甲子夜話卷之一 34 常憲廟、酒井雅樂頭死去の時御恚、上使幷彼家取計の事
34 常憲廟、酒井雅樂頭死去の時御恚、上使幷彼家取計の事
彦阪九兵衞〔寛政の比御先手頭、今西丸御留守居にて大膳亮と云〕訪來り談話のついで、彼が祖先のこと申出し中に、憲廟潛邸の御時、酒井雅樂頭に愾深くおはしましき。然るゆへにや、大統繼せ玉ひし後、雅樂頭病死しけるが、腹切りて死せりと風聞す。九兵衞が祖、此時大目付にて有りしを、御前に召れ、御目付北條新藏と同じく命ぜられ、急ぎ雅樂頭が宅に赴て、彼が死骸の樣躰見屆來れとの仰なり。兩人速に雅樂頭が宅に到る。此時藤堂大學頭は雅樂頭の聟なりしが來り居て、上使と承り出迎ひぬ。兩人件の趣を大學頭にいふ。大學頭答て、上意の趣は謹て承り奉りぬ。雅樂頭は先剋病死仕り候に相違無レ之候といふ。兩人又曰、病死のことは素より上聞に達しぬ。某等來る故は、只死骸を見分の爲なりといふに、大學頭承引せず。武士の一言固より相違有るべからず。假令死骸見玉ふとも、病死の外他義なし。此義は大學頭申候旨、罷歸り上聽に達せらるべし。もし上意に背玉ふとならば、大學頭一人代りて御勘氣を蒙るべし。各達の無念にあらずといゝきり、もし再いはゞさしちがふべき樣子なれば、二人立歸り其次第を言上す。其時、言甲斐なき事どもなり。如何樣に候とも、蹈込死骸を見屆罷來れと、御氣色はげしくの玉ふまゝ、二人また雅樂頭が宅へ馳せ行に、はや雅樂頭は葬送取行ひ、其棺、門へ出るに遇ひぬ。然るゆへに馳歸り、又其よしを言上すれば、憲廟御氣色殊に損じ玉ひ、然らば葬所へ參り死骸を掘出し、蹈碎きて罷歸るべしと命ぜらる。二人遂に雅樂頭が寺に行きて、上意の趣申述たるに、葬送に從へる臣等、謹て申は、雅樂頭遺言の旨により、既に火葬し畢るとなり。兩人すべきやうなく、都城に歸りかくと言上す。其まゝにて御沙汰もなかりしとなり。大學頭の上使に答申して、速に出葬せしも、臣等が火葬して其由を答しも、すべて此頃の人のありさまは、感歎にも餘りある事どもなり。
■やぶちゃんの呟き
「恚」「いかり」。
「彼家取計の事」「かのいへとりはからひのこと」。
「常憲廟」は第三代将軍家光の四男で第五代将軍の徳川綱吉のこと。諡号である常憲院に基づく。
「比」「ころ」。
「御先手頭」先手組(さきてぐみ)のこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約十組と筒組(鉄砲組)約二十組の計三十組で、各組には組頭一騎、与力が十騎、同心が三十から五十人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。
「西丸御留守居」老中支配で、大奥の取締や通行手形の管理、将軍不在時の江戸城保守を担当した、旗本で任じられる職としては最高位であった。
「訪來り」「たづねきたり」。
「潛邸」とは、本来は中国で国王が即位する前に暮らしていた私邸を指す。彼は延宝八(一六八〇)年五月満三十四歳の時に跡継ぎのいなかった第四代将軍家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月に家綱が四〇歳で死去するとともに八月に将軍宣下となったから、狭義にはこの三ヶ月の間となる。但し、実際には上野館林藩主であった時代も、ほとんどずっと江戸住まい(初期は竹橋、後に神田の御殿)であったし、「邸」という表現辺りからも、もっと前から神田御殿に住まっていた頃からの悪因縁があったものであろう。
「酒井雅樂頭」酒井忠清(寛永元(一六二四)年~天和元年五月十九日(一六八一年七月四日))。上野厩橋藩第四代藩主。第四代将軍徳川家綱の治世期の大老。三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で家康・秀忠・家光の三代に仕えた酒井忠世の孫。延宝八(一六八〇)年八月に綱吉が将軍となって三ヶ月ほど経った十二月九日には病気療養を命じられ、大老職を五十五歳で解任されている。翌天和元(一六八一)年二月二十七日に隠居、五月十九日に死去、遺体は龍海院(現在の群馬県前橋市)に葬られた。以上はウィキの「酒井忠清」に拠るが、その「人物」の項には『忠清は鎌倉時代に執権であった北条氏に模され、大老就任後は「左様せい様」と称される将軍・家綱のもとで権勢を振るった専制的人物と評される傾向にある。