日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 懐かしい人々との再会
二年前に別れた可愛らしい少年宮岡が、今夜私を訪れたが、私には一寸誰だか判らなかった位であった。彼は西洋風の服装をなし、立派な大人になっていた。英語もすこし忘れ、まごつくと吃った。翌朝博物館へ行って見ると、加藤総理の部屋に数名の日本人教授が私を待っていてくれた。菊池、箕作(みつくり)、矢田部、外山の諸教授と、服部副総理がそれである。間もなくドクタア加藤も来た。若し握手のあたたかさや、心からなる声音が何物かを語るものとすれば、彼等は明らかに、私が彼等に会って悦しいと同程度に、私に会うことを悦んだ。九谷焼の茶碗に入った最上のお茶と、飛切上等の葉巻とが一同にくばられ、我々はしばらくお互に経験談を取りかわして、愉快な時をすごした。事務員は皆丁寧にお辞儀をし、使丁達は嬉し気に微笑で私を迎え、私は私が忘れられて了わなかったのだということを感じた。動物学教授の箕作教授と一緒に、私は古い実験室へ入った。昔の私の小使「松」は、相好を崩してよろこんだ。石川氏は一生懸命に繊美な絵を描きつつあった。以前の助手種田氏もそこに居合わせ、すこし年取って見えたが、依然として職務に忠実である。彼は博物館の取締をし、松は今や俸給も増加して、大学の役員の一人になっている。
[やぶちゃん注:「今夜」日本到着の翌日である明治一五(一八八二)年六月五日の夜。加賀屋敷を訪問したその夜である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『東大の人々はモースとビゲローを歓迎し、在日中の宿舎として、本郷加賀屋敷にあった天象台(天文台)付属官舎の二室を無償で提供した。かつてモースが住んだ教師館五番館よりやや北にあった建物で、もともとは「観象台」と呼ばれていたが、明治十五年二月に気象台が分離し、この建物は「天象台」と改名されたのである』とあるから、「小宮岡」との再会はここでのここであろう。それ以降は翌六月六日の東京大学法文理三学部訪問のシークエンスである。
「宮岡」当時、満十七歳になっていた宮岡恒次郎(慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)。既注であるが再掲する。モースの冑山周辺横穴(現在の埼玉県比企郡吉見町にある吉見百穴)の調査に随行し、当地での講演で通訳を勤めている。これは川越原人氏のサイト「川越雑記帳」内の「モースと山田衛居」の「図説埼玉県の歴史」(小野文雄責任編集河出書房新社一九九二年刊)からの「外国人の見た明治初年の埼玉」の「モースの失言―熊谷・川越」という引用を参照されたい。そこには同行者にこの恒次郎の兄竹中成憲がいたとあり、この竹中成憲(当時は東京外国語学校学生であったと思われ、後に東大医学部に進み軍医となった)はこの弟恒次郎とともにモースや彼が日本への招聘に尽力したフェノロサの通訳や旅にも同行した人物である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば後、フェノロサの美術収集旅行の通訳として同行、彼にとって欠かせない存在となったとあり、明治二〇(一八八七)年東京帝国大学法学部を卒業して外交官となり、後に弁護士となったと記す。また、床間彼方氏のブログ「青二才赤面録」の「宮岡恒次郎・その1」によれば、『明治16年、18才の恒次郎は李氏朝鮮の遣米使節団に顧問として加わっていたロウエルの要請により、同使節団の非公式随員となっている』ともあり、恒次郎のお孫さんによれば、実は本人曰く、『7才で蒸気船の石炭貯蔵室に隠れてアメリカに密航したと語っていたと』のこと。なかなか面白い。
「加藤総理」既注であるが再掲する(以下の何名かも同じ)。政治学者・官僚加藤弘之(天保七(一八三六)年~大正五(一九一六)年)。明治一〇(一八七七)年に東京大学法文理三学部綜理となった。啓蒙思想家であったが晩年は国家主義に転向した。明治三九(一九〇六)年には枢密顧問官となった。過去二回、モースが直接に契約を結んだ東京大学の代表者。
「菊池」菊池大麓(だいろく 安政二(一八五五)年~大正六(一九一七)年)は数学者・教育行政家。男爵・当時、東京大学理学部教授(純正及び応用数学担当)。江戸の津山藩邸に箕作阮甫(みつくりげんぽ)の養子秋坪(しゅうへい)の次男として生まれたが、後に父の本来の実家であった菊池家を継いだ。二度に亙ってイギリスに留学、ケンブリッジ大学で数学・物理を学んで東京大学創設一ヶ月後の明治一〇(一八七七)年五月に帰国、直ちに同理学部教授。本邦初の教授職第一陣の一人となった。後の明治二六年からは初代の数学第一講座(幾何学方面)を担任し、文部行政面では専門学務局長・文部次官・大臣と昇って、東京・京都両帝国大学総長をも務めた。初期議会からの勅選貴族院議員でもあり、晩年は枢密顧問官として学制改革を注視し、日本の中等教育に於ける幾何学の教科書の基準となった「初等幾何学教科書」の出版や教育勅語の英訳に取り組んだ。(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。動物学者箕作佳吉は弟で、大麓の長女多美子は天皇機関説で知られる憲法学者美濃部達吉と結婚、その子で元東京都知事美濃部亮吉は孫に当たる。
