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« 「耳嚢」吉見義方識語 | トップページ | 志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅱ) »

2015/04/08

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅰ)

[やぶちゃん注:以下は、カリフォルニア大学バークレー校東アジア図書館蔵の志賀理斎編「耳嚢副言」の電子化である。底本は一九九一年刊岩波文庫長谷川強校注「耳嚢(下)」に附録されたものを用いたが、「耳嚢」本文に準拠させるために、恣意的に正字化を行ってある。読みについては底本を参考にしながらも、独自の判断でオリジナルに歴史的仮名遣で附した(底本は現代仮名遣である)。なお、底本では項目の箇条冒頭の「一」のみが行頭にあって、それ以外の本文は総てが一字下がった位置から書かれてある。踊り字「〱「〲」は正字化した。識語としては長い(当該文庫本で二十三頁に及ぶ)ので各段落毎に「耳嚢」本文に準じ、必要ならば注を附した上、現代語訳を施した。読み易さを考え、訳の後は一行空けを施した。訳に於いては読み易さをこととするために、適宜、改行した。

 志賀理斎(宝暦一二(一七六二)年~天保一一(一八四〇)年)は儒者。名は忍、字(あざな)は子堪、通称は理助、別号に天鶏山人。江戸で幕府に仕える伊賀者の家に生まれ、儒学・和学に通じ、文政の頃、江戸城奥詰となって後、金奉行(かねぶぎょう/きんぶぎょう:幕府金庫の管理・出納を司る役で勘定奉行配下。)となった。著作に「老の繰言」など(以上の事蹟は主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。根岸より二十五歳年下。]

 

  耳嚢副言

            志賀理齋識

 

 根岸老人の小身より漸(やうやく)登庸(とうよう)せられて町奉行職迄に昇進ありし事は、この事のはしがきに見えたれば、今更また言(いふ)べきにあらず。予も文化の頃、南址(なんし)の奉行根岸・永田の兩御役宅(おやくたく)え八、九年の間毎月五、六度づゝ御記錄を講じ呉れよとの事にて越(こ)したりし程に、よくその處置・行狀(ぎやうじやう)をばしたしく見聞(みきき)し侍る也。根岸氏の人となり、いかにも格別に立身ありしも實(げ)にさる事よと、感心すること尠(すくな)からず。その見聞傳(みききつた)へたる事ども湮沒(いんぼつ)せんことを惜みて、聊(いささか)爰(ここ)にしるす事左の如し。

[□やぶちゃん注

・「この事のはしがき」不詳。少なくとも前に掲げた「耳嚢」の根岸自身の序文や跋文には出ない。寧ろ、先の三村本の巻六の末にあるという吉見義方の識語こそそれに相応しいという気はする。

・「予も文化の頃」根岸は文化一二年十一月四日(グレゴリオ暦一八一五年十二月四日)に亡くなっているから理斎は当時四十二~五十三歳、根岸は六十七~七十八歳であった。

・「永田」南町奉行であった根岸と並列させてあるからには、これは文化八(一八一一)年から文政二年まで北町奉行を勤めた永田備後守正道(まさのり)のことかと思われる(しかし、頭に「南址」(南町の意)と冠されてあるのは不審ではある)。鎮衛の南町奉行在任期間は、寛政一〇(一七九八)年から文化一二(一八一五)年までであるから、凡そ四年の間、二人は南と北の両奉行であった。

・「湮沒」すっかり埋もれて見えなくなること。

・「御記錄を講じ呉れよ」軍書の講読講釈をしてくれ。

■やぶちゃん現代語訳

 

  耳袋副言

            志賀理斎識

 

 根岸老人の、小身より、ようやく登用せられて町奉行職にまで昇進なされた事蹟は、この「耳袋」の端書きにも見えて御座れば、今更にまた言を弄する必要は、これ、御座ない。

 私も文化の頃、江戸は南町の奉行、根岸殿及び北町の奉行永田殿の両御役宅(おやくたく)へ、これ八、九年の間、毎月五、六度ずつ、軍書の講釈をなし呉れ、とのお沙汰にて罷り越して御座った経験から、よく、その普段のなさり方や御様子などをば、親しく見聞き致いて御座った。

