耳嚢 巻之十 盜人醉ふて被捕醉ふて盜人を捕へし事
盜人醉ふて被捕醉ふて盜人を捕へし事
番町邊御旗本の由、常に酒を好(このみ)、酒友(しゆゆう)の方にて沈醉(ちんすゐ)の上歸宅のうへ、手水所(ちやうづどころ)にて手水抔遣ひしに、藏の脇あやしき物音いたし、立歸り候節も何か心に掛り候事有(あり)し故、枕脇差(まくらわきざし)を差(さし)て藏の脇へ至り見しに、不見知(みしらざる)男、沈醉の體(てい)にて臥(ふせ)り居(をり)候を見候故、家内僕(しもべ)などを起し候處、右盜賊も醉(ゑひ)さめ候や眼をさまし候間、何故武家屋敷へ這入(はひりこみ)臥り候哉(や)、尋問(たづねとひ)けるに一言(ひとこと)の申譯(まうしわけ)なく、盜(ぬすみ)に入(いり)候へ共(ども)、沈醉故、見合(みあひ)候内、不思(おもはず)臥り候由申(まうし)けるとなり。其後如何(いかが)なりしや、近頃の事と聞(きき)しが、名は洩しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:間抜けな盗人(ぬすっと)二連発。話柄の構造が酷似しており、根岸の独自の情報屋誰かから齎されたものとするならば、両話は同一人物による提供と思われる。
・「枕脇差」護身用に寝所の枕元に置いた小型の刀。
■やぶちゃん現代語訳
盜人(ぬすっと)が泥酔して捕まり泥酔した旗本がその盜人を捕えたという事
番町辺りの御旗本の由。
常に酒を好み、酒呑み仲間の方にてしたたかに呑んで泥酔なし、己(おの)が屋敷へ帰宅致いて、寝る前に便所など使って御座ったところが、便所近くの、屋敷内の蔵の脇辺りより、何やらん怪しき物音の致いた。
「……さ、さういへば……ヒック!……帰り着(ちゅ)いた折りも……なあにやらん……ふがふがちゅうやうな……妙な音の……ヒック!……聴こえたやうな……なぁんか……妙に気のかかったじゃった……ヒック!……」
と独りごち、ふらつく足で寝所へと戻ると、枕元に置いた枕脇差(まくらわきざし)を腰に差し、またしてもあっちへふらふら、こっちへふらふら、ようやくかの蔵の脇まで辿りつき、さても、辺りを睥睨(へいげい)致いたところが……これ……
――見知らぬ男が一人……
――これも亭主に劣らず泥酔の体(てい)にて……
――地べたに臥しておった。……
さればこそ、またまたあっちへぶらり、こちへぶらりと家内へ戻り、下僕(しもべ)なんどを起こして、さても、
「……フガッ!……フガッ!……」
と大鼾(おおいびき)をこいて寝ておった盗人(ぬすっと)を、これ、手もなく縛り上げて御座ったと申す。
さて、その盜賊も流石に酔いが醒めたものか、眼をさまして御座ったによって、主(あるじ)の御旗本、
「……な、なあにゆへぇにぃ!……ヒック!……武家(ぶぅけ)屋敷へ!……ヒック!……這ひり込んどぅえ!……寝ておったくわ?!……ヒック!……」
と、呂律の回らぬまま糺いたところが、その盗賊もこれ、いまだ酒の抜けざる体(てい)にて、一言の言い逃れの弁解をもしようとせず、寧ろ偉そうに、
「……ぬ、盜(ぬしゅ)みに入(はひ)って御座(ぐゎざ)れども……泥酔(でいしゅい)致いたによって……ヒック!……ぬ、盗(ぬしゅ)みは見合わせた……ヒック!……じゃして……そのまんま……思わず……寝入ってしもうたんじゃろうのぅ……ヒック!……」
と一向、悪びれた様子ものぅほざいた、とか申す。
その後、この盗賊、どう処断なされたか――近頃の出来事とは聴いたが――御旗本の名と合わせ、うっかり聴き洩らして御座る。