耳嚢 巻之十 猫の怪の事
猫の怪の事
文化十一年、日光に御修復ありて、江戸より御役人彼(かの)地に至りしが、御徒目付(おかちめつけ)なりける梶川平次郎より、御當地の知音(ちいん)へ申越(まうしこしし)由。日光奉行組同心山中左四郎妻儀、常々猫を好み三つ四つも飼置(かひおき)しが、一兩年以前病氣ぶらぶらと煩ひ候處、去(さる)冬以來甚(はなはだ)重く、猫の眞似抔いたし候處次第につのり、當春は食事いたし候も猫同樣にて、病氣に似つかず食も多く給(たべ)、看病人も甚(はなはだ)こまり、いづれ取付居(とりつきをり)候もの可有之(これあるべし)と、加持祈禱いたしけれど聊(いささか)しるしなく、或時八年以前死(しに)し候猫取付(とりつき)候趣(おもむき)、病人口走りける故、夫(をつと)左四郎大きに怒り、飼殺(かひご)しにせし猫の取付抔申(まうす)儀、甚(はなはだ)不得其意(そのいをえず)と叱り候處、あまりに愛したまふ故はなれ兼(かね)候儀、既に飼置たまふ猫もみな愛したまひし猫の子なれば、一しほ離れがたきと、右病人申(まうし)ける故、無據(よんどころなく)日光の社家(しやけ)を賴(たのみ)、蟇目(ひきめ)執行しければ右猫はなれけるが、三日目に病人も身まかりし由。右蟇目の内、病人申けるは、右猫の死骸庭にいけ有(あり)しに、犬にくわれ死せしを前垂(まへだれ)につゝみ右庭に埋(うめ)有之(これある)間、掘出(ほりいだ)し川へ流しくれよといひしまゝ、掘らせ見しに、八年以前に埋(うめ)し猫の死骸、格別に變じ候事もなかりしを、早速川へ流し捨(すて)しが、左四郎のもとにありし右猫の子も、或ひは貰ひ候て飼(かひ)たりしものも不殘(のこらず)拾(すて)しと、まのあたり見聞(みきき)せしもの、かたりしとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。「耳嚢」に多い妖猫譚実録物。「耳嚢」は残すところ八話であるが、驚くべきことに実はまだ後、二話も猫の怪談がある。江戸の都市伝説(アーバン・レジェンド)の定番であったことが窺われる。結びがやや唐突なので、訳では附言をした。
・「文化十一年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月で直近の話柄である。
・「御徒目付」旗本を観察糾弾する目付(若年寄が管轄)の支配で、交代で江戸城内の宿直を行った他、大名の江戸城登城の際の監察、幕府役人や江戸市中に於ける内偵などの隠密活動にも従事した。参照したウィキの「徒目付」によれば、『老中・若年寄から目付を経由して命令が伝えられ、それを番所に伝えた。命令を受けた徒目付は自身及び配下の小人・中間・黒鍬者などを駆使して職務にあたった。特に隠密を専門に担当する「常御用」と呼ばれる』三~四名の『徒目付が存在し、内容によっては老中が人払いの上で直接命令を下すことがあった』とある。
・「梶川平次郎」不詳。
・「日光奉行」元禄一三(一七〇〇)年にそれまでの同職に従事していた日光目付に代えて創設された遠国(おんごく)奉行の一つ。老中支配で定員二名。役高二千石に役料五百俵。東照宮・大猷院廟(徳川家光廟)の経営及び日光山年中行事等を掌った。配下に同心三十六人を擁し、寛政三(一七九一)年以降は日光目代の職権を兼務して日光領を直接支配した(以上は主に平凡社「マイペディア」の記載を参考にした)。なお、根岸は勘定吟味役在任時(四十代)に日光東照宮の修復の実務担当官僚として現地に長期に滞在したことがある。
・「山中左四郎」不詳。
