志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅻ) / 「耳嚢」マイ・ブーム――延べ5年と213日――取り敢えず、大団円也!
一 寛政のはじめ白川侯の御補佐ありし頃、「道中宿驛の食賣女(めしうりをんな)を停止(ちやうじ)せらるべきや、いかにやあらん」とうちうちに評議ありしとき、翁道中の奉行たりしまゝ具(つぶさ)に宿驛のありさま書(かき)つらね、「食賣女といふもの旅人寢食の給仕をなし、よりては密通いたす事も、必(かならず)其主人の制しとゞくべきいきほひにもあらず。公家・武家のうるはしき旅中と事かはり、庶民の産業には一年のうちいく度となく旅中に在(あり)て、定(さだま)りたる家には更にすむ事なきものも少なからず。かの海上を家居(いへゐ)とせる大船の船頭なるもの、湊(みなと)にくゞつなるいへる女のあるが如し。これも又ひとつの世界ならん」よしをことわり申され、「其中に目立(めだち)たる花美(くわび)を盡し遊女屋にひとしき所業(しよぎやう)もあらんには、奉行より夫々(それぞれ)嚴重の沙汰にも及び候はん」との次第、誠意を盡したる趣(おもむき)言外にあふれたりし事のよし。さらば其掟(おきて)にまかすべき事に決斷有しよし。
嘉永四辛亥(かのとゐ)年八月廿八日發寫(はつしや)
同年十一月十七日寫畢(うつしをはんぬ)
瀧 口 廣 教
[やぶちゃん注:町奉行時代ではないが、これも実に胸の透く、名捌きである。私の「耳嚢」マイ・ブームのエンディングには、まっこと、相応しい話ではないか!――これを以って「耳嚢副言」は終了する。――2009年9月22日より今日まで(延べ2039日――5年と213日)の永きに亙り、翁と私とに御付き合い戴き、忝のぅ存ずる。――根岸鎭衞翁ともども――この場を借りて読者の方々に心より御礼申し上ぐる。……では、また……いつか……何処かで……【2015年4月23日記 藪野直史】
・「寛政のはじめ白川侯の御補佐ありし頃」「白河侯」は当時の老中首座松平定信。鎮衛は定信によって天明七(一七八七)年七月に佐渡奉行から勘定奉行に抜擢された。
・「食賣女」飯盛女(めしもりおんな)。宿場にいた奉公人という名目で半ば黙認されていた私娼。参照したウィキの「飯盛女」によれば、『その名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者』『も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけでは』なかった。また、今、時代劇でよく聴く「飯盛女」の名は俗称であって、享保三(一七一八)年以降の『幕府法令(触書)では「食売女」と表記されている』とある。十七世紀に各街道の『宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。もともと遊女を置いていたのを、幕府の規制をすり抜けるために飯盛女と称したという説がある。また、宿駅間の客入りの競争が激化し、下女が売春を行うようになったという説がある』。『当時、無償の公役や商売競争の激化により、宿駅は財政難であった。客集めの目玉として飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。一方、当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府だったが、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限のない拡大は未然に防いだ』。因みに、明和九・安永元(一七七二)年で千住宿や板橋宿には百五十人、品川宿には五百人、内藤新宿には二百五十人の制限をかけている。『また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用している。料理屋は博徒など無法者の集団が出入りし、犯罪の発生もしくは犯罪に関係する情報が集中しやすい。その一方で、目明かし(岡っ引)などが料理屋に出入りし、公権力との関わりをもっていた。この料理屋には飯盛女が雇用されていたが、これは公権力への貢献のために黙認されていたと考えられ』ている、とある。
・「翁道中の奉行たりし」道中奉行は五街道と、その付属街道に於ける宿場駅の取締りや公事訴訟・助郷(すけごう:諸街道の宿場の保護及び人足・馬の補充を目的として宿場周辺の村落に課した夫役)の監督及び道路・橋梁などを担当した。当時の役料は年間二百五十両であった(ここはウィキの「道中奉行」に拠る)。天明七(一七八七)年に勘定奉行(同年末に従五位下肥前守叙任)した鎮衛は、翌天明八年八月三日に道中奉行を兼任している。兼任当時、鎮衛は満五十一歳であった。
・「くゞつなるいへる」底本には「なる」の「る」右に編者長谷川強先生による『〔ど〕』と訂正注が打たれてある。
