天啓とは天罰なり
書き下し文を終わったが……この「梅園魚譜」の「人魚」注は……これ……とっても重い……天啓とは、体のいい天罰であったことを、今更知ったわ……
« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »
書き下し文を終わったが……この「梅園魚譜」の「人魚」注は……これ……とっても重い……天啓とは、体のいい天罰であったことを、今更知ったわ……
「梅園魚譜」のとある条にハマった。どれだけかかるか、これ、一向、見当がつかない。暫く、御機嫌よう――
図―613
六月十五日。ネットウ、チャプリン、ホウトンの諸教授を送る晩餐会に出席した。この会は、芝公園に新しく建てられた紅葉館という、日本人の倶楽部(クラブ)に属する家で行われた。部屋はいずれも非常に美しく、古い木彫の驚く可き細工が、極めて効果的な方法でそれ等の部屋に使用してある。晩餐は、よい日本の正餐がすべてそうである如く、素晴しいものであった。食事なかばに、古い日本の喜劇が演じられたが、その一つは、一人の男が蚊の幽霊と争闘するものだった。また琴を弾く者達が、不思議な音楽をやった(私は一人の日本人に、ミュージックの日本語は、直訳すると「音のたのしみ」を意味するということを聞いた)。食事が済むと、ゲイシャ連が踊ったり歌ったりし、私が三年前に見た老人の手品師が一芸当をやって見せた。退出に際して、私は菓子と砂糖菓子とが入った箱を貰った。箱は八フィート四方で、薄い白木の板で出来、蓋についた小さな柄は緑色の竹から切り取ったものである(図613)(私は高嶺から、竹が一年で成長するものであることを聞き知った)。
[やぶちゃん注:「六月十五日」明治一五(一八八二)年六月十五日。
「ネットウ」クルト・アドルフ・ネットー(Curt Adolph Netto 一八四七年~一九〇九年)お雇い外国人。ドイツ人。明治六(一八七三)年に工部省官営小坂鉱山冶金技師として来日、明治一〇(一八七七)年、東京大学理学部採鉱學及び冶金学教師に就任。
「チャプリン」既注。ウィンフィールド・スコット・チャプリン(Winfield Scott Chaplin 一八四七年~一九一八年)お雇い外国人。アメリカ人。土木工学教授。「第九章 大学の仕事 7 上野東照宮神嘗祭を真直に見るⅠ」や「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 22 アイヌの土器 / モース先生は地震フリークだった!」を参照。
「ホウトン」ウィリアム・アディソン・ホートン(William Addison Houghton 一八五二年~一九一七年)お雇い外国人。アメリカ人。英文学担当。
「紅葉館」は「こうようかん」と読む。明治から昭和の永きに亙って芝区芝公園二十号地にこの前年の明治一四(一八八一)年の二月十五日に開店したばかりであった高級料亭。参照したウィキの「紅葉館」によれば、三百名限定の『会員制料亭として設立され、豪商・中沢彦吉等が社長を務めた』。国賓迎賓館であった鹿鳴館が明治二三(一八九〇)年にわずか七年で消滅した後は、専らこの紅葉館が『条約改正を睨んだ外国人接待の場、政治家・実業家・文人・華族・軍人の社交場として使われ、東京名所図会や東京銘勝会にも収録された』が、昭和二〇(一九四五)年三月十日の東京大空襲で焼失、六十四年の歴史に終止符を打った。四千六百坪に達した広大な敷地は、『日本電波塔株式会社に売却され、跡地には東京タワーが立っている』とある(下線やぶちゃん)。
「一人の男が蚊の幽霊と争闘するもの」原文も確かに“Before we were through some old Japanese comic acting was
introduced, one act being a man fighting the spirit of a mosquito.”となっているが、このような落語を私は知らない。切に識者の御教授を乞うものである。【2015年5月29日追記】公開後の翌日、早速、ツイッターで相互フォローさせていただいている
Mekerere 氏より、『落語ではなくて、狂言の蚊相撲でしょう』というお答えを頂戴、壺齋散人氏のブログ「続壺齋閑話」の『狂言「蚊相撲」』で細かな梗概を読んだところ、これと確信した。考えてみると、私が食事中に演ぜられた“old Japanese comic acting”を勝手に落語と思い込んだのであって、これは狂言の舞台だったのだ! 何なる愚かさであろう。とはいえ、一見落着である。Mekerere 氏にこの場を借りて心より御礼申し上げる。
「私が三年前に見た老人の手品師が一芸当をやって見せた」これは「第十一章 六ケ月後の東京 23 日本料理屋での晩餐と芸妓の歌舞音曲そして目くるめく奇術師の妙技」に登場するからくり芸人と思われる。
「八フィート」トンデモ誤訳。流石に二・四メートルの菓子折りは流石に見たことないし、持てません! 石川先生! 原文は“eight inches square”で二十センチメートル四方。]
田螺〔訓多仁之〕
釋名螭螺〔源順曰田中螺其有稜者謂之螭螺〕
