北條九代記 卷第七 貞永式目を試む 付 關東飢饉
〇貞永式目を試む 付 關東飢饉
寛喜四年二月二十七日將軍賴經公、右近衞中將に補せられ給ふ。從三位は元の如し。同四月二日、改元ありて貞永と號す。同五月に、武藏守泰時、政道を專(もつぱら)にせらるゝ餘御成敗の式條を試み候べしと、日比、内々御沙汰あり。玄蕃允(げんばのじよう)康連(やすつら)に仰せ合せちれ、法橋圓全(ゑんぜん)を執筆(しゆひつ)として、五十ヶ條を定めらる。同七月十日、政道に私(わたくし)なき事を表して、評定衆十一人起請文連署し、相摸守時房、武藏守泰時、猶この起請文に判形を居(すゑ)られたり。今日より以後、訴論の是非、堅くこの法を守りて、裁許せらるべきの由、定めらる。是即ち古(いにしへ)、養老二年に、淡海公、既に律令を撰ぜられし、是に准ずべきものか。彼(かれ)は海内(かいだい)の龜鏡(ききやう)、是は関東の鴻寶(こうはう)なり。今に及びて天下國家の政務この式目に隨ふときんば、上に奉行頭人(とうにん)に私曲(しきよく)なく、下に論訴怨愁(そんををんしう)の人なし。腎讓廉義(じんじやうれんぎ)の軌範(きはん)、國家安泰の寶典(はうてん)なり。然るに去年、今歳、如何なる氣運に當りぬらん、打續き、大雨、大風、大地震、洪水、旱魃、火難、疫癘(えきれい)あらゆる天災地妖あり。この御祈(おんいのり)の爲(ため)、大法祕法を行はるゝに止む時なし。今年は猶飢饉災(ききんさい)の起りて、米穀湧貴(いうき)し、柴薪(さいしん)高直(かうぢき)にして、粟(ぞく)は玉を炊(かし)き、薪(たきぎ)は桂(かつら)を燒くといふ世になりて、人民百姓等(ら)、困窮する事、云ふ計(ばかり)なし。親に離れ、子を販(ひさ)ぎても、朝夕の煙(けぶり)、竈(かまど)に絶え、飲食の便居(たより)ながら失(うしな)うて、旅館の巷(ちまた)に袖を擴(ひろ)げ、高貴の門(かど)に食を乞うても、遂には、溝瀆(こうどく)に行倒(ゆきたふ)れて、餓死する者、道路に充てり。武藏守この有樣を聞き給ひて、胸を痛み、肝(きも)を爛(たゞらかし)し、貧弊飢凍(ひんへいきとう)の民を救はんとて、矢田〔の〕六郎左衞門尉に仰せて、八木九千餘斛(よこく)を借賑(かしにぎは)さる。當年の辨償、叶ふまじくは、來年の糺返(きうへん)を待ち給ふべき由、仰出されけり。美濃國高城西郡(たかきのにしごほり)大久禮(おほぐれ)より、上(かみ)千餘區の納貢(なふぐ)を停(とゞ)めらる。往返(わうへん)の流浪人(るらうにん)等(ら)には、粥を煮て賑(にぎは)し、緣者を尋ねて、行歸(ゆきか)ふ者には行程の日數(ひかず)を勘(かんが)へて、旅の粮米(らうまい)を與へられ、止住(しぢう)すべしと申す者は、その所の莊園に預置(あづけお)き給ふ。故に貧孤(ひんこ)の愁(うれへ)、少(すこし)は扶(たす)けられ奉りて、喜ぶ事、限(かぎり)なし。
[やぶちゃん注:前半部(頼経の昇叙(以下に注するように叙任は誤り)と泰時の貞永式目の公布)は「吾妻鏡」巻二十八の寛喜四(一二三二)年三月三日、貞永元(一二三二)年四月十四日及び五月十四日、七月十日、八月十日を、後半部(泰時による飢饉の窮民救済のための米・食料の施し)は同巻二十八の貞永元年十一月十三日の条に基づく。因みに寛喜四年は四月二日に貞永元年に改元されている。
「寛喜四年二月二十七日將軍賴經公、右近衞中將に補せられ給ふ。從三位は元の如し」誤り。「吾妻鏡」の同年三月三日の条に、『此間京都飛脚到著。持參去月廿七日御上階〔從三位。中將如元。〕聞書。』(此の間、京都の飛脚到著、去ぬる月廿七日、御上階〔從三位。中將、元のごとし。〕の聞書きを持參す。)で、従三位に昇格し、中将はもとのままである。因に、右近衛中将になったのは従四位上に昇叙した六年も前の嘉禄二(一二二六)年三月二十五日のことである。
