日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 モース先生、進化論講話で寄付金を募り、銚子の遭難漁民への義捐金を渡せる事
日本へ来る船中で私は進化論に関する講演を二回やり、北米合衆国の汽船ペンサコラに救助されてサンフランシスコへ連れて来られた、十三人の日本の遭難漁夫のために、五十ドル以上を集めた。汽船の士官たちは、彼等の為に五十ドルを集め、彼等に衣服を与えた。ペンサコラという名のついた帽子をかぶって紺色の制服をつけた彼等は、まことに変な格好であった。我々は同船して来た日本の商人、田代氏と共に両替屋へ行き、私は私の金を日本の紙幣に替えて殆ど九十円を手にした。我々はそこで難破船の乗組達が、生れ故郷へ送り返されるのを待っている日本の旅館へ行った。田代氏は彼等の中の何人が家族を持っているかを確かめた。数学の大仕事をやった揚句、私は各人に三円、女房一人につき二円、子供一人につき一円ずつをやることが出来ることを算出した。彼等が示したうれしさと感謝の念とは、見ても気持がよかった。金額はすくないが、各人にとって、これは一ケ月の収入、あるいはそれ以上なのである。陶器をさがした結果、意外な状態を見た。以前、骨董屋には興味ある品物が一杯あったのだが、今はそれがすくなく、茶の湯が復活して、茶碗、茶人その他の道具が再び使用されるようになったので、茶入は殊にすくなくなった。加之(しかのみならず)、英国とフランスとで日本陶器の蒐集が大流行を来たし、また米国でも少数の人が日本の陶器の魅力に注目し始め、美術博物館さえがこれ等を鑑識し出した。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、五月十六日にサンフランシスコを「シティ・オブ・ペキン」号で出帆したが、『たまたま、この船には前年夏に遭難した銚子の漁民一三名が同船していた。彼らは一五日間の漂流の末にアメリカの船に救われたが、その船の目的地チリは日本との国交がまだ無かったので、アメリカ領事の世話でチリからアメリカの軍艦を何度か乗り継いでサンフランシスコにたどりつき、帰国できることになったのである。モースは彼らの苦労と窮状に同乗して、船内で進化論の講演を三回開いて見舞金を集め、計八一円という漁民にとっては大金を贈っている』とある。(モースは講演会の回数を二回と述べているが、磯野先生のそれは『東京横浜毎日新聞』及び『時事新報』の複数の情報によるもので、恐らくモースの勘違いで三回が正しいものと思われる)。
「北米合衆国の汽船ペンサコラ」原文“the United States steamer Pensacola”。磯野先生の叙述から、これは軍艦であったことが分かるので、これは後の太平洋戦争で活躍したアメリカ海軍重巡洋艦ペンサコーラ(USS Pensacola, CL/CA-24)の前身と思われる。ウィキの「ペンサコーラ(重巡洋艦)」を読むと、こ『の名を持つ艦としては3隻目』とある。恐らくはその一隻目ではなかったろうか? 艦名は「海軍航空のゆりかご」と称されるペンサコーラ海軍航空基地を初めとする海軍関連施設を古くから多数抱えるフロリダ州北西端にある軍事港湾都市ペンサコーラに因んで命名されたものである。
「同船して来た日本の商人、田代氏」不詳。この当時の貿易商で田代姓の人物は複数確認出来るが、モースの謂いからは、この時、アメリカに滞在していた人物ということになり、そうした条件をクリアー出来る人物を同定し得なかった。識者の御教授を乞うものである。]
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