 されば、根岸氏の人となり、いかにも格別に立身なされて御座ったも、これ、実(げ)にさるべきことよ、と感心致いて御座ることはこれ、少のぅない。

 そこで、その見聞きしお話し下された事どもの時の経過とともに湮沒(いんぼつ)せんことを惜み、いささか、ここに以下の如く記すことと致す。]

 

一 耳嚢にしるしたるおもむきを見ても、肥州の用意の程を見るべし。殊に淺間山燒(やけ)たりしとき、荒地(あれち)廻村(くわいそん)御用にて砂降(すなふる)川々(かわがは)用心(ようじん)所々(ところどころ)見分(けんぶん)の樣子など、まのあたり見る如くにて、土民のなりはひなど憐みて書(かき)しるしたる、その他勸善懲惡の事共(ども)多く書載(かきのせ)たる、誠に讀(よみ)て泪(なみだ)を催すケ條(かじやう)往々に見えぬ。たゞ平日面話(をもてばなし)ばかりにては滑稽浪語(らうご)のみなれば、別して感慨の情など厚かるべきとはおもはれざれ共(ども)、此耳ぶくろを讀みては人をして感發せしむる事多し。予ある夜鳥居彦右衞門元忠伏見の御別れの處を講談に及びしときには、老人にはしきりに鼻をかみて、聲もにごりて落泪(らくるい)の樣子なりき。此とき世が心中には、關ケ原・伏見の御別れは、誠にその折からの事どもおもひやるに成程(なるほど)あはれさ・悲しさ猶(なほ)餘り有る事なれども、此翁などはもとよりしれる事といひ、又予が訥辨(とつべん)中々(なかなか)其時情(じじやう)をよく言ふ事ならねば、左(さ)ばかり面白くもあるまじきを、斯(かく)まで感心せる事かと思ひしが、其あらはせる耳嚢を見て、はじめて疑(うたがひ)たりしも解け侍りぬ。

[□やぶちゃん注

・「淺間山燒たりしとき」天明三年八月五日(グレゴリオ暦一七八三年七月八日)に起こった天明の大噴火。ウィキの「浅間山」によれば、『最初に北東および北西方向(浅間山から北方向に向かってV字型)に吾妻火砕流が発生(この火砕流は、いずれも群馬県側に流下した)。続いて』、約三ヶ月『続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石雪崩となって北側へ高速で押し寄せた。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。嬬恋村鎌原地域と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込み、一旦川を堰き止め河道閉塞を生じた。天然にできたダムはすぐに決壊し、泥流となり大洪水を引き起こして吾妻川沿いの村々を飲み込みながら、本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市から玉村町あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運び、当時の利根川の本流であった江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられた。このときの犠牲者は』群馬県内で千四百人以上、全体では千六百二十四人、被害は流失家屋千百五十一戸、焼失家屋五十一戸、倒壊家屋百三十戸余りであった、とある。当時勘定吟味役であった鎮衛は、この浅間山噴火後の浅間山復興工事の巡検役を担っていた。

・「荒地廻村御用にて砂降川々用心所々見分の樣子など、まのあたり見る如くにて、土民のなりはひなど憐みて書しるしたる」これは例えば「耳嚢 人の運不可計事 及び 又」の「又」(二話目)などを参照されたいが、そこで根岸は噴火の惨状の『委細は予御用中に記し小册となしてその御方へも懸御目(おめにかけ)し有り、こゝに略す』とあり、理斎は、そこで言うところの公式報告文書をも閲覧しているものと考えるべきであろう。私は未見であるがその文書は残っているように思われ、「学習院女子大学 東日本大震災 ~ VST つながる“わ”~」の「天明の浅間山噴火」に以下のような細かな彼の行動記録が見られる(アラビア数字を漢数字に代えさせて戴いた。これは講義で文中の『資料1』というのはその際に配布されたものであろう。下線はやぶちゃん)。

