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« 耳嚢 (根岸鎮衛自跋) | トップページ | 志賀理斎「耳嚢副言」附やぶちゃん訳注 (Ⅰ) »

2015/04/08

「耳嚢」吉見義方識語

以下を以って、「耳嚢」の底本とした三一書房一九七〇年刊「日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞」に載る「耳嚢」原文は総てを電子化し、訳注を終えた。




 (吉見義方識語)

 

 根岸前肥州太守藤原鎭衞、別號守臣(もりおみ)翁は、御代官安生(あんじやう)太左衞門定洪(さだひろ)の二男にして、元文二年丁巳(ひのとみ)をもて生れ、文化十二年乙亥(きのとゐ)七十歳にして卒す。定洪はじめ相模國津久井縣若柳邑(わかやなぎむら)の産にして、御徒(おかち)安生彦左衞門定之(さだゆき)の養子となり、御徒に召加(めしくは)へられ、のち組頭(くみがしら)に轉じ、猶(なほ)篤行のきこえありしかばたゞちに御代官に擢選(ばつせん)せられ、拜謁の士に列し、其長男直之(なをゆき)は、御勘定評定所留役、御藏の奉行等を經て、つゐに布衣(ほい)の上(うへ)士に昇り、御船手を勤む。根岸家は九十郎衞規(もりのり)とて、廩米(りんまい)百五十苞(ひやう)の祿にして、もとより拜謁の士たれども、いまだ小普請に在るのうち、若うして病(やまひ)篤く易簀(えきさく)に臨み、守臣翁を養ひ子として遺跡をつがしめん事を請ひ置(おき)、死せしかば、翁其家を繼(つぎ)、小普請の士より御勘定につらなり、評定所の留役をかねて、うたへ事を糺し、いく程なく組頭にのぼり、凌廟の日光山に參らせ給ふ事にあづかり、後(のち)御勘定吟味役にすゝみ、布衣の上(うへ)士に列し、又佐渡奉行に擧(あげ)らる。此時秩祿(ちつろく)を加增せられて二百苞の家祿となり、今の御代となりて、御勘定奉行に轉ず。時に恒例を以(もつ)て、從五位下肥前守に敍任あり、家藏五百石に加恩あり、はじめて采地(さいち)を賜ひ、在職のうち祿三千石たり。つゐに町奉行に移り、年久しき勤勞を慰(い)せられて、食邑(しよくいう)五百石を増し賜はり、千石の家祿となれり。在職の祿故(こ)の如し。御勘定たりし時より、おなじき奉行たるに至るまで品々營作土功の事をうけたまはり、落成の度毎に、褒賜(はうし)ある所の黄金通計(つうけい)二百六十枚に及ぶとかや。かゝる繁勤(はんきん)のいとまに、うち聞く所の巷説、兒輩(じはい)のわざくれに至るまで、耳にとまれるくさぐさを筆記し、ひそかに名づけて耳嚢とし、其條々ほとほと千有餘に滿ち、卷をわかちて六帖とす。かりそめの物すらしかなり、されば國務に有用の事を編集ありしは、いくばくならん事、おして知るべし。人となり大量(だいりやう)にして小事(しやうじ)にかゝはらず、鎖細(ささい)の事に力(ちから)を入れず。朝夕近づくる配下の屬吏の姓名をだに、彷彿(はうふつ)として記憶せざるが如し。されど德化を及ぼし、下情を上達し、選擧必(かならず)其人を得たりしは、またく※頗の私情なきによるもの歟(か)[やぶちゃん字注:「※」=「扁」+「頁」。]。常に大聲にして私言を好まず。常の言にいはく、小音にして事を談ずるは、謹愼の如しといへども、多くは人情輕薄によるか、或は人に害ありて、をのれが利あらん事を思ふが故に他聞を憚るより起れりと。其(その)私(わたくし)なき、此一言をもても思ふべし。

 翁男衞肅(もりよし)は、近藤氏の女をめとれり。四男三女を生む。其末女又近藤氏のむまご義嗣(よしつぐ)の先妻たり。義嗣子(し)かゝるちなみあるにより、門外不出の書たりといへども、此書を謄寫(とうしや)する事を得て、をのれ義方に示さる。をのれ又はやくより翁に値遇(ちぐう)せるも、亦近藤氏の因(ちなみ)によれり。これ彼(かれ)思ひはかれば、いといと餘所(よそ)ならず。欣慕(きんぼ)のあまり、數言をこゝに贅(ぜい)す、穴かしこ。