・「くゞつ」ここで根岸は、当時の廻船業などの長期に亙る船旅に従事した船乗りたちが、湊々で買った売春婦のことを彼らの符牒で「くぐつ」と呼んでいたと思わせる発言をしている。但し、これが事実かどうかは確認出来なかった。事実としてもなんらおかしくはない。「傀儡子」が例えば、民俗学的でしばしば謂われる海人(あま)族の末裔であったとすれば、各地の湊を行動のランドマークとしてことは想像に難くないからである。ただ、かくも長く付き合って参ると鎭衞翁の性質(たち)がよく分かってくるのであるが、しばしば翁は、相手が知らぬであろうことを以って、はったりをかまして少し退かせるという手法を用いられる。何となくこの期に至って、これもそうした翁の茶目っ気が出たもの――翁の知ったかぶり――ではなかろうか、という気がちょっとしているのである。以下、ウィキの「傀儡子」を引いておく。元来、『傀儡子(くぐつし、くぐつ、かいらいし)とは、木偶(木の人形)またはそれを操る部族のことで』、『当初は流浪の民や旅芸人のうち狩猟と傀儡(人形)を使った芸能を生業とした集団、後代になると旅回りの芸人の一座を指した語。傀儡師とも書く。また女性の場合は傀儡女(くぐつ
め)ともいう』。平安時代(九世紀)には『すでに存在し、散楽などをする集団として、それ以前からも連綿と続いていたとされる。平安期には雑芸を演じて盛んに各地を渡り歩いたが、中世以降、土着して農民化したほか、西宮などの神社の散所民(労務を提供する代わりに年貢が免除された浮浪生活者)となり、えびす舞(えびすまわし、えびすかき)などを演じて、のちの人形芝居の源流となった』。『平安時代には、狩も行っていたが諸国を旅し、芸能によって生計を営む集団になっていき、一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられた「日本で初めての職業芸能人」といわれている。操り人形の人形劇を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていた。呪術の要素も持ち女性は禊や祓いとして、客と閨をともにしたともいわれる。傀儡女は歌と売春を主業とし、遊女の一種だった』。『寺社に抱えられたことにより、一部は公家や武家に庇護された。後白河天皇は今様の主な歌い手であった傀儡女らに歌謡を習い、『梁塵秘抄』を遺したことで知られる。また、青墓宿の傀儡女、名曳(なびき)は貴族との交流を通じて『詞花和歌集』にその和歌が収録された』。『傀儡子らの芸は、のちに猿楽に昇華し、操り人形はからくりなどの人形芝居となり、江戸時代に説経節などの語り物や三味線と合体して人形浄瑠璃に発展し文楽となり』、『その他の芸は能楽(能、式三番、狂言)や歌舞伎へと発展していった。または、そのまま寺社の神事として剣舞や相撲などは、舞神楽として神職によって現在も伝承されている』。『寺社に抱えられなかった多くも、寺社との繋がりは強くなっていき、祭りや市の隆盛もあり、旅芸人や渡り芸人としての地位を確立していった。寺社との繋がりや禊や祓いとしての客との褥から、その後の渡り巫女(歩巫女、梓巫女、市子)として変化していき、そのまま剣舞や辻相撲や滑稽芸を行うもの、大神楽や舞神楽を行う芸人やそれらを客寄せとした街商(香具師・矢師)など現在の古典芸能や幾つかの古式床しい生業として現在も引き継がれている』とあり、また、『その源流の形態を色濃く残すものとして、サンカ(山窩)との繋がりを示唆する研究者もいる』
とし、白柳秀湖の、傀儡子というのは大陸のロマ族のような大道芸を生業とした被差別者集団が『中国・朝鮮などを経て渡来した漂泊の民族で』あったが、後に『時代が下り、その芸能を受け継いだ浮浪の』人々へと変容したもので、『民族的なものではない』という説、『その他に、「奈良時代の乞食者の後身であり、古代の漁労民・狩猟民である」とする林屋辰三郎説、「芸能を生地で中国人か西域人に学んだ朝鮮からの渡来人である」とする滝川政次郎説、「過重な課役に耐えかねて逃亡した逃散農民である」とする角田一郎説などがある』とする。また、応徳四・寛治元(一〇八七)年に大江匡房(まさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年:平安後期の学者。歌人赤染衛門は曾祖母に当たる。四歳で書を読み、八歳で「史記」や漢書に通じ、十一歳で詩を賦して神童と称せられた。十六歳の天喜四(一〇五六)年には文章得業生(もんじょうとくごうしょう:文章生〔大学寮で中国の詩文および歴史を学ぶ学科である文章道を専攻した学生〕の中から、成績優秀な者二名を選んで、官吏登用試験の最高段階である秀才・進士試験の受験候補者としたもの。)となり,学問料を支給されたが,これは菅原道真が十八歳で合格して評判になった例と比較しても異例に早い。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)によって書かれた「傀儡子記」(漢文体で三百二十字ほどの小品)を概説して、『当時の傀儡子たちがどのような生活様式をもち、どのように諸国を漂泊していたかがうかがわれる数少ない資料となっている。傀儡子集団は定まった家を持たず、テント生活をしながら水草を追って流れ歩き、北狄(蒙古人)の生活によく似ているとし、皆弓や馬ができて狩猟をし』
