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2015/04/09

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅱ)

一 ある人肥州え殿中にて申(まうし)けるは、「我等方え内緣有(あり)て出入する誰といへるもの、今度ケ樣ケ樣(かやうかやう)の公事(くじ)にて、其御役所え出て願へる事ども、とかく吟味方(かた)與力何某掛りにて取扱(とりあつかふ)處、相手方の申分(まうしぶん)のみ取上(とりあ)げ、此方(こちら)より申立(まうしたつ)る事は一向取上げなくて始終皆皆先方勝利の樣に取捌(とりさば)き候よし。右之通(とほり)にては理も非の樣に成行(なりゆ)くべく間、何卒よくよく申(まうし)條を正道に計(はから)ひ呉れ候樣御聲(おこゑ)掛(かけ)られたらんには嘸(さぞ)かし喜ぶべし。非を理に曲(まげ)てと申(まうす)にてはなく、とかくは明白の處我等に於ても賴み入(いり)候」と、折入(をりいつ)て厚く物語しければ、肥州答(こたへ)て、「至極尤(もつとも)なり。よくよく與力共(ども)え申(まうし)含むべし。さてさて夫(それ)は不埒の事なり。隨分と辭を掛(かけ)申(まうす)べき也(なり)。しかしながら諸組(しよぐみ)の與力共(ども)とは違ひ、町與力と申(まうす)ものは少々づゝは申分(まうしぶ)んあるものなれば、此後とても左樣の事はすこしは目長(めなが)に見ねば却(かへつ)て勤まらぬ事もある也(なり)。負(まけ)そふな公事は誰々も相手方を依怙贔屓(えこひいき)する樣に申(まうし)なすものにて候ぞ」との挨拶せしと也。

[やぶちゃん注:

・「公事」「耳嚢」では、今までこの江戸時代の民事訴訟のシステムについて纏めて注を示したことがなかったことに気づいた。ここではウィキの「公事」の、「民事訴訟に関する公事」を引用しておきたい。『江戸時代においては吟味筋と称した刑事事件に対して、出入筋と呼ばれる民事事件があり、出入筋に関する訴訟、すなわち民事訴訟を指して「公事」あるいは公事出入・出入物と称した。ただし、実際には内済・相対』(大雑把に言えば「内済」はそれぞれ現在の民事訴訟に於ける「和解」、「相対」は「示談」に相当。なお、現行では示談は話し合いで決めることで、民事上の紛争を裁判によらず当事者間で解決することを指し、和解は民事上の紛争を当事者が互いに譲歩して争いをやめる契約。互いに譲歩した示談は和解ともあり、明確な境界域はないようだ。裁判所で成立した和解は調書に記載されると確定判決と同じ効力を持つ)『で解決される場合においても必要な手続を「公事出入」と称するため、注意を要する』。『公事には大きく分けて本公事(ほんくじ)と金公事(かねくじ)、仲間事の』三つに『分けることが出来、訴状が受理された後に審理にあたる奉行・代官がそのいずれにあたるかを判断した。本公事とは家督や土地、境界、姦通(現行犯を除く)、小作、奉公人関係など権利関係の争いを指し、金公事とは金利利息の付いた金銭貸借及び預金・質権訴訟を指した。仲間事は『公事方御定書』に「連判証文有之諸請負徳用割合請取候定・芝居木戸銭・無尽金」と定義されているように共同事業・無尽・芝居木戸銭・遊女揚代など仲間内部における利益分配を巡る訴訟を指した。もっともこの区別は幕府法によるもので、藩によって公事銘の区分や呼称に違いがあったし、幕府法においても時代とともに公事銘(事件類型)の移動』(本公事と金公事の扱いの移動)『が生じた。なお、公事の訴訟は寺社奉行・町奉行・勘定奉行並び輩下の代官が行ったが、他奉行の支配地域や他領の者との訴訟、私領間の訴訟は江戸幕府評定所が行った。本公事は公益的要素も含むために原則的において幕府によって訴訟を受理されたが、金公事は必ずしも受理されるとは限らなかった。これは儒教的な封建社会において金利を伴う取引が卑しまれた事に加え、こうした取引は相互信頼に基づくものであり本来は内部で解決されるべき問題であると考えられたからである。そして、仲間事に至っては当事者間の強い信頼関係上に成立しかつ内容自体も収益性が強く反封建的・反道徳的なものであり、紛争が生じても仲間内の責任問題であるとして訴訟の受付は行われなかった。更に当時の日本の法思想では行政権と司法権の分離は行われておらず(例えば、町奉行は江戸の行政・司法の両方の権限を有する)、却って刑事事件である吟味筋の吟味を通じた治安の確保こそが行政行為の中核と捉えられていた。更に前述のように共同体の自治に基づく内済・相対による解決を良しとする伝統的な思想があり、民衆が訴えを起こす際には原告による訴状に名主の奥印が押されていること、他領にまたがる訴訟の場合には領主による添状(大名)・添簡(旗本)の添付がない場合には書類不備を理由に却下されるなど、訴状を受理されるまでに壁が存在していた。また、子が親を訴えることや従者が主人を訴えること自体が犯罪とみなされていた。更に奉行・代官も訴訟を受けても積極的な審理を行わずに、特に金公事に関しては町役人・村役人とともに訴人に対しては訴えの取り下げと内済・相対など当事者間の話し合いによって解決させる事(実際の訴訟に至らしめないこと)を基本方針としていた。従って、公事(特に金公事)の増加によって吟味筋の吟味が滞ることは重大な問題と捉えられ、町奉行所が金公事の受付そのものを拒否する相対済令』(「あいたいすましれい」と読む。金公事は取り上げとせず当事間で相対(示談)にすることを命ずる法令。寛文元(一六六一)年を最初に数度に亙って発令されているが、但し、これはここにあるような民事訴訟増加による刑事訴訟停滞への対処の外、旗本層の救済の徳政令のような目的もあったらしいことがウィキの「相対済令」で分かる。それによると将軍吉宗が享保四(一七一九)年に出した相対済令は金公事を永年に亙って取り上げないことを宣したものであったという。但し、利息を伴わない金公事や宗教目的による祠堂銭(名目金)、相対済令を悪用した借金の踏み倒し行為は例外とされ、この法令自体は後に廃止されたとある)『などがしばしば出された。相対済令によって公事の訴権を奪われた人々は泣き寝入りする他無かった。更に、実際の訴訟手続において法手続きに通じた公事宿・公事師と呼ばれる仲介人なくしては、内済・相対の合意や裁判の遂行は不可能であった。公事宿は奉行所の公認を受けて公事(訴訟)のために遠方から来た者を宿泊させる施設で、公事師は公事(訴訟)や内済の手続代行などを行った非公認の業者である。だが、公事宿の経営者の中には公事師と同様の業務を行ったり、公事師の斡旋業を行ったりする者もおり、実態としては大きな違いはなかった。だが、そうした公事宿・公事師の中には悪質な者も存在しており、そうした公事宿・公事師に騙されて却って財産を失うケースも頻発して人々を苦しめた』とある。

