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« カテゴリ 畔田翠山「水族志」 創始 / (二四六) クラゲ 《リロード》 | トップページ | 花がネエかい?! »

2015/04/29

畔田翠山「水族志」 (二四七) ナマコ 《リロード》

 

【特別付録】ここでは本文で訓点を再現したので、縦書の方が、その部分は流石に読み易いので、特別に「クラゲ」と「ナマコ」のカップリングで本文のみの縦書版(PDF)を用意した。   

(二四七)

ナマコ 一名タラゴ【淡州北村】コドラ【南㵎草木疏曰「コドラ」ナルアリ「トラコ」ト云】アカコ一名ヒシコ【淡州北村】沙噀

本朝食鑑曰海鼠江東最多尾之和田參之栅(サク)嶋相之三浦武之金澤本木也海西亦多就中小豆島最多矣狀似鼠而無頭尾手足但有前後兩口長五六寸而圓肥其色蒼黑或帶黃赤背圓腹平背多㾦㿔而軟在两腋者若足而蠢跂來往腹皮靑碧如小㾦㿔而軟肉味略類鰒魚而不甘極冷潔淡美腹内有三條之腸色白味不佳云々又曰一種有長二三寸腹肉[やぶちゃん注:原拠は『腹内』。訓読では訂した。]沙味亦差短者一種有長七八寸肥大者腹内三條之黃腹如琥珀之爲醬味香美按ニ「ナマコ」ニ紅色ナルヲ「アカコ」ト云黑色ナルヲ「クロコ」ト云黃紅雜者ヲ「ナシコ」ト云黃梨ノ色ニヨリテ名ク又「ナシコ」ニ五色ヲナス者アリ文化年間紀州日高郡由良ノ内ニテ漁人タテ網ヲナシ沙噀ヲ得タリ長サ二尺餘濶八九寸其色黑天保七年ノ冬ヨリ同八年ノ春ニ至テ紀府ノ魚店ニ出ル沙噀大サ二尺餘其色紅色ノ者多シ又黑色雜色ノ者アリ寧波府志曰沙噀腸[やぶちゃん注:原本に「腸」はない。訓読では訂し、注を施した。]塊然一物如牛馬膓臟頭長五六寸許胖軟如水蟲首無尾無目無皮骨但能蠕動觸之則縮小如桃栗徐復擁腫土人以沙盆揉去涎腥五辣之脆美爲上品按ニ閩小紀ニ沙噀ニ作レリ山堂肆考ニ泥出東海純肉無骨水中則活失水則醉如泥故名曰泥杜詩先拚一飮醉如泥又名砂噀○イリコ 海參【香祖筆記曰生于土人參于水海參】大和本草曰奥州金花山ノ海參ハ黃色也キンコト云又黃赤色ナルモ處々ニ生ス山海名産圖會曰奥州金花山ニ採物形丸ク色ハ黃白ニテ腹中ニ砂金ヲ含ム故ニ是ヲ「キンコ」ト云本朝食鑑曰熬海鼠訓伊利古之有法用鮮生大海鼠腸後數百枚入空鍋活火之則鹹汁自出而焦黑燥硬取出候冷懸列干[やぶちゃん注:これは私は助字の場所を指す「于」と採って訓読では変えた。]兩小柱一柱必列十枚呼號串古(クシコ)又曰大者懸藤蔓今江東之海濵及越後之產若斯或海西小豆島之產最大而味亦美也自薩州筑州豐之前後而出者極小煑之則大也伊勢雜記曰「ナマコ」「タマコ」ハ本名也生ナルヲ「ナマコ」ト云煑テ串ニサシタルヲ「イリコ」ト云又「クシコ」ト云海島逸志曰海參者海中ノ蟲也形如長枕初拾之時長一尺餘柔軟如棉絮礬水煑而晒之則縮小不二三寸耳其所產必於深水併有石之處水愈深則海參愈多而愈美矣名狀甚多不數十刺參鳥縐最佳也[やぶちゃん注:この返り点では到底読めないので、勝手に「當刺參鳥縐最佳也」と直して訓読した。]海錄曰呢咕叭當國海參生海石上其下有肉盤盤中出短蒂蒂末即生海參或黑或赤各肖其盤之色豎立海水中潮搖動盤邊三面生三鬚各長數尺浮沈水面採者以鈎斷其蒂撈起剖之去其穢煑熟然後以火焙乾各國俱有唯大西洋諸國不產閩海參【本草從新】閩小記曰閩中海參色獨白類撑以竹簽大如掌與膠州遼海所一レ出異味亦澹【從新作淡】劣海上人復有牛革僞爲之以愚上レ人者不尙也刺參 本草從新曰存刺者名刺參光參 本草從新曰無刺者名光參遼海參 本草從新曰海參產遼海者良〇コノワタ一名俵子(タハラコ)【本朝食鑑】沙噀膓 本朝食鑑曰造膓醬法先取鮮膓潮水淸者洗淨數十次滌去沙及穢汁白䀋攪勾[やぶちゃん注:原拠を見ると、「勻」である。誤字か誤植と断じ、例外的に訓読では訂した。]之以純黃有光如琥珀上品黃中黑白相交者下品

 

○やぶちゃんの書き下し文

ナマコ 一名「タラゴ」【淡州北村。】・「コドラ」【「南㵎草木疏」に曰はく、『「コドラ」なるあり、「トラコ」と云ふ』と。】・「アカコ」・一名「ヒシコ」【淡州北村。】・「沙噀〔サソン〕」

「本朝食鑑」に曰はく、『海鼠』、『江東、最も多し。尾の和田、參の栅(さく)嶋、相〔さう〕の三浦、武の金澤・本木〔ほんもく〕なり。海西にも亦、多く、中〔なか〕ん就〔づ〕く、小豆島、最も多し。狀〔かたち〕、鼠に似て、頭・尾・手足、無し。但〔ただ〕前後有りて、兩口あり。長さ五、六寸にして、圓〔まる〕く肥え、其の色、蒼黑或いは黃赤を帶ぶ。背、圓〔まど〕かに、腹、平らかなり。背に㾦㿔〔はいらい〕多くして、軟かなり。两腋〔りやうわき〕に在る者は足のごとくにして、蠢跂〔しゆんき〕し、來往す。腹の皮は靑碧にて、小さき㾦㿔のごとくにして、軟かなり。肉味、略〔ほぼ〕鰒魚〔あはび〕に類して、甘からず、極めて冷潔、淡美たり。腹の内、三條の腸〔わた〕有り、色、白くして、味、佳からず』と云々。又、曰はく、『一種、長さ二、三寸、腹内沙、多くして、味も亦、差〔やや〕短き者、有り。一種、長さ七、八寸にして肥大なる者、有り。腹内、三條の黃腹〔きわた〕、琥珀〔こはく〕のごとくにして、之れを淹〔しほづけ〕にして、醬〔ししびしほ〕と爲せば、味はひ、香美たり』と。

按ずるに、「ナマコ」に、紅色なるを「アカコ」と云ひ、黑色なるを「クロコ」と云ひ、黃・紅の雜なる者を「ナシコ」と云ふ。黃梨の色によりて名づく。又、「ナシコ」に五色をなす者あり。文化年間、紀州日高郡由良の内にて、漁人、たて網をなし、沙噀を得たり。長さ、二尺餘り濶〔ひろ〕さ八、九寸。其の色、黑。天保七年の冬より同八年の春に至りて、紀府の魚店〔うをみせ〕に出づる沙噀、大いさ、二尺餘り、其色、紅色の者、多し。又、黑色・雜色の者あり。

