耳嚢 巻之十 赤坂與力の妻亡靈の事
赤坂與力の妻亡靈の事
去る申年の事の由。馬屋に茶屋商賣のもの、深川へ用事ありて、夜に入り靈岸寺の前を通りしに、赤靑の陰火(いんくわ)二つ見へしがぱつと消(きえ)けれど、心丈夫成(なる)男故、右寺のはづれまで何心なく行(ゆき)しに、若き女の聲にて呼(よび)かけし故立戻(たちもど)りぬれば、我等は赤坂何某といへる與力(よりき)の妻なるが、病死に付(つき)、當寺へ葬送なしけるが、後妻を呼迎(よびむか)へ候處、右後妻甚(はなはだ)嫉妬つよく、依之(これによつて)此(この)ものも成佛成(じやうぶつな)りかね候間、何卒右の譯、夫(をつと)へ傳へ給り候樣申捨(まうしすて)、かき消(け)して失(うせ)ぬる故、夫(それ)なりと思ひけれども、傳へずば如何成(いかなる)事に逢(あは)んもしれずと、赤坂へんへ參りし折から右與力を尋(たづね)、家へ案内なし面會の儀申入(まうしいれ)けれど、終に知人にも無之(これなき)事故斷りけれど、強(しい)て申込(まうしこみ)ければ逢(あひ)ける故、しかじかの由かたりければ、かの與力こたへけるは、其後妻の儀は甚(はなはだ)嫉妬つよく、我等もこまり果(はて)候由にて、幽靈のつたへ忝(かたじけなし)と謝禮なし、則(すなはち)立(たち)わかれぬるが、其後又深川へ用事有(あり)て、夜に入(いり)、靈岸寺前を通りしに、此度(このたび)は陰火は見へず、呼(よび)かけ候もの有之(これある)ゆゑ立留(たちどま)り候處、彷彿(はうふつ)と女の姿あらはれ、先達(せんだつて)の事、言傳(いひつたへ)給(たまは)りし事のかたじけなさ、右後妻も相果(あひはて)、今は我身にさわりなく得脱(とくだつ)の身となりしと、禮をのべけるゆゑ、不思議の事に思ひ、彼(かの)與力のもとへ至りて承りしに、彼與力申(まうし)けるは、後妻も相果候(あひはてさふら)へ共(ども)一所に寺へ葬りなば事六ケ敷(むつかしき)と、里方の寺へ送りし由。右後婦(ごふ)は妬心(としん)の甚しきものにて、あるとき我等へ願ひありと言(いひ)し故、何事ぞと尋(たづね)し處、何卒先妻の位牌を我等に給(たまは)り候へと云(いふ)故、いか成(なる)事哉(や)と尋しに、強(しい)て申(まうす)故、心に可爲任(まかすべし)と等閑(なほざり)に答へければ、やがて右位牌を片蔭(かたかげ)へ持行(もちゆき)、薪割(まきわり)を以(もつて)微塵(みじん)に打碎(うちくだき)けるが、その程より煩ひ付(つき)て相果(あひはて)し、恐ろしき妬婦なりと、語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:二つ前の「狐仇をなせし事」と前の「古猫に被害し事」と、本格怪談が続き、これ以降も最後までの計六篇、これ総てが怪談である。最後の最後になって根岸殿、後世の怪談フリークに対し、サービスして呉れているようにも感じられる。
・「與力」今まで幾らも出ているが、終りに近い。再注しておく。諸奉行等に属し、治安維持と司法に関わった、現在の警察署長に相当する職名。
・「去る申年」「卷之十」の記載の推定下限は文化一一(一八一四)年甲戌(きのえいぬ)であるからこれは二年前の文化九年壬申(みずのえさる)の出来事である。
・「馬屋」底本には右に『(ママ)』注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『馬道(うまみち)』である。これならば浅草寺の東側をやや東に傾斜して南北に走る馬道通りである。これで訳した。
・「靈岸寺」本来なら「靈巖寺」が正しい(但し、東京都中央区東部の隅田川河口右岸の旧町名(現在の新川一、二丁目)として「霊岸島」――江戸初期には北の箱崎島(現在の日本橋箱崎町)とともに「江戸中島」と呼ばれたが、新川の開削により分離した――があり、この地名は霊巌寺に由来し、「霊巌島」とも書いたから、あながち誤りとも言えない)。現在の江東区白河にある浄土宗道本山東海院霊巌寺。ウィキの「霊巌寺」によれば、寛永元(一六二四)年に『雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなった』。明暦三(一六五七)年、『江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったとい』われ、翌万治元年に『幕府の防火対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した』。この寺には、第十一代『将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ』(但し、定信の没年は文政一二(一八二九)年であるから本話の頃には存命である。定信は根岸より二十七歳年下で、寛政五(一七九三)年に将軍輔佐・老中等御役御免となって、「卷之十」の記載の推定下限文化一一(一八一四)年六月当時は満五十五、白河藩主を隠居していたが、なお藩政の実権は握っていた)、『今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。また、境内には江戸六地蔵の第五番が安置されて』おり、幕末の江戸の七大火葬場(荼毘所)の一つであり、『境内除地に火屋があり火葬執行の責任者が置かれていた』とある。
