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2015/04/03

耳嚢 巻之十 萩寺和尚頓才の事

 萩寺和尚頓才の事

 

 當奧平大膳太夫(だいぜんだいふ)は未(いまだ)幼年の由。本所邊野行(のゆき)に出て、辨當所(べんたうどころ)を家來相(あひ)しらべ、萩寺をかりて休まれし。大身(たいしん)の事故、謝禮もあつくあらんと、和尚も召仕(めしつか)ふものも前日より掃除等こゝろづけ、品々心を配りけるに、右家來厚く禮をのべて目錄など贈りしに、金百疋(ぴき)なりければ和尚もあきれ果(はて)けるが、頓才の和尚にて、一首の狂歌を短册にかき、大膳太夫目通(めどほ)りの節、不寄存(ぞんじよらず)御腰(おんこし)をかけられ誠に難有(ありがたき)旨を伸(のべ)、右につき腰折(こしをれ)つらね候迚、歸りの節直(ぢき)に手元へ出しければ、幼年の事故一覽にも不及(およばず)、懷中なして歸宅の後、和尚がかゝるものくれたりと、傍向(そばむき)のおとな成(なる)家士(かし)へ渡されしを、一覽の所、歌也(なり)。

  大膳が太夫くれると思ひしにたつた百疋おく平さま

とありければ大膳も大きに笑ひ、さるにても何ものがかく取計(とりはから)ひしと、尋有(たづねあり)ければ、家老其外承り、以(もつて)の外の不作意とて、其事取計ひし近習向(きんじゆむき)の家來は押込(おしこめ)を申付(まうしつけ)、さて萩寺へは銀五枚、使者にて贈りしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。岩波の長谷川氏注に、加藤曳尾庵(えいびあん)の「我衣」八に『文化十年末頃の記事の中にもあり』とある(「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年六月)。私は、この「我衣」を所持しないが、その原文を見れば以下の鈴木氏の疑問が氷解するように思われるのだが。

・「萩寺」底本の鈴木氏注に、『三村翁「萩寺は亀井戸の竜眼寺、天台宗なり。」』とある。竜眼寺は「りゅうげんじ」と読む。同寺公式サイトの「寺院紹介」によれば、創建は応永二(一三九五)年で良博大和尚が観世音の夢告により柳島辻堂の下に眠る観世音を祀ることで、当時、村に流行していた疾病を平癒させ、これを「慈雲山無量院柳源寺」と号した。その後、寺の湧き水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集め、「龍眼寺」と改名、江戸初期には住職が百種類もの萩を諸国から集めて境内に植えたことから、通称「萩寺」として多くの文人墨客が訪れ、「江戸名所図会」には萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれている、とある。

・「頓才」とっさの場合によく働く才能。気転のきくこと。頓智。頓智頓才という四字熟語もある。

・「當奧平大膳太夫」底本の鈴木氏注に、『豊前国中津城主。十万石。文化ごろの当主は昌高。島津重豪の二男で、奥平易男の養子となり、その女を室とした。天明六年嗣封、時に十二歳。文化元年には三十歳になるから幼主というのは当らない。幼少時代の話という意味であろう』とある。豊前中津藩は現在の大分県中津市周辺を領有した藩(初めの細川家の代は外様であったが次の小笠原家の代に譜代となった。奥平家はその次の代)で、癖大名の一人として知られる奥平昌高(おくだいらまさたか 天明元(一七八一)年~安政二(一八五五)年)は豊前中津藩第五代藩主。薩摩藩第八代藩主でやはり蘭癖大名として知られる島津重豪(しげひで)の次男で天明六(一七八六)年に急逝した中津藩主奥平昌男の末期養子として六歳で家督を継いでいる。彼はオランダ語を自在に操り、シーボルトらと熱心に交流、「フレデリック・ヘンドリック」というオランダ名まで持っていた(以上はウィキの「奥平昌高」に拠る)。なお、彼の後を継ぐ第六代藩主で父と同じく後に大膳大夫を名乗った奥平昌暢(まさのぶ 文化六(一八〇九)年一月二十五日~天保三(一八三二)年)は、この時、既に生まれている。彼は昌高の次男として江戸で生まれたが、長兄が早世していたため、生まれてすぐに世子となっている。但し、彼が父の隠居により家督を継いで大膳大夫に遷任したのはずっと後の文政八(一八二五)年五月六日のことではある(以上はウィキの「奥平昌暢」に拠った)。幼い知恵者であることからは蘭癖の昌高のエピソードとして相応しいようにも見えるが、とすると六歳当時とすると三十五年も前の話ということになってしまう。翻って、子の昌暢の話としてみるなら、文化十年当時満四歳でまた別な意味で相応しいようにも見えるが如何? そもそも文化一一(一八一四)年六月の「卷之十」の記載の推定下限に近い直近のホットな話がずっと続いてきた中で、これだけが三十五年も前の話というのは腑に落ちないという気が私にはするのである。なお、「大膳太夫」は「大膳大夫」が正しく、元は朝廷において臣下に対する饗膳を供する機関であった大膳職(だいぜんしき)の長官の称であった。

・「野行」弁当も食っているから日帰りの物見遊山、ピクニックの意であろう。

・「辨當所」「辨當」は本来は野外食であるが、ここは持参した昼食を摂る場所の意であろう。

・「百疋」千文=一貫文で、御用達の「江戸時代の諸物価(文化・文政期)」によれば、現在の二万五千円ほど。同リンク先によれば当時の旅籠(はたご)の一泊の宿賃が一人二百文(凡そ五千円相当)である。「大身」(身分の高い人。高位・高禄の人)であるから、これでは雀の涙ということなのであろう。和尚はこの御休憩所のために恐らくは一貫文以上の費用を出費していたのであろう。