・「與力」既に何度も注しているが、訴訟との関係の透明性を図るために、ウィキの「与力」の「江戸の与力」の箇所を引いておく。『江戸における与力は、同心とともに配属され、上官の補佐にあたった。そのなかで有名なものは、町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。南町・北町奉行所に』各二十五騎の『与力が配置されていた(与力は馬上が許されたため馬も込みで単位は「騎」)』。『与力には、町奉行直属の個人的な家臣である内与力と、奉行所に所属する官吏としての通常の与力の』二種類があった。『内与力は陪臣であるため他の与力より格も禄高も低かったが、奉行の側近として権力自体はむしろ大きいケースもあった。警察に限って言うなら現在の警察署長級(ただし、現在の警察署長のように各与力ごとに管轄区域が存在したわけではない)、司法員としては民事・刑事裁判ともに詮議担当もしたので裁判官的側面、また行政面において行政官として配下の同心を指揮・監督する管理職的側面も存在した』。与力は役宅として三百坪程度の『屋敷が与えられた。また、もめごとがおこったときに便宜を図ってくれるように諸大名家や町家などからの付け届けが多く、裕福な家も多かった。特権として、毎朝、湯屋の女風呂に入ることができ(当時の女人には朝風呂の習慣がなかったため空いており、男湯の密談を盗聴するのに適していた。また、女湯に刀掛けがあることは八丁堀の七不思議と呼ばれた。)、屋敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。粋な身なりで人気があり、与力・力士・火消の頭を「江戸の三男」と称した』。『町与力組頭クラスは二百数十石を給付されて下級旗本の待遇を凌いだ。ただし、罪人を扱うことから不浄役人とされ、将軍に謁見することや、江戸城に登城することは許されなかった。したがって身分上は御家人である』とある。

・「組與力」これは番方(広義には交替で雑務や幕営の警備・将軍身辺の護衛を勤める者の意で大番組・小姓番組・書院番組などがあった)に配された与力のことを指している。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 ある人が肥前守殿へ、殿中に於いて申されたことに、

