志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅺ)
この耳嚢の書は、往(いに)し年鵜殿(うどの)甚左衞門長快(ちやうかい)よりかりて見たりしが、寫(うつ)さまくおもひけれど、其頃いとまなくてたゞにかへし侍りし事本意(ほい)なかりしに、ことしはからずも坂井の君(きみ)がかり得たれば、とみに筆とりて勉(つとめ)ごとの暇(いとま)ある折折(をりをり)寫しとめぬ。そもそも根岸の翁とはしばしば親しくま見えて、なにくれとなく物語り抔せしからは、今その人無しといへども、このふみにむかへばさながらそのおもかげを見る如くにこそあれ。これかれを思ひめぐらすに僅かふたむかしの蹟(あと)にしあれど、根岸・永田の君(きみ)もろ共(とも)に身まかりたまへば、其子なる人たちもまたふたりながらなき人の數(かず)となりぬ。またそのころ予が講談のむしろに見えたりし人々も、死出(しで)の山路(やまぢ)を蹈分(ふみわけ)けて行(ゆき)しもおほし。實(げ)に哉(や)小町の歌に、「あるはなくなきはかずそふよの中にあはれいづれの日までなげかん」と讀(よめ)りしは、一唱三嘆すべし。さればこは世の中の習ひにて歎くべきことにあらず。また悲しむべきにも非ず。鶴龜(つるかめ)のよはひをことぶき、八千代をこめし玉椿(たまつばき)など聞えぬれど、皆盡(つく)る期(ご)あり。たゞむかしよりかはらぬものは月日(つきひ)のみ也(なり)。長嘯子(ちやいせうし)のうたに、「よゝの人月はながめしかたみぞとおもへばおもへば濡るゝ袖かな」とは、よく讀(よみ)かなへたりと謂(いひ)つべし。さらば何をかおもふとならば、古人言へることあり、「處レルハ世ニ若二シ大夢一ノ胡-爲レゾ勞二スル其ノ生一ヲ」と。むべなる哉(かな)、嗟乎(ああ)。
于※(ときに)天保三壬辰(みづのえたつ)年仲秋廿八日寫畢(うつしをはんぬ)
[やぶちゃん字注:「※」=「日」+「之」。]
叡址樵翁(えいしせうおう)志賀理齋識(しるす)
行年(ぎやうねん)七十一
[やぶちゃん注:識の跋文である。但し、実はここでこの「耳嚢副言」――終わらないのである。まだこの後――ここまでの分量の倍弱、「追加」として続く――マダ……楽シメル……
・「鵜殿甚左衞門長快」鵜殿長快(鵜殿はれっきとした姓である)。個人のサイト(と思われる)「夢酔獨言」のこちらに切絵図をも添えて(鵜殿の屋敷は「駿河台スヾキ坂」で現在の千代田区神田駿河台四―六)、『忠也派一刀流の遣い手』で、家録三百石の『御旗本、鵜殿甚左衛門長快(ながよし/ちょうかい)。
鵜殿式部長衛(ながもり)の惣領』。文化六(一八〇九)年には徳川家慶の正室喬子(たかこ)の御用人となり、次いで文化八年には御広敷御用人(大奥の取次役で例外的な男性職)。文政二(一八一九)年十一月没とあり、『その養子惣領は日米和親条約に調印した一人の鳩翁鵜殿甚左衛門長鋭(ながとし)で隠居していた幕末には新撰組前身の浪士隊責任者にも就く』とある。ウィキの「鵜殿鳩翁」をリンクだけしておく。ご覧の通り、この識を書いた時点では既に鬼籍に入っている。
・「坂井」不詳。同時代の「坂井」姓の儒者らを捜し、幾人かについて記そうとしたが、それぞれに同定するにはどれも大きな難点があり、記載は控えることにした。識者の御教授を乞うものである。
・「永田」しばしば出た根岸の知音にして同僚の北町奉行永田備後守正道(まさのり)。根岸の亡くなった四年後の文政二(一八一九)年四月二十二日、鎮衛と仲良くやはり現職のまま逝去した。
・「あるはなくなきはかずそふよの中にあはれいづれの日までなげかん」小野小町の「新古今集」第八百五十番歌。
題しらず
あるはなくなきは數そふ世の中にあはれいづれの日まで歎げかむ
