志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅹ) R指定
[やぶちゃん注:以下の条には漢詩が現われるが、これに就いては白文でまず示し、次に底本にある訓点を施したもの(底本はこれのみ。但し、一部、従っていない箇所がある(例えば「陰」の後の送り仮名「ト」は私が附し、「逢」の後の送り仮名は「ウ」を「フ」に代えたりなど)。また、漢字の読み(ルビ)は排除してある。読み方は次の書き下しを参照されたい)を示し、現代語訳に訓点に従って書き下しものをここのみ特例で正字で示した。]
一 根岸老人には年ごとの春のはじめには下(し)もがゝりなる戲(ざ)れ書(がき)をなしける。この事は御老君がたもかねて知り給ふよしなれば、坊主衆などを以(もつて)「肥前守がこのはるの戲章(ぎしやう)は詩歌・發句(ほつく)などあるべし。吉例(きちれい)に相(あひ)かはらず取(とり)て來(きたつ)て見せよ」との御催促抔ありしとぞ。文化十酉年の春の笑(わらひ)ぐさとて見たりしは、
七十七の翁吉例にまかせて讀(よめ)る
老(おい)まさり千代をへのこもはる立(たち)ぬとしよりは先(まづ)一つ取るべし
又春興
宇宙年囘陽與陰 夜來相逢自沈々
玉鉾帶雨呑山巖 毒竜起雲穿海心
訥々艶聲響枕席 揚々細腰翻衣衾
一宵綢繆紅閨裏 老骨春情應識深
右 藤守臣草稿
●やぶちゃんの訓点附き
又春興
宇
宙 年 囘ル陽 與 陰ト 夜
來 相 逢フ 自ラ 沈 々
玉鉾帶レビテ雨ヲ呑二ミ山巖一ヲ
毒竜起レコシテ雲ヲ穿二ツ海心一ヲ
訥々タル艶聲
響二キ枕席一ニ 揚々タル細腰
翻二へス衣衾一ヲ
一
宵 綢 繆ス紅 閨ノ裏 老骨ノ春情應シレニ識レル深キヲ
右 藤守臣草稿
●やぶちゃんの書き下し
又、春興
宇宙 年囘(まは)る 陽と陰と
夜來(やらい) 相ひ逢ふ 自(おのづか)ら沈々(ちんちん)
玉鉾(ぎよくぼう) 雨を帶びて 山巖(さんがん)を呑み
毒竜(どくりやう) 雲を起こし 海心(かいしん)を穿(うが)つ
訥々(とうとつ)たる艶聲 枕席(ちんせき)に響き
揚々(やうやう)たる細腰(さいえう) 衣衾(いきん)を翻へす
一宵(いつしやう) 綢繆(ちうびう)す紅閨(こうけい)の裏(うち)
老骨の春情 應(まさ)に深きを識るべし
右 藤(とう)守臣(もりおみ)草稿
[やぶちゃん注:訳してもいいが、狂歌も狂詩もそのまま、妄想した方がよろしいと存ずる。以下、訳さなくてもボクネンジンにも分かるように注を施したつもりである。……しかし、根岸先生……なかなかに結構……お好き、で、し、た、な!……♪フフフのフ♪……
・「下もがゝり」所謂、バレ句の趣向、今で言う「下ネタ」の戯(ざ)れ言(ごと)であろう。「かかる」には、それに繫ぎとめる・纏わる・関係する・その領域に至るの意以外に、ずばり、動物が交尾するの意もある。
・「御老君がた」幕閣の長老や鎮衛と親しい大名などのことを指すのであろう。
・「坊主衆」御奥坊主・茶坊主のこと。武家の職名。江戸幕府は本丸・西丸ともに奥坊主及び表坊主をおき、茶室・茶席の管理、登城した大名らの案内、弁当・茶等の供応から、衣服・刀剣等の世話をした。剃髪・僧衣であるが、出家者ではなく武士階級に属した。
・「文化十酉年」西暦一八一三年。亡くなる二年前。それにしても満七十六とは思えない、バッキンバッキンの艶笑詞章である。
・「老まさり千代をへのこもはる立ぬとしよりは先一つ取るべし」「老(おい)まさり」は表面上、すっかり年老いてしまいの意の他に、後の勃起の「老い」に「勝る」の意を通わせてあろう。「へのこ」は「千代を経(へ)る」に陰茎の意の「へのこ」を掛け、「はる立ちぬ」は「春立ちぬ」を表にとしつつ裏で老いても「陰茎(へのこ)もしっかと張る」「へのこ(一物)が元気におっ立つ」を掛け、「としよりは先一つ取るべし」は、年寄りはまず一つまた年を取るようだ、という表の意の裏に――年のわりには、まず、この屹立した元気な一物をまずは年初の息災の証し、言祝ぎとして、徐ろに手に取って見ようぞ――というのであろう。因みに、私はこうしたバレ句では異様に読みの勘が鋭くなるような気がする。自慢じゃないが。訳では送り仮名を増やしたが、歴史的仮名遣は例外的に保持した。
・「又春興」これは前の狂歌とセットなのだろう。その「又」で意味はない。ぬくとい艶なる春の気に興じて詠めるの意。
・「宇宙」道家的な意味での森羅万象。天界。秩序世界。コスモス。「そら」と読みたくなるが、ここはあくまで「うちう(うちゅう)」と音読みしておこう。