「寧波府志」に曰はく、『沙噀。塊然たる一物にて、牛馬の膓臟のごとし[やぶちゃん注:返り点に従わず、頭を以下に出した。]。頭長〔とうちやう〕五、六寸許り。胖軟〔はんなん〕にして水蟲〔すいちゆう〕のごとし。首、無く、尾、無く、目、無く、皮骨、無し。但〔た〕だ、能く蠕動す。之れに觸るれば則ち、縮小して桃・栗のごとし。徐〔おもむ〕ろに擁腫に復す。土人、沙盆を以つて揉み、涎腥〔ぜんせい〕を去り、五辣〔ごらつ〕を雜〔ま〕ぜ、之れを煑る。脆〔もろ〕くして美〔うま〕し。上品と爲す』と。

按ずるに、「閩小紀〔びんしやうき〕」に「沙噀」に作れり。「山堂肆考〔さんだうしこう〕」に、『「泥〔でい〕」あり。東海に出だす。純肉にして無骨、水中にて、則ち、活し、水を失へば、則ち、醉ふて泥のごとし。故に名づけて「泥」と曰ふ。杜詩に「先づ 一飮醉ふて泥のごとくなるを判ぜんや」と。又、砂噀と名づく』と。

○イリコ 海參〔いりこ〕【「香祖筆記〔かうそひうき〕」に曰はく、『土に生じて人參と爲り、水に生じて海參と爲る』と。】「大和本草」に曰はく、『奥州金花山〔きんくわさん〕の海參は黃色なり。「キンコ」と云ふ。又、黃赤色なるも處々に生ず』と。「山海名産圖會」に曰はく、『奥州金花山に採れる物、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「キンコ」と云ふ』と。「本朝食鑑」に曰はく、『熬海鼠』、『伊利古〔いりこ〕と訓ず』。『之れを造るに、法、有り。鮮生なる大海鼠を用ひ、腸[やぶちゃん注:原拠は『沙腸』(沙と腸と)。]を去りて、後、數百枚、空鍋に入れて活火を以つて之れを熬る時は、則ち、鹹汁〔かんじふ〕自〔おのづか〕ら出でて、焦げて黑く燥〔かは〕き硬くなれるを取り出だし、冷〔さむ〕るを候〔ま〕ちて、兩小柱に懸け列べ、一柱、必ず十枚を列〔つら〕ぬ。呼びて「串古(クシコ)」と號す』と。又、曰はく、『大なる者は、藤蔓に懸く。今、江東の海濵、及び、越後の產、斯〔か〕くのごとし。或いは、海西の、小豆島の產、最も大にして、味も亦、美なり。薩州・筑州・豐〔ぶ〕の前後より出づる者は、極めて小なり。之れを煑る時は、則ち、大なり』と。「伊勢雜記」に曰はく、『「ナマコ」「タマコ」は本名〔ほんみやう〕なり。生〔なま〕なるを「ナマコ」と云ひ、煑て串にさしたるを「イリコ」と云ふ。又、「クシコ」と云ふ』と。「海島逸志」に曰はく、『海參〔かいさん〕は海中の蟲なり。形、長枕〔ながまくら〕のごとし。初め、之れを拾ふ時は、長さ一尺餘り、柔軟にして、棉絮〔めんじよ〕のごとし。礬水〔ばんすい〕を以つて煑て、之れを晒〔さら〕す。則ち、縮小して、二、三寸たらざるのみ。其の產する所、必ず、深水、併びに、石の有るの處に於いてあり、水、愈〔いよいよ〕、深ければ、則ち、海參、愈、多くして、愈、美なり。名狀、甚だ多く、數十を下らず。當〔まさ〕に「刺參鳥縐〔しさんうしゆう〕」を以って最も佳と爲すべきなり』と。「海錄」に曰はく、『呢咕叭當〔ニコバトウ〕國、海參、海石の上に生じ、其の下、肉盤、有り、盤中より、短き蒂〔へた〕を出だし、蒂の末、即ち、海參、生ず。或いは黑く、或いは赤く、各々、其の盤之の色に肖〔に〕る。豎〔じゆ〕、海水の中に立ち、潮に隨ひて、盤の邊りに搖動す。三面ありて、三つの鬚を生ず。各々、長さ數尺。水面に浮沈し、採る者は、鈎〔かぎ〕を以つて其の蒂を斷ち、撈〔すくひと〕り起こして、之を剖〔さ〕き其の穢〔よごれ〕を去り、煑熟〔にじゆく〕す。然かる後、火を以つて焙〔あぶ〕り乾す。各國、俱〔とも〕に有り。唯だ、大西洋諸國には產せず』と。

閩海參〔びんかいさん〕【「本草從新」。】「閩小記」に曰はく、『閩中の海參は、色、獨〔た〕だ白し。撑〔ささへ〕の類ひとして、竹を以つて、簽〔しるし〕す。大いさ、掌〔たなごころ〕のごとし。膠州〔こうしう〕の遼海〔りやうかい〕を出づる所として與〔あづか〕る。異味にして、亦た、澹〔あは〕【「從新」は「淡」に作る。】くして、劣れり。海上の人、復た、牛革を以つて、僞〔いつは〕りて之れを爲〔つく〕り、以つて人を愚する有り。者は、尙ほ、足らざるなり』と。

刺參 「本草從新」に曰はく、『刺〔とげ〕存〔あ〕る者、「刺參」と名づく』と。

光參 「本草從新」に曰はく、『刺無き者、「光參」と名づく』と。

遼海參 「本草從新」に曰はく、『海參、遼海に產する者、良し』と。

〇コノワタ。一名、俵子(タハラコ)【「本朝食鑑」。】。沙噀膓。 「本朝食鑑」に曰はく、『膓醬〔このわた〕を造る法は、先づ、鮮なる膓を取りて、潮水〔しほみづ〕の至つて淸き者を用ひて、洗ひ淨〔きよ〕めること、數十次、沙及び穢〔きたな〕き汁を滌〔すす〕ぎ去りて、白䀋〔しらじほ〕に和して、攪〔かきまぜ〕て勻〔ひとしく〕して、之れを收む。純黃にして光り有りて琥珀のごとき者を以つて、上品と爲す。黃の中に黑・白の相ひ交ざる者を以つて、下品と爲す』と。

 

[やぶちゃん注:私は実はクラゲよりもナマコに対するフリーク性の方が高いと言った方がよい。されば、今までもいろいろと電子化してきたので、ここで改めてナマコの総論をする気が全く起きない。されば、「海鼠」棘皮動物門海鼠(ナマコ)綱 Holothuroidea のナマコ類については、他に私の電子テクストである、サイトの寺島良安の「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠(とらご)」及び栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻八の「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」等の、私のマニアックにして冗長なる注をも参照されたい。海鼠類の一種である、

海鼠(ナマコ)綱樹手目キンコ科キンコ属キンコ Cucumaria frondosa var. japonica

に特化した江戸期の博物学の労作、芝蘭堂大槻玄澤(磐水)「仙臺 きんこの記」も併せてお読み戴ければ幸いである。なお、本篇で畔田がとり上げている「ナマコ」は中国の本草書の引用を除けば、本邦に於ける食用のナマコへの限定性が高いので、畔田が念頭に置いている種は、概ね、