集觧田蠃生水田小川及池瀆岸側其殻蒼黒類
海螄有旋文大者如大海螄小者如小螭螺其肉
頭黒身白至三四月膓内抱子一箇有三五子而
細小其形全不減母形子長則母半出殻子隨母
出而蠢于泥中農家児女采之鬻市或春初采水
田放之家庭池經一両月食之則肉脆無泥味最
爲佳大抵采之放清水盤中而養者經一両日則
無泥而味亦美矣食之煮熟和葫蒜味醬作茹或
浸椒醬以煮乾食又擊破尾尖拔去尾膓以味醬
汁而烹熟之吸食其肉烹煮之際有火之大過不
及則令殻肉相粘涸雖極力而吸之終不能出也
此俗號吸壷庖人常誇此法者也
肉氣味甘寒無毒〔畏麝香葱韮之類故今和葫蒜而食之則妄不通利乎最惡温也〕
主治去腹中結熱利小便赤澁消手足浮腫取
水搽痔瘻體氣
附方小便不通〔小腹急痛用大田螺大蒜車前子各等分麝香少許搗膏攤貼臍上下則通〕小児白禿〔用大田螺生鷄腸草各等分白鹽少許搗膏和調先以木片摺起患處而抹之及二三度竟痊〕
○やぶちゃんの書き下し文
田螺〔多仁之(タニシ)と訓ず。〕
釋名 螭螺(チラ)〔源順が曰く、田中の螺。其の稜(かど)有る者、之れを「螭螺」と謂ふ。〕
集觧 田蠃(でんら)、水田・小川及び池瀆(ちとく)の岸側に生ず。其の殻、蒼黒、海螄(カイシ)に類して、旋文(せんもん)、有り。大いなる者は大海螄のごとし。小さきなる者は小螭螺のごとし。其の肉、頭は黒く、身、白し。三、四月に至りて、膓の内、子を抱く。一箇に三、五の子、有りて、細小なり。其の形、全く母の形を減せず。子、長ずる時は則ち、母、半ば殻を出づ。子、母に隨ひて出でて泥中に蠢(うごめ)く。農家の児女、之れを采りて、市に鬻(ひさ)ぐ。或いは春初め、水田に采る。之を家庭の池に放ち、一両月を經て、之れを食する時は、則ち、肉、脆(もろ)くして泥味無く、最も佳なりと爲す。大抵、之れを采りて清水盤中に放ちて養ふこと、一両日經(ふ)る時は、則ち、泥、無くして、味も亦、美なり。
之れを食するに、煮熟(しやじゆく)して、葫蒜(にんにく)・味醬(みそ)を和し、茹(ゆでもの)と作(な)し、或いは椒醬に浸して以つて煮、乾(かは)かして食す。又、尾尖を擊ち破り、尾膓を拔き去りて味醬汁(みそしる)を以つて之れを烹熟し、其の肉を吸ひ食す。烹(た)き煮の際、火の大過・不及有る時は、則ち、殻・肉をして相ひ粘涸(ねんこ)せしむれば、力を極めて之れを吸ふと雖ども終に出づること能はざるなり。此れを俗に吸壷(きうこ)と號す。庖人(はうじん)、常に此の法に誇る者なり。
肉 氣味 甘、寒。毒、無し。〔麝香(じやかう)・葱・韮の類を畏る。故に今、葫蒜(にんにく)に和して之を食する時は、則ち、妄りに通利せざるか。最も温を惡む。〕 主治 腹中の結熱を去り、小便の赤澁を利し、手足の浮腫を消す。水を取りて痔瘻・體氣(たいき)に搽(た)する。
附方 小便通ぜず〔小腹、急痛、大田螺・大蒜・車前子、各々等分、麝香少し許りを用ひて、膏に搗き、臍の上下に攤(ひろ)げ貼(てん)する時は、則ち通ず。〕。小児の白禿(しらくも)〔大田螺・生の鷄腸草、各々等分、白鹽少し許りを用ひ、膏に搗き、和し調じ、先づ木片を以つて、患の處を摺り起こして、之れを抹すること、二、三度に及びて竟に痊(い)ゆ。〕
□やぶちゃん注
タニシは腹足綱新生腹足上目原始紐舌目タニシ科Viviparidae に属する巻貝の総称。本邦にはアフリカヒメタニシ亜科 Bellamyinae(特異性が強く、アフリカヒメタニシ科 Bellamyidae として扱う説もある)の四種が棲息する。各四種の解説と卵胎生については私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 田螺」の注を参照されたい。
・「螭螺」不詳。順(したごう)が「和名類聚鈔」でなぜこの奇体な熟語を持ち出しているのかがまず不審である。本草書類にはこの語は見かけない。なお、「螭」の原義は角のない黄色い小さな龍或いは龍の子の意である。海岸で採取される螺塔の高いカニモリガイのようなものか。しかしだとすると、海螺(ウミニナ)に似ていると言った方がピンとくるのだが、これは川螺(カワニナ)との近似性を嫌った謂いか。にしても、後の「小さきなる者は小螭螺のごとし」というのはこの自己同一性とは矛盾するものである。順には悪いが、形は小さな時は「小螭螺」に似ているのであって、あくまで中国本草書では「螭螺」はタニシではないことは明白である。
・「池瀆」池や田圃の水路(溝)のこと。「説文解字」の「溝」の項「水瀆(スイトク)なり。廣さ四尺、深さ四尺なり」(漢代の一尺は二十三~二十四センチメートルであるから、幅・水深ともに九十二~九十六センチメートル程)とある。
・「田蠃」「蠃」は「螺」に同じい。
・「海螄」現在知られる種では、かの美事な形状を示す腹足綱翼舌目イトカケガイ上科イトカケガイ科Epitonium 属オオイトカケ Epitonium scalare に中国語で「綺螄螺」に名が与えられており、イトカケガイ科 Epitoniidae 自体を漢名で「海螄螺科」と称していることが分かった。大きく発達した縦肋を無視すれば、巻きの感じは確かに似ていないとは言えない。ここはバイのような海産の螺塔が高くどっしりとした巻貝を指すか。
・「椒醬」不詳。山椒の塩漬けか?