  あやあるまつりことてふこゝのつのとし、

  長月すゑつかた、時雨めきる日小(お)

  ぐらき窓下にしるす。

             吉見義方 花押

 

□やぶちゃん注

 ここでは鎮衛の出自が語られ、底本の編者鈴木棠三氏は膨大な量の注を附されておられる。これはどれも彼の生活史を知る上で非常に重要なものであるので、著作権侵害の嫌いはあるものの、敢えて多くの引用を底本注からさせて戴いていることを最初にお断りしておく。現代語訳は読み易さを考え、適宜、改行を施した。

・「(吉見義方識語)」原典には標題がなく、「吉見義方識語」は編者鈴木氏が新たに附したものであるので丸括弧を附した(訳では外して「耳嚢」を冠した)。底本のここの鈴木氏注には、この識語は文政九(一八二六)年九月末の執筆で(最後の「あや(文)あるまつりこと(政)てふこゝのつ(九)のとし」「長月すゑつかた」である)、『三村本の巻六の末に存するもの』とあり、『義方は有名な蜀山人の甥にあたり、狂歌人としても名のあった人物。鎮衛の嗣子』である根岸杢之丞衛粛(もくのじょうもりよし)『の妻の実家近藤家は、根岸家と重縁関係を結んだので、その当主となった』近藤『義嗣は根岸秘蔵の耳嚢の原本を借覧して筆写したものを所持していた。義方は』この近藤『義嗣の知友であった関係で、その本を借りえて写すことかできたというのである』と写本の経緯が分かり易く説明されてある(後の「吉見義方」の注も参照されたい)。

・「安生太左衞門定洪」鎮衛の実父安生定洪(延宝七(一六七九)年~元文五(一七四〇)年)。底本の鈴木氏注に、『安生氏が幕臣となったのは新しいことで、寛政譜に』はこの『定洪が御徒から組頭に移った年代は記してない』とあり、元文元(一七三六)年、『御代官となる。廩米百五十俵。五年二月二十八日死、六十二。今戸の安昌寺に葬る。妻は松平(蜂須賀)阿波守の家臣河野与右衛門通達の女。鎮衛はその三男で、鉄蔵、九郎左衛門といった。根岸衛規』(もりのり)『の養子となり根岸家を継いだ(定洪の二男は蔵人定養は若死したらしい)。』とある(定養は「さだのぶ」と読むか)。安生家及び定洪については、「耳嚢」の巻之二 人の心取にて其行衞も押はからるゝ事」巻之二 強勇の者御仕置を遁れし事」巻之二 強氣勇猛自然の事」などに実父として言及がある。

・「元文二年」西暦一七三七年。

・「文化十二年」十一月四日。グレゴリオ暦で一八一五年十二月四日である。なお南町奉行在職のままの死去で、公式には没日は五日後の十一月九日と公表されている(ウィキの「根岸鎮衛」に拠る)。
 
・「七十歳」誤り。数えで七十九歳である。

・「相模國津久井縣若柳邑」既注であるが、再掲すると、現在の神奈川県津久井郡相模湖町若柳で底本の鈴木氏注によれば、『いまの津久井ダムのやや上流右岸』とある。この「縣」という名称を奇異に感じる方があるかも知れないが、これは実に当時日本で唯一この津久井にのみ存在した正真正銘の「縣」なのである。ウィキの「津久井郡」によれば、『江戸時代初期の』寛文四(一六六三)年~貞享元(一六八四)年に津久井領全域が久世家領(寛文九(一六六九)年から関宿藩)となり、『また幕末期には相模川以南の村の多くが小田原藩領となっていたが、それ以外は旗本知行地となった幾つかの村を除き幕府領であった』。その後、元禄四(一六九一)年に『この地域を支配した幕府代官山川貞清によって正式に愛甲郡および高座郡から分離され、津久井県と称することとなった。江戸時代を通じて地域区分の単位として「県」を称した全国で唯一の例であったが』、明治三(一八七〇)年、『当時津久井県を管轄していた神奈川県が小田原藩と「掛合」(協議)の上で民部省へ伺いを申し出たことにより津久井郡と改称された』とある。

