『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 唐絲土籠跡
●唐絲土籠跡
釋迦堂の南にある巖窟なり。内に石塔あり。古傳に唐絲は賴朝の侍女なり。手塚太郎光盛か女なる故。木曾義仲に内通し。賴朝を弑せん爲匕首(あひくち)を懷(ふところ)にせしか。遂に事露はれ。罪さり所なく此窟中(くつちう)に籠(こめ)られけるとなん。
[やぶちゃん注:江戸初期に成立した「御伽草子」の「唐糸草子」に基づく伝承で唐糸の押し込められたとする土籠は各地にあるが、唐糸自身の実在性も疑われ、少なくとも鎌倉でその土籠と称するものは(鎌倉には別に東御門にもあったことが「新編鎌倉志卷之二」に載る)、通常の「やぐら」である。鎌倉御府内(及び御府内の寺社領)に限られる「やぐら」は、その羨道部の前方に扉を附けたが、その枢(くるる)を施した跡が現在も鮮明に残っているものが多くあり、それを牢の格子跡と勘違いしたことに始まる誤伝承と思われる。「唐糸草子」は、木曽義仲の臣手塚太郎光盛(信濃の出で、寿永二(一一八三)年に加賀篠原の戦いで斎藤別当実盛の首をとった人物として知られる。翌年一月、義仲とともに頼朝方征討軍と戦い、近江で敗死した)の娘唐糸が頼朝を刺殺しようとして捕らわれ、囚獄の身となるが、その唐糸の娘万寿姫が身分を隠して同じく頼朝に仕え、鶴岡社前に於いて今様を舞い、その妙技の褒美として母唐糸の赦免を願って許された上に手塚の里を賜わるという筋である。現況を知るには個人サイト「道・鎌倉街道探索日記」内にある「鎌倉の古道物語」の「釈迦堂口切通」のその2がよい。実は私はこの「唐糸やぐら」も未見である。]
« 『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 絹張山 | トップページ | 橋本多佳子句集「命終」 昭和三十二年 奈良 »