、『承久の乱では北陸道の大将軍として、佐々木信実や結城朝広らと協力して転戦し、越後や越中の朝廷軍を撃破した。戦後は上皇方に荷担した藤原範茂の処刑を行っている』。貞応二(一二二三)年十月の時点で朝時は加賀・能登・越中・越後など北陸道諸国の守護を兼任しており、元仁元(一二二四)年六月に義時が死去すると、『泰時が六波羅探題として在京していたため、父の葬送を弟たちと共に行っている。その後、伊賀氏の変を経て』、泰時が第三代執権となる(この事件に於ける朝時の動向は不明)。嘉禄元(一二二五)年にここにある通り、越後守となり、嘉禎二(一二三六)年九月には評定衆に加えられたが、『初参ののち即辞退しており、幕府中枢から離脱する姿勢を見せている』ことに着目したい。仁治三(一二四二)年五月十七日、『泰時の病による出家に伴い、朝時も翌日に出家して生西と号した。朝時の出家の直接的な理由は不明だが、泰時の死の前後、京では鎌倉で合戦が起こるとの噂が流れ、将軍御所が厳重警護され鎌倉への通路が封鎖された事が伝わっており、朝時を中心とした反執権勢力の暗闘があった事によると見られている』とあり、『正室・姫の前を母に持つ朝時は、祖父・時政の名越邸を継承しており、細川重男は時政が朝時を後継者に考えていたのではないかと推測している』。『ただし名越邸継承の時期は不明で、朝時の元服の前年に時政は失脚しており、時政の真意は定かでない。父義時は朝時を一時義絶し、同母弟の重時が』承久元(一二一九)年)に小侍所別当、貞応二(一二二三)年に『駿河守に任じられて朝時の官位を超越していることから、父子関係は良好ではなかったとする見解もあるが、一方で和田合戦、承久の乱で活躍して義時の遺領配分では大量の所領を与えられ、朝時の名越流は一族内でも高い家格を持つ有力な家とな』っている。なお、本事件での泰時の行動に対しては、以上の通り、『朝時は感激して子孫に至るまで兄への忠誠を誓ったという。しかし、泰時の死の前後、御家人達に遅れて朝時が出家した事を、都では「日頃疎遠な兄弟であるのに」と驚きと不審を持って噂されている』(京の正二位民部卿平経高が記した日記「平戸記(へいこき)」の仁治三年五月十七日の条)。嘉禄元(一二二五)年五月の義時の喪明けの際にも、『重時以下の弟が泰時に従って行っているのに対して、朝時は前日に単独で行っており』(「吾妻鏡」五月十一日条及び十二日の条)、『自らが北条の本流という自負を持っていた可能性もある。泰時の後継者を巡って、朝時ら名越一族に不穏な動きがあったと見られるが、詳細は明かではない。その後の名越流は得宗家に常に反抗的で、朝時の嫡男光時をはじめ時幸・教時らが宮騒動、二月騒動で度々謀反を企てている』ことも、これ確かに事実で、私はこの人物をかなり怪しい男とずっと感じてきている。「逆心の企あるべからず」や「吾妻鏡」の「敢へて凶害を插むべからず」という謂いが妙にまた皮肉に聴こえてくるのである(序でに言うと、この襲撃事件自体も何か、逆に幕閣内部の反朝時勢力の謀略――泰時の与り知らぬところで動いた――の臭いが私は仄かにしてもいるのである)。因みに、この襲撃事件当時は朝時は満三十八、泰時の方は四十九歳である。
「平三郎左衞門尉盛綱」長崎氏の祖。承久の乱で北条泰時に従い、天福二(一二三四)年に尾藤(びとう)景綱に代わって泰時家家令となり、北条時頼の代まで安堵状などの奉者・使者を勤めた。
「武道は人躰に依るべからず」無論――武士(もののふ)魂――意気――である、というのである。
「棠棣篇」「常棣」が正しく、読みも「じやうてい(じょうてい)」が正しい。これは「詩経」の「小雅・常棣」の一部分である、
兄弟鬩于牆 外禦其務
兄弟、墻(かき)に鬩(せめ)ぐ外 その侮(あなど)りを禦(ふせ)ぐ
