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2015/04/21

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅵ)

[やぶちゃん注:以下に引用される「耳のあか」というのは実は既に私が電子化訳注を済ませた底本の『「耳嚢」吉見義方識語』(編者鈴木棠三の標題)とほぼ同文である。

 そこで、例外的に同引用文注では読みを概ね排除して(一部の異同箇所では挿入した)原文の雰囲気を出すこととし、後の注では『「耳嚢」吉見義方識語』との表記・表現の異なる箇所のみについて附した。現代語訳は省略も考えたが、最後の箇所に重要な違いがあるので、ここは煩を厭わず、再度附すこととした。但し、基本的に『「耳嚢」吉見義方識語』でのそれを用い、やや修正を加えたものであることをお断りしておく。

 また、この「耳のあか」の最後には『「耳嚢」吉見義方識語』にはない、「こはさきに……」という全体が二字下げの附文がある(これは、この「耳のあか」への吉見儀助による解説及びこの後に続く更なる吉見の記した記事の前触れであるが、ここからは今まで通り、一部に読みを附す形に戻した。]

一 右の外にもいろいろ歎服(たんぷく)すべきことのあるべきとおもへども、聞かざる事はしるすこと能(あた)はず。爰(ここ)に古山(こやま)君〔峰壽院御用人古山善吉〕の話に、吉見大人〔御勘定組頭吉見儀助〕の翁の行狀(ぎやうじやう)を筆記せるものありとのことなれば、しきりにそれを請ひ侍りけるに、吉見大人耳のあかと號(なづけ)られしを見せ給ふ。其文左のごとし。

 

    耳のあか                         吉見儀助述

 根岸前肥州藤原鎭衞朝臣別號守臣翁は、御代官安生太左衞門定洪の二男にして、元文二年丁巳をもて生れ、文化十二年乙亥七十九歳〔官年八十〕にして卒す。定洪はじめ相撲國津久井縣若柳邑の産にして、其の年御徒安生彦右衞門定之の養子と成御徒に召加へられ、後組頭に轉じ、猶篤行のきこえありしかばたゞちに御代官に擢遷せられ、拜謁の士に列り、其長男直之は御勘定・評定所留役・御藏奉行等を經て、ついに布衣の上士に昇り御船手の頭たり。根岸家は九十郎衞規とて廩米百五十苞の祿にして、もとより拜謁の士たれどもいまだ小普請の列に在るうち、年若して疾篤く易簀に臨みて、守臣翁を養ひ遺跡を繼がしめん事を乞ひ置死せしかば、翁其家を繼小普請の士より御勘定につらなり、評定所留役をかねて訴言(そげん)を糺し、いく程なく組頭にのぼり、俊廟の日光山にまゐらせ給ふ事にあづかり、後御勘定吟味役に進み布衣の上士に列し、又佐渡奉行に擧らる。此時秩錄を加增せられて二百苞の家祿となり、今の御代となりて御勘定奉行に轉ず。時に恆例を以て從五位下肥前守に敍任あり、家祿五百石に加恩あり、はじめて知行の地を給ふ。つゐに町奉行に移り、年久しき勤勞を歷せられ、食邑五百石を増し賜り千石の家祿となれり。御勘定たりし時よりおなじき奉行たるに至迄、しばしば營作土功の事をうけ給はり、落成の度毎に褒賜ある所の黄金通計二百六十餘枚に及ぶとかや。かゝる繁務のいとまにうち聞く所の巷説、兒輩のわざくれに至るまで、耳にとまれるくさぐさを筆記してひそかに名づけて耳嚢とし、其條々ほとほと千有餘に滿つ。卷をわかつて十帖とす。かりそめの物すらしか也。されば國務に有用の事を編集ありしはいくばくならん事、をして知るべし。人となり大量にして小事にかゝはらず、瑣細の事に力を入れず。朝夕近(ちかづ)くる配下の姓名をだに彷彿として記臆せずあるがごとし。よく下情を上達し、選擧必其人を得たりしは、全く偏頗の私情なきによるものか。常に大聲にして私言を好まず。常の言にいはく、「小音にして事を談ずるは謹情の如しといへども、多くは人情輕薄によるか、或は人に害ありて己が利あらん事を思ふが故に、他聞を憚るより起れり」と。其私なき此言をもても思ふべし。翁の男衞肅ははじめ關川氏の養女をめとり子なくして死す。再び近藤氏の女をめとり四男三女を生む。其末女又近藤氏の子義嗣の先妻たり。義嗣かゝるちなみあるにより、門外不出の書たりといへどもかの耳嚢を騰寫する事を得て、己れ義方に示さる。亦はやくより翁に値遇せるも近藤氏の因によれり。これかれ思ひはかればいといと餘所ならず。欣慕のあまり數言を其書のはしに贅す、穴かしこ。

