日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 博物館 / 高嶺家での素敵なもてなし
しばらく見物した上で、我々は往来を横切り、私の留守中に建てられた大きな二階建の建物へ行った。これは動物博物館なのである。帰国する前に行った私の最後の仕事は、二階建の建物の設計図を引くことであった。私の設計は徹底的に実現してある。私が最初につくった陳列箱と同じような新しい箱も沢山出来、そして大広間に入って、私の等身大の肖像が手際よく額に納められ、総理の肖像と相対した壁にかけてあるのを見た時、私は実にうれしく思ったことを告白せねばならぬ。私の大森貝墟に関する紀要に、陶器の絵を描いた画家が、小さな写真から等身大の肖像をつくったのであるが、確かによく似せて描いた。この博物館は私が考えていたものよりも、遙かによく出来上っていた。もっとも、すこし手伝えば、もっとよくなると思われる箇所も無いではないが――。
その午後ドクタア・ビゲロウと私とは、小石川にある高嶺氏の家へ、晩餐に招かれた。宮岡氏と彼の兄さんの竹中氏とが、道案内として我々の所へ来た。家も庭園も純然たる日本風であった。但しオスウエゴ師範学校出身の高嶺氏は、西洋風をより便利なりとするので、一つの部屋だけには、寝台、高い机、卓子(テーブル)、椅子、その他が置いてあった。高嶺氏は、いろいろ興味ある事物の中の一つとして、矢場を持っていた。私も射て見たが、弓の右に矢をあてがって発射する方法が、我々のと非常に異うので、弓が至極扱いにくい。彼はまたクロケー場も持っていて、敬愛すべき老婦人たる彼の母堂と、高嶺の弟とがクロケーをやった。若い高嶺夫人は魅力に富み、非常に智的で、英語を自由にあやつる。
[やぶちゃん注:「高嶺」教育学者高嶺秀夫(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)。既注であるが再掲する。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保(かたもり)の近習役となったが九月には会津戦役を迎えてしまう。謹慎のために上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた(在学中に既に英学授業を担当している)。八年七月に文部省は師範学科取調のために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定、高嶺と伊沢修二(愛知師範学校長)・神津専三郎(同人社学生)が選ばれた。高嶺は一八七五年九月にニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学、一八七七年七月に卒業したが、この間に校長シェルドン・教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、ジョホノット(一八二三年~一八八八年:実生活にもとづく科学観に則る教授内容へ自然科学を導入した教育学者。)と交流を深め、コーネル大学のワイルダー教授(モースの師アガシーの弟子でモースの旧友でもあった)に動物学をも学んだ。偶然、このモースの再来日に同船して帰国、東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任、その後、精力的に欧米最新の教育理論を本邦に導入して師範教育のモデルを創生した。その後、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授や校長などを歴任した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。
「宮岡」前掲の宮岡恒次郎。
「竹中」既注であるが再掲すると、恒次郎の一つ上の実兄である竹中(八太郎)成憲(元治元(一八六四)年~大正一四(一九二五)年)は明治八(一八七五)年に慶応義塾に入り、次いで東京外国語学校学生を経て明治一三(一八八〇)年に東京大学医学部に進み、同二十年に卒業とともに軍医となるが、後に開業。モースやフェノロサの通訳を勤め、彼らの旅行にもしばしば同行した。
「クロケー」原文“croquet”。クロッケー。球技の一つで芝生の上に数個の鉄製の小門を並べ、その間をマレット(木槌)で木製の球を打って六箇所のフープ(門)を通過させ、最後に中央に立つペグ(杭)に当てる早さを競うもの。ゲートボールの原型。]
六時頃、三人前の正餐が運び込まれた。婦人方や少年達はお給仕役をつとめるのである。それは純日本流な、この上もなく美味な正餐であり、そしてドクタア・ビゲロウがただちに、真実な嗜好を以て、出される料理を悉く平げたのは、面白く思われた。食事が終るに先立って、美しいコト(日本の竪琴(ハープ))が二面持ち込まれ、畳の上に置かれた。その一つは高嶺夫人に、他は東京に於て最も有名な弾琴家の一人であるところの、彼女の盲目の先生に属するのである。高嶺夫人は、彼女が巧妙な演奏者であることを啓示した。次に彼女は提琴(ヴァイオリン)を持って来た。盲目の先生は、弦を支える駒を、楽器のあちらこちらに上下させて、それが提琴と同じ音調になるようにし、彼の琴を西洋音楽の音階に整調した。高嶺夫人が提琴のような違った楽器で、本当の音を出すことが出来るとは信じられぬので、私は、どんな耳をぶち破るような演奏が始るのかと心ひそかに考えた。いよいよ始ると、私は吃驚した。彼女は大いなる力と正確さとを以て、「オウルド・ラング・サイン」、「ホーム・スイート・ホーム」、「グロリアス・アポロ」を弾奏し、盲人の先生はまるでハープでするような、こみ入った伴奏を、琴で弾いた。高嶺夫人は曲譜なしで演奏し、盲目の琴弾琴家は、いう迄もないが、曲譜なぞは見ることも出来ぬのである。音楽は勿論簡単なものであるが、私を驚かせたのは、その演奏に於る完全な調和音である。彼女はたった四十七日間しか弾琴を習っていない。私は、外国の、全然相違した楽器を弾いた高嶺夫人と、彼の楽器を変えて、彼にとってはまったく異物であるところの音調と音階とで、かかる複雑な演奏を行った弾琴家と、そのいずれに感心すべきか知らなかった。我々は、非常に遅くまで同家にいた。この経験は実に楽しかった。
[やぶちゃん注:「オウルド・ラング・サイン」“Auld Lang Syne”。スコットランド民謡で非公式な準国歌である邦訳「蛍の光」。原題は「久しき昔」。作者不詳。
「ホーム・スイート・ホーム」“Home, Sweet Home”。言わずもがな、イングランド民謡で邦題「埴生の宿」。イギリスのヘンリー・ローリー・ビショップ (Henry Rowley Bishop 一七八六年~一八五五年)の 作曲。
「グロリアス・アポロ」“Glorious Apollo”は私は聴いた記憶も名前も知らない曲である。「HGC and KGC alumni singing Glorious Apollo」でお聴きあれ。イギリスのサミュエル・ウェブ(Samuel Webbe 一七四〇年~ 一八一六年)の作曲であるが、讃美歌のような感じだ。ところが何と、この曲、後に「小学唱歌集」の「君が代」(現在のそれとは異なる廃曲版であるが歌詞は同じ)の原曲となった。
以下の段との間には、有意な一行空けが施されてある。]
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