・「通利」漢方では血液などの通りを良くする法を指すが、ここはどうも、効果が期待されるべき状態よりも過剰に発し、逆によろしくなくなることを言っているらしい。
・「赤澁」尿が強い黄赤色を呈することらしい。これは私のA型急性肝炎罹患の経験上(γGTP二千振り切れ)、黄疸症状によって赤血球が多量に尿に混入している状態をいうと考える。
・「體氣」東洋文庫の島田氏の訳では体臭を指すとする。
・「搽(た)する」摺りつける、塗る。
・「車前子」シソ目オオバコ科オオバコ
Plantago asiaticaの成熟種子を乾燥させたものを言う。消炎・利尿・止瀉作用を持ち、牛車腎気丸・竜胆瀉肝湯などに配合される、とウィキの「オオバコ」にある。
・「白禿」「白癬」「白瘡」とも書く。主に小児の頭部に大小の円形の白色の落屑(らくせつ)面が生ずる皮膚病で、主に真菌トリコフィトン(白癬菌)属 Trichophyton の感染によって起こる。掻痒感があり、毛髪が脱落する。頭部白癬。ケルズス禿瘡(とくそう)。ウィキの「白癬」に、『毛嚢を破壊し難治性の脱毛症を生じるものはケルズス禿瘡と呼ばれる。Microsporum canis・Trichophyton verrucosumが原因の比率が高いため、猫飼育者・酪農家は注意が必要。その他、Trichophyton rubrum・Trichophyton mentagrophytes・Trichophyton tonsuransがある』とある。
・「鷄腸草」キク亜綱キク目キク科ヤブタビラコ属コオニタビラコ Lapsana apogonoides と思われる。タビラコ(田平子)やホトケノザ(仏の座)とも称し、春の七草の一つとしても知られる。若い葉は食用となる。島田氏もタビラコ(コオニタビラコ)に同定されておられるが、ネット上では同じ春の七草の、ナデシコ亜綱ナデシコ目ナデシコ科ハコベ属
Stellaria のハコベ類とする記載も多い。
□やぶちゃん現代語訳
田螺〔多仁之(タニシ)と訓ずる。〕
釋名 螭螺(チラ)〔源順(みなもとのしたごう)が曰く、『田の中の螺貝。それに稜(かど)がある者、これを「螭螺」という。』と。〕
集觧 田蠃(でんら)は水田・小川及び池や田圃の水路の岸近くに棲息する。その殻は蒼黒く、海螄(カイシ)に類しており、渦を巻いたようなはっきりとした紋様を有する。大きな個体は大きな海螄に似ている。小さな者は小さな螭螺といった感じである。その肉は出張っている頭部は黒く、後に続く身の部分は白い。三、四月になって、腸(はらわた)の内部に子を抱(いだ)く。一個体に三、五の子があって頗る小さいものである。しかし、その形は全く以って母貝の形と何ら変わらない。子はそれより暫く成長すると、母貝の体内を有意に占有する結果、母貝は半分、殻の外に出てしまっている。そうなると、子は母に随伴しつつ、結果、そこから出でて泥の中に蠢(うごめ)くようになる。農家の児女はこれを採取して、市に持っていては売る。また、或いは、春の初めに水田に於いて採取した上、これを家の庭にある池に放って、一、二箇月を経て、これを食する時には、則ち、肉がいい塩梅に柔らかくなっており、泥臭さもなくて最も佳品であるとする。大抵のものは、これを採取し、清い水を湛えた水盤の中に放って飼うこと、一日、二日を経た頃には、則ち、すっかり泥を吐いてなくなっており、味もこれまた、よい。
これを食する際には、よく煮て、大蒜(にんにく)・味噌を和し、茹でたものに誂えたり、或いは山椒の塩漬けの中にこれを浸(ひた)し漬けた上で煮(に)、それをその後、乾かして食べる。まら、尾の尖った部分を打ち破り、そこから出た尾の腸(はらわた)を綺麗に除去した上、味噌汁を以って之れをまたことこと煮た上、その肉をやおら吸い食うのである。煮焚きするの際、その火が強過ぎたり、反対に小さ過ぎた場合には、則ち、殻・肉とをこれ、すっかり粘り附かせてしまうことになるので、力を込めて、盛んにこれを吸おうとしたとしてもこれ、ついに殻から吸い出すことは出来なくなってしまう。この文字通りの微妙に手間の掛かる「吸い物」として調製する仕方を、俗に「吸壺(きうこ)」と称している。料理人は常に、この調理法の巧みに仕上げることを誇りとしている。
肉
氣味 甘、寒。毒はない。〔麝香・葱・韮の類いとはこれ、頗る相性が悪い。それゆえに今、大蒜に和してこれを食べるのであるけれども、この合わせ方を用いると、無暗な通利を生ぜさせずに済むものか。何よりも、最も温の属性を持つものを憎み、甚だ相性が悪い。〕
主治 腹の中に凝り結んでしまった潜熱をすみやかに去らせ、赤みを帯びた病的な小便の状態に効果が見られ、手足の浮腫を消す。水を取って痔瘻や人に不快感を与えるような激烈な体臭を呈している者に、これを患部や強烈に臭いを発する患部に塗る。