「箕作」箕作麟祥(みつくり りんしょう/あきよし 弘化三(一八四六)年~明治三〇(一八九七)年)は官僚で法学者・教育者・啓蒙思想家。祖父は前注の菊池大麓に出る蘭学者箕作阮甫で、父省吾は阮甫の婿養子、母しん(後に彼女は箕作秋坪の後妻となった。この辺りの婚姻関係は姻族と養子間で入り組んでいるので注意)は阮甫の四女だが、父省吾が若くして亡くなったので祖父・阮甫に育てられた。阮甫の死後、箕作家の家督を相続した。藤森天山・安積艮斎に漢学を、家で蘭学・英語を学び、文久元(一八六一)年に蕃書調所英学教授手伝並(てつだいなみ:その後の東京大学の前身「開成所」などにも受け継がれる役職階級の一つ。階層は教授―教授見習―教授手伝―教授手伝並の順。)となる。慶応三(一八六七)年には徳川昭武のパリ博覧会行に随行、帰国後は明治政府に入って西洋法律書の翻訳、旧民法等諸法典編纂などを通じて近代法制度の整備に貢献した。この間、東京学士院会員・元老院議官・貴族院議員・和仏法律学校(現在の法政大学)校長・行政裁判所長官などを歴任、また、明治初期には中江兆民・大井憲太郎等が学んだ家塾を開き、明六社にも参加している。長女貞子は動物学者石川千代松に、三女操子は物理学者長岡半太郎に、異父妹である直子は人類学者坪井正五郎にそれぞれ嫁いでいる。前注の菊池大麓、動物学者箕作佳吉、医学者の呉秀三は孰れも麟祥の従弟に当たる(以上は国立国会図書館の「近代日本人の肖像」の記載とウィキの「箕作麟祥」をカップリングした)。
「矢田部」本作では最も登場回数が多い東京大学初代植物学教授矢田部良吉(嘉永四(一八五一)年~明治三二(一八九九)年)。詩人としてこのまさに明治一五(一八八二)年の刊の近代詩のルーツ「新体詩抄」の詩人としても知られ、東京植物学会の創立者でもあったが、惜しくも鎌倉の沖で遊泳中に溺死した。享年四十九歳。
「外山」東京大学文学部教授外山正一(とやままさかず 嘉永元(一八四八)年~(明治三三(一九〇〇)年)。矢田部とともに「新体詩抄」の詩人としても知られる。後に東京帝大文科大学長(現在の東京大学文学部長)を経て、同総長・貴族院議員・第三次伊藤博文内閣文部大臣などを歴任した。
「服部副総理」服部一三(はっとりいちぞう 嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)は文部官僚・政治家。当時、浜尾新とともに法理文三学部綜理補であった(予備門主幹を兼任)。後に貴族院議員。これら加藤・浜尾・服部の三名が東京大学法理文三学部の最終決定権を掌握していた。
「動物学の箕作教授」わざわざモースが「動物学の」と冠しているのに注意。先の「箕作」麟祥ではなく、その弟で日本動物学会の創立者である箕作佳吉(みつくりかきち 安政四(一八五八)年~明治四二(一九〇九)年)である。津山藩医箕作秋坪の三男として江戸津山藩邸で生まれ、明治三(一八七〇)年に慶應義塾に入学、明治五(一八七二)年に大学南校(明治初期の政府所轄の洋学の大学校。慶応四(一八六八)年に江戸幕府の洋学校開成所を維新政府が接収して開成学校の名で復興。明治二
(一八六九) 年に同校と旧幕府昌平黌及び医学所を継承・合併して大学校としていた)に学んだのち、明治六(一八七三)年に渡米、ハートフォード中学からレンセラー工科大学で土木工学を学び、後にエール大学・ジョンズ・ホプキンス大学に転じて動物学を学んで、その後さらに英国に留学した。帰国後、東京帝国大学理科大学で日本人として最初の動物学の教授となり、明治二一(一八八八)年に理学博士、その後、東京帝国大学理科大学長を務めた。動物分類学・動物発生学を専攻とし、カキ養殖や真珠養殖に助言するなど、水産事業にも貢献した。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『東大動物学教室では、モースの後任だったホイットマンが前年八月に退職して、十月十五日に日本を去り、その暮に欧米留学から帰国した箕作住吉が教室の中枢になっていた。モースはホイットマンの後任人事をすでに明治十三年(一八八〇)の春に東大首脳から依頼されていたらしく、その頃ジョンス・ホプキンス大学のブルックス教授(ペニキース島臨海実習会の会員だった)のもとで動物学を学んでいた箕作に東大教授就任を勧めたことがあった。このとき実作はモースの勧めを一応断ったのだが、結局東大側は実作を説得して帰国させたのであった』とあるから、実はモースは箕作佳吉とは旧知の仲であったのである。
『小使い「松」』雑用係の菊池松太郎(正式職名は「雇」)である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載によれば、本書の他の箇所では「小使」「従者」「マツ」(ここで初めて“Matsu”と出るものと思う)と記されている人で、『前歴は皆目不明。またいつ動物学教室に来たかもわからない。モースの旅行には種田とともに従い、モースを助けた。器用なひとだったらしく、標本作成に熟練して重宝がられ、明治二十七年まで動物学教室にいた。その後、敬業社という博物学関係書の出版社にあった標本部に移ったが』、『以後の足取りはわからない』とある。ここでのモースの謂いからみると、この時は正式職員としての「雇」であったが、かつてモースが正規職員だった頃は実は、体のいい使用人扱いだったことが窺われる。マッサン! ガンバレ!