   《引用開始》

八月十七日、川越藩は詳細な被害届を月番老中へ提出。二十日、五料関所の現状報告。

幕府は被災地見分のため根岸鎮衛らを派遣するが、その折五料関所を見ると伝える。→藩は決壊した堤、泥で埋まった堰々を見てほしいと願い出ている。

<御普請の実施>

見分使根岸鎮衛一行は八月二十八日に江戸を出立、九月二日に上州渋川に着き、渋川を拠点に被災村々を巡見。五料関所は五日に見分している。九月二十八日、武蔵国本庄宿に呼ばれた川越藩役人は、五料関所の普請について、元来は領主の任であるけれども今回は公儀御普請で行うことになった旨内示を受ける。一方、砂が一尺程積もった旗本相給の下磯部・東上磯部・西上磯部三ヵ村の場合、同月二十二日に根岸一行の旅宿板鼻宿へ赴き、自力での田畑の開発困難を訴え、見分して欲しいと願書を差し出したが、私領ということで受け付けられていない

見分後の十月中旬、もっとも被害の著しい鎌原村から御普請が始まった。[やぶちゃん注:中略。以下、リンク先の記載は詳細を極める。必見。]

十月末になり、御普請の範囲はさらに拡大した。二十九日、勘定奉行松本伊豆守(秀持)が浅間山噴火により泥砂で埋まった田畑開墾を担当するとの発表があり、十一月九日、被災地の領主たちへ次の申し渡し(資料1)がなされた。

浅間山噴火で被害を受けた武州・上州・信州の村々の、田畑の泥砂の片付けは、私領についてはその領主・地頭から申し付けるのは勿論であるが、一統難儀の様子なので、この度は堤川除けのほか、私領の内郷用悪水路・道・橋等も公儀御普請を実施する。工事は難儀の軽重にしたがって、村々を組み合わせ、村請で行う。農業手透きの時節、御救いのための工事なので、田畑の起返し等、精を出して行うよう、銘々の領分・知行所の村々へ申し渡すように。

また御料・私領村々に対し、松本秀持・根岸鎮衛連名で触書が発せられた。ほぼ同内容だが、江戸町人などに下請けは一切させないとし、普請中竹木や米穀・諸色の値段をなるべく下値にするよう通達している。私領のため訴願を受け付けて貰えなかった下磯部・東上磯部・西上磯部三ヵ村を含む村々でも御普請が実施され、十二月四日に渋川で最初の御普請金を受取っている。また人足賃や諸色代、蛇籠代などが支給され、さらに伝馬の飼葉料も与えられている。御普請は翌天明四年にかけて行われ、閏正月に終了している。[やぶちゃん注:中略。以下は省略部分との連関が強いので必ずリンク先を参照されたい。]

<民間のちからー一揆と援助の手->

・百姓一揆・うちこわし

以上の経過を見ると、幕府は私領に対し、九月までは厳しい態度で臨み、自力復興を促していた。ところが十一月にはその方針を大きく変更して、御普請の範囲を私領まで拡大している。それはなぜか。根岸らが私領も巡見し、復旧が自力では困難であることを認識したからとみることもできるが、何よりも九月末から十月にかけて起こった上州・信州辺の百姓一揆・うちこわしがそれまでの幕府の方針に転換を迫ることになったのである。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

 なお、この後の『<近隣の村人の援助>』の箇所には、まさに先に示した「耳嚢 人の運不可計事 及び 又」の梗概が記されてあり、それは根岸の災害救援事業が、現在でも高く評価されていることが伝わってくる。