附方 小便の出が頗る悪い症状〔さらに小腹に急な激しい痛みが襲った際には、大田螺・大蒜(にんにく)・車前子(しゃぜんし)をそれぞれ等分、それに麝香少しばかりを混じ用いて、軟膏状になるまで搗(つ)き、臍(へそ)の部分の上下の箇所に広げて貼りつけた折りには、これ則ち、美事に通便する。〕。小児の白禿(しらくも)〔大田螺・生(なま)の鶏腸草(けいちょうそう)をそれぞれ等分、それに白塩少しばかりを調合して、やはり軟膏様(よう)に搗き、さらにそれらが均一によく調和するように練った上、まず、木片を以って、その白禿(しらくも)の患部の部分を万遍なく、深からず浅からず。きゅつきゅつと表面を摺り起こして、やおら、これをそこに塗(まぶ)すことをこれ、二、三度繰り返し行えば、遂には病いはぴたりと癒えるのである。〕
〔シヤチホコ〕
〔サカマツ〕
〔サカマタ〕
一名、十※七保哥(シヤチホコ)。大池。
一名、陀革埋紫。古座。
又の名、勿鹵篤摩伏(クロトンボ)、是れなり。
[やぶちゃん字注:「※」=(「羚」-「令」)+「食」。]
[やぶちゃん注:哺乳綱鯨偶蹄目マイルカ科シャチ亜科シャチ Orcinus
orca 。標題及び別名の漢字表記は単なる単漢字音を当てたもので、シャチには多様な呼び名があった。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 5 哺乳類」の「シャチ」の記載によれば、和名シャチの由来は良く分からないとされつつも、『ただし狩りに幸運をもたらす霊の力を古く〈しゃち(幸(さち)の音が転じたものか)〉といったことからすると』、『海の猛獣として知られるこの動物を狩りの霊獣として崇めた尊称かもしれない』と述べられ、また、ここに出る「サカマタ」は「逆又」「逆戟」と漢字表記することから、『水面上に垂直に高く立った雄の背びれを戟』(げき:中国古代の武器で鉾(ほこ)の一種)『にみたてたもの』と断定しておられる。シャチは♂♀ともに特徴的な大きな背鰭を持つが、♀に比して体の大きい♂では最大二メートルにまで達する(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像)。
なお、鯱(しゃち)或いは鯱鉾(しゃちほこ)というのは、厳密にはこの実在するシャチが呼吸のために頭頂部にある噴気孔から水を激しく吹き上げるところから想像された架空の海獣で、頭は虎に似て背に鋭い棘を持ち、常に尾を反らせているとされる。その噴水の様子から防火の効があるとされたことから、古く、装飾をも兼ねて城郭などの大棟に配されてきた。正徳二(一七一二)年頃成立した「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「しやちほこ 魚虎」には以下のようにまことしやかに書かれてある(リンク先は私の電子テクスト。如何にもな魚型龍の図も必見)。
*
しやちほこ
魚虎
イユイフウ
土奴魚 鱐(しゆく)【音、速。】
【俗に鱐の字を用ふるは、未だ詳らかならず。鱐、乃ち乾魚の字なり。】
【俗に奢知保古(しやちほこ)と云ふ。】
「本綱」に『魚虎、南海中に生ず。其の頭、虎のごとく、背の皮に猬[やぶちゃん注:「蝟」に同じ。はりねずみ。〕のごとくなる刺(とげ)有りて、人に着けば、蛇の咬むがごとし。亦、變じて虎と爲る者、有り。又、云ふ、大いさ、斗[やぶちゃん注:柄杓。]のごとく、身に刺有りて猬のごとし。能く化して豪豬(やまあらし)と爲(な)る。此れも亦、魚虎なり。』と。
△按ずるに、西南海に之れ有り。其の大なる者、六、七尺。形、畧ぼ老鰤(おいしぶり[やぶちゃん注:ブリは出世魚で最も大型のブリを指す。])のごとくして、肥えて、刺鬐(とげひれ)有り。其の刺、利(と)きこと、釼(つるぎ)のごとし。其の鱗、長くして、腹の下に翅(はね)有り。身、赤黑色、水を離(か)れば、則ち黄黑、白斑なり。齒有りて諸魚を食ふ。世に相傳へて曰く、『鯨は鰯及び小魚を食ふも、大魚を食はざるの約束有り。故に魚虎(しやち)は毎に鯨の口の傍らに在りて、之を守る。若し大魚を食はば、則ち乍(たちま)ち口に入り、鯨の舌の根を嚙(か)み斷(た)ち、鯨は斃(し)するに至る。故に鯨、之を畏る。諸魚、皆、然り。惟だ鱣(ふか)・鱘(かぢとをし[やぶちゃん注:カジキ。])、能く魚虎を制すのみ。如(も)し網に入らば、則ち忽ち囓み破りて出で去る。故に漁者、之を取る者、稀なり。初冬、汀邊(みぎは)に出づること有り。』と。蓋し猛魚なるを以つて虎の名を得のみ。猶ほ蟲に蠅虎(はいとりぐも)・蝎虎(やもり)の名有るがごとし。必ずしも變じて虎に爲(な)る者に非ず。【「本草」[やぶちゃん注:李時珍「本草綱目」。]に『變じて虎と爲る者有る』と云ふの「有」の字、以つて考ふべし。】鱣(ふか)・鱘(かぢとをし)・鯉(こひ)、龍門に逆(さ)か上(のぼ)りて竜に化すと云ふも亦、然り。
城樓の屋棟(やね)して、瓦に龍頭魚身の形を作り置く。之を魚虎(しやちほこ)と謂ふ【未だ其の據(きよ)を知らず。】。蓋し嗤吻(しふん)を殿脊(でんせき[やぶちゃん注:屋形の屋根。]に置き、以て火災を辟(さ)くと云ふは所以(ゆへ)有り【蚩吻(しふん)は龍の下に詳らかなり。】。[やぶちゃん注:「嗤吻」=「蚩吻」は、やはり大棟に附ける鴟尾(しび)のこと。龍の九匹の子供の内の酒飲みの龍で、古来、屋根を守ると信じられた。]
*
なお、「鯱」は国字である。
「クロトンボ」「クロトンボウ」とも呼ばれるようである。「トンボ」は不詳乍ら、一つ、正面から見た際の鰭に依る十字型を蜻蛉に擬えたものではなかろうか?
