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2015/04/11

志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅵ)

一 肥州老年耳よほど遠くなり、公事(くじ)訴詔(そせう)を聞くに、訴詔人(そせうにん)心得て隨分聲を高く申(まうす)といへ共(ども)よく聞き取れず。依(よつ)て奉行段々硯を取(とり)前えすゝみ、「われが聲はひくいは。おれが耳は遠いぞ。もつと大きな聲をしろしろ」といふはをかしかりき。斯(かか)る事なれば是迄軍談をよみもの三、四人も呼びて、御記錄を講じたるが、渠等(かれら)御奉行の位(くらゐ)におそれ遠慮せしにや、とかく小音(せうおうをん)肥州思ふ程に聞えざりし故、予(よ)永田備後守御役宅にて軍書を講ぜしとき、肥州の子息九郎兵衞來り聞(きき)て申(まうし)けるには、「親は老年耳遠ければ、我等方にては隨分高く讀み聞かせ呉(くれ)よ」との事なり。備後守にも、「同役は耳遠ければ高き程よし」との事にて、その後はじめて肥前守南の御役宅へ、病死の年まで毎月度々罷越し、かねての賴みゆゑ、平日さへ大音なるをなほ聲を張て讀(よみ)たれば肥州の耳へよく入りたり。聲のあまりは三間・四間にも通りし程也。よりて後には、予が事を蜩(ひぐらし)先生またはツクツク法師(はうし)などゝ、肥州あだ名を付られたり。これ小さな形にて大きなこゑが出るといふ事にてありし。いとをかしかりき。

[やぶちゃん注:

・「訴詔」訴訟。「詔」には告げるの意があるから全くの誤字とは言えないがしかし、「訴訟」(こちらは訴える・訟(うった)えるの畳語)の歴史的仮名遣は「そしよう」である。

・「軍記をよみもの」底本では「よみ」の右に編者による『(ママ)』注記がある。

・「御記錄を講じたる」軍記の講読講釈をする。

・「永田備後守」既注。北町奉行永田正道(まさのり)。

・「肥州の子息九郎兵衞」鎮衛の一人息子衛粛(もりよし)。この招待の叙述から、この時の南北奉行の個人的関係は、かなり良好なものであったことが分かる。

・「病死の年」根岸の病没は文化一二(一八一五)年十一月四日。

・「三間・四間」五・五メートルから七メートル強。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 肥前守殿、老年、耳がかなり遠くなられ、公事(くじ)の訴訟を聴き糺すに、訴訟人も大概は御様子を察し、そうと心得、随分と声を大きく致いて申し上げて御座ったが、それでも翁に於かせられては、これ、よく聴き取れぬことが多御座った。

 されば御奉行、これ、聴きながら――そろりそろりと――硯を手に取ったまま――前へ前へと――お進みになられ、お白洲のその者へ、

「――そちは声が小さい!――俺は耳は遠いぞ!! もっと大きな声を、せい!! もっともっとじゃ!!!」

と、仰せになられたというはこれ、まっこと、面白きことにて御座る。

 このような次第にて御座ったれば、お好きなれば、軍記を読む者をそれまで三、四度ほども人を換えて呼び入れ、講釈させては見たものの、この三、四人、御奉行という位の高さに怖気づいて思わず遠慮致いたものか、孰れもとかく声の小さく萎んでしまい、肥前守殿にはよぅ聴こえず、すこぶるご不満にて御座ったと申す。

 されば――ちょうどその頃のこと、私は北町奉行永田備後守正道(まさのり)殿の御役宅(おやくたく)に於いて呼ばれて軍書を講じて御座ったが、そこに、たまたま肥前守殿御子息九郎兵衛衛粛(もりよし)殿の招待なされて来たっておられ、私のそれをお聴きになった後(あと)、申されたことには、

「――これは是非とも我らが親にも、先生の講釈、これ、聴かせとう存じまする。ただ、その、これ……我らが父、老年にて耳も遠御座れば、我らが方に参られた際には、これ、随分、大きなお声にて、お読み聴かせ下さいませぬでしょうか?……」

とのことで御座って、それを聴いた備後守殿も、

「――確かに。かの同役はこれ、耳の遠ければのぅ。……うむ。大きければ大きいほど、よかろうぞ。」

と助言なさっておられた。

 さても、その後(のち)、初めて肥前守殿の南の御役宅へ伺わさせて戴き、それより病いにて逝去なされたその年まで、これ毎月、しかも月に何度も罷り越すようになって御座った。

 初回、かねてよりの御子息からのお頼みで御座ったによって、普段でさえ大きな声で御座るものを、これ、殊更になお、声を張り上げ、読んだところが、肥前守殿のお耳へ、これ、まことによぅ聴こえて御座った由にて、その我らが声はこれ、三、四間先までも五月蠅いほどに響き通ったほど、と言われて御座ったものじゃった。……

