北條九代記 卷第七 鎌倉失火
○鎌倉失火
同十月二十五日、晩景に及びて、大風、南より吹出でたり。相摸守時房の公文所より、火出でて、戌刻計(ばかり)、風愈(いよいよ)はしたなく、頻(しきり)に扇(あふ)ぎける程に、東は勝長壽院の橋の邊(ほとり)、西は永福寺の總門の内に至るまで燄(ほのほ)飛び、※(ひのこ)散りて吹迷(ふきまよ)ふ、煙に咽び、人畜(にんちく)の焼死(やけし)すること、數を知らず[やぶちゃん字注:「※」=「火」+「更」。]。右大將家、右京兆(うけいてう)の法華堂、竝に本尊等一時に灰燼となりにけり。同二十七日、評定所に於いて、式部大夫入道光西(くわうさい)、相摸大掾(のだいじよう)業時(なりとき)、執(しつ)しまうしけるは、「法華堂竝に本尊の災(さい)の事、假(たと)ひ理運の火災たりといふとも、關東に於ては愼み畏れ思召すべし。造營の事評定を經(へ)らるべきか」と。攝津守師員(もろかず)、隱岐〔の〕入道行西、玄蕃允康連(のじょうやすつら)、申しけるは「墳墓の堂は、炎上の後は、再興の例なし」と。是に依て、只、御助成(ごじよじやう)有りて寺家に仰付けらるべしと議定す。五大尊の像に於ては、將軍家の御願として造立あるべし。右大將家の法華堂は寺家に付(ふ)せられて再興あり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜三(一二三一)年十月二十五日・二十七日に基づく。
「戌刻」午後八時頃。但し、「吾妻鏡」(後掲)では『戌四尅』とあるから、午後九時から九時半頃になる。
「右大將家、右京兆の法華堂」「右大將家」「の法華堂」は現在の伝頼朝の墓左下方にあり、「右京兆の法華堂」は、恐らくはその東方の山麓(現在の伝頼朝墓の東にある大江広元墓や島津忠久墓へ上ぼる手前の空地)にあったものと推定される。
「式部大夫入道光西」評定衆伊賀光宗(みつむね 治承二(一一七八)年~康元二(一二五七)年)。既注であるが再掲する。伊賀朝光の次男。姉妹である伊賀の方が義時の後室となり、自身も政所執事を務めるなど、有力御家人として重用されたが、伊賀の変で信濃国に流された。この時既に四十六歳であったが、その後、政子の死後に罪を許されて所領を回復、寛元二(一二四四)年には評定衆に就任して幕閣への完全な返り咲きを果たした。参照したウィキの「伊賀光宗」の注によれば、『伊賀氏謀反の風聞については北条泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。伊賀氏の変は、影響力の低下を恐れる政子が義時の後妻の実家である伊賀氏を強引に潰すために創り上げた事件とする見方もある(参考文献:永井晋『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす』日本放送出版協会)』とあり、恐らく泰時もそうした真相を知っていたが故に、彼の所領を安堵したものであろう。ここに出る評定衆の中では彼のみが初代の構成員ではない。
「相摸大掾業時」評定衆佐藤業時(建久元(一一九〇)年~建長元(一二四九)年)。嘉禄元(一二二五)年に幕府に評定衆が設置された当初からの一員。仁治(にんじ)二(一二四一)年に落書の罪(「吾妻鏡」に載るが、具体的な内容は示されていない)で評定衆を罷免され、直後に鎮西に配流されたが、後に赦されて鎌倉に戻った。なお、教育社の増淵氏の訳では北条業時(泰時の弟重時の子)とするが、失礼乍ら、彼は仁治二(一二四一)年(或いは翌年)の出生で寛喜三(一二三一)年の本件の登場人物たり得ない。
「攝津守師員」評定衆中原師員(文治元(一一八五)年~建長三(一二五一)年) 鎌倉時代の幕府官僚。やはり初代評定衆の一員。