・「伸」底本では右に『(述)』と訂正注がある。

・「腰折」第三句と第四句が上手く続いていない和歌のこと。下手糞な和歌で、ここでは自歌を謙遜して言ったもの。

・「つらね」「連(列)ぬ」で、言葉を並べて詩歌を作る、の意。

・「大膳が太夫くれると思ひしにたつた百疋おく平さま」「太夫」は「大膳大夫」と副詞で沢山の意の「大分(だいぶ)」を掛け、「おく平」は「百疋置く」と姓の「奥平」を掛けた狂歌である。

・「近習」「きんじふ(きんじゅう)」とも読む。主君のお側近くに仕える者。近侍。

・「押込」押籠と書く。ウィキの「押込」より引く。『中世から近世にかけての日本で行われた刑罰の一つ。主に武士・庶民に対して適用され、自宅(あるいは自室)などの前に戸を立てて閉鎖(いわゆる「座敷牢」)して、一定期間の昼夜の出入・通信を一切禁じて謹慎・幽閉させる措置を取ること』。『平安時代、検非違使において生命の危険性のある杖刑や笞刑の代わりに獄舎などに一定期間監禁する召禁と呼ばれる刑罰が行われるようになった。鎌倉時代の御成敗式目にも召禁・召籠という刑罰が喧嘩や悪口の罪に対して適用されている。中世中期以後には獄舎以外の建物で代行される事もあり、これを特に押込(押籠)と称した』。『江戸時代には自由刑の一種として比較的軽い罪の場合に適用された。江戸幕府の公事方御定書によれば、武士が主君から賜った宅地を質に入れて訴訟沙汰になったことが明らかになった場合や小規模な失火などに対して適用されて』おり、刑期は二十日・三十日・五十日・百日の四種が原則であったが、『場合によっては終身にわたる押込や逆に名目だけの謹慎に留まる場合もあった』。

・「銀五枚」ネット上のデータを見ると、銀一枚は四十三匁(もんめ)で約百六十一グラム、別データで金一両は銀六十匁で銭四千文とあって現在の銀一グラムを六十円として当時の銀地金の稀少度からは銀一グラムを七百五十円とする換算が示されてあったから(問題はその銀貨の銀の含有率で銀四十六%を含む元文銀一匁は千三百円とある)、やや乱暴ではあるがこれに当てはめると現在の六十万三千七百五十円相当となる。「金百疋」の凡そ二十四倍となる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 萩寺和尚頓才(とんさい)の事

 

 当代の奧平大膳大夫(だいぜんだいふ)殿は未だ幼年の由。

 本所辺りへ物見遊山に出でられたが、家来の者、弁当所(べんとうどころ)とすべき場所を事前に調べ、知られた萩寺を借りて、その御休息・御昼食の場とすることと相成って御座った。

 大身(たいしん)の御休息ということなれば、きっとこれ、その謝礼も厚くあろうものと、和尚も召し仕(つこ)うて御座った修行僧や下男なんども、これ、前日より補修やら掃除やらに殊の外気を遣い、細かなところまで気を配ってその日を迎えたが、いざ、来訪なされ、その御家来衆が厚く礼を述べた上、謝礼の品の目録など贈って参ったが、その謝金はこれ、

――たったの金百疋

で御座ったによって、和尚もあきれ果てて御座った。

 ところが、この和尚、これ、なかなかの頓才で御座って、即座に一首の狂歌を短冊に認(したた)め、御休息なされておられた大膳殿へお目通りの折りから、

「……思いも掛けませず――畏れ多き御腰(おんこし)を斯(か)かる茅舎に掛けられ――誠に有り難き幸せ……」

とかなんとか述べ連ねた上、

「……この目出度き折から――憚り乍ら――腰折(こしおれ)の一首をこれ――詠みまして御座いますればこそ――」

と、お帰りの折り、直かに御手元へ封じたる短冊を差し上げた。

 大膳殿は、これいまだ、幼年のことなれば、この短冊をその場にては一覧なさるることもなく、懐中になして帰宅なされた。

 ところがその日、お帰りにならるると、

「――今日参った寺の和尚が――このようなものを、呉れた。」

と、お傍(そば)の御用を司る、御家中にも長く勤めておられた御家来衆へお渡しになられた。

 そのものが、お断りを入れて、いざ、開き見てみれば、一首の狂歌がこれ記されて御座ったが、読んでみてその御家来、いや! これ! 顔が蒼ぅなった。しかも同時に、大膳大夫殿が、

「詠んでみよ。」

と命じられたによって、仕方のぅ、詠み上げたところが、その歌、

 

  大膳が太夫くれると思ひしにたつた百疋おく平さま

 

とあったによって、頑是ない大膳殿も、その意を知られて、大いにお笑いになられ、

「――それにしても何者が、今日のこと、これ取り計ろうたものか?」

と、大膳殿より御下問のあられたによって、御家老その外の者、これ直ちに承って、取り調べたところが、事実、百疋しか謝金を包まなんだことが分かり、御家老より、

「――これ! 以っての外の不祥事じゃっ!」

と、その物見遊山の儀を取り計ろうた近習方(きんじゅうがた)家来には押込(おしこめ)が申しつけられ、一方、萩寺へは即刻

――謝金銀五枚

使者によって贈られた、とのことで御座る。

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