甲子夜話卷之一 31 同砂村御成のとき西瓜を取らせられし事
31 同砂村御成のとき西瓜を取らせられし事
德廟砂村え成せ給しとき、何か御興に入らせ給こと有て、上意には、殊に暑(アツ)し、いづれも此邊の畑の西瓜を取り食ふべしと、衡指圖あり。皆畑主のおもはくも何かゞと思へども、上意なれば手々に取てける。殊に御きげんにて、程なく其所を御立がけに、代官を呼と上意あり。伊奈某御前に出たれば、此邊の西瓜を皆々へ取せたり。畑主共に價とらせよと、上意なり。一時の御遊戲までも、其結局かく周詳なる御事、いかにも感じ奉るべきことなり。
■やぶちゃんの呟き
「同」前の「30」の「有德廟」吉宗のエピソードを受ける。
「砂村」砂村新田。旧東京府南葛飾郡砂町。現在の東京都江東区東部にあった村。現在の北砂・南砂・新砂・東砂に当たる。ウィキの「砂町」に、砂村新左衛門一族が宝六島を開拓した際に開拓者の名前を取り「砂村」となったとある。
「手々」「てんで」。
「御立がけ」「おんたちがけ」。出立なされる折り。
「伊奈某」関東郡代伊奈忠逵(いなただみち 元禄三(一六九〇)年~宝暦六(一七五六)年)かと思われる。通称、半左衛門。ウィキの「伊奈忠逵」によれば、正徳二(一七一二)年五月、養父の忠順が没したのち関東郡代となり(当時の将軍は第六代徳川家宣であったが、同年十月に死去し家継に継がれた)、勘定吟味役上座を兼ねて老中の直属支配となった。享保四(一七一九)年、『上川俣(現・羽生市)に葛西用水元圦(もといり:取水口のこと)を設け、日向堀を通して利根川の水を引き、羽生領南方用水(幸手領用水)を開発した。また、井沢弥惣兵衛を助力し、見沼代用水の開削に貢献』した。しかし享保一四(一七二九)年五月九日に『手代の不正や収納した米が腐ったなどにより処罰され減封処分を受け』ている。『甘藷栽培を青木昆陽の試作以前に試み』、寛延三(一七五〇)年七月に退任、その跡は忠順の嫡男忠辰(ただとき)が継いでいる(但し、吉宗の逝去は寛延四年六月二十日であるから、忠辰の可能性が全くないとは言えないが、死の前年の夏の可能性は頗る低いと思われる)。
「周詳」「しゆうしやう」。聴き馴れぬ語であるが、万事細部に至るまで心遣いが行き届いていることであろう。