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2015/04/07

耳嚢 (根岸鎮衛自序)

 (自 序)

 

 此耳嚢は、榮中勤仕(ごんし)のいとま、古老の物語或は閑居へ訪來(おとづれきた)る人の雜談(ざうだん)、耳にとゞまりて面白きと思ひし事ども、又は子弟の心得にもならんと思ふ事、書きとゞめて一嚢(なう)に入れ置きしに、塵積り山とはなりぬ。つかね捨てんも本意(ほい)なく、其實を拾ひ其葉を捨てんと、幾度か硯にむかひ筆をとりけれど、官務のいといとまなきに校輯(かふしふ)も等閑(なほざり)になりぬ。此雙紙は(さうし)、恐れ多くも、公(おほやけ)の御事(おんこと)等をも載せぬれば、世の人に見すべきにあらねど、聞きし儘にしるしぬ。市中の鄙語(ひご)など誠に戲(たはぶ)れ言(ごと)なれど、是も聞きしまゝに洩らさず書綴(かきつづ)りぬ。數(かず)多きうちには僞(いつはり)の言葉もありぬべけれど、語る人の僞(いつはり)は知らず、見聞きし事を有りの儘に記して、予が子弟に殘し置きぬ。他門の見ん事はかたく禁(いま)しめぬれば、文章の拙(つたな)きもまた取(とり)かざるべきにあらずと云爾(しかいふ)。

            東都 藤原守信自敍

 

□やぶちゃん注

・「(自序)」原典には標題がなく、「自序」は編者鈴木棠三氏が新たに附したものであるので丸括弧を附した(訳では外して「耳嚢」を冠した)。底本の鈴木氏注によれば、『この序文が書かれたのは、巻一―三(或いは巻一―二が成った時点であろうと想像されるが、日付がないので正確なことは分からない』と記しておられる。因みに鈴木氏の執筆下限の推定によれば、巻二ならば天明六(一七八六)年でである(巻三は下限を示す記事がなく、鈴木氏は前二巻のやや取材範囲を拡大した補完の巻と捉えておられる。因みに当時、根岸は満四十九歳であった)。なお、巻三執筆後、巻四起筆までの間は、佐渡奉行から勘定奉行と根岸の公務多忙による長い執筆中断がやはり鈴木氏によって推定されてある。

・「營中」「柳営中」で将軍の陣営や居所・幕府の所在地・組織としての幕府を指す。匈奴(きょうど)征討に向かった前漢の将軍周亜夫が細柳という地に陣を置き、軍規を厳しくして文帝の称賛を得た、という「漢書」の「周勃伝」の故事に由来する語。

・「勤仕」「きんし」とも読むが、私は本文で一貫して「ごんし」(「ゴン」は勤行などと同じく呉音)と読んできたのでここも「ごんし」とする。勤め仕えること・務めに就くこと。勤務。

・「つかね捨てん」「束ね捨つ」で、一纏めにひっ括って(束にして)捨てるの意。

・「其實を拾ひ其葉を捨てんと」岩波の長谷川氏注に、『肝心の部分を残して枝葉末節のものを削る』とある。

・「校輯」校讐・校讎に同じい。文章や字句を比較照合して誤りを正すこと。校正。校合(きようごう)。

・「雙紙」草紙・草子・冊子。元は「冊子(さくし)」から転じた語で、綴じてある本。/仮名書きの物語・日記・歌などの総称。/書き散らした原稿。下書。といった意味がある。ここは綴じた書、冊子で採る。

・「鄙語」卑言・卑語に同じい。元は卑しい言葉、下品な言葉、スラングの意であるが、ここは拡大して、流言飛語・江戸の噂話・都市伝説(アーバン・レジェンド)の謂いである。

・「數多き」一応無理のないように「かずおおき」と読んでおいたが、私は実は、根岸は「あまたおほき」と、畳語のように読んでいるように思われてならない。訳ではそれを意識した。

・「云爾」爾云とも。音は「ウンジ」であるが圧倒的に「しかいふ(しかいう)」或いは「しかり」と訓読する。主に漢文脈の文章末尾などに置いて上文の内容を強調指示し、「これにほかならぬ」「上述の通り」という意を表す。