・「安生彦左衞門定之」鎮衛の祖父。底本の鈴木氏注に、『寛政譜には出自経歴をまったく記さない。神田の館に勤仕したとあるから、家光の第四子徳松(後の綱吉。慶安四年神田橋御殿に住し、賄料十万石)に仕えたもので』(慶安四年は西暦一六五一年)、『やがて綱吉は館林十五万石となり』、延宝八(一六八〇)年には『家綱の養嗣となって二の丸に入り、同年八月将軍職につく。定之は主君の出世と共に開運の途をひらき、幕府の直臣となったことがわかる』とある(『神田の館』云々とは、別の先行する鈴木氏注に、寛政譜には『「定洪が父彦右衛門定之、神田の館に勤仕し、延宝八年御徒にめしくはへらる」とある』のを指す)。

・「直之」鎮衛の実の兄安生直之(享保元・正徳六(一七一六)年~天明六(一七八六)年 後の鈴木氏注の没年から逆算した)底本の鈴木氏注に、『弥三郎、太左衛門。元文五』(一七四〇)『年家督。寛延二』(一七四九)『年御勘定に列し、宝暦二』(一七五二)『年評定所留役、十年大坂の破損奉行、明和七』(一七七〇)『年御蔵奉行、安永九』(一七八〇)『年御船手にすすみ、布衣をゆるされた。天明六年没、七十一』とある。鎮衛より二十一年上であるが、鎮衛との接点があってもよさそうな経歴であるが(例えば鎮衛は宝暦八年から同十三年まで彼と同じ御勘定を勤めており、この同十年までは二人は同職にあった。但し、同職と言っても宝暦十一年の時点で御勘定は百三十四名も居はした)何故か、彼の名は「耳嚢」には登場しない。実家から出て養子となった彼としては兄に遠慮のあったものか。或いは先に示した一説にあるところの、鎮衛は実は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説辺りが関係しているのかも知れない。

・「御藏の奉行」蔵奉行。江戸浅草(浅草御蔵)を始めとする主要都市にあった幕府の御米蔵の管理を司った。

・「布衣」「ほうい」とも読む。本来は無紋の狩衣のことで、六位以下及び御目見(おめみえ)以上の者が着用したことから、その身分の者を指す。

・「御船手」船手組。幕府番方の水軍。

・「九十郎衞規」鎮衛の形式上の養父根岸衛規(享保一四(一七二九)年~宝暦八(一七五八)年 後の鈴木氏注の没年から逆算した)。底本の鈴木氏注には、『九十郎。衛忠の子。延享三』(一七四六)『年家督。宝暦八年二月十五日没、三十。衛規は病身で小普請のままで役職にはつかなかった。鎮衛はいわゆる末期養子で同年五月六日遺跡を継いだもの』(この時、鎮衛は満二十一歳である)。『なお根岸家は衛規の祖父杢左衛門衛尚が甲府宰相徳川家宣に仕え蔵奉行を勤めたが、家宣が綱吉の後を襲って将軍職についた宝永元』(一七〇四)『年幕臣となり、御勘定となり、正徳四』(一七一四)『年旧禄に加増を併せて百五十俵となった。享保十八』(一七三三)『年没、七十九。麻布善覚寺に葬り、同寺を代々の葬地とした。その子衛忠は享保六』(一七二一)『年御勘定に列し、寛保三』(一七四三)『年御代官(同年武鑑の諸国御代官支配付並屋敷付に奥州根岸杢左衛門とある)となり、延享二』(一七四五)『年十月四日投、五十。衛規はその二男で、長男衛一は父に先立って死んだ』とある。

・「廩米」知行取りの年貢米以外に幕府から俸禄として給付されたものを言う。

・「苞」「俵(ひょう)」と同義。

・「易簀」学徳の高い人の死、或いは死に際を言う。「礼記(らいき)」の「檀弓(だんぐう)」上で、曽子が死に臨んで季孫から賜った大夫用の簀(すのこ)を身分不相応のものとして粗末なものに易(か)えたという故事に基づく語。

・「小普請の士より御勘定につらなり……」以下、鎮衛の履歴を整理しておく(ウィキの「根岸鎮衛」の「年譜」を基に諸本と引き比べて確認した。年齢は満年齢)。

   *

 宝暦 八(一七五八)年 五月  六日
     根岸家家督を継ぐ   二十一歳

            十一月 十八日
    勘定所御勘定

 宝暦一三(一七六三)年 二月 十五日
     評定所留役      二十六歳

 明和 五(一七六八)年十二月二十四日
     勘定組頭       三十一歳

 安永 五(一七七六)年十一月  一日
     勘定吟味役      三十九歳

            十二月 十六日
     布衣着用

 天明 四(一七八四)年 三月 十二日
     佐渡奉行       四十七歳

     加増五十俵・家禄二百俵

 天明 七(一七八七)年)七月  一日
     勘定奉行        五十歳

     加増三百石・家禄五百石

            十二月 十八日
     従五位下肥前守叙任

 天明 八(一七八八)年 八月  三日
     道中奉行兼任     五十一歳

 寛政一〇(一七九八)年十一月 十一日
     南町奉行       六十一歳

 文化一二(一八一五)年 六月二十八日
     加増五百石・家禄千石 七十八歳

            十一月  四日
     南町奉行現職のまま逝去
 (
公には五日後の十一月九日没とされた)