文政九のとし長月すゑつかた時雨めきたる日にくらき窓下にしるす。

  こはさきに近藤助八郎義嗣(よしつぐ)の

  爲に筆す。又志賀何某がもとめに應じて、

  翁が存在の行狀(ぎやうじやう)・嘉言(か

  げん)を思ひ出(いで)て左にしるす。

[やぶちゃん注:冒頭に注したように、「耳のあか」の部分の細かな語注は『「耳嚢」吉見義方識語』を参照されたい。以下では表記・表現の異なる箇所のみについて示す。

・「歎服」感服。感心して心から惹かれ従うこと。

・「峰壽院」峰姫(みねひめ 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永六(一八五三)年)は第十一代将軍徳川家斉八女。第八代水戸藩主徳川斉脩(なりのぶ)正室で第九代水戸藩主徳川斉昭の養母。諱は美子で峯寿院は院号。第十二代将軍家慶の異母妹で第十三代将軍家定や十四代将軍家茂の叔母に当たる。

・「御用人」諸藩に置かれたそれで、略して「御側(おそば)」とも呼んだ。藩主やその家族らの私的な家政実務や秘書的役割を担った。

・「古山善吉」(「こやま」という読みは木村幸比古「吉田松陰の実学 世界を見据えた大和魂」(PHP研究所二〇〇五年刊)及び CiNii こちらの佐藤一斎の書簡『「慶安」「六諭」を古山善吉所望につき』のデータに拠った)現在の長野県中野市にあった天領代官所(代官陣屋)中野陣屋の代官(文政元(一八一八)年)〜文政五(一八二二)年)を勤め、その後、御目付となり、文政七(一八二四)年五月二十八日に常陸国(現在の茨城県)に漂着したイギリスの捕鯨船遭難船員の調査に出向いていることなどがネットの検索から分かる。この異国船來船の折り、彼は水戸藩の責任者中山信情に対し、捕虜としているイギリス船員を全員釈放して捕鯨船に薪・水・食糧を与えて帰帆させるように指示しており、これを知った水戸藩の攘夷強硬派が激怒した旨の記載が、「スローネット」の「檜山良昭の閑散余録 第113回 未知との遭遇事件(2)」に載る。この話、いろいろな意味で、私にはなかなか面白く感ずる。(1)はこちら。是非、一読をお薦めする。斉脩は文政一二(一八二九)年十月に病死し、峰姫はほどなく剃髪して峯寿院と号しているから、この記載部分での時制は、まさに剃髪それ以後のものと考えなくてはならぬ。また、彼が後に、この尊王攘夷の水戸藩の、斉脩正室の御用人となったというのも、私にはなんとも皮肉に感じられる。

・「吉見大人〔御勘定組頭吉見儀助〕」吉見義方(宝暦十(一七六〇)年或いは明和三(一七六六)年?~天保一二(一八四一)年 後に示す「耳嚢」本文底本の編者鈴木棠三氏の注で逆算した)。鎮衛より二十九年下であるが、以下に述べる如く、彼の知音であった近藤義嗣が根岸と縁戚関係にあったことから、本文に「己れ亦はやくより翁に値遇せる」とあるように、生前の鎮衛と親しく交わっていたことが分かる(満七十八歳で鎮衛が没したのが文化一二(一八一五)年であるから当時、義方は満五十五か四十九歳となる)。「耳嚢」底本の鈴木氏注に、『三村翁注「儀助と称し、蜀山人の甥にて、狂名を紀定丸といへり、御勘定評定所留役たり、天保十二年正月十六日、七十六歳にて歿す、本郷元町三念寺に葬る。」日本文学大辞典によれば、享年を八十二とする。義方の父佐吉は清水家小十人、母は蜀山人の姉。定丸は安永七年家督を継ぎ小普請方となり、寛政七年清水勤番、文化二年御勘定、同四年組頭。初め野原雲輔と号し、のちに本田原勝粟、晩年己人手為丸と改めた』とある。文化四(一八〇七)年に御勘定組頭となっており、この志賀の「耳嚢副言」の正文跋文のクレジットは天保三(一八三二)年で、彼の死去が天保一二(一八四一)年(但し、その時は昇進して御勘定評定所留役であるから下限はもっと下がる)、この筆記時制はその閉区間内となる。