また、伊達騒動を扱った文芸作品など創作においては、作中では伊達宗勝と結託した極悪人として描かれてきた。酒井家は』寛永一三(一六三六)年に『江戸城大手門下馬札付近の牧野忠成の屋敷が与えられ、上屋敷となっていた。下馬札とは、内側へは徒歩で渡り下馬の礼を取らなければならない幕府の権威を意識させる場所であり、大老時代の忠清の権勢と重ね合わせ、没後の綱吉期には下馬将軍と俗称されたことが、『老子語録』、『見聞随筆』などの史料に伺える。また戸田茂睡の執筆した『御当代記』にも、忠清が下馬将軍と呼ばれていたという記述がある』。『また、家綱の危篤にあたって、鎌倉時代の例に倣って徳川家・越前松平家とは縁続きである有栖川宮幸仁親王を宮将軍として擁立しようとしたとされ、これは徳川光圀、堀田正俊などの反対にあい、実現しなかったという。これは、家綱の弟の綱吉の資質に疑問を持ったためとも、あるいは家綱の側室が懐妊中で、出産までの時間稼ぎをしようとしたためともいわれる。宮将軍擁立説は『徳川実紀』をはじめとした史料に見られ通説として扱われてきたが、近年では歴史家・辻達也の再評価があり、失脚後の風説から流布したものであるとする指摘もある』。『綱吉が将軍に就任すると大老を解任され、越後騒動の再審が進められる中、忠清は解任からわずか1年後に突如没したため、綱吉は自殺ではないかと疑問を抱き、「墓を掘り起こせ」と命じるまでに執拗に何度も検死を求めたというが、酒井家や縁戚関係のある藤堂高久らは言い訳を使いながらこれをかたくなに拒否した。そのため忠清の死は尋常でなかったとする憶測を呼んでいる。ただし、遺体は前橋で荼毘に付されているため、後世の創作ともされる』。但し、享保六(一七二一)年に『成立した『葛藤別紙』には忠清の逸話が収録され』ているが、そこには慶安四(一六五一)年、『忠清は上洛し、板倉重宗の家来に案内されて東山を見回った。すると、物乞いを救うための小屋が大勢建設されていた。これは物乞いを救うための小屋だと聞かされた忠清は「まことの仁政とは、物乞いを救うための小屋を建てることではない、物乞いがそもそも存在しないような世を作ることではないか」と語ったという。この話は信憑性が怪しいが、酒井忠清に対する評価が必ず否定的なものばかりではなかった証ともとれる』ともある。因みに酒井家上屋敷は現在の千代田区丸の内にあった。
「愾」「いかり」。
「大統」将軍職。
「繼せ」「つがせ」。
「大目付」老中支配で一切の幕政を監察し、大名・寄合・高家の監視も行なった。任命されたのは旗本であったが大名統制も行うため、その待遇は大名並みで旗本が任じられる職では留守居・大番頭に次ぐ重職であった。
「御目付」若年寄支配で旗本・御家人の監察を担当した。
「樣躰」「やうたい」。
「藤堂大學頭」伊勢津藩の第三代藩主藤堂高久(寛永一五(一六三八)年~元禄元(一七〇三)年)。ウィキの「藤堂高久」によれば、『大老・酒井忠清の娘を正室としていたため』、『忠清が急死した際には、その死因を疑った徳川綱吉の派遣した目付に遺族代表として折衝し、後にその遺児の女子を養女にした。当時は大名家の取りつぶしが多く、忠清の娘、亀姫との結婚にも見られるように保身のため幕閣に接近、綱吉の学問講義や柳沢吉保邸下向に陪席するなどした。特に吉保への接近ぶりは池田綱政、細川綱利、松平頼常などとともに「柳沢家の玄関番」とあだ名されるほどのこびへつらいようであったという。そのため吉保に足元を見られたのか、後に津藩は吉保の次男を養子に押しつけられそうになる(家臣が切腹して抗議したため、回避されることとなった)』とあるが、しかし、『新田開発水利事業を行なった』ことから『領民の評判は良く』、また一書には『「当代の名将であり、良将と言ってもまだ足りない。他将の鑑と言っていい」とされている』とある。
「假令」「たとひ」。
「上聽」「じやうちやう」。
「背」「そむき」。
「各達」「おのおのたち」。
「蹈込」「ふんごみ」。
「蹈碎きて」「ふみくだきて」
「畢る」「をはる」。
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