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2015/04/04

耳嚢 巻之十 能勢餅の事

 能勢餅の事

 

[やぶちゃん注:岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では途中に、底本にはない一文とこの餅を搗くのに用いる臼の図がある。引用箇所をはっきりとさせて追加した。]

 

 能勢(のせ)氏一統の知行百姓、年々玄猪(げんちよ)前に禁裏へ餅米を獻上いたし候由。然る處、禁中にて玄猪の夜に、内侍(ないし)の女房、左の歌を唄ひ餅を舂(つ)く御吉例の由。右唄

  神無月時雨のあめのあしことに我思ふ事かなへつゝつく

[やぶちゃん注:以下の一行と図は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版のもの。]

右臼は左の如し。

 

Nosemotiusu

 

 右能勢餅にてあるべし。能勢氏の人かたりしが、猶禁中有職(いうそく)の人に、尋(たづね)たき事と云ふ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。珍しい禁中の行事の有職故実譚。禁中行事有職故実ということ自体も「耳嚢」中では珍しいものである。

・「能勢餅」底本の鈴木氏注に、『陰暦十月亥の日亥の刻に餅を食して無病のまじないとする中国古代の俗信に基づいて、わが国でも寛平以前から亥の子餅を供御として内蔵寮から献ずる風習があり、民間にもひろまった。足利時代初期ごろから、摂津国能勢郡木代村の門太夫家から亥の子餅を宮中に献ずる慣例が生れ、これを能勢餅といった。赤小豆をつきまぜた餅。女房詞でこの餅のことをツクツク(搗く搗く)と呼んだ。なお亥の子餅は古く天皇親ら搗かれるのが例であったのが、女官がこれに代るようになったらしい』とある。摂津国能勢郡木代村は現在の大阪府豊能(とよの)郡豊能町(ちょう)木代(きしろ)。ウィキの「亥の子餅」に、『亥の子に際して作られる餅。玄猪餅(げんちょもち)。亥の子』(旧暦十月(亥の月)の亥の日)の亥の刻(午後十時頃)に食べられる縁起物。形状は『名称に亥(猪)の文字が使われていることから、餅の表面に焼きごてを使い、猪に似せた色を付けたものや、餅に猪の姿の焼印を押したもの、単に紅白の餅、餅の表面に茹でた小豆をまぶしたものなど、地方により大豆、小豆、ササゲ、胡麻、栗、柿、飴など素材に差異があり、特に決まった形・色・材料はない』とある。「古今要覧稿」(明治三八(一九〇五)年~明治四〇(一九一五)年刊)に『亥の子餅の項目があり、「蔵人式」(橘広相撰)の中に、禁中年中行事の1つとして記されている。橘広相は貞観年間に存命していたことから、いつごろから、亥の子餅に関する行事が行なわれていたか定かではないが、貞観年間には宮中行事として、行なわれていたと推察される』。旧暦十月『上亥日に禁裏では、亥の子餅を群臣に下賜していた』。『能勢からの亥の子餅が献上されていたが、宮中においても亥の子餅が作られた。官職の高低により、下賜される亥の子餅の色(黒・赤・白)と包み紙の仕様に厳格な決まりがあった。亥の子餅の色は、公卿までは黒色の餅・四品の殿上人までは赤色の餅などである。また、3回にわたって、亥の子餅の下賜があったが、3度とも同じ色の餅ではなかった。賞玩のために色(黒・赤・白)を変えていたという』とある。実は江戸幕府の年中行事としても、『亥の子を祝する行事(玄猪の祝い)があっ』て、十月朔日(ついたち)にやはり玄猪の祝いを行っていた。『この日より囲炉裏を開いて、炉で鍋を焼き、火鉢で火を盛る習慣があった。幕府では、大名・諸役人に対して』、十月朔日、七つ半(午後五時)に『江戸城への登城を命じ、将軍から白・赤・黄・胡麻・萌黄の5色の鳥の子餅を拝領して、戌の刻(午後7~9時)に退出する。