海鼠(ナマコ)綱楯手亜綱楯手目シカクナマコ科マナマコ属マナマコ Apostichopus armata

と、後は後に出る前に示したキンコである。但し、近年、流通でマナマコの内の上品で「アカ」とされてきたところの、赤色を呈する個体群を、生物学的にもマナマコと分離して別種として、

マナマコ属アカナマコ Apostichopus japonicus

として扱うようになってきている(後述)。

 但し、漢籍のそれは生体の記載が不全で、種同定は困難であるので同定はしていない。概ねマナマコかその近縁種とは思われるが、全く別種――ナマコではないもの――が含まれているので、それは特に注記してある。なお、世界で約千五百種、本邦産は二百程度と言われている(二〇〇三年阪急コミュニケーション刊の本川達雄他編の「ナマコガイドブック」に拠った。国内で出版される海岸動物の著作物は、専門書も含めて相当に読んできたつもりだが、本書は特に自信を持って私がお薦めするナマコ学の一冊として秀逸なものである(同社の「ガイドブック」シリーズは他の生物では写真図鑑であるが、これはガッツリとナマコ学が書かれている点で特異点であり、ナマコ・フリークの方は持っていなければ、モグリと言える)。他にはナマコとウニに纏わる名著としての大島廣氏の「ナマコとウニ」(昭和三七(一九六二)年(初版)内田老鶴穂圃刊)は絶対に外せないナマコ学のバイブルの一つである)。

 因みに、私のナマコ・フリークのレベルを疑う方を初めとして、まずは、昔、二〇〇六年十月十四日に私がブログで作った、

帰ってきた臨海博士 ナマコ・クイズ」

に挑戦して戴こうか。未だ嘗て六問全問に正答した者はいない。平均正答率は三問である。一つ、挑戦してみられよ(正解は上にある次の記事の『「袈裟と盛遠」他 草稿追加』のさらに同じ次の記事をクリックすれば、見られる。ズルしてるのは、誰ですか? ダメですよ! 最初から答えを見るのは!)。

 なお、ここで「クラゲ」同様、どうしても言っておかねばならぬことがある。それは、日本産海産無脊椎動物として、かの「古事記」の冒頭の「くらげなす」の「クラゲ」に次いで印象深く登場するのが、何を隠そう、このナマコであることである。邇邇命(ににぎのみこと)の天孫降臨の直後の、「猨女君(さるめのきみ)」の条で、天宇受賣命(あめのうづめのみこと)が猨田毗古神(さるたひこのかみ)を送った後、地上の水棲生物らに対し、天の神の御子(みこ)への従属を確認する部分に出現する。

   *

〇原文

於是送猿田毘古神而。還到。乃悉追聚鰭廣物鰭狹物以。問言汝者天神御子仕奉耶之時。諸魚。皆仕奉白之中。海鼠不白。爾天宇受賣命。謂海鼠。云此口乎。不答之口而。以紐小刀。拆其口。故於今海鼠口拆也。是以御世。嶋之速贄獻之時。給猿女君等也。

○やぶちゃんの書き下し文

是に猿田毘古神を送りて、還り到りて、乃(すなは)ち、悉(ことごと)に鰭(はた)の廣物(ひろもの)、鰭の狹物(さもの)を追ひ聚(あつ)めて、「汝(な)は天つ神の御子に仕へ奉らむや。」と問ふ時に、諸(もろもろ)の魚、皆、「仕へ奉(まつ)らむ。」と白(まう)す中に、海-鼠(こ)、白さず。爾(ここ)に天宇受賣命、海鼠に謂ひて、「此の口や、答へぬ口。」と謂ひて、紐小刀(ひもがたな)以ちて、其の口を拆(さ)きき。是(ここ)を以ちて、御世(みよみよ)、嶋の速--獻(はやにへ)る時に、猨女の君等(ら)に給ふなり。

   *

「鰭の廣物、鰭の狹物」大小様々な魚。この「魚」は広義の魚介類で、これによって古代から海鼠が食用対象として有意に知られていた証であり、しかもナマコの口の触手がかく裂かれたようになっていることの神話的起原が語られるという博物学的にも優れた記載と言えるのである。そうして最古のナマコの名は「こ」であったのである。史料上で信頼出来る最も古い部類に属す博物学的なそれは、「和妙類聚抄」(承平年間(九三一年~九三八年)成立)で、「卷第十九」の「鱗介部第三十 亀貝類第二百三十八」に(訓読した。読みは私が附した)、

   *

海鼠 崔禹錫「食經」に云はく、『海鼠【和名、「古(こ)」。「本朝式」に𤎅(ガウ)」の字を加へて「伊里古(いりこ)」と云ふ。】]は、蛭(ひる)に似て、大なる者なり』と。

   *

同書の引く「本朝式」は「弘仁式」(弘仁一一(八二〇)年)撰進)、或いは「貞観式」(貞観一三(八七一)年)とされる。「𤎅」は「熬(い)る」。「いりこ」は後で出る如く、「海参」「煎海鼠」「熬海鼠」と書いて加工した「干しナマコ」のことを指す。内臓を除いた後、海水或いは薄い塩水で煮て乾燥させたもの。

「タラゴ」恐らくは「俵子」=歴史的仮名遣「たはらご」=現代仮名遣「タワラゴ」の縮約であろう。異説もあるが、彼らのずんぐりとした体形が縁起のよい米俵に似ているからというのが全く以って腑に落ちる。

「淡州北村」海浜で旧村名で「北村」を有するのは「草加北村」で、現在の兵庫県淡路市草香北(グーグル・マップ・データ)であるが、ここか。北を除く東村・西村・南村は「徳島大学附属図書館」の「貴重資料高精細デジタルアーカイブ」のこちらの古地図(寛永一八(一六四一)年頃)内に見つけたが、単独の「北村」は遂に見出せなかった。

「コドラ」「海鼠虎」か。「日本山海名產圖會」の「卷之四」の「讃刕海鼠(さんしうなまこ)」のこちら(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該頁画像)で、『生海鼡は俗に虎海鼡と云ひて』とある。

「南㵎草木疏」不詳。いろいろなフレーズ検索で調べたが、見当たらない。掛かってくるのは自身のこの記事ばかりだ。識者の御教授を切に乞うものである。

「ヒシコ」これは通常では「鯤」或いは「鯷」で、「ひしこいはし」、所謂、「カタクチイワシ」のことを指すので不審である。二つの可能性があるか。一つは「カタクチイワシ」は「片口鰯」で、上顎が下顎に比べて大きく著しく発達しているために下顎がないように見えることによる命名であるが、ナマコの口が裂けていることとの親和性がやや窺えること点で、今一つは海鼠を長く保存出来る加工品としての「醢(ししびしほ)」、内臓の塩蔵品である「このわた」などから、「ひしほ」の「ヒシ」に海鼠の古名の「コ」を添えた可能性である。

「沙噀〔さそん〕」現代中国語でマナマコ(仿刺参)の異名として用いられ、漢籍では広くナマコのことを、かく記す。「噀」は「吹きかける」の意で、「砂を吹き出す」というのはナマコの生態として腑に落ちる表現ではある。

「本朝食鑑」の「海鼠」は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像で訓読した。ここから。誤写或いは誤植と思われる箇所もあるが、重篤な誤読を示す箇所はない。実は私は既に二〇一五年に、『博物学古記録翻刻訳注 ■12 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載』で、総て(「海鼠」・「熬海鼠」・「海鼠腸」全部)を電子化注してあるのである。そちらも是非、参照されたい。