、二本の剣をお手玉にしたり、『七つの玉投げなどの芸、「魚竜蔓延(魚龍曼延)の戯」といった変幻の戯芸、木の人形を舞わす芸などを行っていたとある』。『魚龍曼延とは噴水芸のひとつで、舞台上に突然水が噴き上がり、その中を魚や竜などの面をつけた者が踊り回って観客を驚かせる出し物である』(後の太夫姿の女芸人による水芸のルーツ!)。『また、傀儡女に関しては、細く描いた眉、悲しんで泣いた顔に見える化粧、足が弱く歩きにくいふりをするために腰を曲げての歩行、虫歯が痛いような顔での作り笑い、朱と白粉の厚化粧などの様相で』、『歌を歌い淫楽をして男を誘うが、親や夫らが気にすることはなく、客から大金を得て、高価な装身具を持ち、労働もせず、支配も受けず安楽に暮らしていると述べ、東海道の美濃・三河・遠江の傀儡女がもっとも美しく、次いで山陽の播磨、山陰の但馬が続き、九州の傀儡女が最下等だと記す』。『なお、大江匡房は『遊女記』も著しており、「遊女」と「傀儡女」はどちらも売春を生業とするものの、区別して捉えていたとされる』と記す。……いや、これで我らが注嚢、これ、満腹で御座るよ……
・「嘉永四辛亥年」西暦一八五一年。因みに、翌々年の嘉永六(一八五三)年の六月三日(グレゴリオ暦七月八日にはアメリカの東インド艦隊ペリー提督が四隻の黒船を率いて浦賀沖に到着、翌月の七月十八日には、ロシア大使プチャーチンが開国通商を求めて長崎に来航、江戸幕府(老中首座阿部正弘)は朝廷を始め、外様大名や市井を含む諸侯有司に対しペリーの開国通商要求に対する対応策を下問、結果、品川砲台(お台場)の構築工事を開始(翌年完成)、翌嘉永七(一八五四)年の三月三日(グレゴリオ暦三月三十一日)には遂に日米和親条約が締結されている(ウィキの「嘉永」に拠る)。
・「嘉永四辛亥年八月廿八日發寫/同年十一月十七日寫畢」「發寫」は書写の起筆。同年八月は小、九月が大、十月が小の月であるから、この「耳嚢副言」全部の筆写には述べ四十六日を費やしていることが分かる(こんなつまらない注記をするのは恐らく私ぐらいなものだろう。最後の最後までやぶちゃん流に拘った注を附すことの出来て、実は内心、非常に嬉しい。私もライターの末席に参加しているウィキペディアには最もお世話になった。最後にこの場を借りて謝意を表する)。
・「瀧口廣教」不詳。「ひろのり」或いは「ひろゆき」か。識者の御教授を――最後に――乞う。
■やぶちゃん現代語訳
一 寛政の初め、翁が松平白川侯定信様の御補佐――勘定奉行に道中奉行を兼ね勤めておられたが――をなさっておられた頃、
「――街道道中宿駅の食売女(めしうりおんな)に就いて、これを停止(ちょうじ)せらるべきか否か?」
と、営中うちうちにて評議のあった折り、翁、道中奉行の就いておられたによって、具(つぶさに各所の宿駅の実態につき、手下の者を向かわせて子細に調査致いたものをしっかりとした文書に致いて披露の上、
「……以上、お示し申し上げた通り――食売女――と申す者、これは、旅人の寝食の給仕をなし、場合によっては密通など致すことのあるも、これ必ずしも、その旅籠屋主人の制止の行き届くようなる現状にては、これ、御座ない。公家や武家の、ゆったりのんびり致いた旅中とは、これ、さま変わり、庶民の生業(なりわい)の中には、一年の内、幾度となく旅中にあって、定まった一屋(ひとや)には一度として住んだことのない者も少なからず、……これは、かの海上を家居(いへい)とする大船(おおぶね)の船頭なる者らにとって、それぞれの湊(みなと)に――くぐつ――と称する女のあるが如きもの。……これもまた――一つの世界――と呼ぶべきものにて御座ろう。……」
との御自身の理(ことわり)の趣きにつき、これ、幕閣重臣の方々を前に、まっこと、正々堂々と申された上、
「――その中に、目立ったる華美を尽くし、最早、旅籠とは思われぬようなる――遊女屋に等しき所業(しょぎょう)をも成す不届き者のあったならば、これはもう、奉行より、それぞれの者に厳重なる沙汰にも及び申そうと存ずるが、如何(いかが)で御座ろう?」
との次第、誠意を尽くした簡潔なる主旨を述べ説かれ、また、その人情の温もり、これ、言外に溢れ出たものにて御座ったと申す。
されば、翁の申された、その掟(おきて)に任すがよい、との御決断の下された、とのことである。
嘉永四年辛亥(かのとい)年八月二十八日書写を始め
同年十一月十七日写し終える
瀧 口 廣 教]
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