   *

なお、ここの「はじめて采地を賜ひ、在職のうち祿三千石たり」という部分がよく分からない。訳では「その後の在職中の当地からの禄高の総計はこれ、三千石に及んだ」と誤魔化しておいたが、そんな計算をするものかどうかも分からない。識者の御教授を乞うものである。【2017年3月28日追記:ミクシィに同内容を公開してあったが、本日、それを見られたラナ様より、これは、これまでの廩米(りんまい:扶持米の別称)を改めて、初めて采地(五百石)を賜り、足高の二千五百石を合わせて(勘定奉行・町奉行在職中の)禄は三千石となった、という謂いであることを御教授戴いた。ここに感謝申し上げるものである。当該部分の訳はこの御教授に沿って改訳した。

・「凌廟」「浚廟」が正しい。「しゆんべう(しゅんびょう)」で第十代将軍徳川家治を指す。その諡号(しごう)浚明(しゅんめい)院に基づく。

・「秩祿」官位によって賜る普通の俸禄。食禄・扶持・知行と同義。

・「二百苞の家祿」底本の鈴木氏注に、根岸鎮衛は天明四(一七八四)年『三月十二日佐渡奉行に転じ、世襲の百五十俵に五十俵を加増された』とある。

・「家藏五百石に加恩」底本の鈴木氏注に、天明七(一七八七)年『七月朔日佐渡奉行から御勘定奉行に進み、三百石を加恩あり、廩米を改め、上野国緑野(ミトノ)、安房国朝夷(アサヰ)二郡の内で采地五百石を届わり、十二月十八日従五位下肥前守に叙任した』とある。

・「采地」領地・知行所のこと。采邑(さいゆう)とも言う。後の「食邑」も同じ。

・「營作土功の事」これは彼が勘定吟味役在任時に精力的に関わった河川改修や普請工事事業、日光東照宮の修復、加えて浅間山噴火後の天明三(一七八三)年に於ける浅間山復興工事の巡検役などを指している。この公により、彼は翌四年、佐渡奉行に昇格、五十俵の加増も受けている(ここはウィキの「根岸鎮衛」に拠る)。

・「通計二百六十枚に及ぶ」底本の鈴木氏注に、『寛政譜に記すところの累次の下賜黄金の枚数を合計しても、この何分の一に過ぎないが、大日本人名辞書に、香亭手稿に拠って根岸鎮衛の伝記を記すうちにも、「通計するに黄金二百六十枚に及ぶといふ」とある。なお香草手稿は中根香亭(大正二年没、七十五)の手記』とある。中根香亭(こうてい 天保一〇(一八三九)年~大正二(一九一三)年)は旧幕臣で漢学者にして随筆家。

・「千石の家祿となれり。在職の祿故の如し」「故の如し」とは「来歴は以上である」の意であろう。鎮衛は南町奉行在任のまま死去しており、この千石というのも実は死去直前に加増されたものであった。

・「わざくれ」退屈しのぎの戯れにすること。

・「人となり大量にして」底本の鈴木氏注に、『以下の文は、大日本人名辞書に記すところと酷似する。曰く、「鎮衛人と為り寛裕にして小事を屑とせず、平生使ふ所の属吏の姓名だに一々記憶せざるが如し、然れども能く下情に通じ撰挙決して其の器を誤らず、人と語るに其声甚大、毎にいふ、微音は謹慎に似たるも其の私情を訴へ誹謗をなすに嫌ひありと。」香亭は、或いは本書吉見義方の跋文に拠って記したものかとも想像される。右の一条のみでなく、鎮衛の履歴を記す文全体についてもその感を深くさせるものがある』と中根香亭(前々注参照)の「大日本人名辞書」での記載を評されておられる。