 以下、「耳のあか」の語注は『「耳嚢」吉見義方識語』を参照されたい。ここでは『「耳嚢」吉見義方識語』との有意な(意味が同じ部分は採っていない)差異があると私が判断した異同のみを注した。それにしてもこの二つを比べることは当時の書写の過程の誤写の実態がよく分かって、私には甚だ興味深いものであった。

 

・「耳のあか」「耳嚢」に添え寄すからその「耳」の垢の如き駄文であるという謙辞である。

・「七十九歳」『「耳嚢」吉見義方識語』は『七十歳』であるが、数え七十九でこちらが正しい。

・「官年八十」この割注は『「耳嚢」吉見義方識語』にはない。官年は近世武家社会に於いて幕府や主家などの公儀に対して届けられた公式な年齢をいう。家督相続や出仕、御目見などに関わる年齢制約を回避するため、年齢を操作して届け出るこのような慣行が成立した。公年(こうねん)ともいった。これに対し、実際の年齢は生年といった(以上はウィキの「官年」に拠った)。

・「其の年御徒安生彦右衞門定之の養子と成」「其の年」は『「耳嚢」吉見義方識語』にはない。これだと、鎮衛の父定洪は出生した年の内に安生家の養子となったと読める。

・「擢遷」『「耳嚢」吉見義方識語』の「擢選」の方が私にはしっくりくる。

・「御船手の頭たり」『「耳嚢」吉見義方識語』では単に「御船手を勤む」である。

・「俊廟」『「耳嚢」吉見義方識語』は「凌廟」。これは両方とも書写の誤りと思われ、「浚廟」が正しい。「しゆんべう(しゅんびょう)」で第十代将軍徳川家治を指す。その諡号(しごう)浚明(しゅんめい)院に基づく。「俊」には優れるの意があるが、しかしやはり私は誤写と採る。

・「知行の地」『「耳嚢」吉見義方識語』は「采地」。意味は同じだが、これは孰れかが書写担当者による書き換えと思われる。

・「歷せられ」『「耳嚢」吉見義方識語』は「慰せられて」。「慰」の方がしっくりくる。

・「食邑五百石を増し賜り千石の家祿となれり」『「耳嚢」吉見義方識語』では、この後に「在職の祿故の如し」という一文がある。

・「しばしば」『「耳嚢」吉見義方識語』は「品々」。

・「十帖」『「耳嚢」吉見義方識語』は「六帖」。これは恐らく「耳嚢」の複雑な成立或いは書写過程と関係するものであって、私は誤写ではないと感じている。『「耳嚢」吉見義方識語』の方は、実は三村本の巻六の末に附されてあるのである。

・「瑣細」『「耳嚢」吉見義方識語』は「鎖細」と誤写している。

・「朝夕近くる配下の姓名をだに彷彿として記臆せずあるがごとし。よく下情を上達し」「記臆」は底本に右に編者長谷川氏によるママ注記がある。さて、この部分、『「耳嚢」吉見義方識語』では、

 朝夕近づくる配下の屬吏の姓名をだに、彷彿として記憶せざるが如し。されど德化を及ぼし、下情を上達し

となっていて有意に異なる。『「耳嚢」吉見義方識語の方がしっくりくる。本筆写者が脱文したか、或いは意訳して写した可能性が疑われる。

・「翁の男衞肅ははじめ關川氏の養女をめとり子なくして死す。再び近藤氏の女をめとり四男三女を生む。其末女又近藤氏の子義嗣の先妻たり」この箇所、『「耳嚢」吉見義方識語』の方では、