……生きていた方は亡くなり、亡くなった方の数(かず)が増してゆくばかり……この無常の世の中に……ああ!……いったい何時(いつ)の日まで……この私は……嘆き続け……生き続けねば……ならぬのでしょう……
岩波の新日本古典文学大系田中・赤瀬校注「新古今和歌集」の注などによれば、「小町集」には前書を『見し人の亡くなりしころ』とし、「小大君(こおおいぎみ)集」「為頼集」「栄花物語」「続詞花和歌集」などでは小大君の詠とし、下句を「あはれいつまであらむとすらむ」と異にしている(この朧化表現よりも先の下句の方が遙かによい)。小大君は「こだいのきみ」とも呼び、平安中期の女流歌人で三十六歌仙の一人。三条院女蔵人(にょくろうど)左近の別称を持つ。生没年未詳。
・「八千代をこめし玉椿」「玉椿の八千代まで」とも。長寿を言祝ぐ詞として祝言や和歌などに詠まれる。玉椿はツバキの美称で、古来、長寿の木とされて末長くめでたい意を込めた。但し、この元は実在の椿ではなく、「荘子」の「逍遙遊篇」に載る中国の伝説上の大木の名「大椿(だいちん)」に由来する。大椿は八千年を春とし、八千年を秋とし、三万二千年が人間の一年に当たるという時間を持つ霊木とされ、ここから転じて「大椿」が長寿を祝って用いられ、そのままそれが実際の椿に転訛した。長寿を祝って、また、夫婦の長く変わることのない契(ちぎ)りを祝って言う。
・「長嘯子」備中足守藩第二代藩主木下勝俊(永禄十二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)の雅号。歌人としても知られた。ウィキの「木下勝俊」によれば、『歌人としての作風は、近世初期における歌壇に新境地を開いたものとされ、その和歌は俳諧師・松尾芭蕉にも少なからぬ影響を与えている』とある。
・「よゝの人月はながめしかたみぞとおもへばおもへば濡るゝ袖かな」これは、長嘯子の「挙白集」の「雜歌」に、
月の歌の中に
世々のひとの月はながめしかたみぞと思へば思へば物ぞかなしき
……遠い昔より、それぞれの世を生きた人々が思いに耽りながら眺めた月――だからこそ月は、その数えきれぬ人々の万感の思いを知るよすがなのだ。――そう思えば思うほどに、何と、もの哀しくなってくることだろう……
しばしばお世話になっている水垣久氏の「やまとうた」の「木下長嘯子」の同歌の「補記」に『「思へば思へば」は俗に墜ちず口語調を取り入れた未曾有の句。『挙白集』雑歌の部に収録。『集外三十六歌仙』では結句「ぬるる袖かな」』とある。正直言うと、私は「物ぞかなしき」の方が断然よいと思う。
・「處レルハ世ニ若二シ大夢一ノ胡-爲レゾ勞二スル其ノ生一ヲ」訓読すると、
世に處(を)るは大夢(たいむ)のごとし、胡爲(なんす)れぞ、其の生(せい)を勞(らう)する。
これは李白の以下の五言古詩の冒頭の二句である。
春日醉起言志 李白
處世若大夢
胡爲勞其生
所以終日醉
頽然臥前楹
覺來盼庭前
一鳥花間鳴
借問此何時
春風語流鶯
感之欲歎息
對酒還自傾
浩歌待明月
曲盡已忘情
●やぶちゃんの訓読
春日 醉(ゑ)ひより起きて 志しを言ふ 李白
世に處(を)るは大夢のごとし
胡爲(なんすれ)ぞ其の生を勞する
所以(ゆゑ)に 終日 醉ひ
頽然(たいぜん)として 前楹(ぜんえい)に臥す
覺(さ)め來りて 庭前を盼(なが)むれば
一鳥 花間(くわかん)に鳴く
借問(しやくもん)す 此れ何(いづ)れの時ぞ
春風に流鶯(りうわう)語る
之れに感じて歎息せんと欲し
酒に對して還(ま)た自(みづか)ら傾(かたぶ)く
浩歌(かうか)して 明月を待つに
曲 盡きて 已(すで)に情を忘る
簡単に語注を附す。
●「頽然」酔い潰れて崩れ倒れるさま。
●「前楹」堂宇(大広間)の正面の柱。