「尾の和田」尾張国の和田であるが、不詳。これは直感に過ぎないが、現在の愛知県知多郡美浜町布土和田(ふっとわだ)(グーグル・マップ・データ)ではなかろうか? ここなら三河湾に面し、しかも海鼠の名産地として知られた次に出る佐久島は、ここから南東十三・二キロメートルの三河湾に浮かぶ島である。識者の御教授を乞う。

「參の栅(さく)嶋」三河国の佐久島。前のリンクを参照されたい。

「相〔さう〕の三浦」相模国の三浦。三浦半島の三浦三崎一帯。

「武の金澤・本木〔ほんもく〕」武蔵国の金沢文庫や金沢八景附近と、横浜市中区本牧附近(「今昔マップ」)。現在は干拓されているが、リンク先を見ると判るが、本牧地区は本牧岬で、大戦後までは、ずっと海岸線が内側にあった。……ああ、……僕が教師として一番幸せな時間を送った緑ケ丘高校は、まだないねぇ……

「前後有りて、兩口あり」ここは原拠では『前後、兩口有り』と訓点している。

「㾦㿔〔はいらい〕」現代中国語では「蕁麻疹」の意であることから判るように、体表面に出来る凹凸を成す突起物(ブツブツ)を指して言っている。

「蠢跂〔しゆんき〕」蠢き這い歩くことを言う。

「鰒魚〔あはび〕」この場合はフグではない。古漢籍でもこれで腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis を指す。

「淹〔しほづけ〕」塩漬け。

「醬〔ししびしほ〕」塩辛。

「アカコ」「クロコ」『黃・紅の雜なる者を「ナシコ」と云ふ』『「ナシコ」に五色をなす者あり』長く、この明らかな色彩餓上の個体変異は、棲息域の違いと個体の発達段階での差として、マナマコ一種の個体間の違いに過ぎないとされてきた(但し、市場にあっては「アカナマコ」が一番高く、以下、青緑色のグラデーションを呈する傾向を持つ「アオナマコ」(ここでいう「ナシコ」)、「クロコ」の順に値が安くなる)。しかし、ウィキの「マナマコ」の「分類学上の位置づけ」の経緯によれば、『俗に、赤~赤褐色系の休色をもつアカコ(「アカナマコ」・トラコ:以下、「アカ型」と記す)・青緑色を基調とするアオコ(「アオナマコ」:以下、「アオ型」と記す)・黒色の体色を呈するクロコ(「クロナマコ」:以下、「クロ型」と記す)と呼ばれる三つのタイプが区別され、「アカ」型は外洋性の岩礁や磯帯に生息し、一方で「アオ」型と「クロ」型とは、内湾性の砂泥底に棲むとされていた』。『これらの三型については、骨片の形質の相違をも根拠として Stichopus japonicus 以外に S. armata という別種を設ける見解』『もあり、あるいは S. japonicus var. typicus なる変種が記載』『されたり、S. armatus および S. roseus という二種に区別する意見』『も提出されたが、「生息場所の相違と成長段階の違いとによって生じた、同一種内での体色の変異』『であり、異なる色彩は保護色の役割を果たしている」として S. japonicus に統一されて』『以来、これを踏襲する形で、体色の異なる三つの型は Apostichopus japonicus(=Stichopus japonicus)の色彩変異とみなす考えが採用され、日本周辺海域に生息する「マナマコ」は唯一種であるとされていた』。『また、シトクロムcオキシダーゼサブユニット1および16S rRNAの解析結果から、これら三型を同一種の変異と結論づける見解が』、『再び』、『提出されている』。『しかし、「アカ」型は、薄桃色または淡赤褐色を地色とし、体背部は赤褐色または暗赤褐色の模様がまだらに配色されており、体腹部は例外なく赤色を呈する。一方で、「アオ」型は一般に暗青緑色を呈しているが、淡青緑色が優るものから黄茶褐色~暗茶褐色の変化がみられ、体腹部も体背部と同様な色調をとる。また「クロ」型は、全身黒色を呈し』、『体色の変異は認め難いとされている』。二『年間にわたる飼育結果では、相互の型の間に体色の移行は起こらなかったとの観察例もあ』り、さらに『アイソザイム』(Isozyme:酵素(enzyme)としての活性がほぼ同じであるにも拘わらず、タンパク質分子としてはアミノ酸配列が異なる別種である酵素を指す)『マーカーを用いた集団遺伝学的な検討結果をもとに、マナマコとされている種類は、「アカ」型と「アオ型・クロ型」の体色で区別される、遺伝的に異なった二つの集団から形成されているとの報告もなされている』。『さらに外部形態および骨片の形態による分類学的再検討の結果から、狭義のマナマコは「アオ型・クロ型」群であると定義されるとともにApostichopus armata の学名が当てられた』。『一方で「アカ」群には A. japonicus の学名が適用され、新たにアカナマコの和名が提唱された』。『mtDNA』(ミトコンドリアDVA)『のマイクロサテライト』(microsatellite:細胞核やオルガネラ(organelle:細胞小器官)のゲノム上に存在する反復配列、特に数塩基の単位配列の繰り返しからなるもの)『解析の結果からは、「アカ」型・「アオ」型・「クロ」型の三型は少なくとも単系統ではない』『とされ、中国および韓国産のマナマコを用いた解析でも、「アカ」型と「アオ」型とは独立した分類群とみなすべきであるとの結果』『が報じられている』。『「アオ」型や「クロ型」と比較して、「アカ」型は海水中の塩分濃度の変化や高水温に対する抵抗性が弱い』『とされ、広島県下においても、アカナマコの産額が多いところは音戸町や豊島のような陸水の影響がほとんどないと思われる場所に限られている』『など、生理・生態の面でも相違が認められている』。マナマコの『環状水管に附着している』一個(稀に二個)のポーリ嚢(Polian vesicle:水管系内の圧力調節や、管足が収縮した時に水管内から溢れ出た水を収容する機能、及び、全身の免疫。炎症反応に関与していると考えらえている器官)の『形態(一般に、「アカ」型では細長くて先端が突出しており、鈍円状を呈するものは少ないのに対し、「アオ」型のポーリ嚢の形態は太くて短かく、先端が鈍円状をなすものが多い)も、解剖学上の数少ない相違点のひとつになるとされている』。『また、「アカ」型・「アオ」型の間には、触手の棒状体骨片と体背部の櫓状体骨片においても若干の形態的相違点が認められる』。『すなわち、「アカ」型においては』、『触手の棒状体の骨片形態が複雑化し、これをさらに二つの型(骨片周囲に顕著な枝状突起をもち、細かい刺状突起を欠くタイプと、枝状突起とともに細かい刺状突起が骨片全体に密生しているタイプ)とに分けることができ』、『体壁の櫓状骨片の底部はほぼ円形で、縁部が幅広く、孔は不定形で角のない形状を呈し』、四本から二本の『柱からなる塔をもつ』『のに対し、「アオ」型の触手の棒状体骨片は全体的に形態が単純で、骨片周囲には小さい枝状突起が散在し、さらに骨片の両端部に限って細かい刺状突起をもっており』、一方、『体壁の櫓状骨片の底部の外形は不定形で、角部は突出し』、『角張り、縁部の幅は狭く、孔はほぼ円形を呈』する点で異なる(柱状の塔とその数は同じ)。『このほか、成熟卵の表面におけるゼラチン質の被膜(gelatinous coating)の有無も、両者を区別する根拠の一つであるとされている』。なお、『体表面がほぼ全体的に白色を呈する個体がまれに見出され、一般にはアルビノである』『とみなされている』が、『中国の膠州湾で得られた白色個体について、相補的DNAの遺伝子』『解析を試みた結果』『によれば、白色個体では、生体調節遺伝子や色素の合成・沈着を司る遺伝子に多くの欠落が生じているという』。『また、チロシンの代謝や分裂促進因子活性化タンパク質キナーゼ(MAPキナーゼ)経路を司りメラニンの生合成に関与する遺伝子として』十四『個が特定されたが、白色個体では、線維芽細胞増殖因子4(FGFR 4)やプロテインキナーゼA およびプロテインキナーゼCあるいはRas遺伝子などの表現活性は著しく小さい一方で、ホモゲンチジン酸-1,2-ジオキシゲナーゼやCREB、あるいは転写因子AP-1およびカルモジュリンなどの表現活性は顕著に亢進していたとされ、これらの遺伝子群の活性の大小が、マナマコの体色の発現に大きく影響していると推定されている』。『属レベルの所属としては、新種として記載されて以来、伝統的にシカクナマコ属(Stichopus:タイプ種はシカクナマコS. chloronotus)に置かれてきたが、タイプ種との触手や骨片の形態的な差異』『や、体内に含まれるサポニン配糖体の構造の違い』『を根拠として、新たにマナマコ属(Apostichopus)が設立された。マナマコ属は、設立当初にはマナマコのみを含む単型属』『であった』とある。近い将来、これら三タイプは別種として記載される可能性が高いように思われる。