 翁男衞肅は、近藤氏の女をめとれり。四男三女を生む。其末女又近藤氏のむまご義嗣の先妻たり。

で有意に異なる。『「耳嚢」吉見義方識語』の「近藤氏の女」の注の鈴木棠三氏の引用を見て頂くと分かるように、『先妻は関川庄五郎美羽の女。これは子もなく、はやく没したらしい』とあって、この志賀の転写した方がより正確な事蹟を伝えていることが分かる。『「耳嚢」吉見義方識語』の方は無縁な記載として書写者が確信犯で、この「はじめ關川氏の養女をめとり子なくして死す。再び」の部分を省略し、改変したものかも知れない。

・「文政九のとし長月すゑつかた時雨めきたる日にくらき窓下にしるす」『「耳嚢」吉見義方識語』の方は、

 あやあるまつりことてふこゝのつのとし、長月すゑつかた、時雨めきる日小ぐらき窓下にしるす

とあって、遙かに高雅な識語となっている。なお、この筆者は私が以前に推理したのと同様に「時雨めきる」と判読して書写していることが分かる。

 

・「嘉言」佳言。人の戒めとなる、よい言葉。

 

■やぶちゃん現代語訳(先に述べた通り、「耳のあか」の部分は、『「耳嚢」吉見義方識語』で行った私の訳を基に補正を加えたものである。同じく、読み易さを考え適宜、改行を施してある。最後の附文の前は一行空けた。)

 

一 以上の他にも、歎服(たんぷく)すべきことはこれ、まだいろいろとあろうかと存ずれども、見聞きしたことを総て記すことはとても出来ない。

 さて、ここに古山(こやま)君――水戸の峰寿院(ほうじゅいん)様の御用人である古山善吉殿――の話に、吉見大人――御勘定組頭吉見儀助殿――の翁の行状を筆記なされたものがあるとのことなれば、しきりにその閲覧を請うて御座ったところ、吉見大人の「耳のあか」と名づけられた識語を見せて下された。その文は以下の通りである。

 

    耳のあか                         吉見儀助述

 根岸前肥前守藤原鎮衛(しずもり)殿、別号、守臣(もりおみ)翁は、これ、御代官安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ)殿の二男にして、元文二年丁巳(ひのとみ)を以ってお生まれになられ、文化十二年乙亥(きのとい)、七十九歳――官年八十歳――にして卒(しゅつ)せられた。

 定洪殿は、これ、初め相模国津久井県若柳(わかやぎ)村の出であられ、その年のうちに御徒(おかち)安生彦左衛門定之(さだゆき)殿の養子となって、そのまま御徒に召し加えられ、後、組頭(くみがしら)に転じ、なお、篤行の聞こえよう御座ったによって、直ちに御代官に抜擢せられ、拝謁の士に列せられた。その長男直之(なおゆき)殿と申さるるは、これ、御勘定評定所留役、御蔵奉行等を経て、遂に布衣(ほい)の上、士に昇り、船手組(ふなてぐみ)組頭を勤められた。

 一方、根岸家はこれ、九十郎衛規(もりのり)殿と申し、廩米(りんまい)百五十俵の禄を受けられ、もとより拝謁の士にてあられたけれども、いまだ小普請(こぶしん)組にて在らるる内、若(わこ)うして病い篤く、易簀(えきさく)に臨み、守臣翁を末期養子(まつごようし)として迎えられて遺跡を継がしめんことを、これ、請ひ願いおかれた上、亡くなられた。

 されば、翁、かくして根岸家を継ぎ、小普請の士より御勘定に連なり、評定所留役を兼ねて、訴訟を糺し、幾許(いくばく)もなくして組頭(くみがしら)に昇り、浚明院(しゅんめいいん)家治様の日光山御参詣に関わって東照宮修復の一件に携わられ、後(のち)、御勘定吟味役へと進み、布衣の上、士に列し、また、佐渡奉行へ推挙されなさった。この折り、禄の加増せられて二百俵の家禄となり、今の家斉様の御代となってより、勘定奉行に転ぜられた。時に、その恒例を以って、従五位下肥前守に敍任のあり、家蔵五百石に加恩のあって、ここに初めて知行地を賜い、その後の在職中の当地からの禄高の総計はこれ、三千石に及んだ。それより遂に町奉行に昇進なされ、年久しき勤労の経歴を重ねられて、食邑(しょくゆう)これ、五百石を増し賜はり、最後には千石の家禄となられたのであった。在職中の禄高については以上の如き経歴を経られた。

