耳囊 卷之十 呼出し山の事
呼出し山の事
上野の樂人(がくじん)に東儀(とうぎ)右裔といへる悴、今年六歲なりしが、甚(はなはだ)發明にて兩親の寵愛殊に勝れしが、文化十一年の初午(はつうま)の日に、何れへ行(ゆき)しや行衞不知(しれず)故、鉦太鼓にて所々を搜しけれども、しるしなし。或人の云(いへ)るは、八王子に呼出し山といへる山あり、是へ右體(てい)神隱しの類(たぐひ)を祈念すれば、出ずといふ事なしと語りし故、早速右山へ參りて、其子の名を呼(よび)て尋(たづね)けれども、何のしるしなし。旅宿に泊りし夜の夢に老翁來りて、汝(なんぢ)子別條なし、來る幾日爾(なんぢ)が家最寄にて老僧の山伏に可逢(あふべし)、それを止(と)めて、尋(たづね)みよと言(いひ)し故、其日を待(まち)しに、果して老僧に逢(あひ)ける故、爾々(しかじか)のわけをかたり聞(きき)しに、隨分別條なし、未(いまだ)四五日は歸るまじ、幾日頃歸るべしといひしが、果して其日恙なく戾りしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:ホットなアーバン・レジェンドの謎の失踪事件で直連関。
・「呼出し山」これは現在の東京都八王子市上川町にある標高五〇五・七メートルの今熊山(いまくまさん)山である。ウィキの「今熊山」によれば、この山は古来より、『失踪者や遺失物などを戻して欲しいときに、この頂上で「(失せものの名前)を出してくりょーやーい!」と大声で呼ばわれば元に戻るとの信仰があり、「呼ばわり山」のひとつに数えられている』とあり、『山中に今熊山園地、今熊開運稲荷社が、頂上に今熊神社があり今熊神社登拝口に同神社の遥拝殿がある』とある。また、柳田國男の「山の人生」(大正一五(一九二六)年刊)の「一三 神隱しに奇異なる約束ありしこと」の冒頭から二番目の段落中に『八王子の近く』の『呼ばわり山』という名でこの山のことが出る。以下、当該章冒頭と続く当該段落の二段のみを引用しておく(底本はちくま文庫版「柳田國男全集」第四巻に拠った。下線はやぶちゃん)。
《引用開始》
神隠しから後に戻って来たという者の話は、さらに悲しむべき他の半分の、不可測なる運命と終末とを考える材料として、なお忍耐して多くこれを蒐集(しゅうしゅう)する必要がある。社会心理学という学問は、日本ではまだ翻訳ばかりで、国民のための研究者はいつになったら出て来るものか、今はまだすこしの心当こころあてもない。それを待つ間の退屈を紛らすために、かねて集めてあった二三の実例を栞(しおり)として、自分はほんの少しばかり、なお奥の方へ入りこんで見ようと思う。最初に注意せずにいられぬことは、我々の平凡生活にとって神隠しほど異常なるかつ予期しにくい出来事は他にないにもかかわらず、単に存外に頻繁でありまたどれここれもよく似ているのみでなく、別になお人が設けたのでない法則のごときものが、一貫して存するらしいことである。例えば信州などでは、山の天狗に連れて行かれた者は、跡に履物(はきもの)が正しく揃(そろ)えてあって、一見して普通の狼藉(ろうぜき)、または自身で身を投げたりした者と、判別することができるといっている。そんなことは信じえないと評してもよいが、問題は何ゆえに人がそのようなことを言い始めるに至ったかにある。
あるいはまた二日とか三日とか、一定の期間捜(さが)してみて見えぬ場合に、始めてこれを神隠しと推断し、それからはまた特別の方法を講ずる地方もある。七日を過ぎてなお発見しえぬ場合にもはや還らぬ者としてその方法を中止する風もある。あるいはまた山の頂上に登って高声に児の名を呼び、これに答うる者あるときは、その児いずれかに生存すと信じて、かろうじて自ら慰める者がある。八王子の近くにも呼ばわり山という山があって、時々迷子の親などが登って呼び叫ぶ声を聴くという話もあった。町内の附合いまたは組合の義理と称して、各戸総出をもって行列を作り、一定の路筋を廻歴した慣習のごときも、これを個々の事変に際する協力といわんよりは、すこぶる葬礼祭礼などの方式に近く、しかも捜査の目的に向かっては、必ずしも適切なる手段とも思われなかった。この仕来りには恐らくは忘却せられた今一つ根本の意味があったのである。それを考え出さぬ限りは、神隠しの特に日本に多かった理由も解らぬのである。