「文化年間」一八〇四年~一八一四年。

「紀州日高郡由良」和歌山県日高郡由良町(ゆらちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「たて網」「建て網」。刺し網とも呼ぶ。沿岸域での漁法の一つで、帯状の網を魚介類の回遊する海底の通路附近に建てて固定したもの。「刺網」は仕掛けた網に魚が刺さったように絡まることによる。この場合は底刺し網で、海底に帯状の網を仕掛け、上に浮き、下に錘をつけて、垂直に網を張る。歴史の古い良漁法で、網の中では最も構造が簡単なもの。通常はタイ・ヒラメ・カレイ・イセエビなどを漁獲対象とする。

「天保七年」一八三六年。

「紀府」紀州藩藩庁和歌山城のあった現在の和歌山県和歌山市(グーグル・マップ・データ)。

「寧波府志」明の張時徹らの撰になる浙江省寧波府の地誌。「卷之十二 物產」の「介之屬」のここ(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本画像。前はPDFで当該巻を含む三巻分一冊。後はHTMLで一画面)に「沙噀」の項立てで出る。右頁四行目。されば、「沙噀腸」の「腸」は畔田のうっかり添えてしまった衍字と思われる。ナマコの形状を以下で「牛馬の膓臟」のようであると言っているのに引かれてしまったものであろうが、これは後に出る本邦の加工品としての「海鼠腸(このわた)」と酷似してしまい、その記載かと誤読してしまうので、よくない。されば、特異的に訂したのである。

「胖軟〔はんなん〕」ゆったりと肥えて柔らかいこと。

「水蟲」当初は前の形容からしてクラゲのことを意味しているものかと思ったが、現代中国語では「水虫」にはクラゲの意味はないようであるから、本邦と同じく、広義の水生の虫類、特にヒルのような蠕虫の謂いでとっておく。

「擁腫」これは広義の瘤(こぶ)或いは節・瘤の多い木。転じて無駄に大きくて無用のものを指すから、もとの体制状態に戻ることを言っている。

「沙盆」擂り鉢。

「涎腥〔ぜんせい〕」よだれ(ナマコの体表から浸潤する粘液など)と腥(なまぐさ)さ。

「五辣〔ごらつ〕」五辛(ごしん)と同義であろう。辛味や臭気の強い五種の野菜で、仏教では大蒜(にんにく)・韮(にら)・葱(ねぎ)・辣韮(らっきょう)・野蒜(のびる)を、道教では、韮・辣韮・大蒜・油菜(あぶらな)・胡荽(こすい:セリ目セリ科コエンドロ属コエンドロ Coriandrum sativum、則ち、「コリアンダー」(coriander)、中国語由来では「シャンツァイ」(香菜)、タイ語由来では「パクチー」)を指す)を指す(それぞれ、これを食べると情欲・憤怒を増進させてしまう「五葷(ごくん)」として酒とともに「不許葷酒入山門」(葷酒、山門に入るを許さず)として、寺内への持ち込みを禁じた)。

「閩小紀〔びんしやうき〕」閩は福建省地区の略で古名。明末から清初にかけての文人政治家周亮工(一六一二年~一六七二年:一六四〇年に進士及第し、濰県県令に任ぜられ。一六四四年には浙江道監察御史となったが、明朝が滅亡する。翌年には清朝に仕官し、戸部右侍郎まで昇進したが、鄭芝龍の事件に連座し、投獄された。後に赦され、再仕官し、一六六二年に官職を辞した。多くの著作を残したが、戦乱により、その大半は焼失している。蔵書家としても知られ、特に印章を好んだ)の随筆。「維基文庫」のこちらに全文が載る。当該条は以下。

   *

○土筍

予在閩常食土筍凍、味甚鮮異、但聞其生於海濱、形類蚯蚓、終不識作何狀、後閱「寧波志」、沙噀、塊然一物如牛馬腸髒、頭長可五六寸許、胖軟如水蟲、無首、無目、無皮骨、但能蠕動、觸之則縮小如桃栗、徐復臃腫、其涎腥、雜五辣煮之、脆美爲上味、乃知餘所食者、卽沙噀也。閩人誤呼爲筍云、予因有肥而無骨者、予以沙噀呼之、衆初不解、後睹此咸爲匿笑、沙噀性大寒、多食能令人暴下、謝在杭作泥筍、樂淸人呼爲沙蒜。

   *

但し、ここで周が述べている「土筍」(ドジュン)というのは、残念ながら、「沙噀」=ナマコではなく、環形動物門 Annelida の星口(ほしくち)動物 Sipuncula(嘗ては星口動物門Sipunculaとして独立させていた)の一種(複数種)で、中でも特に中国などで現在も好んで食用とされているのは、サメハダホシムシ綱サメハダホシムシ目サメハダホシムシ科サメハダホシムシ属(漢名:「土筍」或いは「可口革囊星蟲」)Phascolosoma esculenta である。この「閩小紀」の一節は、実はこの本「水族志」の後の「(二五一)」の「うみみゝず」に出てくるのであり私は実は既に「大和本草卷之十三 魚之下 むかでくじら (さて……正体は……読んでのお楽しみ!)」の注でそれを電子化しており、考証の末、以上に同定比定しているのである。

「山堂肆考〔さんだうしこう〕」明の彭大翼纂著・張幼学編輯になる類書(百科事典)。なお、この同書の引用、『「泥〔でい〕」あり。東海に出だす。純肉にして無骨、水中にて、則ち、活し、水を失へば、則ち、醉ふて泥のごとし。故に名づけて「泥」と曰ふ。杜詩に「先づ 一飮醉ふて泥のごとくなるを判ぜんや」と。又、砂噀と名づく』というのを凝っと見ていると、「泥」という通称からは、ナマコではなく、やはり前のサメハダホシムシではないかと深く疑ってしまっていることを言い添えておく。