「大池」全くのあてずっぽうであるが、三重県大王町船越の船越大池附近か?
「古座」紀伊半島の最南端、和歌山県東牟婁郡にあった古座町附近であろう。現在は西牟婁郡串本町と合併して新たに東牟婁郡串本町となっている。
「索革埋侘」「サカマタ」と読むと思われる。
「陀革埋紫」「タカマシ」と読むか? 「サカマツ」の音変化であろうか。]
堀辰雄「十月」附やぶちゃん注(Word2010縦書版)を「心朽窩旧館」に公開した。
今まで行っていないドキュメント・テクスト形式としたのは、PDF化では後からリンク挿入作業が煩瑣なこと、漢字の正字が一部で転倒することによる。向後も、リンクが多いデータではこのやり方で公開してゆくことにする。その方が本当にじっくりと縦書で原文や僕のフリーキーな注を読みたい人のために、僕もかなり楽にデータを提示することが出来、しかも書式やフォントを加工されれば、より自分好みのスタイルで自由に読めるであろうからである。
【2023年2月3日削除・追記】既公開の堀辰雄「十月 附やぶちゃん注」の正字化不全と誤字分について、再度、校正し直し、ブログ版(全十三分割)分を直し、公開していたWord縦書版も全改訂して、PDF縦書ルビ化版にリニューアル変更した。御笑覧あれかし。
田螺 淸水ニ養フ事二日以上ヲ經テ食スレハ泥去ル性
冷虛寒ノ人ニ宜カラス功能多シ本草可考國俗曰田
螺ト芥子ト同食スレハ殺人
○やぶちゃんの書き下し文
田螺(タニシ) 淸水に養ふ事、二日以上を經て食すれば、泥、去る。性、冷。虛寒の人に宜しからず。功能、多し。「本草」、考ふべし。國俗の曰く、『田螺と芥子(カラシ)と同食すれば、人を殺す。』と。
[やぶちゃん注:腹足綱新生腹足上目原始紐舌目タニシ科Viviparidae に属する巻貝の総称であるが、ウィキの「タニシ」によれば、本邦にはアフリカヒメタニシ亜科 Bellamyinae(特異性が強く、アフリカヒメタニシ科 Bellamyidae として扱う説もある)の以下の四種が棲息する(なお、現在有害外来生物として「ジャンボタニシ」の名で主に西日本で繁殖し観察されるものは、台湾からの人為的移入種である原始紐舌目リンゴガイ上科リンゴガイ科リンゴガイ属スクミリンゴガイ Pomacea canaliculata で全く縁のない種である)。
マルタニシ Bellamya
(Cipangopaludina) chinensis laeta
(独立種として Cipangopaludina 属のタイプ種であったが、その後、中国産のシナタニシ Bellamya chinensis chinensis の亜種として扱われるようになった。殻高約四・五~六センチメートル。分布は北海道から沖縄。)
オオタニシ Bellamya
(Cipangopaludina) japonica
(殻高約六・五センチメートル。分布は北海道から九州。)
ヒメタニシ Bellamya
(Sinotaia) quadrata histrica
(殻高約三・五センチメートル。分布は北海道から九州。)
ナガタニシ Heterogen
longispira
(一属一種の琵琶湖水系固有種で現在は琵琶湖のみに棲息。殻高は最大七センチメートルにまで達し、他種よりも殻皮が緑色がかったものが多い。)
また、比較的知られている事実であるが、タニシは卵胎生で、『頭部にはよく発達した』一対の触角があって、『その根元付近の外側に目がある。オスの右触角は先端まで輸精管が通じており、陰茎としても用いられる。このため多少なりとも変形しており、Viviparinae 亜科や Lioplacinae 亜科では正常な左触角より短くて先端が太く終わっており、Bellamyinae 亜科では左触角より長く顕著にカールしている。したがって右触角を見れば雌雄の判別ができる。古くから複数種の異型精子の存在が知られており、その機能については正常精子の運搬用、栄養体、あるいは他個体の精子に対する攻撃用など、諸説ある。雌は交尾によって体内受精し、卵が子貝になるまで体内で保護する卵胎生で、十分育った稚貝を数個から十数個産み出す。種類によっても異なるが、子貝は』四~十ミリメートル程度で、『体の基本的な構造は親貝と同じであるが、殻の巻き数が少なく、殻皮が変化した毛をもつことが多い。この毛は親貝ではほとんど失われている』とある。
『「本草」、考ふべし』「本草綱目」に実に十九もの症状へに対する附方が掲載されていることを指しているものと思われる。
「田螺と芥子と同食すれば、人を殺す」所謂、「食い合わせ」の一つとして知られる。根拠は無論、ないのだが、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 別巻2 水棲無脊椎動物」の「タニシ」の記載によれば、相当に強烈な「食い合わせ」伝承があったらしく、水戸藩士で「大日本史」の編纂にも従事した小宮山楓軒(昌秀)の記した「懐宝日記」にも田螺と辛子はよくないとあるとし、さらに越前地方では近代にあっても、蕎麦と田螺を食うと死ぬという俗信があるとある(『介類雑誌』第四号明治四〇(一九〇七)年四月刊)。]