「法橋圓全」現在の山口県湯梨浜町(旧東郷町)出身の御家人、東郷八郎左衛門尉原田良全なる人物の法号で、「御成敗式目」の原案執筆者であった(ネット上ではワード文書で彼について詳細な考証をなさった方の論文を読むことが出来る「原田良全と御成敗式目」で検索を掛けられたい。恐らく頭に関連した二篇が出るはずである)。
「養老二年」西暦七一八年。
「淡海公」藤原鎌足の次男藤原不比等(斉明天皇五(六五九)年~養老四(七二〇)年)。淡海公は国公(こっこう:在俗のままに没した臣下の者に限って漢風の諡号と官位同様の形式上の領主地名が附された。「淡海」は近江国。)。因みに諡号は文忠公で、臣下に贈られた諡号の嚆矢である。
「律令」養老律令。不比等は先行する大宝律令の編纂にも関与したとされ、その後にそれを修正した養老律令の編纂作業に取りかかったが、天平宝字元(七五七)年に施行される三十七年前に病死している。養老律令を実際に施行実施したのは彼の孫藤原仲麻呂であった。
「頭人」訴訟審理機関である引付衆の引付頭人。奉行の下で訴訟審理の実務に当たった首席官。
「彼は海内の龜鏡、是は関東の鴻寶なり」養老律令を海内(日本)のまことを鮮やかに写し出す鏡であり、式目は関東の大いなる宝である。
「湧貴」高騰。
「柴薪」柴や薪(たきぎ)などの燃料。
「高直」高値。
「粟は玉を炊き」粗末な粟(あわ)を炊くのにも大切に一粒零すことも出来ず、あたかも宝玉を炊いているかの如くに飢えて。
「薪は桂を燒く」ただの木端のような薪(たきぎ)でさえも、あたかも月にあるという伝説の霊木である月桂を燃やすかの如くに惜しんで。実際の桂の木(桂や別種の肉桂)では私は前の『玉』とバランスがとれないと思う。教育社の増淵勝一氏の訳では『高価な柱の木』と訳されているが(実際、私も原典の「桂」を「柱」に読み違えそうにはなったが)、別版本の原典画像を確認しても『桂(カツラ)』とあるので、これは失礼乍ら、話にならない。
「親に離れ、子を販ぎても」年老いた親を見捨てて野中や山に捨て去り、女子どもを女衒に売り払っても。
「旅館の巷に袖を擴げ」増淵氏はここを『そこで人生の旅の宿である町中でそでを広げて物を乞い』とされる。いい訳である。
「溝瀆」汚れた下水の溝。
「矢田六郎左衞門尉」不詳。「吾妻鏡」ではここにしか出ない名である。
「八木」「はちぼく」或いは「こめ」と読む。米のこと。「米」の字を分解すると「八」と「木」になるところから。
「九千餘斛」大化の改新で決められた一年に人が必要とする米一石(二・五俵、現在の約百五十キログラムで、これを生産出来る面積を一反とした)に換算すると、九千石は千三百五十トンに相当する。
「借賑さる」「賑わふ」は豊かにになる、富み栄えるであるから、貸し与えて豊かにさせた、の意。
「糺返」「ただしかへし」(或いは動詞形で「ただしかへす」)とも訓じ、相論の対象となったものについて、所有の正当性を糺明して原状に回復させることをいう。ここは、今年中に返せない場合は貸さずともよく、その本来の返納分を来年度に返済する(また借りた場合はそれに足して)のでもよいとしたのである。