「杜詩に『先拚一飮醉如泥』と」これは杜甫の以下の詩の一節。原詩は杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」のこちらのものを使用、訓読もこちらを参考にさせて戴いた。同リンク先には訳も載る。

   *

 將赴成都草堂途中有作、先寄嚴鄭公 五首之三

竹寒沙碧浣花溪

菱刺藤梢咫尺迷

過客徑須愁出入

居人不自解東西

書簽藥裹封蛛網

野店山橋送馬蹄

豈藉荒庭春草色

先判一飮醉如泥

  將に成都の草堂に赴かんとして、

  途中、作、有り。先づ、「嚴鄭公

  に寄す」五首 其の三

 竹寒く 沙 碧なり

 浣花溪 橘刺(きつし)

 藤梢(とうしよう)  咫尺(しせき)迷ふ

 過客は徑(ただ)ちに須(すべか)らく出入を愁ふるなるべし

 居人も自ら東西を解せず

 書籤(しよせん) 藥裹(やくか) 蛛網(しゆまう)封ず

 野店 山橋  馬蹄を送る

 豈に 荒庭の春草の色を藉(し)きて

 先づ 一飮 醉ふて泥のごとくなるを 判ぜんや

   *

リンク先で「判」に注して、『「拝」の俗字、或は「拚」に作るが』、『同意である』とされ、さらに、『楚の地方語で物を揮い棄てることを拝という』とされ、『唐時』代『の俗語としては「万事を放擲してその事をなすこと」を意味する』とある。

「○イリコ 海參〔いりこ〕」は既に述べたように、現在ではイワシ類などを塩水で茹でて干した煮干しのことを指すが、本来は、ナマコの腸を除去し、塩水で煮て、完全に乾燥させたものを言った。平城京跡から出土した木簡や「延喜式」に能登国の調(ちょう)として記されている。「延喜式」の同じ能登の調には後に出る「このわた」(海鼠の腸(はらわた)の醢(塩辛))や「くちこ」(海鼠の卵巣の干物)も載り、非常に古い時代からナマコの各種加工が行われていたことを示している。

「香祖筆記〔かうそひうき〕」清初期の文人・詩人の王士禛(ししん 一六三四年~一七一一年:本邦では詩人としては号の「王漁洋」で称されることが多いように思う。一六五八年に進士に登第し、揚州府司理から侍読、刑部尚書(法務大臣)に至った。文人としても頭角を現わし、二十四歳の時、済南府に於いて、土地の読書人らとともに「秋柳詩社」を結成、その折りに詠んだ詩「秋柳」は全国的に賛美者を生むに至り、以後、ほぼ同時代を生きた朱彝尊とともに「南朱北王」と併称された。一七〇四年、部下の疑獄事件に連座して官を辞め、のちに天子の恩赦によって再度、官途に就いたが、ほどなくして亡くなった。以上はウィキの「王士禛」に拠った)の考証随筆(詩論)集。引用は巻八(リンクは「維基文庫」)から。

   *

櫟園又云、『參皆益人、沙元苦參亦兼補、海參得名、亦以能溫補故也。生於土爲人參、生於水爲海參、故海參以遼海者爲良』。

   *

『「大和本草」に曰はく、『奥州金花山〔きんくわさん〕の海參は黃色なり。「キンコ」と云ふ。又、黃赤色なるも處々に生ず』と』「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」を参照されたい。全文を電子化注してある。芝蘭堂大槻玄澤(磐水)「仙臺 きんこの記」も併せてどうぞ。「奥州金花山」は金華山(グーグル・マップ・データ)で、宮城県石巻市の太平洋上に浮かぶ島の名である。

『「山海名産圖會」に曰はく、『奥州金花山に採れる物、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「キンコ」と云ふ』「日本山海名產圖會」の「卷之四」の「讃刕海鼠(さんしうなまこ)」のこちら(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該頁画像。前はPDF、後はHTML)の左頁九行目にある。無論、砂金を含んでいるわけではない。腸や生殖腺が黄金色(明るい黄色)を呈することに由来する名称である。金華山では嘗て砂金を産したことから、その精が化してこのキンコになったと信じられためでもある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のキンコのページを見られたい。珍しいが、マナマコほどには実は美味くないらしい(生体を見たことはあるが、未だ食す機会がない)。

「數百枚」各個体が小さいのである。

「活火」強火。

「鹹汁〔かんじふ〕」ナマコの体内の海水分。

「江東」関東。

「筑州」筑紫国。

「豐〔ぶ〕の前後」豊前国と豊後国。

「伊勢雜記」これは旗本で有職故実家・国学者であった伊勢貞丈(いせさだたけ 享保二(一七一七)年~天明四(一七八四)年)「貞丈雑記」のことであろうと勝手に思い、所持するそれを調べたところが、全巻を縦覧しても一向に見つからない。そこで彼の別な随筆「安斎随筆」(全三十二巻十冊。安斎は貞丈の号)を国立国会図書館デジタルコレクションで縦覧したところ、卷之八のここと、次のページにかけて見出せた(今泉定介編「故実叢書」内の伊勢貞丈「安齋隨筆」。明治三九(一九〇六)年吉川弘文館刊の活字本)。かなりカットされてあるので、以下に全体を示す。勝手流で訓読し、句読点その他を附した。

   *

タハラゴ【「タワラコ」とよむ。】 海鼠の乾したるなり。漢土の書には「海參」とあり、功能あるものなれば、人參にたとへて「海參」と云ふ。日本にては、昔より「海鼠」の二字を用ひ來れり。「和名抄」に、『崔禹錫が「食經」に云はく、海鼠似ㇾ蛭而大者也(和名古)』とあり。「コ」と云ふが本名なり。丸の儘にて乾したるを「熬鼠」と云ふなるべし。其の形、少し丸く少し細長く、米俵の形の如くなる故、タハラコと名付けて、正月の祝物に用ふる事、庖丁家の古書にあり。米俵は人の食を納る物にてメデタキ物故、タハラコと云ふ名を取りて祝に用ふるなり。刺し柿の如くして乾したるを「串海鼠」と云ふ。ナマなるを生海鼠と云ふ。後代、熬海鼠見及ばず。串海鼠をイリコともタハラコとも云ひて之れを用ふ。今の世、奥州より金海鼠といふ物出づる。奥州金華山の下の海より出る海鼠を乾したるなり。其の形、米俵に似たり。是、古の煎海鼠ともタハラゴとも云ひし製なるべし。然れども、名を金海鼠と云ふ故、熬海鼠とも云ふ事をしらず。金海鼠は生なる時より如此の形なりと思ふは非なり。常の海鼠の如く形長けれども熬海鼠に製する故、形、俵の如くなるなり。

   *

とある(「納る」は「をさむる」、「製」は製品に謂いであろう)。但し、貞丈はキンコの生体を見たことがないようで、キンコは生体でも、マナマコに比すと、概して丸く茄子のような形をしており(外側の色は地味な灰褐色が多いが、黄白色から濃い紫色まで個体によって色彩変異が大きい。別名に藤の花に似ている個体があり、「フジコ」(藤子)とも呼ぶ)、特に収縮した際は、事実、俵に似ている。なお、キンコはマナマコの近縁ではない。細かく示すと、