【外】
赤螺
大ニテ短シ内赤シ味美ナリカラニ鹽ヲ入ヲキテ
ハコヘノ汁ヲ別ニシホリ器ニ入ヲキテ蛤殻ニテニシノカラニ
少ツヽスクヒ入テヤクヘシ爲末齒ニヌル腫ヲ消シ痛ヲ止メ
齒ヲ固クス又湯ニ入テ口ヲスヽケハ久シクシテ目ヲ明ニシ牙ヲ
堅クス
○やぶちゃんの書き下し文
【外】
赤螺
大にて短かし。内、赤し。味、美なり。からに鹽を入れをきて、ハコベの汁を別にしぼり、器に入れをきて、蛤の殻にてニシのからに少づゞすくひ入れて、やくべし。末と爲して齒にぬる。腫れを消し、痛みを止め、齒を固くす。又、湯に入れて口をすゝげば、久しくして目を明にし、牙を堅くす。
[やぶちゃん注:腹足綱吸腔目アッキガイ科
Rapana 属アカニシ Rapana
venosa 。ここに記された効能については、金沢の漢方薬・生薬専門店「中屋彦十郎藥局」の「加賀藩の秘薬(六)」に加賀藩「御近習向留帳」(元禄五(一六九二)年記)に腫れ物や切り傷に「白五径」という処方が良いとあって、その調合生薬の中にアカニシが挙げられてあり、『細末にしてつければどんな症状にもいい』とあるのが参考になる。また、人見必大の「本朝食鑑」の「辛螺」の「殻」の項にも、ほぼ同一の調製法と効能の記載を見出せる。
「ハコベ」春の七草の一つであるナデシコ亜綱ナデシコ目ナデシコ科ハコベ属コハコベ Stellaria
media 。ウィキの「コハコベ」には、『民間療法において薬草として扱われることもあり』十七世紀には『本種が疥癬の治療に効果的であるとされていたほか、気管支炎やリウマチ、関節炎にも効果があるという意見もある。ただしこれらの主張は、必ずしも科学的な根拠に基づいたものではない』とし、『全草は繁縷(はんろう)という生薬で、利尿作用、浄血作用があるとされるが、民間薬的なもので漢方ではまず使わない』ともある。]
●胡桃谷
胡桃谷は淨妙寺の東の谷なり。廻國雜記に此地名見ゑたり。曰く。
くるみか谷にて
住馴し鎌倉山の山からや胡桃か谷に秋を經ぬらん
[やぶちゃん注:白井永二編「鎌倉事典」に、『永享の乱による永安寺』(ようあんじ:この浄妙寺東の背後の尾根(東のピークを胡桃山と呼んだ)を越えた二階堂紅葉ヶ谷、瑞泉寺門外向って右の谷にあった臨済宗の寺。廃寺。永福寺とは別な寺なので混同されないように。)『炎上の際にはこの谷も類焼して、ここにあった律宗大楽寺は焼けて二階堂に移ったという』(明治になって廃寺か)『東側の山裾にはやぐらが多い。現在は』宅地造成のため、『昔の景観が失われた』とあるが、というより、完膚なきまでに殆ど消失してしまっているとした方が正しい。
「廻國雜記」道興准后が著した紀行文。道興は関白近衛房嗣の次男で、聖護院第二十四代門跡・新熊野検校などに任ぜられた。大僧正。後、職を辞して詩歌の道へ入り、足利義政・寛正六(一四六五)年、准三后に補任(准后は「じゅごう」と読み、公家(「后」とあるが女性に限らない)の最高称号の一つである)、それ以降、道興准后と呼ばれ、将軍足利義政の護持僧となり、義尚にも優遇された。本書は文明一八(一四八六)年の六月から北陸道を経て越後に至り、関東から甲斐、さらに奥州の松島に至る凡そ十ヶ月に亙る旅について記したもの。漢詩・和歌・俳諧連歌を交えた紀行文は、その文学的価値もさることながら、当時の各地の修験者の動向を知る資料として貴重である(以上は主に平凡社「世界大百科事典」の記載に補足を施してある)。本歌は谷尽くしの和歌群に現われるのであるが、ここで思い切って同書の相模国の鎌倉周辺のパートを一括して掲げておくこととする。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの大月隆編「廻國雜記」(文学同志会明三二(一八九九)年刊)の画像を視認した。踊り字「〱」は正字化し、一部に句読点を変更増補した。
*
新羽を立て、鎌倉にいたる、道すがら、さまざまの名所ども、くはしくしるすに、をよび侍らず。かたびらの宿といへる所にて、
いつきてかたひのころもをかへてましかせうらさむきかたびらのさと
岩井の原を、すくるとて、
すさましき岩井のはらをよそに見てむすふそ草のまくらなりける
もちゐ坂といへる所にて、俳諧の歌、
ゆきつきてみれとも見えすもちゐ坂たゝわらくつにあしをくはせて
すりこばち坂といへる所にて、又俳諧歌をよみて人に見せ侍りける、
ひだるさにやどいそぐとやおもふらむみちより名のるすりこはちざか
はなれ山といへる山あり、まことにつゞきなる尾上(おのへ)も見え侍らねば、