・「赤靑の陰火二つ」「陰火」は墓地などで燃えるとする奇怪な青白い火で「狐火(きつねび)」とか「鬼火」と称するのだが、何故、「二つ」なのだろう? 妙に気になる。確かに芝居などでは一つの霊の出ずるに、その前兆としての火の玉は一つより二つ三つは出るようだ。これはどうも霊魂の個体数とは無縁なのだろうか? 少なくとも多くの場合は一種の霊出現の前兆として独立したもののようには見える。しかしここでは「赤」と「靑」でこの区別は何なのか?……確かに人魂の色は青白・橙・赤などと称されるのだが、この分離現象の意味はなんだ?……「耳嚢」の最後の最後に向って、つまらないことが気になる、僕の悪い癖……
■やぶちゃん現代語訳
赤坂与力の妻の亡霊の事
さる文化九年申年の出来事の由。
浅草馬道(うまみち)に茶屋商売を致いておる者が、深川へ用事のあって、夜になって霊厳寺の前を通ったところ、
――赤と青の火の玉が二つ
見えたかと思うと、
――パッ
と消えた。
されど、この男、なかなかの心丈夫な者であったによって、霊厳寺のはずれまで、どうという動揺も示さず、普通に辿って行ったところ、
「……もし……そちらの旦那さま……」
と、背後より若い女の声にて呼びかけて御座ったによって、踵(きびす)を返して少し立ち戻ったところ、一人の異様に影の薄い女が寺の前に浮かぶように佇んで御座った。
それでも男は、
「――何か御用で?」
と平然と問うたところ、
「……妾(わらわ)は赤坂の〇×と申す与力の妻にて御座います……が……お察しの通り……病いを得て相い果て……こちらのお寺へ葬送されたの御座いますが……その……残った夫は……これ……後妻を呼び迎えたので御座いまするが……この後妻……これ……はなはだ嫉妬深く……そのおぞましき妬心ゆえに……妾(わらわ)も……これこのように……成仏致しかぬるありさまにて御座います……何卒……この訳……妾(わらわ)が夫へお伝え下さいますよう……これ……お願い申し上げまする――」
と申したかと思うと、
――ふっ
とかき消え失せた。
男は、
「何じゃ?――そんなもん、これ、捨ておいてよいようなる他人事じゃ。」
と一度は呟いたものの、
「……待てよ。……これ伝言せずんば、これまた、どんなトバッチリに逢わんとも限らんぞ!……」
と思い直し、その後、たまたま赤坂辺りへ参った折り、かの〇×と申す与力が方を捜し回ったところ、これ確かにその名の与力が家のあったによって、訪れ面談致したき儀、これ申し入れてみたが、下男の者、
「――知れる御仁にもこれなきお方なれば面会の儀はこれお断り申す由にて御座います。――」
と告げた。
しかし、侠気(おとこぎ)のある男なれば、
『こうなっては引き下がれぬ!』
という気持ちの募り、
「――いや! これ、是非とも内々にお伝えしたき大事の御座いますれば!――どうか!」
と強いてきつぅに申し入れたところ、主(あるじ)の出でて、面会なした。
そこでかの霊厳寺門前でも一件をつぶさに語ったところ、その〇×と申す与力、これ、さっと顔色を変え、
「……そ、それは……我ら先妻は確かに先年病死致し、霊厳寺へ葬送なして御座る。……また……私事乍ら……その……後妻として迎えたる女は、これ……その……確かにはなはだ嫉妬の強く御座って……正直、我らも困り果てる始末にて……」
と告白なし、
「……その幽霊が伝言――これ、お伝え下さり忝(かたじけの)う御座った。」
と謝礼なした。
かくしてその場はたち別れて御座ったのだが、その後、この茶屋主人、また深川へ用事のあって、夜になって、またまた霊厳寺門前を通ったところが、この度は、おどろおどろしき陰火は現われることなく、またしても背後から呼びかけて御座った者のこれあったによて、立ち止まったところ、空中に、
――ほのかに透けるような
――朗らかな女の姿の現われ
「……先だってのこと、御伝言給わりしことの忝(かたじけな)さ、心より御礼申し上げまする。かの嫉妬深き後妻もこれ、相い果てまして、今は妾(わらわ)の身も一切の障りの失せて、無事、成仏出来る身となりまして御座います。ほんに。ありがとう存じまする。――」
と、礼を述べて、
――ふっ
と消えた。
されば、
「……何とも不思議なることじゃ。……『後妻も相い果て』?……」
と不審の生じたによって、翌日、かの与力が許へ至って再度面談なし、昨夜の不思議を語ったところが、聴き終えた与力、これ、一息、溜息をつくと、
「……確かに先日……後妻も相い果てて御座る。……その墓所で御座るか?……それは……先妻と一所の寺へ葬りなば、これまた、霊となっても難しきことの出来(しゅったい)せんかと存じ……夫婦(めおと)となったも短き間のことなれば、その後妻の里方の寺へと葬送なして御座った。……かの後添えはこれ、先般申し上げた通り、異様に妬心(としん)の激しき者にて御座っての。……実は先日のこと、我らへ、
『――お願いの儀御座います。――』
妙に色をなして申したによって、
『何事ぞ?』
と質したところ、
『――何卒――先妻の位牌をこれ我らに給わって下さいまし!』
と申したによって、
『……それは、いかなる訳か?』
と問うてみたれど、
『――ともかく!――給われッツ! 給われッツ! 給われッツ!』
と目を引き攣らせて申してきかぬ故、
『好きに致せ!』
と、いい加減に答えたところが、そのまま立ち上ると、仏壇のところへ駆け寄り――か先妻の位牌を取り上げ、庭へと降り立ち、その隅へと持ち参ったかと思うと、そこにあった薪割りを以って、
――パン! パパン!
と、これ、粉微塵(こなみじん)に打ち砕いて御座った。……
……その直後のことで御座る。……急に煩いつき、三日もせぬうち、相い果てて御座った。……既に死人(しびと)乍ら……恐ろしき妬婦(とふ)で御座った。……」
と、しみじみと語った――と申す。