『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 杉本觀音堂
●杉本觀音堂
大藏觀音ともいふ。大倉往還の北にあり。天平六年。行基剏建にて坂東(ばんどう)三十三觀音の内第一番の札所なり。本尊十一面觀音三軀(く)を置き。運慶作の同体(どうたい)を前立とす。緣起によれは。是建久二年九月。賴朝か納めしものなり。此餘釋迦〔天竺佛〕毘沙門〔宅間作〕等を安す堂に杉本寺の額をかく。太平記天正本に。斯波三郎家長軍利なふして。杉本觀音堂にて切腹とあり。
[やぶちゃん注:金沢街道に面した天台宗大蔵山(だいぞうざん)杉本寺。本寺は古くは「大倉観音堂」と呼ばれていたことが「吾妻鏡」によって分かる。「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年十一月二十三日の条に、
〇原文
廿三日己卯。冴陰。終日風烈。入夜。大倉觀音堂回祿。失火云々。別當淨臺房見煙火涕泣。到堂砌悲歎。則爲奉出本尊。走入焰中。彼藥王菩薩者。爲報師德燒兩臂。此淨臺聖人者。爲扶佛像捨五躰。衆人所思。万死不疑。忽然奉出之。衲衣纔雖焦。身體敢無恙云々。偏是火不能燒之謂歟。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿三日己卯(つちのとう)。冴え陰(くも)る。終日、風烈し。夜に入りて、大倉觀音堂回祿す。失火と云々。
別當淨臺房、煙火を見て涕泣し、堂の砌(みぎ)りに到りて悲歎す。則ち、本尊を出し奉らんが爲に、焰の中へ走り入る。彼の藥王菩薩は、師德に報ぜんが爲兩臂(りやうひ)を燒かれ、此の淨臺聖人(しやうにん)は、佛像を扶(たす)けんが爲、五躰を捨つ。衆人の思ふ所、万死を疑はざるに、忽然としえ之を出だし奉る。衲衣(なふえ)、纔(わづ)かに焦げると雖も、身體敢へて恙無しと云々。
偏へに是れ、火も燒くに能はずの謂ひか。
という奇跡の記述があるが、これがこの杉本寺である。この条中の「藥王菩薩」はウィキの「薬王菩薩」に、『薬王菩薩本事品では、薬王菩薩の前世は、一切衆生喜見菩薩といい日月浄明徳如来(仏)の弟子だった。この仏より法華経を聴き、楽(ねが)って苦行し、現一切色身三昧を得て、歓喜して仏を供養し、ついに自ら香を飲み、身体に香油を塗り焼身した。諸仏は讃嘆し、その身は』千二百歳まで『燃えたという。命終して後、また同じ日月浄明徳如来の国に生じ、浄徳王の子に化生して大王を教化した。再びその仏を供養せんとしたところ、仏が今夜に般涅槃することを聞き、仏より法及び諸弟子、舎利などを附属せられた。仏入滅後、舎利を供養せんとして自らの肘を燃やし』、七万二千歳に渡って供養したという、とある。……なお、私はこの寺については……いかにもな現代の生臭いいやなゴシップをも知っている。……いつかあなたと行くことがあれば、お話致そうぞ……
「天平六年」西暦七三四年。これを以って鎌倉最古の寺とされる。
「大藏觀音」これは「おほくらくわんのん(おおくらかんのん)」と読むはずである。
「剏建」「さうけん(そうけん)」と読む。創建に同じい。