あさまだきたびたつさとのをちかたにその名もしるきはなれ山かな
鎌倉中、かなたこなた、巡見し侍りて、まつやつやつを人にたづね侍り。龜か井のやつにてよめる、
いくちとせ鶴か岡邊にともなひてよはひあらそふ龜か井のやつ
扇がやつにて、
秋たにもいとひし風をおりしもあれあふきかやつは名さへすさまじ
うつし繪のあふぎがやつやこれならん月はうな原ばらゆきはふじのね
ささめがやつ、
霜さやくさゝめがやつのふしの間にひとよのゆめもあらしふくなり
梅がやつ、
冬がれの木たちさびしき梅かやつもみちもはなもおもかげぞなき
うりがやつ、
ひとなつはとなりかくなりくれすぎて冬にかかれるうりがやつかな
霧がやつ、
このさとのふる井のもとのきりがやつおち葉ののちはくむ人もなし
くるみがやつ、
すみなれしかまくら山のやまがらやくるみがやつに秋をへぬらん
へにがやつをとほりて、けはひ坂をこゆとて俳諧、
かほにぬるへにがやつよりうつりきてはやくもこゆるけはひさかかな
鶴岡の八幡官に、參詣し侍れば、つたへきゝ侍りしにも、すぐれたる宮たちなり。まことに、信心肝に銘して、たつとく覺え侍る。そもそも、當社別當、祖師隆辨僧正、經曆(けいれき)年久し。その階弟道瑜准后(だうゆうじゆんこう)、號をば、大如意寺といひ、兩代かの職に補し侍りき。由緒無雙(ぶそう)なることを、おもひ出て、神前に奉納の歌、
神もわかむかしの風をわすれすは鶴かをかへのまつとしらなん
由井の濱にさかりて、鳥居なと見侍りて、しはらくみなみなあそひ、侍りけるに、
くちのこる鳥居のはしらあらはれてゆゐの濱邊にたてるしらなみ
このつゐでに、建長圓覺以下の五山を、巡見し侍りて、これより、瀨戸金澤といへる、勝地の侍るを、たつねゆくに、瀨戸のおきに、漁舟あまた、みえけるを、
よるべなき身のたくひかな波あらき瀨戸のしおあひわたるふなびと
磯山づたひ、のこりの紅葉、見所おほかりければ、
冬されは瀨戸の浦わのみなと山いくしほみちてのこるもみぢぞ
*]
38 所司代大久保加賀守〔忠眞〕京にて詠歌の事
今の加判小田原侯〔大久保加賀守忠眞〕、京の所司にてあられしとき、今の院御讓位のことども執り行はれ、事終りたるを、叡感とて院御所へ召し、其後園を見せしめられ、叡旨をもて華製の一大端硯を賜りしとなり。これは御在位中あまたの敕額御揮灑ある度ごとに、宸筆を染めさせ玉ひし御品なるが、今は御用もなければ下さるゝなどゝ、ありがたき内旨を蒙られしとぞ承る。其日御園中を徘囘せられ、さまざまの景勝設けられし中、いと高き假山より、折しも搖落の後なりければ、遠眺も殊に開朗にて、洛中の千門萬戸も一目に俯臨して、盡す風色いはん方なかりければ、そこにてふと一首の咏ありしが、侯も謙退の人ゆへ、吟哦もせられず退(マカ)り出られ、其後知人にその咏を物語せられしかば、思はずも九重の内に聞へ、近世の秀逸とて叡賞ありしとなり。
にぎはへる都の民の夕けぶり
冬ものどかに霞立見ゆ
これより誰云ともなく、搢紳の輩、霞の侍從と呼けるとぞ。この侯は文武ともに志厚く、並々ならぬことども多しと聞く。就中是も京職の折ふし、今上御即位のとき、御築地の外を裝束にて固めらるゝことなりしが、此重大の朝儀行はるゝによて、武家警衞を勤ることなれば、常よりも一際心得て、手の者共具し出られしが、身づからは兵庫鎖の白太刀を佩られける。京人見たることもなければ、頻りにそのことを喧傳して、遂に關白殿聞傳へられ、その後傳奏衆もて一覽の所望ありければ、かの白太刀を袋に入て出されしに、その袋さヘ古製に叶ふやうに、かねて造り置れしかば、關白殿を始め、朝廷こぞりて、流石關東の譜第大名よ、今の世かゝる物まで備へんとは思ひよらざりしこととて、感賞せられしとなり。
■やぶちゃんの呟き
「所司代」京都所司代。京都の守護及び禁中・公家に関する政務を管掌し、さらに京都・伏見・奈良の三奉行を支配、京都周辺八ヶ国の訴訟の処理、西国大名の監視などを掌った。
「大久保加賀守〔忠眞〕」相模国小田原藩第七代藩主大久保忠真(ただざね 安永七(一七七八)年或いは天明元(一七八二)年~天保八(一八三七)年)。ウィキの「大久保忠真」によれば、『江戸時代後期になると、小田原藩でも財政窮乏により藩政改革の必要性に迫られていた。そのため、忠真は二宮尊徳を登用して改革を行なうこととした。尊徳は藩重臣・服部家の財政を再建した実績をすでに持っていた。忠真もその話を聞き、小田原藩の再建を依頼しようとしたのである』。『しかし、尊徳の登用はすぐには実現しなかった。身分秩序を重んじる藩の重役が反対したのである。そこでまず、忠真は』文政五(一八二二)年に『尊徳に下野国桜町(分家・宇津家の知行地、現在の栃木県真岡市二宮地区)の復興を依頼した』。当時の桜町は表高三千石にも拘わらず、荒廃が進んで収穫は八百石にまで落ち込んでおり、『それまでにも小田原藩から担当者が派遣されていたが、その都度失敗していた』のを尊徳が美事に復興させた。