 御勘定であられた時分より、後に同じ勘定方御(ご)奉行とならるるに至るまで、さまざまな営作土木の事業を任されては監督指揮なされ、落成や事業の完遂のたび毎に、褒賜(ほうし)を受けられて、その賜わった黄金はこれ、総計すると実に二百六十枚に及ぶとも伝えられる。

 さても、かかる怖ろしく多忙なる勤仕(ごんし)の暇(いと)まに、これまた、ちょっと耳にされたところの巷説、一聴、児戯に類するような戯(たわぶ)れの如き流言飛語に至るまで、耳に触れたるありとある風聞風説をこれ、筆記し、これを秘かに名づけて「耳嚢」言う。

 その書き溜めたる条々、これ、殆ど一千話余りにも膨れ上がったれば、巻を分かって十帖となされた。

 ちょっとした普通なら目にも留(とど)めず立ち止まりもせぬ物の記録に於いてすら、かく成し遂げておらるる。さればこそ、本業たる生涯を捧げられた国務に於いて、その有用の事柄を編纂蒐集なされたその量たるをや。これ如何に恐るべきものであろうことはこれ、推して知るべしである。

 その人となり、これ、度量広大にして、小事に拘らず、些細な事には力を無駄に入るること、これなく、鷹揚に構え、朝夕に近侍せる配下の属吏の姓名でさえも、これ一見、何心なく、あたかもまるで記憶にない、覚えてもおらぬかの如き様子。

 されど、下々の者のまことの情実をこれ、そのままにお上へ達し、人を推挙なさるるにこれ、悉く必ず、その職にまっこと相応しき人物を当てられて御座ったことは、全く以って、偏頗した私情の、これ、微塵もなき有り難き御心によるものにては御座るまいか?

 翁は常に大声にて会話なさるるを常とし、殊更に、ひそひそ話を好まれず御座った。

 これにつき、翁の常の言に曰く、

「――小さき音にして事を談ずると申すは、これ、殊勝に謹慎致いてでもおるか如く、一見えるものにては御座るが――その実、そうした内緒話の多くはこれ――話者の人情軽薄に依るものであるか――或いは、人に害のあって、己(おの)ればかりが利あらん事をば思うておるがゆえに、他聞を憚ってこそ――ひそひそ話なんどと申すもの、これ、生まるるものである。」

と。

 その私(わたくし)なき翁の誠心、この一言を以ってしても、思い至ると申すべきもので御座る。

 翁の男子、根岸衞粛(もりよし)殿は、初め関川氏の養女を娶られたが、残念なことに子をもうけらるることなく亡くなられた。されば後に再び、近藤義貫(よしつら)殿の子、義種(よしたね)殿の娘を娶られ、四男三女をお生みになられた。その末の娘子(むすめご)は、これ、また、その義種殿の子であらるる近藤義嗣(よしつぐ)殿の先妻であられる。この義嗣殿が、かかる縁戚の因みあるによって、かの伝説の門外不出の書たりと雖も、この「耳嚢」という書を、これ、書き写すことを得られ、しかも我ら義方にこれを閲覧させて下さったので御座る。

 我らまた、早くより、生前の守臣翁にも知遇を得て御座ったが、これもまた、この近藤義嗣殿の有り難き因みによるもので御座った。

 かく、かれこれと思慮なしみれば、この「耳嚢」のかくも拝読仕ったと申すは、これ、いや、とてものこと! 尋常なことにては御座らぬ!

 あまりのことに悦び入り、また亡き翁への慕わしさの、いや、募って参るあまり、分をも弁えず、下らぬ数語をここに穢し記して御座った。ああ! 何とまあ! 畏れ多いことで御座ろうか!

文政九年の年、長月の末つ方、時雨めいた日のこと、お暗(ぐら)き窓下にこれを記す。

 

 以上は、先にその近藤助八郎義嗣(よしつぐ)殿のために私、吉見が書き記したものである。さてもまた、我ら、志賀某(なにがし)の求めに応じて、翁が在りし日の御行状(ごぎょうじょう)や御嘉言(おんかげん)を思ひ出だいて、さらに以下に記すことと致す。]

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