「隱岐入道行西」評定衆二階堂行村(久寿二(一一五五)年~嘉禎四(一二三八)年)。やはり初代評定衆の一員。父はかの重鎮二階堂(工藤)行政。行西は法名。
「玄蕃允康連」三善(太田)康連(建久四(一一九三)年~康元元(一二五六)年。やはり初代評定衆の一員。父はかの初代問注所執事三善康信。後の第四代問注所執事。
「理運の火災」「理運」は、そうなって当然と言わざるを得ない巡り合わせで、已むを得ない回禄の意。但し、「吾妻鏡」(後掲)には盗賊による放火の疑いがあるとあるから、もしそうだとすれば、仕方がない天災とは言えず、何だか少しおかしい気がする。
「墳墓の堂は、炎上の後は、再興の例なし」当時の武士階級の死生観を知る上でなかなか面白い発言である。ここには墳墓建立が財政を逼迫させる元凶であったことへの本音が見え隠れする。そもそもこの時期は実際、鎌倉御府内には墓所が増え過ぎて、都市計画の深刻な障害となりつつあった。事実、この後年、幕府は新規の墳墓の造立を公的に規制し始めるのである。
「五大尊」五大尊明王。一般に真言密教では不動明王を中心に降三世(ごうざんぜ)明王(東)・大威徳(だいいとく)明王(西)・軍荼利(ぐんだり)明王(南)・金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王(北)を配する(台密では金剛夜叉明王の代わりに烏枢沙摩(うすさま)明王を配す)。これは文脈からいうと、それを祀っていたのは頼朝或いは義時の法華堂ということになるが、「吾妻鏡」(後掲)にはこうした叙述は見られないので、やや不審である。勝長寿院に附属した五仏堂にこれを祀っていたが、この時は勝長寿院の橋の辺りまでしか延焼しておらず(後掲「吾妻鏡」参照)、違う。気になるのは、「吾妻鏡」のこの二十一日後の翌十一月十八日の条に、
〇原文
十八日庚子。將軍家御願五大尊像被奉造始之。師員。光西。康連等爲奉行云々。」今日。右大將家法花堂上棟也。此事被付寺家云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十八日庚子。將軍家御願の五大尊像、之を造り始め奉らる。師員・光西・康連等奉行たりと云々。
今日、右大將家法花堂の上棟なり。此の事、寺家に付せらると云々。
とあることである。「北條九代記」の本章の、この最後の部分、「是に依て、只、御助成有りて寺家に仰付けらるべしと議定す。五大尊の像に於ては、將軍家の御願として造立あるべし。右大將家の法華堂は寺家に付せられて再興あり」というのは実は、この二つの別々な記事(この二年後の文暦二年六月に落成する将軍頼経の祈誓になる御大堂明王院に祀られることになる五大尊像の造立開始記事と、頼朝の法華堂再興の棟上げ式の記事)を、無批判にこの回禄による明王院建立の延期を述べた部分(これは後掲するように「吾妻鏡」にははっきりと表わされているのである)に、無理矢理、カップリングして挿入してしまった二重の誤りによるものではなかろうか? 大方の御批判を俟つ。
以下、「吾妻鏡」巻二十七の寛喜三(一二三一)年十月二十五日・二十七日を続けて示しておく。
〇原文
廿五日丁丑。晴。及晩大風吹。戌四尅。相州公文所燒亡。南風頻扇。東及勝長壽院橋邊。西迄于永福寺惣門之内門。烟煙如飛。右大將家幷右京兆法花堂同御本尊等爲灰燼。凡人畜燒死不知其員。是盜人放火之由。有其聞云々。