「運慶作の同体(どうたい)を前立とす」「同体」というのは本尊(現在、伝行基・伝慈覚・伝恵心の三体の十一面観音立像があるが、伝行基のものを具体的に指すか。それとも単に形而上的な観音菩薩の鏡像の意か)のそれと同体の意であろう。ウィキの「杉本寺」によれば、中央の像(像高百六十六・七センチメートル)は『寄木造、漆箔仕上げで、円仁(慈覚大師)作と伝承され、衣文に平安時代風を残すが、鎌倉時代に入っての作とみられる。中尊の左(向かって右)の十一面観音立像』(像高百四十二センチメートル)は『寄木造、漆箔仕上げで、源信(恵心僧都)作と伝承されるが、実際の制作年代は鎌倉時代である。右(向かって左)の十一面観音立像』(像高百五十三センチメートル)は『行基作と伝承されるもので、素木の一木造であり、3体の中ではもっとも古様で、平安時代末期の作と推定される。作風は素朴で、ノミ痕を残す部分もあり、専門の仏師ではない僧侶の作かと推定されている。中央と左(向かって右)の像は国の重要文化財に指定されている。伝・行基作の十一面観音像は、伝説に基づき「覆面観音」「下馬観音」の別称がある。昔、馬に乗ったまま杉本寺の門前を通ろうとすると必ず落馬したが、蘭渓道隆(大覚禅師)がこの観音像の顔を袈裟で覆ったところ、落馬する者はいなくなったとの伝承から、前述の別称が生じた』。『このほか、前立十一面観音像は源頼朝の寄進と伝えられるもので』、一応、伝運慶とはされている(運慶工房か、その流れを汲む一派の手になるものの可能性はある)。これらの仏像の配置については杉本寺公式サイトの「本堂」を参照されたい。
・「建久二年」西暦一一九一年。「吾妻鏡」では、この年の九月十八日の条に、
〇原文
十八日甲子。幕下御參大倉觀音堂。是大倉行事草創伽藍也。累年風霜侵而甍破軒傾也。殊有御憐愍。爲修理。以准布二百段奉加之給。
〇やぶちゃんの書き下し文
十八日甲子。幕下、大倉觀音堂へ御參す。是れ、大倉行事草創の伽藍なり。累年、風霜、を侵して、甍(いらか)破れ、軒を傾くなり。殊に御憐愍(ごれんみん)有りて、修理の爲に、准布(じゆんぷ)二百段を以つて之を奉加(ほうが)し給ふ。
と頼朝の奉加を記すから、この仏像寄進も強ち、出鱈目とは思われない。条中の「准布」は、布銭のこと。何匁で何と交換できるか、布に換算したもので、当時、所謂、貨幣は鎌倉御府内では一般的な流通をしていなかった。
「宅間」宅間法眼(ほうげん)或いは詫磨派という、平安時代後期絵仏師及びその一派。
「斯波三郎家長」(しばいえなが 元応二(一三二一)年~延元二/建武四(一三三八)年)は南北朝期の少年武将。斯波高経長男。ウィキの「斯波家長」によれば、『父と共に一門として足利尊氏に仕えた。中先代の乱の後、尊氏が建武の新政に反抗し争乱が勃発すると北朝の北畠顕家に対抗するため』、建武二(一三三五)年に奥州管領任ぜられた。『この時斯波館(岩手県紫波郡)に下向したという。尊氏が箱根・竹ノ下の戦いで征東軍を破り上洛する際、鎌倉に残した嫡男義詮の執事に任ぜられた。顕家が南下を開始すると後を追ったものの食い止めるのに失敗』、『京都において尊氏が敗走する原因を作ってしまった』。延元元/建武三(一三三六)年には『蜂起した北条氏残党を討伐し』『豊島河原合戦で尊氏を破った北畠顕家が奥州へ帰還するため東海道を行軍すると妨害したが、破られ』ている。延元二/建武四(一三三七)年に『尊氏は九州を制し再び上洛、北朝を立てた尊氏を討伐するため、再び大軍を率いて南下してきた顕家を鎌倉で迎え撃つが、敗北し戦死した(杉本城の戦い)』。『後任の奥州総大将と関東執事には石塔義房、上杉憲顕が派遣された。奥州総大将と関東執事は後に奥州管領、関東管領にそれぞれ発展する』。彼は腹を切った時、未だ十七歳であった。]
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