・「面話」裏話に対する表話、表向きの話の意、無味乾燥な事実や風聞を無批判にただ記録しただけの記事、話柄の意と採る。

・「浪語」浮言浪語の意であろう。口づてに伝わった根拠のないいいかげんな情報、噂。流言飛語。

・「鳥居彦右衞門元忠伏見の御別れの處」鳥居元忠(天文八(一五三九)年~慶長五(一六〇〇)年)は戦国から安土桃山にかけての武将で徳川氏家臣。下総香取郡矢作(やはぎ)藩(現在の千葉県香取市矢作)藩祖。ウィキの「鳥居元忠」によれば、慶長五(一六〇〇)年、『家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると、伏見城を預けられ』たが、六月十六日のこと、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし、「我は手勢不足のため伏見に残す人数は三千ばかりにて汝には苦労をかける」と述べたところが、元忠は『「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足りる。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」』と答え、『家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる』(これがここで言うシークエンスであろう)。『家康らの出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は松平家忠・近正・内藤家長らと』千八百人の兵力で立て籠もった(これが関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いである。ウィキの「伏見城の戦い」も参照されたいが、後に理斎が「關ケ原・伏見の御別れ」と記すのは、そうした天下分け目の決戦に連動している構造を意識してのことであろう)。『元忠は最初から玉砕を覚悟で三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し』て戦いを続け、実に十三日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死した。享年六十二歳。『その忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養した。床板は「血天井」として京都市の養源院』『をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられている』とある。後、『家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・忠政は後に磐城平藩』十万石を経て、山形藩二十四万石の大名に昇格している』。『また元忠の子孫が江戸時代に不行跡により』二度の改易の憂き目にあった際にも、『いずれも元忠の勲功が大きいとして減封による移封でいずれも断絶を免れ』ているとあって、この江戸後期にあっても(というよりだからこそ)その忠節が「武士の鑑」として鎮衛らの心を強く揺さぶり続けたのであろうことは、これ、想像に難くない。

・「訥辨」渋滞しがちな下手な話し方。理斎の謙遜。

・「世が心中」底本では「世」の右に編者長谷川強氏によって『〔予〕』と訂正注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 「耳袋」に記されたその内容を管見致いても、肥前守殿の執筆に際しての用意のほどを覗うことが出来る。

 ことに淺間山の焼けたる折りのこと、荒れたる地や被災せる村々の廻村(かいそん)御用の砌りも、噴火の収まったとは申せ、未だ土砂の降り注ぐ川々の用心を含め、各所を検分なされた折りの様子を書き記されたものは、これ一読、目の当たりに見るが如き真に迫った描写の連続で御座って、土民の悲惨な生計(なりわい)のさまなども、心の籠った憐憫を以って書き記されておられ、その他(ほか)にも、勧善懲悪の立ち位置に基づく事件や出来事などを多く書き載せて、まっこと、中には読み終わって涙を催すところの箇条さえもこれ、往々に見うけらるるので御座る。

 ただ日常の表向きの話――無味乾燥な事実や風聞を無批判に、ただただ記しおいただけの記事――ばかりであったとしたら、これは下らぬ滑稽な、或いは、ただただ無責任な流言飛語のみの羅列に過ぎないものとなってしまい、これといって、読む者に感慨の情なんどの、およそしみじみと深く湧いて参るなどということは、これ、あろうはずもないと思わるるのだが、この「耳袋(みみぶくろ)」に限ってはこれ、人をしてあわれに胸を打ってしみじみとした感懐を発せしむるものが、これ、まっこと、多いので御座る。

 私はある夜のこと、翁に対して「鳥居彦右衛門元忠、伏見の御別れの段」を講談に及んだことが御座った。

 ところが、この折り、老人におかせられては、これ、話の進むに従い、しきりに鼻をおかみになられ、ときどき発せらるる咳払いなんどの声も、これまた、いたく濁って御座って、まさに感極まって落涙なさっておらるる御様子がはっきりと看て取れた。

 しかし、これを見知った折り、私の心中に於いては、

『……「関ヶ原・伏見の御別れ」と申すは、まことにその折りの事ども、「武辺の鑑」と思いやらるることなば、これ、なるほど、哀れさ、悲しさ、一入(ひとしお)にして、なお感慨余りあることにては御座ろうものにてはあろうけれども……この翁などは、もとより、これら、よぅ、ご存じであらるる事なろうほどに。……』

などと思いもし、また、

『……拙者の、この訥弁……これではなかなか……その「別れ」の情実を上手く語り伝うること、これ、出来難きことなれば……実はこれ、お聴きなられても、さまで面白うもあるまじいと思うて御座ったに……これ……かくまで感心なさって下されたものか?!……』

などと、不謹慎なることさえ内心思うて御座ったのであったが、この度、この翁の著わさられた「耳袋」を親しく読まさせて戴き、初めて、己(おの)が疑(うたご)うて御座った浅き心底をこれ、痛感致し、ひいては、翁の誠心をこれよぅ感得致すことが出来たので御座る。]

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