●「借問」お訊ねするが。文字通り酔った酔狂に興に乗って鳥に「今はさて? どの季節じゃ?」と問うたのである。
●「流鶯」(現代仮名遣は「りゅうおう」)木から木へと流れるように飛び移っては、また流麗な美声で鳴くウグイス。
●「浩歌」声高らかに歌うこと。
●「已に情を忘る」唄った曲の終る頃には既にして、何もかも、拘っていたつまらぬ気持ちなどこれ、大夢の如くに忘れ果て、消え去っていた。
・「于※(ときに)」(「※」=「日」+「之」)読みは底本の長谷川強氏の読みに拠った。「※」の字は不詳。「是」の俗字とも違うようだ。
・「天保三壬辰年仲秋廿八日」八月二十八日。グレゴリオ暦では一八三二年九月二十二日。
・「叡址樵翁」理斎の号の一つらしい。「理斎随筆」の序(文章は樗園主人撰)に書者として『叡北老樵』という署名が見られる。
・「行年七十一」くどいが、この「行年」死亡年ではなく、これを認(したた)めた時の数え年である。理斎はこの八年後の天保一一(一八四〇)年一月十二日に満七十八歳で亡くなった。
■やぶちゃん現代語訳
この「耳袋」という書は、過ぎし年、鵜殿(うどの)甚左衛門長快(ちょうかい)殿より借りて披見致いたことの御座ったが、書写致したく存じたれど、その頃、職務繁多にして、その暇(いと)まなく、そのままにお返し申し上げた。このこと、まっこと、本意(ほい)にて御座らなんだが、今年、図らずも坂井君(くん)が同書を借り得たによって、即座に筆を執り、勤めの暇まある折り折りに、これを総て写しおくことが出来た。
そもそも、根岸翁とはこれ、しばしば親しく見(まみ)得て、なにくれとなく物語りなどさせて戴いた因みの御座ったによって、今最早その御仁これ、この世にあられぬと雖も、この文章に向えばこれ、さながらその面影を髣髴として見るが如くにて御座る。
あれこれと思い巡らすに、たかだた僅か、ふたむかしほど前のことであったにも拘わらず――今や根岸・永田の両君(ぎみ)もろともに身罷りなされ、そのお子なる御方たちもまた二人、気がついて見ればこれ、白玉楼中の人の数(かず)と相い成って御座る。
また、その頃、私の講莚(こうえん)にて親しくお見受け致いた人々の中にも、既にして死出(しで)の山路(やまじ)を早や先へと踏み分けて行かれた方も、これ、多い。
まっこと、このこと、小野小町の歌に、
あるはなくなきは数(かず)添ふ世の中にあはれいづれの日まで歎かん
と詠んだことをば、一唱三嘆すべきことにてはある。
しかし寧ろ、翻って考えるならば、これは確かなる世の中の習いにして、実は歎くべきことにてはない、ということに思い至るのである。
されば同時に、残れる者の哀しむべきことも、これ、あるべきものにては――ない――。
鶴亀の齢いを言祝ぎ、八千代の長寿を込めた玉椿(たまつばき)――なんどと申せど、生きとし生けるものはこれ皆、必ず、その命の尽きる最期と申すものがこれ――ある――。
ただ、昔より変わらぬのはただ、日月(じつげつ)の運行のみである。
長嘯子(ちょうしょうし)の和歌に、
世々の人(ひと)月は眺めし形見(かたみ)ぞと思へば思へば濡るる袖かな
とは、よくぞ詠んだる、詠み得たるもの、と讃嘆致すべきものと謂うべきであろう。
さらば、何をか思う……と、ならば……そうさ、古人の李白、かく申した言の葉のある――
――世に在(お)るは大夢のごとし――胡為(なんす)れぞ其の生を労する――
と。
むべなるかな! ああっ!
時に天保三年壬辰(みずのえたつ)年仲秋二十八日 写し畢わんぬ
叡址樵翁(えいししょうおう)志賀理斎 識(しる)す
行年(ぎょうねん)七十一
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