・「病氣ぶらぶらと煩ひ」精神疾患に於ける不定愁訴をしきりに訴える状態を指していよう。「ぶらぶら病」と称し、特にどこが悪いというわけではないが、何となく調子の悪い状態が長びく病気。
・「飼殺し」現在では専ら動物や人が能力を発揮出来るような仕事を与えぬまま、ずっと雇っておくという悪い意味で用いるが、この語は元来は、家畜などが役に立たなくなっても死ぬまで養ってやることを言う。ここでもその意味である。
・「蟇目」既注。「耳嚢 巻之十 狐蟇目を恐るゝ事」等の私の注を参照のこと。
・「前垂」江戸方言では「まえだら」とも。商家に働く者や女中などが衣服に汚れがつかぬように帯から下に掛ける布のこと。なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はここが『菰(こも)』となっている。
■やぶちゃん現代語訳
猫の怪の事
文化十一年、日光東照宮に於いて御修復の事御座って、江戸より御役人衆、多くかの地へ参って御座ったが、御徒目付(おかちめつけ)であられた梶川平次郎殿より、御当地の私の知音(ちいん)へ報告の御座った一件の由。
日光奉行組の同心であった山中左四郎の妻儀、常々猫を寵愛し、三匹も四匹も飼いおいて御座った。
ところが、この凡そ一年以前より、ぶらぶら病(びょう)を煩い続け、去年の冬以来、これ、はなはだ重篤となり、猫の真似など致すようになったかと思うと、それが次第に募って、最早、狂うておるとしか申せぬまでになり、当春には食事を摂る際にも、これ、猫同様に手を使わず、器をねぶる始末にて、また、そうした病気にも拘わらず、大変な食欲を示し、実際、驚くほどの量を喰ろうて、看病人もはなはだ困惑致すまでとなった。
夫左四郎、
「……これは……孰れ何らかの物の怪が、憑りついてでもおるので御座ろう。……」
と、加持祈禱などをも懇ろに修してもたものの、これ、いささかの験(しるし)も、ない。
ところが、ある時、妻、これ突如、
「……八年以前ニ死ンダル猫……ソレガ憑リツイテオル……我ラジャ……」
と病人が口走りだしたによって、それを聴いた夫左四郎、大いに怒り、
「――死ぬるまで大切に飼い養のうた猫が、これ、憑りつくなんどと申す儀――はなはだ納得出来ぬわッツ!」
と一喝したところ、
「……アマリニ愛シテ下サレタ故……コレ……離レカネテ御座ル……今現(ゲン)ニ飼(コ)ウテイナサルル猫モ……コレ……皆……ソノ折リノ……愛シタモウタ我ラガ子ナレバ……一入(ヒトシオ)……離レガタイ……」
と、かの病人の申したによって、よんどころなく、日光の神職を頼み、蟇目(ひきめ)を執り行のうて貰(もろ)うた。
されば、その憑りついた猫の霊は離れたものの、それより三日目のこと、病人も身罷ってしもうたと申す。
なお、その蟇目の儀を執り行のうて御座った砌り、かの病人の申すことに、
「……我ラノ死骸……庭ニ埋(イ)ケテアル……犬ニ食ワレ死ンダルヲ……前垂(マエダレ)ニ包ミ……ソコナ庭ニ……埋メアル……ソレヲ掘リ出ダイテ……川ヘ……流シテ……クレロ……」
とのことなれば、言うがまま、下男に庭を掘りかえさせて見たところが、八年以前に埋めたる猫の死骸、これ、不思議なことに少しも変相せぬままに――おぞましくもこれ、生きておった時のままに――出土致いたによって、左四郎、早速に川へ流し捨てたのであったが……この時、左四郎、その家におったる、かの猫の子らも、或いは他から貰って御座って飼って御座った猫らも、これ、一匹残らず、菰(こも)に押し込んで、川に流し拾てて御座ったと申す。……或いはこれが……妻の命をも奪(うぼ)うと申す結果を導いたものでもあろうか……
以上、目の当たりに見聞き致いた者の、これ、語って御座った、とのことであった。