キンコは樹手亜綱 Dendrochirotacea 指手目 Dactylochirotida キンコ科 Cucumariidae キンコ属キンコ Cucumaria frondosa var. japonica

であるのに対し、

マナマコは楯手亜綱 Aspidochirotacea 楯手目 Aspidochirotida シカクナマコ科 Stichopodidaeマナマコ属Apostichopus

である。

「海島逸志」「海島逸誌」。清の王大海の博物誌的著作。一七九一年成立。引用部は原本(早稲田大学図書館の「古典総合データベース」のHTML画像)の「卷第四 海山拾遺」のここ

「棉絮〔めんじよ〕」木綿の綿毛(わたげ)。

「礬水〔ばんすい〕」白礬水。天然明礬(みょうばん:カリ明礬石から製する)を温水に溶

「愈、美なり」老婆心乍ら、これは無論、視覚美ではなく、深いところの海鼠がより美味いと言っているのである。

「刺參鳥縐」「刺參」は干しナマコのことで、「縐」は細かな皺のある織物を指す語で、「鳥」を鳥の羽のような形の意ととると、これは私には私の大好物のバチコ(撥子)=クチコ(口子)、ナマコの生殖巣のみを抽出して、軽く塩をし、干して乾物にした「干しクチコ」のことと思われてくる。形が三味線の撥に似るのが由来で、別に「コノコ」(海鼠子)とも呼ばれる。鮮烈な紅色の魅惑あるものである。小さい割に、目ん玉が飛び出るほど、高い。生を塩辛にした「生クチコ」もある。

「海錄」は清の楊炳南(ようへいなん)と謝清高の共著になる漢籍では非常に珍しい中国国外の地誌らしい。邦人の書写したものが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の中にあったが、第一巻の末尾に「呢咕叭當國」があり、「海參」の記載はあるものの、以下の引用の文字列を発見出来なかった。一巻目は二巻目の筆跡と異なっており、一巻目は途中で切れている可能性があるようにも思われる。

「呢咕叭當國」中文サイトの記載でやっと判明した。現在のインド洋のベンガル湾の東にあるニコバル諸島(グーグル・マップ・データ)である。言われて見ると、文字列の頭は確かに「ニコバ」と読める。

『海參、海石の上に生じ、其の下、肉盤、有り、盤中より、短き蒂〔へた〕を出だし、蒂の末、即ち、海參、生ず。或いは黑く、或いは赤く、各々、其の盤之の色に肖〔に〕る。豎〔じゆ〕、海水の中に立ち、潮に隨ひて、盤の邊りに搖動す。三面ありて、三つの鬚を生ず。各々、長さ數尺。水面に浮沈し、採る者は、鈎〔かぎ〕を以つて其の蒂を斷ち、撈〔すくひと〕り起こして、之を剖〔さ〕き其の穢〔よごれ〕を去り、煑熟〔にじゆく〕す。然かる後、火を以つて焙〔あぶ〕り乾す』この記載、訓読しながら「ワァお!」と叫びたくなるなかなかのトンデモもので、石の上に「盤」状の肉質が生じ、そこから短い「蔕〔へた〕」が生えてきて、その先に「海參」(ナマコ)が生じ、黒いナマコや赤いナマコは、そのもとの「肉盤」の色に基づく、なんどとあり、それこそその採取法(鉤を以って引っ掛けて引き起こして採る)という辺りを見ても、これはナマコではなく、ホヤ(老海鼠:本邦の代表的食用種は脊索動物門 Chordata 尾索動物亜門 Urochordata ホヤ綱 Ascidiacea マボヤ目 Pleurogona マボヤ亜目 Stolidobranchiata マボヤ(ピウラ)科 Pyuridae マボヤ属 Halocynthia マボヤ Halocynthia roretzi)との混同が激しく疑われる叙述と言える。

「閩海參〔びんかいさん〕」閩は福建省地区の略。古名。

「本草從新」清の一七五七年に呉儀洛によって著された臨床的本草書。全十八巻。記載生薬は七百二十種に及ぶ(分類法は「本草綱目」に準じている)。本書は初めて「冬虫夏草」を記載したことでも知られる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で原本が読める。「海參」はここから。

「閩小記」に曰はく、「維基文庫」のこちらによれば、原文は、

   *

○海參

閩中海參色獨白、類撐以竹簽、大如掌、與膠州遼海所出異、味亦澹劣、海上人復有以牛革僞爲之以愚人者、不足尙也。濰縣一醫語予云、參益人、沙玄苦參、性若異、然皆兼補、海參得名、亦以能溫補也。人以腎爲海,此種生北海鹹水中、色又黑、以滋腎水、求其類也。生於土者爲人參、生於水者爲海參、故海參以遼海產者爲良、人參像人、海參尤像男子勢、力不在參下、說亦近理。

   *

とある。「水族志」の撑」と「撐」は同義で「支えとなるもの」の意。

「撑〔ささへ〕の類ひとして、竹を以つて、簽〔しるし〕す」訓読に甚だ自信がない。一応、採取する者が、逃げて行かぬように、竹を何本か海底にナマコの体を刺し貫いて動けなくさせておき、標識としておく、の意で読んだのだが、突如、初めに漁法を出すのもヘンな感じはする。実は私は既に、栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」巻八よりとして「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」をサイトで電子化しているが、そこに栗本が引用しており、そこでは私は、

   *

閩中、海參、色、獨り白き類は、竹簽(ちくせん)を以つて撑(つ)けば、大きさ、堂のごとくなる。味、亦、淡にして劣たり。海上の人、復た、牛革を以つて譌り、之れを作る有り。

   *

と訓じているのである。畔田の返り点とは異なるが、「竹簽」は「竹串」の意となり、「撑」には別に「刺す・突く」の意があるので、そっちの方がいい。

「膠州の遼海」「膠州」は現在の山東省青島市膠州市。「遼海」はその前に広がっている黄海を一般名詞で呼んだものととる。実際、黄海の渤海辺り(山東半島及び遼東半島沿岸)で獲れた海鼠の乾燥品(学名とフレーズで調べて見ると、基本、原素材はマナマコである)を「遼海產」或いは「遼參」として中国では販売している。

「與〔あづか〕る」「主棲息地・主産地とする」の意で訓じたが、どうも座りは悪い。

「澹〔あは〕くして【「從新」は「淡」に作る。】」「澹」にも「淡」と同義があるので問題ない。

「牛革を以つて、僞〔いつは〕りて之れを爲〔つく〕り、以つて人を愚する有り。者は、尙ほ、足らざるなり」「者」はどうも座りが悪い。或いは係助詞で「は」と読もうと思ったが、文がだらつくので、かくした。この仰天の贋物(にせもの)の捏造「干しナマコ」(羊頭狗肉ならぬ海鼠頭牛皮)であるが、古くから知られていたもので、先の栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」巻八より「海鼠 附録 雨虎(海鹿)」にも、

   *

蘭山子「本艸從新」に載する所、「光參」に充つ。是れに非ず。其の書に云ふ、『刺有るは「刺參」と名づけ、刺無きは「光參」と名づく。』と。注に云ふ、『閩中、海參、色、獨り白き類は、竹簽を以つて撑けば、大きさ、堂のごとくなる。味、亦、淡にして劣たり。海上の人、復た、牛革を以つて譌り、之れを作る有り。』の語あり。此れ、卽ち、『八重山串子』と俗称するものにして、味、甚だ薄劣にして、下品のものなり。