「石川」実は底本は「石田」となっている。こんな人物は知らないな、「石川」、石川千代松の誤りじゃないか? と不審に思って原文を見たら、ズバリ!“Mr. Ishikawa”となっていることが分かった。例外的に本文を補正した。当時、東京大学動物学科四年であった石川千代松(ちよまつ 万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年)である。石川は日本の動物学者で進化論学者で、明治四二(一九〇九)年に滋賀県水産試験場の池で琵琶湖のコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた業績で知られる。以下、ウィキの「石川千代松」によれば、『旗本石川潮叟の次男として、江戸本所亀沢町(現在の墨田区内)に生まれた』が明治元(一八六八)年の『徳川幕府の瓦解により駿府へ移った』。明治五年に『東京へ戻り、進文学社で英語を修め』、『東京開成学校へ入学した。担任のフェントン(Montague Arthur Fenton)の感化で蝶の採集を始めた』。明治一〇(一八七七)年十月には当時、東京大学教授であったモースが、蝶の標本を見に来宅したことは本作にも既に出ているから(「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 49 教え子の昆虫少年を訪ねる」)、モースにとってはこの青年も旧知の仲であったのである。翌明治十一年、『東京大学理学部へ進んだ。モースが帰米したあとの教授は、チャールズ・オーティス・ホイットマン、次いで箕作佳吉であった。明治一五(一八八二)年、動物学科を卒業して翌年には同教室の助教授となっているとあるので、モースが逢った時はまだ「教授」でも「助教授」でもなかったものと思われる。その年、明治一二(一八七九)当時のモースの講義を筆記した「動物進化論」を出版しており、進化論を初めて体系的に日本語で紹介した人物としても明記されねばならぬ人物である。その後、在官のまま、明治一八(一八八五)年、新ダーウィン説のフライブルク大学アウグスト・ヴァイスマンのもとに留学、『無脊椎動物の生殖・発生などを研究』、明治二二(一八八九)年に帰国、翌年に帝国大学農科大学教授、明治三四(一九〇一)年に理学博士となった。『研究は、日本のミジンコ(鰓脚綱)の分類、琵琶湖の魚類・ウナギ・吸管虫・ヴォルヴォックスの調査、ヤコウチュウ・オオサンショウウオ・クジラなどの生殖・発生、ホタルイカの発光機構などにわたり、英文・独文の論文も』五十篇に上る。『さかのぼって、ドイツ留学から帰国した』明治二十二年の秋には、『帝国博物館学芸委員を兼務』以降、『天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。ジラフを輸入したあと』、明治二八(一九〇七)年春に辞した。「麒麟(キリン)」の和名の名付け親であるとされる。
「種田」種田織三(安政三(一八五六)年~大正三(一九一四)年)舘(たて)藩(明治二(一八六九)年北海道檜山郡厚沢部(アッサブ)に新設)の出身で、諸藩から推挙された貢進生の一人として明治三年に大学南校に入り、九年に東京開成学校予科を出た。理由は不明であるが、種田は本科には進まず、モースの助手となった人物で、モース在任中は動物学教室の標本の採集や整理に従事、モースの北海道・東北旅行及び九州・関西旅行にも同行、謂わば、モースの右腕的存在であった。やがて、モース帰国直後に完成した博物場の管理を受け持つ博物場取調方となった(この当時もそうであった)。ところが明治十八年九月に東大を去り、その後は東京商業学校・山形県中学校・山形県師範学校などで教えていたらしいが、後の消息は不明である(以上は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠った)。]
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