志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 「追加」 (Ⅶ)
以上は、先にその近藤助八郎義嗣(よしつぐ)殿のために私、吉見が書き記したものである。さてもまた、我ら、志賀某(なにがし)の求めに応じて、翁が在りし日の御行状(ごぎょうじょう)や御嘉言(おんかげん)を思ひ出だいて、さらに以下に記すことと致す。]
[やぶちゃん注:直前にあるように、これは先の条々は、「耳のあか」の筆者で生前の鎮衛とも交流のあった御勘定組頭吉見儀助こと吉見義方の書き記したものを志賀理斎が「耳嚢副言」の「追加」として転写したものであるので注意されたい。]
一 翁性質奢侈(しやし)をいましめ、座右の調度皆卑下の品を備ふ。日々の勤(つとめ)肩輿(けんよ)に用ゆる烟草盆(たばこぼん)、陶器の大きやかなる火入(ひいれ)に曲物(まげもの)の臺をつけ、それに蔓(つる)もて提(さぐ)るやうになし、灰吹(はいふき)といふ物をも具(ぐ)せず。「唾(つばき)はみづから戸を明(あけ)て往來へはきても足(た)れり」と。されどあまりに見ぐるしと人のいふにまかせ、其(その)火入のかたはらに竹の筒を添へたるのみなり。退朝(たいてう)ののちも其器(うつわ)を左右に置(おき)て別に備ふるものなし。近親羽田何がしも御勘定吟味役たりしが、其器をまねびて常に用ひたり。
[やぶちゃん注:
・「肩輿」駕籠。それに乗った際に中で用いる携帯用の煙草盆を言っている。
・「火入」煙草に火をつけるための火種を入れておく器。
・「曲物」檜や杉の薄く加工したへぎ板を湾曲させて作る木製容器の総称。盆・桶・櫃・三方(さんぼう)などの日用容器に多く用いた。曲げ輪破(わつぱ)。
・「灰吹」煙草盆に付属した竹筒で、煙草の灰や吸い殻などを落とし込むもの。吐月峰(とげつぽう)とも呼ぶ。
・「退朝」日常、役所の勤務を終えて帰ること。鎮衛は生涯現役であったから、ゆめ致仕の意でとらぬように。
・「羽田何がし」不詳。因みに、この「耳嚢副言」本文クレジットよりも十一年後ではあるが、天保一四(一八四三)年のデータに羽田竜助利見なる人物が勘定吟味役にはいる(後に佐渡奉行)が、違うか。
■やぶちゃん現代語訳
一 翁の性質(たち)は、奢侈(しゃし)を戒め、座右の調度はこれ皆、至って市井の者の用いる安物を備品となさっておられた。
日々の勤めで乗用なさる駕籠の中で用いらるる携帯用の煙草盆もこれ、陶器のずんぐりとした火入れに、曲げ物で台を拵え附け、それに藤蔓(ふじづる)を以って取っ手となし、ぶら提げるようにした手製のものにて、灰吹きといった物をも備えっておらなんだ。
常日頃より翁、
「――唾(つばき)なんどというもんはこれ、自ずと駕籠の戸を開けて往来へ吐けば、十分じゃ。」
と言うておられたからであったが、ある折り、
「……お畏れながら……御奉行様なればこそ、それはあまりに見苦しきことと存じまする……」
と人の申したに任せ、それよりは、その火入れの傍らに小さき竹の筒を添え附けられた。それでも、ただそれだけの、まことに素朴なること、これ、変わらぬ品にて御座った。
退庁なさってからでも、自邸にあっても、これ、相変わらず、その器(うつわ)を身近にお置きになられ、それ以外には、別に常備なさるる品というもの、これ、全く御座らなんだ。
因みに、鎮衛殿の御近親の羽田何某(なにがし)殿も――今、御勘定吟味役であらるるが――その器を真似て、常に用いておらるる。]
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