譚海 卷之一 内外遷宮材木の事
○内外宮御遷宮造營の材木は木曾山より伐出(きりいだ)す也。日々筏に組(くみ)桑名より海をへて宮川に着(つく)事也。又所々山中の杣(そま)より奉納の材木とて伐流(きりなが)す。自然に漂着して浦々に至れども、丸の内に大の字の燒印をせし材木なれば、奉納の木とて海邊の民突流(つきなが)しやる。夫(それ)ゆへ終には勢州へ至る事也。扨修造の事纔(わづか)なるくさび壹つも材木壹本にて取用(とりもち)ひ、其餘は外に用ゆる事なければ、造立(ざふりふ)の後おびたゞしき殘木有(ある)事なり。此殘木みな神官の德分に成(なり)て工人へ賣(うり)やる。これにて雜器わりご樣(やう)の物飯櫃のたぐひまで作りひさぐ、されば勢州より出す器物、杢目(もくめ)すぐれたるは此謂)いは)れ也。みな山田といふ燒印あり。
[やぶちゃん注:この伊勢神宮式年遷宮用の木を調達する森林は現在も長野県木曽郡と岐阜県中津川市の阿寺山地にある。かつては「神宮備林」と呼ばれたが今は国有林の一部の扱いである。以下、ウィキの「神宮備林」によれば、『長野県木曽郡上松町、王滝村、大桑村、と岐阜県中津川市の加子母・付知町などにまたがり』、約八千ヘクタールの広さを持つ。『現在は国有林の一部であり、林野庁中部森林管理局が管理、運営している。ここのヒノキは慣例により、式年遷宮用に優先的にまわされる』。『継続的に用材が供給できるように』、樹齢二百年から三百年の『用材の安定提供が可能なように計画的に植林された。神宮備林でなくなった現在も、その手法で運営されている』。伊勢神宮で二十年毎に行なわれる『式年遷宮は、大量のヒノキが必要である。その用材を伐りだす山(御杣山・みそまやま)は』、第三十四回式年遷宮までは三回ほど『周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山、高倉山という内宮・外宮背後の山(神宮林)であった』。しかし、一回の遷宮で使用されるヒノキは一万本以上になり、『神宮林のヒノキでは不足しだす。その為、内宮用材は』第三十五回式年遷宮から三河国に、外宮用材は第三十六回式年遷宮から美濃国に移り、第四十一回式年遷宮から第四十六回式年遷宮までは、伊勢国大杉谷に移った。『しかしながら、原木の枯渇による伐り出しの困難さから』、宝永六(一七〇九)年の第四十七回式年遷宮から、『尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動する。この地域は尾張藩により木材(木曽五木)が保護され、許可の無い伐採が禁じられていた』。『正式に指定、伐採が始まったのは』、寛政一〇(一七九八)年の伊勢神宮による御杣山指定からで、『現在でも式年遷宮用の用材は、この旧神宮備林から調達されている』。とある。「譚海」の成立は寛政七(一七九五)年自序であるからまさに正式に決定される直前であったことが分かる。謂わばこれはそうした公的認知への事前アッピールの性格を以って読まれたとも考えてよいであろう。]
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