《引用終了》
なお、「山の人生」のこの辺りは、こうした「神隠し」について詳述していて興味深い。未見の方は是非お薦めである。
・「上野の樂人」寛永寺に所属する音楽・歌舞を職とする伶人(れいじん)。又は雅楽の楽人。当時は神仏混淆であったから後者でもおかしくない。
・「東儀右裔」名前の部分、如何にも不審で、誤写の可能性が疑われる。事実、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『東儀右兵衞』である(下線やぶちゃん)。東儀家は奈良時代から今日まで千三百年以上の間、雅楽を世襲してきた楽家(宮中・京都/南都・奈良/天王寺・大阪の楽師の家)の家系で、堂上することは許されない地下階級に属する下級官人の家系であるが、近衛府の下級の官職名を代々与えられていた。遠祖は聖徳太子に仕えていた秦河勝(はたのかわかつ)とされる(以上はウィキの「東儀家」に拠る)。以上の事実から、これは例外的に訳では「東儀右兵衛」とすることにする。
・「文化十一年の初午の日」「初午」は陰暦二月最初の午の日で各所の稲荷神社に於いて初午祭りが行われる。一の午とも言う。文化十一年二月の初午は二月八日庚午(かのえうま)でグレゴリオ暦では一八一四年三月二十九日に相当する。因みに「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月であるから直近四ヶ月前の出来事である。
■やぶちゃん現代語訳
呼び出し山の事
上野の楽人(がくじん)にて東儀右兵衛(とうぎうへえ)とか申す者、伜は当年とって六歳となって御座ったが、はなはだ利発にして両親の寵愛も、殊の外深いものがあった。
ところが、今年文化十一年の初午(はつうま)の日、この子、何処方(いずかた)へ参ったものか、とんと行方(ゆくえ)知れずとなってしもうたと申す。
親族や近隣のものども総出で、鉦や太鼓なんどを叩いては方々(ほうぼう)探し歩いててはみたものの、これ、一向に見つからぬ。
そんな折り、ある人の曰く、
「……何でも八王子に、「呼び出し山」と申す山のあるらしいぞ。――そこへ参って、こうした神隠しの類いの人捜しをこれ、祈念致すと、必ず見つかる――見つからぬことは、ない――ちゅう話じゃ。」
とのことで御座ったによって、藁にも縋(すが)る思いで八王子へと向かい、その「呼び出し山」とやらへ登って、山頂より我が子の名を呼ばわった上、
「その行方は、何処(いずこ)!」
と、合わせて、大声にて、訊ねてはみたものの、己(おのれ)らが木霊の、空しく響き返すばかり。何のお告げもなく、空しく夫婦は下山致いた。
さても、その日は八王子にとったる旅籠(はたご)に泊まったが、その夜の夫婦の夢に、これ、一人の老翁の現われ、
「……汝らが子……これ……別状、ない。……来たる〇月△日……汝が家の近くにて老僧か山伏に出逢うであろう。……その者を引きとめて、子が消息、これ、訊ねみるがよかろう……」
と告げて消えた、と申す。
目覚めて同じき夢を見たることを認め合(お)うたればこそ、それより二人して、その日の参るを心待ちに待った。
そうして、その当日のこと、夫婦はまさに、家の近くにて、はたして一人の老僧に出逢(でお)うた。
されば、息せき切ってこれまでの経緯や夢のお告げを縷々語って、子のことを訊ね問うたところが、
「……ふむ。なるほど。……いや! 全く以ってお子はこれ、別状ない。……そうさ、いまだ四、五日は帰るまいが――来たる△日頃には――必ず、帰って参るはずじゃ!」
と答えて、去って行った。
そうして、はたして、その老僧の告げた日、子はこれ、無事、帰って参ったという。
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