「……実は我らが方へ内輪の縁によって出入致す●●と申す者のおるが、この度、かくかくしかじかの公事(くじ)にて、貴殿の奉行所へ願い出でて訴えたる件のことどもにつき……その、吟味方(がた)の与力――これ、〇〇と申すらしいが――その者が件(くだん)の公事をこれ取り扱(あつこ)うておると申すが、この与力、相手方の申し分のみを取り上げ、我らが方の●●より申し立てたる事は、これ、一向、取上げずに、始終、これ皆々先方の勝利致すがようなる方にばかり取り捌いておるとのことじゃ。……さても、その通りとなってはこれ、理も非の如く、とんでもなきありさまに成る行くようなる仕儀なればこそ、何卒、よくよく、その〇〇なる者に、最初に訴え出でたる●●の申し状を正道に即し計らい呉(く)るるよう、貴殿よりお声、これ、かけられたらんには、●●もこれ、さぞかし喜ぶことであろう。……いや、間違って貰(もろ)うては困るが、これは――非を理に枉(ま)げて――申しておるのにては、御座ない。――ともかくも、その訴訟の一件はこれ、●●の申し条の明白なれば、の。……一つ、我らよりも頼み入って御座る。……」

と、おりいって見た目、慇懃には物語して参ったと申す。

 すると、肥前守殿、答えるに、

「――それは至極もっとものなることにて御座る! よくよく配下の与力どもへ申し含めんと存ずる!――さてさて! それは実(げ)にも不埒千万の事で御座るの! これはまず、随分と、注意致すよう、言葉をかけ、申し含めようと存ずる。……しかしながら……諸組(しょぐみ)の与力どもとは異なり、これ、町与力と申す者どもには――それぞれ己(おの)が町与力という目線から見えて参る真実(まこと)もあって――幾分ながら、それぞれの思いや仕方に申し分のあるものにては御座ればのぅ。――この先も、さようの事については、我らも少し長い目にて見てやらんことには――これ、かえって町奉行という職務の――勤まらぬ――という一面も、これ、御座るでの。……そもそもが、負けそうな公事と申すは、これ誰でも、相手方を指しては――依怙贔屓(えこひいき)致いておる!――なんどと申しなすものにて御座る。――」

ときっぱりと挨拶致いた、とのことで御座った。]

 

一 湯呑所(ゆのみどころ)のもの野口政之助といへるが、内緣の町人あり。金子を借りたる處、返金段々延引に及(および)し程に貸方より願出(ねがひで)て吟味と成(なり)、かへすべきよし嚴しく與力申渡(まうしわた)し實々(まことまこと)難儀しければ、政之助御勘定所にてひそかに右等(とう)の譯合(わけあひ)を歎き、「御取立(おとりたて)嚴(きびし)ければ身上(しんしやう)仕舞(しまひ)候間、何卒緩やかに取呉(とりくれ)候樣に先方え御利害下され候樣に」と、打明(うちあけ)て内々肥州え願ひければ、「一體借りた物なら早く歸すがよいに」との事に付(つき)、「さればその處にて、隨分返し度(たく)は候得(さふらえ)ども、色々不仕合(ふしあはせ)にてもの入(いり)多く、夫(それ)故畢竟(ひつきやう)遲延に成(なり)候。何分ゆるやかに勘辨致し呉れ候樣偏(ひとへ)にねがひたてまつる。渠(かれ)は私(わたくし)内實(ないじつ)は姉聟(あねむこ)に候」抔と願ひ申(まうし)ければ、肥州申けるは、「よくよく心得たり。隨分宥免(いうめん)する樣に申渡(まうしわた)し呉(くれ)ん」との挨拶ゆゑ、政之助内心に、「先先(まづまづ)説きおはせたり」と大(おほき)に喜びて居(をり)たりける處、さてその日、はや諸役人退出の刻限と成(なり)、肥前守にも御勘定所の口を出る時、政之助格別に御時宜(おじぎ)抔しける處、肥州聲をかけて、「これこれ政之助、先刻の事隨分心得ては居れど、をれも年寄たる事にて、とかう近頃はものわすれをしてならぬ程に、若(もし)忘れたらば堪忍しろよ」といふて退散せしが、其後此公事一向取上(とりあ)げず、わすれた振(ふり)にてなにの沙汰もなして、政之助が申(なすし)たる事は反古(ほぐ)に成(なり)しと、政二助予に語りぬ。是等はむかし板倉伊賀守のおもかげ共(とも)いふべし、面白し。

[やぶちゃん注:まず一読、「一體借りた物なら早く歸すがよいに」「これこれ政之助、先刻の事隨分心得ては居れど、をれも年寄たる事にて、とかう近頃はものわすれをしてならぬ程に、若忘れたらば堪忍しろよ」という当時の口語、根岸の人としての温もりの直かに伝わってくる直接話法がすこぶる魅力的ではないか!