・「選擧必其人を得たりしは」この部分、訳に全く自信がない。大方の御叱正を乞うものである。

・「近藤氏の女」底本の鈴木氏注に、『近藤助八郎義種の養女、衛粛の後妻。先妻は関川庄五郎美羽の女。これは子もなく、はやく没したらしい。後妻の生家近藤氏は義種の父義貫が紀州家で吉宗に仕え、ついで幕臣となり、御広敷番頭を勤め廩米二百俵であった。義種は宝暦七』(一七五七)『年清水家の用人となり、布衣を許され、のち同家の番頭にすすみ用人を兼ねた。寛政二』(一七九〇)『年西城裏門番頭に転じた。なお衛粛に嫁したのは、実は義種の弟義端の三女で、義種が養女にしたもの』とある。

・「義嗣子」底本の鈴木氏注に、『寛政譜によれば義種の子が、義満(ヨシトシ)でその子女は、女子二人を記すのみであり、義嗣の名までは載っていない。またその妻になった衛粛の女のことも同譜では明らかでない。衛粛の子女として載っているのは男三人、女子二人であるから、家譜提出後に一男一女を設けたもので、その一女が義嗣に嫁したものと見られる』とある。「子」は知音である「義嗣」に対する筆者義方の尊称であろう。

・「欣慕」悦び慕うこと。

・「贅す」「贅説す」で無用な無駄な論説を述べる。贅言する。自己の評釈への謙遜表現。

・「時雨めきる日」底本には右に『(しきるカ)』と推定訂正注がある。「めきける」の誤りとも読めるようには思うが、シチュエーションとしては「降りしきる」の方がいいか。

・「吉見義方」(宝暦十(一七六〇)年或いは明和三(一七六六)年?~天保一二(一八四一)年 後の鈴木氏の注で逆算した)は鎮衛より二十九年下であるが、前に述べた通り、彼の知音であった近藤義嗣が根岸と縁戚関係にあったことから、本文に「をのれ又はやくより翁に値遇せる」とあるように、生前の鎮衛と親しく交わっていたことが分かる(満七十八歳で鎮衛が没したのが文化一二(一八一五)年であるから当時、義方は満五十五か四十九歳となる)。底本の鈴木氏注に、『三村翁注「儀助と称し、蜀山人の甥にて、狂名を紀定丸といへり、御勘定評定所留役たり、天保十二年正月十六日、七十六歳にて歿す、本郷元町三念寺に葬る。」日本文学大辞典によれば、享年を八十二とする。義方の父佐吉は清水家小十人、母は蜀山人の姉。定丸は安永七年家督を継ぎ小普請方となり、寛政七年清水勤番、文化二年御勘定、同四年組頭。初め野原雲輔と号し、のちに本田原勝粟、晩年己人手為丸と改めた』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「耳嚢」 吉見義方 識語

 

 根岸前肥前守藤原鎮衛(しずもり)殿、別号、守臣(もりおみ)翁は、これ、御代官安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ)殿の二男にして、元文二年丁巳(ひのとみ)を以ってお生まれになられ、文化十二年乙亥(きのとい)、七十歳にして卒(しゅつ)せられた。

 定洪殿は、これ、初め相模国津久井県若柳村の出であられ、御徒(おかち)安生彦左衛門定之(さだゆき)殿の養子となって、そのまま御徒に召し加えられ、後、組頭(くみがしら)に転じ、なお、篤行の聞こえよう御座ったによって、直ちに御代官に抜擢せられ、拝謁の士に列せられた。その長男直之(なおゆき)殿と申さるるは、これ、御勘定評定所留役、御蔵奉行等を経て、遂に布衣(ほい)の上、士に昇り、船手組(ふなてぐみ)番方を勤められた。

 一方、根岸家はこれ、九十郎衛規(もりのり)殿と申し、廩米(りんまい)百五十俵の禄を受けられ、もとより拝謁の士にてあられたけれども、いまだ小普請(こぶしん)組にて在らるる内、若(わこ)うして病い篤く、易簀(えきさく)に臨み、守臣翁を末期養子(まつごようし)として迎えられて遺跡を継がしめんことを、これ、請ひ願いおかれた上、亡くなられた。

