志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅹ)
一 翁は南の番所と唱ふる官邸たりしが、ある評定の日に北の官邸なる方の吟味に、町家のものより寺院を相手取(どり)たるうりかけの出入(でいり)あり。茶漬飯(ちやづけめし)のうりかゝり四、五十金のとゞこほりなるを、其かゝりの奉行、「茶漬めしの料(れう)には大金珍らし」と申されしを、翁かたはらより、「そはいづ方の町なりや」と問はれしに、「これは湯島天神のまへなる町なり」と答へられしかば、翁とみに「夫(それ)こそ子供の踊りを見過したるならん」と申されしによりて、かの出家顏をあからめ、「速(すにや)かに其滯りを濟し申(まう)さん」とこたへ上(あげ)たり。男色のうりものは子供踊りといへなるよし。
[やぶちゃん注:
・「北の官邸なる方」これはもう、親しく助言していることからも間違いなく盟友永田正道(まさのり)のことと思われるが、永田は結構、真面目一方の御仁であったらしいのぅ……♪ふふふ♪
・「うりかけ」「売(り)掛け」でツケのこと。
「湯島天神のまへなる町」男色を売る歌舞伎若衆を置いていた陰間(かげま)茶屋があった。ウィキの「陰間茶屋」に(注記号は省略した。下線やぶちゃん)、『江戸時代中期、元禄』(一六八八年~一七〇四年)年間の頃に『成立した陰間が売春をする居酒屋・料理屋・傾城屋の類。京阪など上方では専ら「若衆茶屋」、「若衆宿」と称した』とあり、『元来は陰間とは歌舞伎における女形(女役)の修行中の舞台に立つことがない(陰の間の)少年を指し、男性と性的関係を持つことは女形としての修行の一環と考えられていた。但し女形の男娼は一部であり、今でいう「女装」をしない男性の格好のままの男娼が多くを占めていた。陰間茶屋は当初芝居小屋と併設されていたが、次第に男色目的に特化した陰間茶屋が増えていった』。『売色衆道は室町時代後半から始まっていたとされるが、江戸時代に流行し定着』、『江戸で特に陰間茶屋が集まっていた場所には、東叡山喜見院の所轄で女色を禁じられた僧侶の多かった本郷の湯島天神門前町や、芝居小屋の多かった日本橋の芳町(葭町)がある。京では宮川町、大坂では道頓堀などが有名だった。江戸においては、上方から下ってきた者が、物腰が柔らかく上品であったため喜ばれた』という。『料金は非常に高額で、庶民に手の出せるものではなかった。平賀源内が陰間茶屋や男色案内書と』言うべき「江戸男色細見 菊の園」「男色評判記 男色品定」によれば、一刻(二時間)で一分(四分の一両)、一日買い切りで三両、外に連れ出すときは一両三分から二両かかったとある(因みにこの頃の一両は現在の五万円から十万円相当とされる)。『主な客は金銭に余裕のある武家、商人、僧侶の他、女の場合は御殿女中や富裕な商家などの後家(未亡人)が主だった』。『但し江戸幕府の天保の改革で風俗の取り締まりが行われ』、天保一三(一八四二)年には陰間茶屋は禁止されているとある。そして「陰間茶屋があった場所」の項には、湯島天神門前町に十軒ともあった。
「子供踊り」陰間茶屋のことを「子供茶屋」「子供宿」「子供屋」とも呼んでいたから、そうした男色行為を元の歌舞伎踊りから、暗に「踊り」擬えていたものであろう。
■やぶちゃん現代語訳
一 翁は南の番所と呼ばれた南町奉行所内の官邸にお住まいであられたが、ある評定の日のこと、たまたま北の官邸なる御方の御吟味にて、町家の者より、寺院を相手取った売り掛けに纏わる公事のあった。
これがまた、茶漬飯(ちゃづけめし)のツケの騒動にて御座ったが、その金額たるや、これ、実に四、五十両の支払いのない、と申す訴えであったによって、その月番の係であられた北町奉行の御方、
「……茶漬飯(ちゃずけめし)の代料(だいりょう)にしては……これ……如何にも大金……なんとも、珍らしきことじゃが?……」
と糾された。
ところが、たまたま、そのお白洲の場近くにあられて、それを聴かれた翁、これ、傍らより、
「……失礼乍ら……それは、何方(いずかた)の町でのことで御座るか?」
と問はれたところが、
「――いや、これは――湯島天神の前なる町――でのこととのことじゃが? 何か?」
と、北町の御奉行さまのお応えになられたところ、翁、即座に、
「――いやさ! それこそ――子供の踊りを――これ、見過ぎたということで御座いましょうぞ!」
と、呵々大笑なされて申されたところが、訴えられ、そのお白洲の場にあった出家、これ、蛸の如くに顔を真っ赤に致いて、
「……す、す、速やかに、そ、その滞りに、つ、つきましては、こ、これ、お支払致します、すれば……」
と、唾を呑んで答えたとのこと。
さても――男色の売り物はこれ――子供踊り――と当時は申して御座ったとか。……♪ふふふ♪……]
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