……そのお蔭にて、それより後には肥前守殿、私に

――蜩(ひぐらし)先生

または

――ツクツク法師(ほうし)

などという渾名をつけられ、

「……これはの!――小さな体のくせに大きな声の出る――という心、じゃ!」

と仰せられて御座った。

 まっこと、面白きお方で御座ったよ。]

 

一 ある日肥州予に尋(たづね)て「先生は御侍(ごじ)を勤めると聞(きく)。御侍は御留守居衆の支配か、又は御用人衆の支配か」といへるに、答(こたへ)て「御用人の支配にて候」と申ければ、「立身出世が望みならば、よく御用人衆をだましたがよいぞやよいぞや」といはれしも、またをかしからずや。

[やぶちゃん注:ここは当時の御用人水野忠成(ただあきら)に対するあからさまな批判が込められていると言ってよい。

・「御侍」侍講。主君に仕えて儒書その他を講義して君徳を養うことを役目とする職名。奈良時代から天皇に侍講、皇太子・親王に侍読(じとう/じどく)を附けたことに由来する。ここは将軍のそれ。当時は第十一代家斉。

・「御留守居」幕府に於ける留守居は老中の支配に属し、大奥の取り締まりや通行手形の管理、将軍不在時の江戸城の留守を守る役割を果たした。役高は五千石で旗本から選任され、定員は四名から八名、旗本で任じられる職としては最高の職である(ウィキの「留守居」に拠る)。

・「御用人」側用人。正式には御側御用人(おそばごようにん)と呼ぶ。将軍の命令を老中に伝達することを司り、定員は一名で役料一万石。第五代将軍綱吉の就任の翌年、天和元(一六八一)年に牧野成貞が任じられたのが最初で、その三年後の貞享元(一六八四)年に綱吉が信頼していた大老堀田正俊が刺殺されてからは、将軍の居室が大老・老中の御用部屋から遠ざけられ、その取次ぎをするこの側用人の役割が強大になっていった(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」の記載に拠る)。当時(第十一代将軍家斉)は水野忠成で(文化九(一八一二)年四月四日より)、田沼時代を遙かに上回る空前の賄賂政治が横行したとされ、参照したウィキの「水野忠成」によれば、『庶民に「水野出て 元の田沼と なりにけり」「びやぼんを 吹けば出羽どん 出羽どんと 金がものいう いまの世の中」などと皮肉られた』(「びやぼん」は文政年間に江戸で流行した琵琶笛(びやぼん/びわぼん)という鉄製の口琴(こうきん)の一種で、細長い鋼鉄をかんざしのように二股に作ってその間に針のような鉄をつけた三股状のもの。閉じた側を横に口に銜えて間の鉄を指で弾いて鳴らした。音はアイヌのムックリを想起されればよい。「出羽どん」水野の官位は出羽守)『忠成の執政時期は、爛熟した化政文化の全盛期であり、将軍職を退いた家斉が放漫な浪費を続けた、大御所時代とも呼ばれる大量消費時代でもあった。家斉やその実父の治済(一橋徳川家当主)に取り入ることや、子だくさんだった家斉の子の諸大名家への養子縁組の斡旋、のちに天保の改革を行う同族水野氏の忠邦の登用などが実績として知られる。また、幕府財政の不足を補うために良貨と言われた元文小判を廃して大幅に品位を落とした文政小判を発行した。その結果』、差益収入は『得たものの、激しいインフレを引き起こす原因となった。忠成は主君家斉の放埒を諫めることもなく、収賄と身びいきによる政治を行った政治家として、総じて後世の評価は低い』とある(下線やぶちゃん)。なお、一名なのに「衆」とあるが、人を表わす名詞に附いて複数の人を敬意又は親愛の意を添えて言い表す接尾語の「衆」は古くは単数の人にも用いたので、ここでは前の留守居衆(こちらは実際に複数いた)との並列文脈から附されたと見られるが、元来の用法としてもおかしくはない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一 ある日、肥前守殿、私に訊ねられ、

「――先生は、上様の御侍講(ごじこう)を勤めておらるると聞くが。……さてもこれ、御侍講とは、御留守居(おるすい)衆の御支配か? またはかの御用人(ごようにん)衆の御支配で御座るか?」

とのお訊ねになられたによって、答えて、

「御用人様の御支配にて御座いまする。」

と申し上げたところ、

「――先生、立身出世がお望みとならばこれ、よく、かの御用人を――騙(だま)したが――よかろうぞ! いやいや! 騙さっしゃれ! 騙さっしゃれ! ダッツハッツハッツハッツ!」

と言い放たれ、呵々大笑なされたも、これ如何にも、おかしゅう御座るまいか?]

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