 されば、翁、かくして根岸家を継ぎ、小普請の士より御勘定に連なり、評定所留役を兼ねて、訴訟を糺し、幾許(いくばく)もなくして組頭(くみがしら)に昇り、浚明院(しゅんめいいん)家治様の日光山御参詣に関わって東照宮修復の一件に携わられ、後(のち)、御勘定吟味役へと進み、布衣の上、士に列し、また、佐渡奉行へ推挙されなさった。この折り、禄の加増せられて二百俵の家禄となり、今の家斉様の御代となってより、勘定奉行に転ぜられた。時に、その恒例を以って、従五位下肥前守に敍任のあり、家蔵五百石に加恩のあって、ここに初めて采地(さいち)を賜い、これまでの扶持米を改めて、初めて采地五百石を賜り、足高の二千五百石を合わせて禄は三千石となられた。それより、遂に町奉行に昇進なされ、年久しき勤労を慰撫(いぶ)せられて、食邑(しょくゆう)これ、五百石を増し賜はり、最後には千石の家禄となられたのであった。在職中の禄高については以上の如き経歴を経られた。

 御勘定であられた時分より、後に同じ勘定方御(ご)奉行とならるるに至るまで、さまざまな営作土木の事業を任されては監督指揮なされ、落成や事業の完遂のたび毎に、褒賜(ほうし)を受けられて、その賜わった黄金はこれ、総計すると実に二百六十枚に及ぶとも伝えられる。

 さても、かかる怖ろしく多忙なる勤仕(ごんし)の暇(いと)まに、これまた、ちょっと耳にされたところの巷説、一聴、児戯に類するような戯(たわぶ)れの如き流言飛語に至るまで、耳に触れたるありとある風聞風説をこれ、筆記し、これを秘かに名づけて「耳嚢」言う。

 その書き溜めたる条々、これ、殆ど一千話余りにも膨れ上がったれば、巻を分かって六帖となされた。

 ちょっとした普通なら目にも留(とど)めず立ち止まりもせぬ物の記録に於いてすら、かく成し遂げておらるる。さればこそ、本業たる生涯を捧げられた国務に於いて、その有用の事柄を編纂蒐集なされたその量たるをや。これ如何に恐るべきものであろうことはこれ、推して知るべしである。

 その人となり、これ、度量広大にして、小事に拘らず、些細な事には力を無駄に入るること、これなく、鷹揚に構え、朝夕に近侍せる配下の属吏の姓名でさえも、これ一見、何心なく、あたかもまるで記憶にない、覚えてもおらぬかの如き様子。

 されど、その周囲の者らへ、知らず知らずのうちに寛大無辺の徳化を及ぼし、下々の者のまことの情実をこれ、そのままにお上へ達し、人を推挙なさるるにこれ、悉く必ず、その職にまっこと相応しき人物を当てられて御座ったことは、全く以って、偏頗した私情の、これ、微塵もなき有り難き御心によるものにては御座るまいか?

 翁は常に大声にて会話なさるるを常とし、殊更に、ひそひそ話を好まれず御座った。

 これにつき、翁の常の言に曰く、

「――小さき音にして事を談ずると申すは、これ、殊勝に謹慎致いてでもおるか如く、一見えるものにては御座るが――その実、そうした内緒話の多くはこれ――話者の人情軽薄に依るものであるか――或いは、人に害のあって、己(おの)ればかりが利あらん事をば思うておるがゆえに、他聞を憚ってこそ――ひそひそ話なんどと申すもの、これ、生まるるものである。」

と。

 その私(わたくし)なき翁の誠心、この一言を以ってしても、思い至ると申すべきもので御座る。

 翁の男子、根岸衞粛(もりよし)殿は、これ、近藤義貫(よしつら)殿の子、義種(よしたね)殿の娘を娶っておられ、四男三女をお生みになられた。その末の娘子(むすめご)は、これ、また、その義貫の孫であらるる近藤義嗣(よしつぐ)殿の先妻であられる。この義嗣殿が、かかる縁戚の因みあるによって、かの伝説の門外不出の書たりと雖も、この「耳嚢」という書を、これ、書き写すことを得られ、しかも我ら義方にこれを閲覧させて下さったので御座る。

 我らまた、早くより、生前の守臣翁にも知遇を得て御座ったが、これもまた、この近藤義嗣殿の有り難き因みによるもので御座った。

 かく、かれこれと思慮なしみれば、この「耳嚢」のかくも拝読仕ったと申すは、これ、いや、とてものこと! 尋常なことにては御座らぬ!

 あまりのことに悦び入り、また亡き翁への慕わしさの、いや、募って参るあまり、分をも弁えず、下らぬ数語をここに穢し記して御座った。ああ! 何とまあ! 畏れ多いことで御座ろうか!

  文(あや)有る政(まつりごと)という

  九(ここのつ)の年、長月の末つ方、

  時雨頻(しき)りに降れる日のこと、

  お暗(ぐら)き窓下にこれを記す。

             吉見義方 花押

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