耳嚢 巻之十 冥之道歌の由人の持來りしを認候事
冥之道歌の由人の持來りしを認候事
愚中及(ぐちうきゅう)和尚自省身(みづからみをかへりみる)の歌に、
何事も身の報いぞと思はずば人をも身をも恨はてまし
冥 之
□やぶちゃん注
○前項連関:坊主の狂歌で連関。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「冥之」の下に花押が入っているので、そこをトリミングして本文にも配した。「耳嚢」中、最も短い条と思われる。
・「冥之」「めいし」。人に知られぬように努力すること或いは人に知られぬように心底に決意することを言う「冥冥之志(めいめいのこころざし)」によるものであろう。「冥冥」は暗いさまから、人に知られないことの意で、これは「荀子」の「観岳」篇に基づく。如何にも禅僧好みの号ではある。当初、愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう/次注参照)の号と思い込んで何とも思わなかったのであるが、幾ら調べても周及の号にはない。しかもこれ、どうもどこかで別な禅僧の号として見かけた幽かな記憶があった。「冥之 禅僧」で検索を掛けて発見! 「冥之」は愚中周及ではなく江戸前期の同じ臨済宗のかの名僧沢庵宗彭(たくあんそうほう 天正元(一五七三)年~正保二(一六四六)年)の号だ! とすれば諸本は一切注しないが、この歌は愚中周及のそれではなく、ずっと後代の沢庵宗彭作の道歌ということになる。大方の御批判を俟つ。
・「道歌」「だうか(どうか)」は主に教導を目的とした道徳的教訓的な短歌。
・「愚中及和尚」底本の鈴木氏注に、『周及。愚中は字。岐阜の人。春屋妙葩に師事、鑑翁、竜湫(玄朔)、黙庵学び、暦応四年元に入り、曹源寺の月江印に参じ、愚庵の二字を与えられた。これを号とし、後改めて愚中と号した。観応二年帰朝。安芸仏通寺を開く。足利義持の帰依を得たが煩をいとって遁れ、のち丹波天寧寺に住し、応永十六年寂。八十』とある。暦応四年(興国二年)は西暦一三四一年、観応二・文和元年(正平七年)は一三五二年、応永十六年は一四〇九年。若干鈴木氏の記載とデータが異なるのでウィキの「愚中周及」も引いておく。愚中周及(元亨三(一三二三)年~応永一六(一四〇九)年)は、『南北朝時代の臨済宗の僧。美濃国の出身。愚中は道号。周及は諱。諡号は仏徳大通禅師』。七歳で寺に入り、十三歳で『京都臨川寺の夢窓疎石に師事して出家した。その後春屋妙葩に学ぶ。比叡山において戒を受け、京都建仁寺を経て』、康永二(一三四三)年(年)に『天龍寺船で中国元に渡った』。観応二(一三五一)年に『帰国した後、京都南禅寺・丹波国天寧寺などを経て』、応永二(一三九五)年、『小早川春平の開基により、安芸国に佛通寺の開山となった。その後、将軍足利義持に請われて上洛』、応永一六(一四〇九)年に『紫衣を下賜された。同年、天寧寺にて死去』とある。春屋妙葩は「しゅんのくみょうは」と読む。夢窓疎石の知られた弟子である。
・「何事も身の報いぞと思はずば人をも身をも恨はてまし」「…(せ)ば~まし」で反実仮想。岩波の「人をも身をも恨はてまし」の部分への長谷川氏注に、『(思わなかったら)恨んでしまうことだろうに。「あふことのたえてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし』(中納言朝忠、拾遺集・恋一。百人一首)の下句のもじりか』とある。この場合、「身の報い」とは現世のそれではなく、前世の因果応報。禅僧が恋歌を捩(もじ)ったとするところに面白味があるとは言えるが、あんまり私は「耳嚢」に載せて面白い道歌とも思われない。因みに、ストレートな類歌なら日蓮の、
何事も己の因果の報いぞと思ふ心が佛なりけり
というのがあり、たまたま私の家の谷を隔てた向かいにある日蓮宗久成寺の門前に今張り出されてある。流石に禅僧、並べてみると、日蓮の悟り切ったような直球の臭さよりは、仄かに捩じれた人の血が通っているようには読める。しかしどうも、この手の道歌には私は何か妙な不快感を感じる。それはきっと都合が悪いとすぐに――自己責任の意識のない奴はすぐに人のせいにする――と批判する、今の日本政府のいろいろな場面での、それこそ手前勝手な恨みを含んだ公式脅迫見解と相い通ずるから、かも知れない。……
■やぶちゃん現代語訳
禅僧冥之(めいし)の道歌(どうか)の由、人の持ち来たったるを認(したた)めて御座った事
愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)和尚が「自ら身を省みる」と前書する歌に、
何事も身の報いぞと思はずば人をも身をも恨みはてまし
冥 之