 さて、舞台が勘定所で、鎮衛が自ら「年寄」と言っているところから考えると、天明七(一七八七)年七月(当時満五十歳)に佐渡奉行から勘定奉行に転じ、寛政一〇(一七九八)年十一月(満六十一歳)に南町奉行になるまでの間のエピソードか(この年齢なら当時は立派な「年寄り」)。しかし、これ、町人の金(かね)公事で勘定奉行が評定所で裁決する事案ではなく、通例は町奉行の管轄である。但し、町奉行は江戸市中に限られており、その訴人がその管轄外にあったり、相手がやはり管轄外の正規の武士階級(浪人は町人扱い)であったなどなどの可能性はあり、その場合は公事方勘定奉行の扱い案件となった。ということは、この場合、その管轄外の事例であったか、或いは勘定奉行の職権で町奉行に政之助の一件につき、訴えを拒否するように指嗾(しそう)したか、の二つしかないことになる。しかし、根岸の性格から言って、後者は考えられないから、やっぱり勘定奉行として最終的に処理した案件なのであろう。ただ、正直言うと、この政二助が理斎に語っているのは、如何にも亡き鎮衛を思い出してという気がし、そうすると舞台は彼が最後に勤めた南町奉行所のようについ私は錯覚してしまうといういうことも序でに告白しておく。しかしはっきりと「奉行所」ではなく「勘定所」(話柄からほぼ確実に政之助の勤務先もそこである。次の注も参照されたい)と言っているし、後半の印象的な描写では、そこがこの当時の鎮衛の正規の勤務地であるように描かれている。評定所は江戸城本丸内の御殿勘定所と大手門内の下勘定所の二箇所があり、南町奉行所は現在のJR有楽町駅中央口附近にあって全く別な場所である。どうも時期を特定し難い。……しかし何より……この夕方の評定所の前の二人のシークエンスのリアリズム!――これ! 撮ってみたいなぁ!……

・「湯呑所」調べて見ると、勘定所の休憩室のようなものとして勘定所湯呑所(江戸城本丸内の御殿勘定所と大手門内の下勘定所の二箇所があった)というのがあり、そこで用務を行う者を勘定所湯呑所之者と称するとあった。退社の際の政之助とのやりとりなどから見て、これは大手門内の下勘定所の方であろう。

・「渠は私内實は姉聟に候」金を借りて返さぬと訴えた相手は実は私の姉の婿である、という意で採った。前に注した通り、これは近親間の金公事であり、公事で訴訟自体が受理されないことが多かったタイプの事例であることが推測される。しかも、どうみてもたいした金額とは思われない。それこそ根岸にしてみれば「相対済(あいたいすま)し」にすべき事案であり、また永年馴染みであったお茶汲みの男の懇請でもあってみれば、この根岸のトンデモほったらかしの名――基――迷裁き――と相い成ったものと考えると、これ、如何にも私は腑に落ちるのであるが、如何?

・「なして」底本には右に編者による『(ママ)』注記がある。

・「板倉伊賀守」江戸初期の名奉行として伝説的な板倉勝重(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)。ウィキの「板倉勝重」によれば、江戸の世にあっては、『優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行と言えば誰もが勝重を連想した』とある。『板倉好重の次男として三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。ところが』永禄四(一五六一)年に『父の好重が深溝松平家の松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟の定重も』天正九(一五八一)年に『高天神城の戦いで戦死したため、徳川家康の命で家督を相続』、『その後は主に施政面に従事し』て、天正一四(一五八六)年には『家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行』、同一八(一五九〇)年)、『家康が関東へ移封されると、武蔵国新座郡・豊島郡で』千石を『給され、関東代官、江戸町奉行となる。関ヶ原の戦い後の』慶長六(一六〇一)年に三河国の三郡に六千六百石を与えられると同時に、『京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募し春日局が公募に参加したという説がある』。慶長八(一六〇三)年、『家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され』、同一四(一六〇九)年には『近江・山城に領地を加増され』て一万六千六百石余を『知行、大名に列している。同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した』。慶長一九(一六一四)年からの『大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当』ったが、六年後の元和六(一六二〇)年に『長男の重宗に京都所司代の職を譲った』とあり、勝重とその息子重宗は『奉行として善政を敷き、評価が高かった。勝重、重宗の裁定や逸話は『板倉政要』という判例集となって後世に伝わった。その中には後の名奉行大岡忠相の事績を称えた『大岡政談』に翻案されたものもある。三方一両損の逸話はその代表とされる。また『板倉政要』も、明の『包公案』『棠院比事』などから翻案された話が混入して出来上がっている』とある。板倉―大岡―遠山―根岸という江戸の名奉行の系譜という都市伝説の本流の、まさに濫觴の人物と言えよう。