・「藤原守信」底本の鈴木氏注に、『根岸鎮衛の別号を守臣と号したことは、吉見義方も記しているところで、次に掲げる自跋にも「七十三翁守臣」と著している。そこで壮年のころには守倍、晩年に及んで守臣と改めたものかと想像される。ちなみに寛政諸家譜には、守信も守臣も記載がない。藤原姓であることは、諸家譜の藤原氏支流の部に入れてあることにも示されている』とある。ウィキの「根岸鎮衛」には別名として銕蔵・九郎左衛門・守信・守臣の名が記されてある。それぞれ「てつぞう」「くろうざえもん」「もりのぶ」「もりおみ」と読むものかと思われる。因みに「鎮衛」も「やすもり」「しずもり」の二様の読みが通行している。なお、根岸の出自については同ウィキに、百五十俵取りの下級旗本の安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ)の三男『として生まれた。江戸時代も中期を過ぎると御家人の資格は金銭で売買されるようになり、売買される御家人の資格を御家人株というが』、宝暦八(一七五八)年に同じく百五十俵取りの『下級旗本根岸家の当主根岸衛規』(もりのり)が三十歳で『実子も養子もないまま危篤に陥り、定洪は根岸家の御家人株を買収し、子の鎮衛を衛規の末期養子という体裁として』、二十二歳の『鎮衛に根岸家の家督を継がせた(御家人株の相場はその家の格式や借金の残高にも左右されるが、一般にかなり高額であるため鎮衛は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説もある)』とあるのがよく纏められており、岩波の長谷川氏の解説記載と引き比べても齟齬するところがない(そこには鈴木棠三氏の東洋文庫版解説に載る説として、この定洪自身の出自も相模国津久井県若柳村(現在の神奈川県相模湖町若柳)の旧家鈴木氏の出であって彼自身も徒士株を買って安生定之の養子となり「安生」姓を称したともある)。私も彼の千話に付き合ううち、鎮衛殿は元は武士階級の出身ではなかったのではないかという印象を強く持つに至った。但しそれは――彼自身の語り口のその優しさゆえに――である。

・「他門の見ん事はかたく禁しめぬれば、文章の拙きもまた取かざるべきにあらずと云爾」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『取かざるべきにあらず。』となって以下、

 はじめよりの志(こころざし)をうしなはじとて耳嚢(みみぶくろ)と名づけぬ云爾(しかいふ)。

とある(読みは総て私が附したもの)。

・「東都」江戸の雅称。京の都に対して非公式にかく呼ばれた。参照したウィキ都」によれば、内政的(公式)には新井白石らの反対によって、また対外的にも対馬藩の儒者で同藩の朝鮮方佐役であった(さやく。朝鮮担当部門の補佐役)雨森芳州(あめのもりほうしゅう)らの反対によって使用されなかったとある。こんな事実は受験勉強じゃ絶対聴こえてこない部類の話だな。眼から鱗、耳から垢だ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「耳嚢」自序

 

 この「耳嚢」は、営中勤仕(えいちゅうごんし)の暇(いと)ま、古老の物語り、或いは私の閑居へ訪れ来たった御仁の雑談の内、耳に留まって面白いと思うた事ども、またはこれ、子弟らの心得にもなろうかと思うた事どもなどなど、書き留めおいては大きなる一つの嚢(ふくろ)の中に投げ入れ置いておいたところが、これ、塵の積って遂に山とは成った。十把一絡げにして捨つると申すも、これ本意(ほい)にてはなければ、その膨大な流言飛語の中より、その有用なる「実」を拾い、粉飾尾鰭たるところのその無駄な「葉」を削ぎ落し捨てんものと、幾度か硯(すずり)に向い、筆を執ったのであるが、何分、官務多忙にして、そうした暇(いと)まもなきままに、校輯(こうしゅう)も等閑(なおざり)となってしまった。この冊子には、畏れ多くも、お上の御事(おんこと)等をもさえ書き載せておるによって――まずは――世の人々にはこれ、見せてはならぬ類(たぐ)いの書にてはある――がしかし、私は私が聞いたままそのままに記したものではある。市中の流言飛語などはこれ、如何にも嘘臭くいかがわしい戲(たわぶ)れ言(ごと)がこれ、殆どではあるが――これもしかし、聞いたままそのままに、洩らさず書き綴ったものではある。その数多(あまた)ある内(うち)にはこれ、全くの偽り、とんでもない作り話の類いもあろうとは存ずるが、語って御座った御仁自身の巧妙な偽り、作り話ならんかはこれ、私の関知し得る域を概ね越えておる――なれどしかし、見聞きした事をありのままそのままに記して、私の子弟らに残し置くことと致すのである。門外不出、他門の見る事はこれ、かたく戒めるところなれば、文章の拙(つたな)きもまた、そうした目的のものなればこそ、とり飾る必要そものものがないものなればそのままに示す。以上。

            東都 藤原守信自敍

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