玄猪の祝いに参加する将軍・大名・諸役人の服装は熨斗目長裃(のしめながかみしも)と規定されている。また、この日の夜は江戸城の本丸・西の丸の大手門・桜田門外・下乗所(げじょうしょ)に釣瓶(つるべ)式の大篝火(かがりび)が焚かれる』とあるから、根岸はこの江戸城で行われる行事の濫觴をここに記そうとしたものであろう。同ウィキには「摂津国能勢における亥の子餅」という独立項が設けられているので、総てを引いておく。明治三(一八七〇)年まで、『摂津国能勢(のせ)(現在の大阪府豊能町)にある木代村(きしろむら)・切畑村(きりはたむら)・大円村(おおまるむら)から、毎年』、旧暦十月の亥の日に、『宮中に亥の子餅を献上していた。そのことから、能勢には亥の子餅に関して以下のような伝承が伝わっている』。仲哀天皇九(二〇〇年?)年十二月に『神功皇后は、自ら将帥となり、三韓に出兵した。筑紫に還啓された後、皇太子(応神天皇)が誕生した』。仲哀天皇十年二月に『穴門・豊浦宮を出発し、群郷百僚を率いて海路をとり、大和に凱旋する途中に、皇太子の異母兄である香阪(かごさか)・忍熊(おしくま)の二王子が、やがて皇太子が即位することを嫉(ねた)んだ。二王子が相謀り、皇太子を迎え討って殺害しようと大軍を率いた。上陸するのを待つ間、戦の勝敗を卜(ぼく)して(占って)、能勢(大阪府)の山に入り、「祈狩」(うけいがり)を催した』。『「戦に勝つならば、良獣を獲られるであろう」と言っていたが、まもなく、大猪が現われ、香阪王に飛び掛った。香阪王は驚いて、近くの大樹によじ登ったが、猪は大樹の根を掘り起こし、遂に香阪王は死亡した。忍熊王はこの事を聞き、怪しみ恐れて、住吉に軍勢を退いた』。『神功皇后はこの事を聞かれて、武内宿禰に忍熊王を討伐を命じた。忍熊王は戦に破れ、山城国宇治に退き、さらに近江国瀬田に逃れたが、死亡した。これにより、皇后・皇太子は、無事に大和の都に凱旋した。その後、神功皇后が崩御し、皇太子(応神天皇)が即位した。応神天皇は、皇太子の時に、猪に危難を救われた事を思い出して、吉例として、詔を発して、能勢・木代村、切畑村、大円村より』、毎年十月の亥の日に『供御を行うように命じ、亥の子餅の献上の起源であると言い伝えられている』。以下その能勢餅の「調理過程」の項。『能勢から、宮中へ献上される亥の子餅(能勢餅(のせもち)とも言う)(近世ごろ)の調理方法が「禁裏献上 能勢のおいの子」に記載されている』。十月に『入ると、猪子役人の当番の者が御所御賄所に出頭し、御用の数を伺う、「合数伺い」を行う。この時に、御賄所より、その数(合数)を記した御書付を下される「御書下げ」があり、調理準備に入る』。一合とは、一箱のことである。献上の数は一定していないが、約百合から百五十合である。亥の日七日前になると、『献上する亥の子餅を作る家には、亥の子餅を調理する場所・道具・使用する井戸を木代村では、真言宗・善福寺(どんどろ大師善福寺)、切畑村は法華宗・法性寺の僧侶を請じて、それぞれ清めの加持を行った後に調理が始まる』。『糯米(もちごめ)を洗い清めて、水に浸』し、『蒸篭(せいろう)に入れて、糯米を蒸す』。『別に小豆(あずき)を蒸した糯米に合せ』、『合せた糯米を挺樋(ねりおけ)と呼ばれる四斗樽の樋に投じて』二本の『棒を用いて「エイエイ」と掛声をしながら、こねつける。やがて、淡紅色の猪の色に似た餅が出来る』これを長さ六寸(約十八センチメートル)・幅四寸(約十二センチメートル)・深さ一寸五分(四・五五センチメートル)の箱に『餅を詰め、別に煮た小豆の釜に沈殿した餡を流しかける』。『餡を流しかけた餅の上に、薄く切った方形に切った栗の実を』六個並べ、『その上に更に、熊笹の葉』二枚で覆う。『餅は猪肉、栗は猪の骨、熊笹は牙を模しているという』とある(ネット上で画像を捜して見たがちょっとぴんとくるものがない。一応ーグル画像検索「能勢餅」をリンクはしておく)。