に基づき、「兄弟は垣根の内にて言い争うことのあっても、外から侮らるるようなことがあればこれ、兄弟、力を合わせてこれを防ぐ」の意である。
「駿河前司義村」幕府宿老で評定衆の三浦義村。
以下、「吾妻鏡」巻二十七の寛喜三(一二三一)年九月二十七日の条を示す。
〇原文
廿七日庚戌。日中。名越邊騷動。敵討入于越後守第之由有其聞。武州自評定座。直令向給。相州以下出仕人々從其後同馳駕。而越州者他行。留守侍等於彼南隣。搦取惡黨〔自他所逃來隱居。〕之間。賊徒或令自殺。或致防戰云々。仍遣壯士等。自路次。被歸訖。盛綱諫申云。帶重職給御身也。縱雖爲國敵。先以御使聞食左右。可有御計事歟。被差遣盛綱等者。可令廻防禦計。不事問令向給之條。不可也。向後若於可有如此儀者。殆可爲亂世之基。又可招世之謗歟云々。武州被答云。所申可然。但人之在世。思親類故也。於眼前。被殺害兄弟事。豈非招人之謗乎。其時者定無重職詮歟。武道爭依人躰哉。只今越州被圍敵之由聞之。他人者處少事歟。兄之所志。不可違于建曆承久大敵云々。于時駿河前司義村候傍承之。拭感涙。盛綱垂面敬屈云々。義村起座之後。參御所。於御臺所語此事於同祗候男女。聞之者感歎之餘。盛綱之諷詞與武州陳謝。其理猶在何方哉之由。頗及相論。遂不决之云々。越州聞此事。弥以歸往。即潛載誓狀云。至于子孫。對武州流。抽無貳忠。敢不可插凶害云々。其狀。一通遣鶴岳別當坊。一通爲備來葉之癈忘。加家文書云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日庚戌。日中、名越邊、騷動す。敵、越後守の第に討ち入るのい由、其の聞え有り。武州、評定の座より、直(ぢ)きに向はしめ給ふ。相州以下の出仕の人々、其の後に從ひて同じく駕(が)を馳す。而るに越州は他行(たぎやう)し、留守の侍等、彼(か)の南隣りに於いて、悪黨〔他所より逃げ來りて隱居す。〕を搦め取るの間、賊徒、或ひは自殺せめ、或ひは防戰致すと云々。
仍つて壯士等を遣はし、路次(ろし)より、歸られ訖んぬ。盛綱、諫め申して云はく、
「重職を帶び給ふ御身なり。縱ひ國敵たりと雖も、先づ御使を以つて左右(さう)を聞こし食(め)し、御計(はから)ひの事有るべきか。盛綱等を差し遣はされば、防禦の計りを廻らさしむべし。事を問はず向はせしめ給ふの條、不可なり。向後、若し此くのごとき儀、有るべきに於ては、殆んど亂世の基(もとゐ)たるべし。又、世の謗(そし)りを招くべきか。」
と云々。
武州、答へられて云はく、
「申す所、然るべし。但し、人の世に在る、親類を思ふが故なり。眼前に於いて、兄弟を殺害せらるる事、豈に人の謗りを招くに非らんや。其の時は定めて重職の詮(せん)無からんか。武道、爭(いか)でか人躰(じんてい)に依らんや。只今、越州、敵に圍まるるの由、之を聞く。他人は少事に處せんか。兄の志す所、建曆・承久の大敵に違(たが)ふべからず。」
と云々。
時に駿河前司義村、傍らに候じて之を承り、感涙を拭(のご)ふ。盛綱、面(おもて)を垂れて敬屈(けいくつ)すと云々。
義村、座を起つの後、御所に參り、御臺所に於いて此の事を同じく祗候(しこう)せる男女に語る。之れを聞く者、感歎の餘り、盛綱の諷詞(ふうじ)と武州の陳謝と、其の理(り)は猶ほ何方(いづれ)に在りやの由、頗る相論に及びて、遂に之を决せずと云々。
越州、此の事を聞きて、彌々(いよいよ)以つて歸往(きわう)す。即ち、潛かに誓狀に載せて云はく、
「子孫に至るまで、武州の流(りう)に對し、無貳(むに)の忠を抽(ぬき)んでて、敢へて凶害を插(はさ)むべからず。」
と云々。
其の狀、一通は鶴岳別當坊に遣はし、一通は來葉(らいえふ)の癈忘(はいまう)に備へんが爲に、家の文書に加ふと云々。
・「駕」馬。
・「歸往」往(い)って頼ること。信頼を寄せること。
・「來葉」子孫。
・「癈忘」忘れること。]