・「反古」「ほご」と読んでもよい。これは政之助の、借金返済を「何分ゆるやかに勘辨」してもらうことを無効化するの意で、政之助は恐らく、この借金を踏み倒したか、ずっと後になってから返済したのであろう。そう考えないと、政之助がしみじみ懐かしんで思いで語りし、それを理斎が「面白し」と添えるというのは、私には理解出来ないからである。大方の御批判を俟つ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 湯呑所(ゆのみどころ)の者にて野口政之助と言う者、鎮衛殿の内輪に知れる町人であった。

 この者、金子を借りたところが、返金の件、これずっと延引に及んでおったによって、貸方より願い出でて吟味となり、返却すべき旨、嚴しく与力より申し渡されたが、これまた、如何にも難しゅう難儀致いておったれば、政之助、御勘定所において、私ごとながら、そのことに纏わる理由を歎き訴え、

「……お取り立ての儀、これ、厳し過ぎまするによって、これでは儂(あっし)の身上(しんしょう)もこれにて終わらんとぞ思うて御座いますればこそ……何卒、緩やかに取り計らって下さいまするよう……どうか、お願い申し上ぐること、出来ませぬもので御座いましょうか?……」

と、これ内々にて、昔より知れる肥前守殿へ願(ねご)うて御座ったところ、

「――一体これ、借りたものなら、早く返すがよいに。」

との仰せられたところ、政之助は、

「……へぇ。……これ、随分、返しとぅは思うておりますれど……その……いろいろ……思いもかけぬことの、これ、御座いまして、もの入りも多く……さればこそ……結果……返金の段、これ、遅延と相い成って御座いまする!……何分、これ、緩やかに……これ、御勘弁のほど……致し下さいまするよう……切(せち)に!……ひとえに!……願い上げ奉りまする!……そ、その……かの訴人はこれ……正直申し上げますと……私(わたくし)の姉の婿にて……御座いまする。……」

なんどと、最後は消え入るように乞い願い申したによって、これ、鎮衛殿、かつて御勘定の折りよりの昔馴染みの者にても御座ったれば、

「――よくよく心得たわい。――まんず、宥免(ゆうめん)と致すよう、これ、申し渡しておこうぞ。」

という御返事のあったによって、政之助、内心、

『……かの鎮衛さまから、かくもお言葉を頂戴した上は……これ――まずまず、何とかここは凌げよう!……和解か示談へと持ち込むことも出来そうじゃ!……』

と、これ、大きに悦んで御座ったと申す。

 ところが、さてもその日、はや、諸役人方御退出の刻限となり、肥前守殿も御勘定所の門を出でんとする折りから、かの政之助、最前よりとうに待ち構えて御座って、深々とお辞儀なんど致いたところが、これを見とめた肥前守殿、親しく寄らるると、

「……これこれ、政之助!……先刻の事はこれ、随分、心得てはおれど……俺(おれ)も年寄りたることなれば、の!……とかく……何じゃ! 近頃は、物忘れの、これ、ひどぅなっておればのぅ! ま、もし、これ、忘れてしもうたとならば――堪忍しろよ。……」

と、うそぶいて退出なされた。

 されば、政之助、これ、まっ蒼になって立ち竦んで御座った、と申す。……

 ところが、その後(のち)、この政之助を訴えたる公事、一向、勘定方にては取り上ぐることのぅ――あたかもこれ、訴訟の儀そのものの御座ったことを、誰(たれ)一人として覚えておらぬようなる様子と相い成って御座って、如何なるお沙汰も、これなく、さらに、政之助が秘かに鎮衛殿に訴え申したといったことさえもが、これ、なかったことと相い成って御座った――と――いやさ、当の政二助からこの私が聴いて御座った話なのである。

 この話はこれ、昔、板倉伊賀守勝重殿の名捌き――基――名無(む)捌き――の面影を伝えて美事――と――申すべきことにては御座るまいか?……いやいや……まっこと、面白い話である。]

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