   *

とあって、実は日本でも当時、「八重山串子(やえやまくしこ)」という名で知られていたことが判るのである(但し、ネットで「八重山串子」を検索しても、現認出来る日本語のサイトは私のものだけである)。考えて見ると、牛の皮は食には向かないし、薄いものは皮革にもならないから、ただ同然で手に入ったものかも知れない。

「刺參」中国及び本邦で広くナマコ類及びマナマコに当てる。現在も、である。

「光參」本邦では特に先に挙げたキンコに当てる。

「遼海參」前「膠州の遼海」で注した。

「コノワタ」「俵子(タハラコ)」「沙噀膓」ウィキの「このわた」を引く。『このわた(海鼠腸)は、ナマコの内臓の塩辛で』、『寒中に製した、また』、『腸の長いものが良品であるとされる。尾張徳川家が師崎』(もろざき:愛知県知多郡南知多町の先端に位置する港町。ここ。グーグル・マップ・データ)の「このわた」を『徳川将軍家に献上したことで知られ、ウニ、からすみ(ボラの卵巣)と並んで日本三大珍味の一つに数えられる』。『古くから能登半島』『・伊勢湾・三河湾が産地として知られてきたが、今日では、瀬戸内海など各地で製造されている』。語源は、「こ」(既に出したナマコの最も古い呼び名)+「の」(所有の格助詞)+ 「わた」(「腸」。「内臓」の意)である。『このわたを製造する場合には、体色が赤っぽい「アカナマコ」が重宝がられるという』。『まず、ナマコの体内を浄化するため、作業場近くの海に設けた生け簀で二日ほど』、『放置する。腸管内部の餌の残渣や糞がある程度』、『排泄されたころをみはからい、腹側の口に近い部分を小刀で』五~六センチメートルほど『裂き、逆さにして内部の体腔液を抜きつつ、切り口から指を入れて内臓を引き出す』『か、または脱腸器で内臓を抜き取る。抜き出した内蔵は、指先でしごいて』、『内部に残った砂を絞り出し、腸管・呼吸樹(「海鼠腸の二番」と称される)・生殖巣の三部位と、砂(砂泥)とに分別される。生殖巣は』「くちこ」(既に述べた)の『製造に』別に使用される。『なお、内臓を抜いたナマコは生食用または熬海鼠(いりこ:煮干し品)の製造に向けられ、生食用は海水を満たしたナイロンの袋に詰めて出荷される。熬海鼠用は釜に入れるまで、海水を満たした桶に保管しておく(ナマコの生態的な特徴からすぐに死ぬことはない)。解体時にナマコの切り口を小さくするのは、熬海鼠の品質を良くするためといわれている』。『解体と分別作業とが終わると、小盥に分けた内臓を海水でよく洗い、ザルに取って水気をきってから』、『一升舛で量り、別の盥に入れて重量比で』一割強、体積比では、内臓一升に対し、二~三合『の食塩を加えて混ぜ合わせ、桶または壺に貯蔵する』。二~三日で『塩漬けが完了して食用可能な状態となるため、箸などを用いて出荷用の容器へと取り分ける』。『おおまかに、ナマコ』百貫から内臓八升が『採取でき、内臓』一『升から』は、「このわた」七『合が製造できる』。『多量の水分を含み、軟らかい紐状をなすこのわたの流通用容器としては、ガラス瓶・竹筒・桶の』三『種類がある。ガラス瓶が使用されるようになったのは、昭和』四〇(一九六五)『年代以降のことであるが、清潔で容積に変化がないことから』百二十ミリリットル用の『小瓶が使われている。竹筒入りは細身の青竹を用いるが、内容積に変化があるため、使用する時は、このわたの本数を読んで詰めている。さらに、「オケ」と呼称されている小型の木製容器も用いられる』。『京都・大阪や金沢の方面では、竹筒入りのこのわたが求められる場合が多く、名古屋方面では桶入りのものを求める傾向があるという』。『ナマコの内臓はふつうは塩蔵品として市販されるが、生鮮品をそのまますすっても、三杯酢に浸して酢の物としても美味で、酒肴として喜ばれる。また、このわたに熱燗の酒をそそいだものは「このわた酒」と称される』。『「このわた汁」は、このわたをまな板の上で庖丁で叩いてから椀に入れ、ごく薄味に仕立てた汁を注いだもので、このわたの真の味を賞し得るという。また』、『味噌仕立てにもされ、三州味噌を庖丁で細かく切って水溶きし、鰹節と昆布とを加えて』三『時間ほど置き、裏ごしする。これを火にかけて味を調え、このわたを加えてさっと火を通して供する』。『このわたは、能登国の産物として平安時代の史料に登場する。室町~戦国時代には、能登の守護職を務めた畠山氏が、特産の水産物としてこのわたを納め、「海鼠腸桶」を足利将軍家や公卿・有力寺社などへ贈呈した歴史が知られている』。延長五(九二七)年)成立の「延喜式」には、『中央政府が能登国のみに課した貢納物の中に、熬海鼠に加えて』、『「海鼠腸」が挙げられている。能登の交易雑物に「海鼠腸一石」と記録されている点から、かなり量産されていたことがうかがわれる』(以下、「本朝食鑑」の記載があるが、誤った内容が書かれているので、現在、同ウィキの「ノート」に原筆者への修正要請を附しておいた。因みに私はアカデミストたちが嫌悪するウィキぺディアの、ライターの端くれである)。また、足利義政・義尚将軍期の政所代であった蜷川親元(永享五(一四三三)年~長享二(一四八八)年)の日記にも、『畠山義統』(よしむね)『より足利義政への進物として「海鼠腸百桶(只御進上)」との記述があり、また、日野富子へ向けて「このはた百桶」、義統の親元に向けて「このはた五十桶」が贈られたと記されている』。『塩辛である海鼠腸の特徴と、中世文献上に記述されている「桶」の数量から、海鼠腸桶は口径』六センチメートル未満(二寸相当)の『小型の曲物容器であった可能性が指摘されるとともに、福井県一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉館より大量に出土した小型曲物こそが、この「桶」であろうとの指摘がなされている』。室町時代の文政三(一八六三)年に『成立した「奉公覚悟之事」にも』、『このわたの記述があり、「このわたハ桶を取りあげてはしにてくふべし。是も一番よりハ如何。半に両度もくふべき也(下略)」』『との説明から、このわたが、片手で持ちうる大きさの「桶」に詰められていたであろうことが明らかであるという』。『江戸時代に、能登の名産品として、このわたを将軍家に献上した加賀藩前田家は、この中居』(石川県鳳珠(ほうす)郡穴水町(あなみずまち)字中居。グーグル・マップ・データ。七尾湾の北岸)『産の海鼠腸を御用品に定めることで、南湾の石崎町』(ここ。七尾湾南岸七尾市街からやや北西で、和倉温泉の直近。同前)『と同じく能登のナマコ生産を支配した』。『このため、現在でも七尾湾で水揚げされたナマコを加工している場所は、七尾市石崎町と鳳珠郡穴水町中居の二ヶ所だけである。石川県下におけるナマコ生産・加工に関する歴史も、前田氏が能登の支配を始めた江戸時代からと伝承されている』とある。

「攪〔かきまぜ〕て勻〔ひとしく〕して」「勻」は先に示したように底本では「勾」(かぎ・曲げる)であるが、これでは意味が通じない。「勻」には「均」の意、「等しい」の意があるから、攪拌して様態を均一にするの意でとった。]

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