廿七日乙夘。晴。相州。武州參評定所給。攝津守師員。駿河前司義村。隱岐入道行西。出羽前司家長。民部大夫入道行然。加賀守康俊。玄番允康連等出仕。式部大夫入道光西。相摸大掾業時。執申法花堂幷本尊災事。縱雖爲理運火災。於關東尤可怖畏思食之由。各進意見状。同造營事。被經評定處。如師員。行西。康連。墳墓堂等炎上之時。無再興例之由依申之。有御助成。可仰寺家之旨議定云々。又兩御願寺新造事。依此火災延引。爲第一德政之由。世以謳謌云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿五日丁丑。晴る。晩に及び、大風吹く。戌の四尅、相州の公文所、燒亡す。南風、頻りに扇(あふ)ぎ、東は勝長壽院の橋の邊りに及び、西は永福寺惣門の内門に迄(いたるまで)、烟煙、飛ぶがごとし。右大將家幷びに右京兆の法花堂、同じく御本尊等、灰燼と爲(な)る。凡そ人畜の燒死、其の員(かず)を知らず。是れ、盜人の放火の由、其の聞こへ有りと云々。
廿七日乙夘。晴る。相州・武州、評定所に參り給ふ。攝津守師員・駿河前司義村・隱岐入道行西・出羽前司家長・民部大夫入道行然・加賀守康俊・玄番允康連等、出仕す。式部大夫入道光西・相摸大掾業時、法花堂幷びに本尊災ひの事を執(と)り申し、
「縱(たと)ひ理運の火災たりと雖も、關東に於いて尤も怖畏(ふい)に思(おぼ)し食(め)すべし。」
の由、各々意見の狀を進む。同じく造營の事、評定を經らるる處、師員・行西・康連のごときは、
「墳墓堂等(とう)炎上の時、再興の例無し。」
の由、之を申すに依つて、
「御助成有りて、寺家(じけ)に仰(おほ)すべし。」
の旨、議定すと云々。
又、兩御願寺新造の事、此の火災に依つて延引す。第一の德政たるの由、世、以つて謳謌(おうか)すと云々。
・「相州」北条重房。
・「公文所」しばしばお世話になっている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の「参考」によれば、『当時は一棟一部屋なので、別棟であろう。大倉幕府跡』地にあったか、と推定されてあり、以下、「勝長壽院橋」については『現在の大御堂橋のあたりであろうか?』、「永福寺惣門の内門」については『門が二重にあったのだろうか?』とある。また、「東は勝長壽院の橋の邊に及び、西は永福寺惣門」とある部分については、『東西が反対ではないか?或いは筋替橋のあたりに永福寺の総門があったの』か? 若宮大路は東に二十七度も大きくぶれているのだが、『それを南北にあってるものと前提して考えると、又、永福寺総門が筋替橋あたりにあったとすると旧大倉幕府一帯が燃えたようだ』と付記されておられる。リンク先には地図も示されてあるので、必見である。
・「出羽前司家長」やはり初代評定衆の一人で、幕府宿老の中條家長(ちゅうじょう/なかじょういえなが 永万元(一一六五)年~嘉禎二(一二三六)年)。渡航した北宋で亡くなった天台僧成尋(じょうじん)阿闍梨の子で、藤原道兼の流れを汲む八田知家の養子。武蔵埼玉郡上中条(かみちゅうじょう)が本拠地で中条を名乗った。一ノ谷の戦いでは源範頼に従い、その後も源頼家・実朝・九条頼経に仕えた(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
・「民部大夫入道行然」二階堂行盛(養和元(一一八一)年~建長五(一二五三)年)。二階堂行政の孫で鎌倉幕府の政所執事、やはり初代評定衆の一人。父は行村の兄で政所執事であった二階堂行光。行然は法名。
・「加賀守康俊」三善(町野)康俊。仁安二(一一六七)年~嘉禎四(一二三八)年)。承久三(一二二一)年に父三善康信の後を継いで第二代問注所執事となり、初代評定衆に任じられた。父が近江日野荘町野に住いしていたことから町野氏を称した(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
・「謳謌」謳歌。恵まれた幸せを皆で大いに楽しみ喜び合うこと。]
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