・「年囘る」無為自然によって不可知の原理によって再び巡り来る春。
・「陽と陰と」本詩はあくまで字面上は、あくまで森羅万象(天然自然)の陰陽の気の離合集散による、変幻自在な現象を風景をイメージとして叙述している、という形を取って下ネタを響きとしては高雅にフェイクしているのである。
・「夜來」毎夜。夜毎。
・「沈々」深々。物音がなく静かなさま。特に夜が静かにふけてゆくさま。本来は「しんしん」と読むが――確信犯で一物の「チンチン」を掛けている。
・「玉鉾」玉で飾った両刃の剣に柄をつけた刺し突くための武器である鉾(ほこ)。その美称ではあるが――確信犯で一物の金玉と屹立せる男根である。
・「帶雨」言わずもがな乍ら、次の対句の「雲」と相俟って「雲雨の交わり」(男女の交情・性交の意。「巫山(ふざん)の雲雨」「朝雲暮雨」とも。宋玉の「高唐賦」で楚の懐王が高唐に遊んだ折りに、朝には雲となり、夕べには雨となるという巫山の神女を夢み、これと契ったという故事に基づく)で、秘め事に於ける男女の肉体の「潤い」をも暗示させる。
・「山巖を呑み」女性器の象徴及びコイツスのメタファー。
・「毒竜」一般には天災地異を起こす悪しき性(しょう)の龍。毒気を放つ龍の形状そのものも即物的に「玉鉾」と同様に男性器のシンボルとしたもの。
・「海心を穿つ」「海心」は水気に満ちた大海のその中央の意であろう。「山巖を呑み」の隠喩に同じい。
・「訥々」口ごもりつつ話すさま、言葉をとぎれとぎれに言うさま。寝間の睦言、喘ぎのオノマトペイア。
・「艶聲」アクメ声。“Acmé”はフランス語でコイツス時の快感の絶頂、オルガスムス(ドイツ語“Orgasmus”)。
・「枕席」枕と敷物の意から、寝室。閨(ねや)。
・「揚々」普通なら誇らしげなさま、得意げなさまであるが、この場合は、女性のエクスタシーに於ける腰遣いを指している。
・「細腰」女性の腰の細くてしなやかなこと。美人の形容。柳腰(やなぎごし)。
・「衣衾」衣服と夜具。
・「綢繆」現代仮名遣では「ちゅうびゅう」。ここではダイレクトに男女が睦み合い、くんずほぐれつなること。
・「紅閨」赤く塗って飾った婦人の寝室の意。漢詩に於いては深窓の令嬢の生活の譬えとしてよく使われる艶であると同時に高雅な語である。
・「藤守臣」既注であるが、根岸鎮衛は自序でそう記すように、しばしば「藤原守信」とも署名し、根岸氏が旧藤原姓であったということは諸家譜の藤原氏支流の部に入れてあることからも明らかである(本「耳嚢」底本の鈴木棠三氏解説に拠る)。草稿とはするものの、漢詩の署名としては孰れよりも相応しいものと言えよう。
・「春情」回春の情を掛ける。
■やぶちゃん現代語訳
一 根岸老人には、年ごとの春の初めには、これ――「下(しも)がかり」――と申さるる戯れ書きをなさるを好例とされて御座った。
このことは幕閣の御老君方(がた)も、これ、かねてよりよぅ存じ寄りのことの由なればこそ、毎春になると、これ決まって、奥坊主衆などに命ぜられて、
「――肥前守がこの春の戯章(ぎしょう)は、これまた、詩歌やら発句(ほっく)なんどまで、きっとあるに相違あるまい。吉例(きちれい)だなんだかんだと難しいことは一先ずおいてじゃ! 今まで通りに今年のそれを、肥前の許へ参って、取って来たって見せよ!」
との御催促など、これ頻りにある、とのことで御座った。
例えば、文化十年酉年の春の――お笑い種(ぐさ)――と申し、見せて戴いたものは以下の通り。
七十七の翁(おきな)、吉例にまかせて読める歌
老いまさり千代をへのこもはる立ちぬとしよりは先づ一つ取るべし
又 春興(しゆんきよう)
宇宙(うちう) 年(とし)囘(まは)る 陽と陰と
夜來(やらい) 相ひ逢ふ 自(おのづか)ら沈々(ちんちん)
玉鉾(ぎよくぼう) 雨を帶びて 山巖(さんがん)を呑み
毒竜(どくりやう) 雲を起こし 海心(かいしん)を穿(うが)つ
訥々(とうとつ)たる艶聲(えんせい) 枕席(ちんせき)に響き
揚々(やうやう)たる細腰(さいえう) 衣衾(いきん)を翻へす
一宵(いつしやう) 綢繆(ちうびう)す紅閨(こうけい)の裏(うち)
老骨(らうこつ)の春情 應(まさ)に深きを識(し)るべし
右 藤(とう)守臣(もりおみ)草稿
さて!?――如何?!――]
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