・「美濃國高城西郡大久禮」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の当該条の注に、『岐阜県安八郡輪之内町。大樽庄で、旧下大樽村と下大樽新田が他村と合併して仁木村となり、再度合併して輪之内町となる』とある。安八郡は「あんぱちぐん」、輪之内町は「わのうちちょう」と読み、岐阜県西部。「輪之内」とは輪中の内の意である。
・「上千餘區の納貢」「上」は上納で後の「納貢」(後掲する「吾妻鏡」の「乃貢」に同じ。田畑の耕作者がその領主に対して貢納する租税。年貢)との畳語か? それとも「吾妻鏡」のここの原文(後掲)にある『以上』のように「高(たか)」などと同じく数値を示す数詞的接頭語か? 「區」については、増淵氏は田畑の単位面積「町」で訳しておられる。私もそれで採る。とすると千町は九百九十ヘクタールに相当する。
・「往返の流浪人」街道をあてどなく往ったり来たりする飢えた放浪者たちの群れを指す。後掲する「吾妻鏡」に見るように、これは前に続いて美濃国の杭株河(くいぜがわ)の宿駅(杭瀬川宿は現在の大垣市赤坂町にあった)での実景である。
・「緣者を尋ねて、行歸ふ者」辛うじて縁者を頼って他の国へと救いを求めて行こうとする難民。
・「旅の粮米」目的の縁者の方に辿り着くまでに最低必要な糧米。
・「止住すべしと申す者」もはや、動けず、何とかここで留まりたいと願い出た者。
以下、比較するに必要と思われる「吾妻鏡」同巻二十八の貞永元(一二三二)年十一月十三日の条のみを引いておく。
〇原文
十三日己未。依飢饉。可救貧弊民之由。武州被仰之間。矢田六郎左衞門尉既下行九千餘石米訖。而件輩今年無據于弁償之旨。又愁申之。可相待明年糺返之趣。重被仰矢田云々。凡去今年飢饉。武州被廻撫民術之餘。美濃國高城西郡大久礼以上千餘町之乃貢。被停進濟之儀。遣平出左衞門尉。春近兵衞尉等於當國。於株河驛。被施于往反浪人等。於尋緣邊上下向輩者。勘行程日數與旅粮。至稱可止住由之族者。預置于此庄園之間百姓被扶持之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十三日己未。飢饉に依つて、貧弊(ひんぺい)の民を救ふべきの由、武州、仰せらるるの間、矢田六郎左衞門尉、既に九千餘石の米を下行(げぎやう)し訖んぬ。而るに件(くだん)の輩(やから)、今年辨償據(よんどころ)無きの旨、又、之を愁へ申す。明年を相ひ待ちて糺返(きうへん)すべきの趣き、重ねて矢田に仰せらると云々。
凡そ去今年(こぞことし)の飢饉、武州、撫民(ぶみん)の術を廻(めぐ)らさるるの餘り、美濃國高城西郡(たかぎにしごほり)大久礼(おほくれ)、以上千餘町の乃貢進濟(なうぐしんせい)の儀を停められ、平出左衞門尉・春近兵衞尉等(ら)を當國に遣はし、株河(くひぜがは)驛に於いて、往反(わうへん)の浪人等(ら)に施さる。緣邊(えんぺん)を尋ぬる上下向(じやうげかう)の輩に於いては、行程の日數(ひかず)を勘(かんが)へて旅粮(りよらう)を與ふ。止住(しぢゆう)すべきの由を稱するの族(うから)に至りては、此の庄園の間、百姓に預け置き、之を扶持せらると云々。
・「下行」米などを下賜すること。
・「乃貢進濟」年貢の貢進を済ませること。
・「平出左衞門尉」不詳。「吾妻鏡」ではここにしか出ない名である。
・「春近兵衞尉」不詳。同前。因みに、かつて岐阜県山県郡に春近(はるちか)村があり、これはかつてこの地域に存在した春近荘という荘園の名に由来すると、ウィキの「春近村」にある。現在は岐阜市に編入されているともある。無論、この人物と関係があるかどうかは不明で、大久礼(岐阜県安八郡輪之内町)とはかなり地理的には離れている。しかし「春近」という姓は少し変わっているので一応、記しておく。]