志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅶ)
一 講談の度ごとに、肥前守の孫、九郎兵衞の末子にや仙松といへる九つか十歳斗(ばかり)が少年、いつも行義よく座して御記錄を聽居(ききをり)たるが、其さまいかにもおとなしく威(ゐ)ありて伶俐に見え、後後には必(かならず)よき所へ養子に行(ゆき)て、肥州にも負(まけ)ぬ昇身(しやうしん)もあるべき樣子に見請(みうけ)たるにより、近習のものに、「あの仙松殿は至(いたつ)て樣子よろしく見えぬるが、いかに」と尋(たづね)ければ、「さればにて候。第一人(ひと)をいたはる心深く、此ほどもそこそこえ參られ候ゆゑ、我等供(とも)にて中間(ちうげん)をもめしつれ出られたる處、途中にて俄(にはか)に雨降り傘の用意なく、仙松には菅笠(すげがさ)にて雨を凌ぎ戻られけるに、我等は笠もなく雨に濡れて供(とも)せし處、迎(むかへ)のものさし急ぎ仙松の傘ばかり持來(もちきた)りけるまゝ、まづはよろこびて仙松にその傘をわたしければ、仙松受取(うけとり)てかぶりし菅笠を取りて、我等にかぶり候得(さふらえ)と申さるれども、旦那(だんな)の笠ゆゑ遠慮いたしかぶらで手に持(もち)候て、私は濡れ候とても隨分よろしく候と申(まうし)て供致し候へば、仙松申けるは、其方(そのはう)かぶらざればをれもともに濡れんもの也(なり)とて傘をすぼめられ候ゆゑ、しからば御免、御言葉にまかせ御笠をとて、菅笠をかぶり供して歸りし處、門番見付(みつけ)て譯を知(しら)ざるゆゑ、旦那を小兒と侮り御笠をばかぶりしと、用人(ようにん)迄申立(まうしたて)たる故、用人我等を呼びて大(おほき)にしかり候間、右の始末を咄しければ、又其事を肥前守聞かれて、仙松の志(こころざし)殊勝なりとて賞美せられしなり。よろづの事みなかくの如くに候。殊に此節養子の口も整ひ候、千石已上(いじやう)也」と申き。
此仙松事(こと)御使番(おつかひばん)の花房長左衞門養子と成(なる)。高千九石也。築地(つきぢ)に在之(これあり)といふ。
[やぶちゃん注:
・「九郎兵衞」根岸鎮衛の嗣子杢之丞衛粛(もりよし)。
・「仙松」不詳。なお、ウィキの「根岸鎮衛」によると、杢之丞衛粛の嗣子栄太郎衛恭(もりやす)の弟「求馬」という人物がいるとあるから、この求馬が仙松の可能はある。
・「伶俐」底本では右に『〔怜悧〕』と訂正注があるが、これは誤りではなく、こうも書く。頭の働きが優れていて賢いこと。
・「用人」武家の主人の身辺に居て、日常生活全般の管理に当たり、家政を取り仕切った実務担当の統括者。
・「御使番」幕府番方の職制。本来は戦時の軍陣にあって伝令・巡視役を務め、古くは「使役(つかいやく)」とも言った。元和三(一六一七)年に定役(じょうやく)となり、この時の員数は二十八人或いは二十五人という。その後、増加し、幕末には五十人から急増して遂には百十二人を数えた。若年寄支配で役高は千石、格は布衣、詰所は菊之間南御襖(おふすま)際で、平時には将軍の代替り毎に諸国を巡回し、大名の治績動静を視察し(諸国巡見使)、或いは幼少の大大名の許へ多く赴任してその後見監督に当たり(国目付)、或いは城の受け渡しの際にその場に臨んで監督をするなど、総て幕府の上使を務めた重役であった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。甲斐素直氏の個人サイト内の「名奉行根岸肥前守鎮衛の話」に『幕府の俸給制度の面白い点は、高級官僚に対する賞与の一部として、その子供の出世を早くすることです。鎮衛の場合、非常に長期に渡って江戸町奉行という要職にあったので、子供ばかりか孫までが、彼の生きている間に布衣以上の地位につけました。これは非常に珍しいことといえます』とあり、養子に行った仙松もこの花房家を継いだとすれば、甲斐氏のおっしゃるように、子衛粛の末っ子さえも養子先で布衣となっている。子孫はこれ鎮衛様々である。甲斐氏の論は非常に読み易く、且つ面白い。無味乾燥で情報羅列のアカデミック(但し、甲斐氏は日本大学法学部教授で憲法が御専門の立派なアカデミズムの中の御方ではある)な論文を読むよりも遙かにためになる。必読!