・「玄猪」陰暦十月の亥(い)の日、また、その日に食べる餅及びその餅を食べて無病息災子孫繁栄を祈る「亥の子」「亥の子の祝い」と呼ばれる行事をも指す。西日本各地の農村部で広く行われる刈り上げ祝いの行事で陰暦十月の亥の日亥の刻に猪の多産にあやかり、また、万病を払う呪(まじな)いとして亥の子餅を食べ、子供たちが家々の庭先を石や藁束(わらたば)でついて回ったり、案山子(かかし)上げをしたりする。この日は田の神が山に帰る日とされている。もとはここに記されているように宮中の年中行事として行われた。十日夜 (とおかんや)とも言う。また江戸時代には、この日に炉や炬燵を開いて、火鉢を出す習慣があった。以上は複数の辞書記載を私が勝手に纏めたものであるが、私はこうした習俗環境に育たなかったことから全く知らないので、以下、ウィキの「亥の子」(いのこ)からもここまでの重複を厭わず引用しておきたい。亥の子とは旧暦十月(亥の月)の上(上旬=最初)の亥の日に行われる年中行事。玄猪(げんちょ)・亥の子の祝い・亥の子祭りとも呼ぶ。『主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る、などがある』。歴史的には古代中国に於いて旧暦十月亥の日亥の刻に『穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から、それが日本の宮中行事に取り入れられたという説』や、古代日本に於ける『朝廷での事件からという伝承もある。具体的には、景行天皇が九州の土蜘蛛族を滅ぼした際に、椿の槌で地面を打ったことに由来するという説である。つまりこの行事によって天皇家への反乱を未然に防止する目的で行われたという。この行事は次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、またこの日に炬燵等の準備をすると、火災を逃れるともされる』。『行事の実施形態はさまざまで、亥の子餅を食べるが石は搗かない、あるいはその逆の地方もある』亥の子餅は一般には旧暦十月亥の日亥の刻に食べるとする。『餅は普通のものや茹で小豆をまぶした物などが作られるが、猪肉を表した特別なものが用意されることもある』。また「亥の子石」と呼ばれる石が用いられる地方もある。これは旧暦十月の亥の日の『夕方から翌朝早朝にかけて、地区の子供たち(男子のみの場合もある)が集まり一軒一軒を巡って、歌を歌いながら平たく丸いもしくは球形の石に繋いだ縄を引き、石を上下させて地面を搗く。石の重さ』も一~一〇キログラムと『地方により異なる。地方によって歌の内容は異なるが、亥の子のための歌が使用される。歌詞は縁起をかつぐ内容が多いが例外もある。子供たちが石を搗くとその家では、餅や菓子、小遣いなどを振舞う。振る舞いの無い家では悪態をつく内容の歌を歌われることもある。石のほか藁鉄砲(藁束を硬く縛ったもの)を使う地方もある。藁鉄砲を使う事例により、東日本における旧暦』十月十日『に行われる同様の行事、十日夜(とおかんや)との類似性が指摘できる』とある。以下、引用元には各地方のこの時に歌われる「亥の子の歌」なども採録されているので必見である。