・「花房長左衞門」江戸切絵図に築地本願寺御門跡の西の裏門を出た正面(現在の新大橋通りの向かい側、中央区築地一丁目)に『花房長左エ門』の名を見出せる。
■やぶちゃん現代語訳
一 講談のたびごとに、肥前守殿の御孫様であらるる――子息九郎兵衛衛粛(もりよし)殿の末子であられたか――仙松君と申さるる、これ、九つか十歳ばかりの少年が、何時(いつ)も行義よく座して軍書の講釈を聴いておられたが、その佇まい、これ、如何にもおとなしく、しかも何とも言えぬ力をも感じさせ、加えて聡明とお見受け致し、のちのちにはこれ、必ずよき所へ養子に行かれて、肥前守殿にも負けぬ昇進をもなそろうものか、という様子にさえ見受けられたて御座ったによって、ある折り思わず、御近習の者に、
「――仙松君は、これ、至って御様子、これ、よろしゅう拝察致しまするが――如何(いかが)?――」
と訊ねたところ、
「――さればで御座る! 何よりこれ、第一に人を労わる御心(みこころ)の深き御方にて御座る!……このほども、どこそこへ参らるると申されたゆえ、我ら、御供(おとも)にて中間(ちゅうげん)をも一人召し連れ、御外出なさいましたところが、途中にて俄かに強き雨の降り出だし、生憎、出立(しゅったつ)の砌りはこれ、雲一つなき晴天にて御座いましたがため、これ、傘の用意のなく、仙松君は御自身の菅笠(すげがさ)にて雨をお凌ぎになられつつ、歩みを急がれて戻られんと致いて御座いましたが、我らは笠もなく、雨にずぶ濡れとなり、御供致いて御座いました。そこへ、幸いに迎えの者の、これ、差し当たり急ぎ、仙松君の傘をのみ持ち来って参ったに出くわしましたによって、我らも悦びほっと致いて、仙松君に、その傘をお渡し申し上げたところ、仙松君、それを受け取って開きさされ、被っておられた菅笠をお取りにならるると、我らに、
――これをお被りなさい。
と申されて渡されました。が、しかし、これ無論、旦那様の御笠(おんかさ)なれば、遠慮致いて被らずに手に持ったまま、
――拙者は濡れましたとしても、これ随分、よろしゅう御座いますれば。……
とお断り申し上げました。
ところがこれ、数歩歩まれたところで、仙松君、これお立ち止ままりになられ、振り返るや、
――その方(ほう)が笠を被らぬというのであれば――俺(おれ)も、ともに濡れて行こうぞ。
と仰せになられ、傘をすぼめしまわれました。されば仕方のぅ、
――し、しからば御免! 御言葉に任せ、御笠を拝借仕りまする!
と申し上げ、我ら、菅笠を被り、そのまま御供申し上げて無事、屋敷へと帰って参りました。
ところが、その姿を門番の見て、これ、その訳を知らざれば、
――旦那様を小児と侮(あなど)り、あろうことか、かの近習――旦那様の御笠を被って帰って参った!!
とばかり、直ちに用人(ようにん)まで申し立てましたによって、これまた、直ちに御用人の御方これ、我らを呼びつけて、大きにお叱りなされましたゆえ、我らも右の始末につき、お話し申し上げて御勘弁願いまして御座います。
さてもまた、その話を御祖父(おんそふ)様肥前守殿、これをお聴き遊ばさるるや、
――仙松の志し、これ、何と! 殊勝なることじゃ!!
とて、殊の外、お褒めになられて御座いました。
一事が万事、皆、かくの如き御様子にて御座いまする。
さても、ことにこの節、御養子の御口(おんくち)もお決まりになられ、先方(せんぽう)はこれ、千石以上の家格の御家(おいえ)にて御座いまする。……」
と答えて御座った。
この仙松君こと、これ、御使番(おつかいばん)を勤めておらるる花房長左衛門殿の御養子となられた。花房殿はこれ、高(たか)千と九石、築地(つきじ)にお住まいになれらておらるると申す。]
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