・「能勢氏」底本の鈴木氏注に、『遠祖国基の時から摂津国能勢郡を領し、能勢を家名とした。十五代の後、頼次の時豊臣家仕え、その邸が石田三成邸の隣家であったので、関ヶ原陣の初め家康のために諜報活動をした。大坂陣の後、能勢郡において五千三百石を領した』とある。岩波の長谷川氏注には、『頼直。能勢郡で四千石』とある。ウィキの「能勢氏」によれば、『戦国時代、能勢の丸山城を本拠として芥川山城や山城国の今里城などをも居城とするなど、その勢力を拡げ』天正一〇(一五八二)年の『本能寺の変では能勢頼次が明智光秀方に加勢するが、光秀滅亡後は能勢を追われ、先祖多田頼貞に所縁ある備前国内に潜伏したという』『豊臣秀吉の没後、頼次は弟である東寺の僧金剛院を介して徳川家康に召し出され』、慶長四(一五九九)年に家名を再興、『関ヶ原の戦いでは家康に属して戦功を立て』、能勢郡地黄(じおう)三千石余を『与えられて旧領を回復を果たした。のちに加増された結果、』石高は五千三百石余を数えたとある。『江戸時代、能勢氏は数家に分かれ、それぞれ旗本として存続した。能勢本家は地黄陣屋を拠点として』、四千石の『交代寄合として幕末に至った。また、幕末期には庶家を含め一族は』十四家を数え、総知行高は一万三千石を数えたとされる、とある。

・「内侍」律令制に於ける後宮の内侍司(ないしのつかさ:律令制の後宮十二司の一。天皇に近侍して奏請・伝宣の事にあたり、また後宮の礼式などをつかさどった。職員は総て女性)の尚侍 (しょうじ/ないしのかみ)・典侍 (てんじ/ないしのすけ)・掌侍(しょうじ/ないしのじょう)のことを指したが、平安中期以後は専ら最下級の「掌侍」のことを指すようになった。

・「神無月時雨のあめのあしことに我思ふ事かなへつゝつく」は、「つゝつく」の箇所は底本では右に『(つくつくカ)』と推定訂正注が附されてある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も確かに『つくつく』(後半は踊り字「〱」)である。底本の鈴木氏注には、『この歌の第五句は「かなへつくつく」であろう。つくつくは亥の子餅或いは臼をいう女房詞』とあり、岩波の長谷川氏注には、臼の意に『餅を搗くと掛ける』とある。いろいろ考えたが訳では意味を採りやすくするために「つくつく」とすることにした。以下、読みを添え及び表記を変えて示す。一種の言祝ぎの呪的な和歌と思われる。

 神無月(かみなづき)時雨(しぐれ)の雨の足(あし)毎(ごと)に我が思ふ事叶(かな)へつくつく

・「云ふ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も確かに『云々』である。その方が自然。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 能勢餅(のせもち)の事

 

[やぶちゃん注:岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では途中に、底本にはない一文とこの餅を搗くのに用いる臼の図がある。引用箇所をはっきりとさせて追加した。]

 

 能勢(のせ)氏一統の知行地の百姓、毎年、玄猪(げんちょ)前に禁裏へ餅米を献上致いて御座る由。

 それに係わって、禁中に於いて玄猪の夜(よ)に、内侍(ないし)の女房らが、以下のの歌を唄って餅を搗(つ)くことを御吉例(ごきちれい)となさっておらるる由。その唄は、

 

  神無月時雨のあめのあしごとに我が思ふ事かなへつくつく

 

[やぶちゃん注:以下の一行と図は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版のもの。]

この臼というのは左のような形をしているとのこと。

 

Nosemotiusu_2

 

 ここに記されているのが所謂、「能勢餅」というものと思われる。

 能勢頼直氏がある御仁に語ったことと聴いたが、なお、詳しく禁中有職(ゆうそく)の人に訊ねてみたいことではある。

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