そこで『忠真は重臣たちを説き伏せ、尊徳に小田原本藩の復興を依頼』、金千両及び多量の蔵米を支給して改革を側面から支援した(この時、天保八(一八三七)年で尊徳の登用を思い立って十五年が経過していた)。『尊徳の農村復興は九分九厘成功したが』、この年、忠真が五十七歳で急死、『尊徳は後ろ盾を無くしたために改革は保守派の反対によって、あと一歩というところで挫折してしま』ったとある。幕政に於いては寛政一二(一八〇〇)年に奏者番となり、以後、寺社奉行兼務から大坂城代、文化一二(一八一五)年に京都所司代、文政元(一八一八)年八月には松平定信の推挙により老中となって二十年以上、在職した。『政治手腕等においては、同役の水野忠邦に比較すると影は薄いが、反面で矢部定謙、川路聖謨、間宮林蔵(蝦夷地や樺太の探検で著名)など下級幕吏を登用・保護している』とあって、本話柄に相応しい名君であったことが窺われる。
「加判」重要な公文書に花押(書き判)を加える資格を有する重役のことで、江戸時代に於いては老中の別名。
「今の院御讓位のこと」「今の院」は第百十九代天皇光格天皇(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年)。在位は安永八(一七八〇)年から文化十四年三月二十二日で、譲位はグレゴリオ暦では一八一七年五月七日。本シークエンスは「折しも搖落の後なりければ」とあるから、院御所としての仙洞御所の整備などが執り行われた後の、この年の秋のことであったと考えられる。以下の庭の景も現在の京都市にある京都御苑内京都御所の南東にある仙洞御所(正式名称は桜町殿)である。ウィキの「光格天皇」によれば、『傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった』とあり、また、在位中の『朝幕間の特筆すべき事件として、尊号一件が挙げられる。天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった』とある。『博学多才で学問に熱心であり、作詩や音楽をも嗜んだ』。また、四百年近くも『途絶えていた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭の復活や朝廷の儀式の復旧に努めた。さらに平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の公式教育機関の復活を構想したが、在位中には実現せず、次代の仁孝天皇に持ち越されることになった』(学習院の前身)。因みに静山は宝暦一〇(一七六〇)年生まれで天保一二(一八四一)年没、まさに「今の」同時代人である。
「叡感」「叡旨」「叡賞」孰れも天皇が感心してお褒めの言葉や褒美を受けることを言う。
「端硯」「たんけん」。名品として知られる端渓硯(たんけいけん/たんけいのすずり)。広東省高要県の南東にある爛柯(らんか)山に沿った渓谷で採取される石で作った硯。端渓の名は漢代に端渓県が設けられた昔よりの由緒ある名で、硯の採取は唐高祖の武徳年間
(六一八年~六二六年)に始ったとされる。宋代には下巌・中巌・上巌・竜巌など、その種類が多く,多くは紫色を呈し発墨が良い大振りのものを上石とする。
「揮灑」「きさい」と読み、原義は、思いのままに自由自在に書画をかくことを言う。
「假山」築山。
「咏」は「詠」に同じい。
「吟哦」「ぎんが」。節をつけて漢詩や和歌などを詠(うた)うこと。
「搢紳」「しんしん」と読む。笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯。)に搢(はさ)む意から、官位が高く身分のある人を言う。公卿。
「霞の侍從」忠真は文化一二(一八一五)年従四位下侍従・加賀守に敍されている。なお、「小田原藩主大久保忠真という人桜町復興依頼」という頁によれば、彼は、これ以前、京都所司代になった頃に芙蓉を好んで藩邸に植えさせ、それを写生することを好んだことから「芙蓉の侍従」とも呼ばれていたとあり、さらに、
見渡せば心にかかるくまもなし月にまされる雪の曙
見ぬ世までかはらじものと眺めれば心も霞む春の曙
とも詠んだとして、「曙の侍従」とも呼ばれた、ともある。
「今上御即位のとき」光格の第六皇子であった仁孝天皇(寛政一二(一八〇〇)年~弘化三(一八四六)年)の即位式。文化十四年九月二十一日(グレゴリオ暦一八一七年十月三十一日)。
「兵庫鎖の白太刀」ウィキの「太刀」にある、「兵庫鎖太刀(ひょうごくさりのたち)」の項には専ら実戦目的のために拵えられた兵仗太刀(ひょうじょうのたち)、厳物造太刀(いかものつくりのたち)と呼ばれた太刀の一つで、『太刀緒と太刀本体を結ぶ「足緒」と呼ばれる部品を、革ではなく細く編んだ鎖を何条も平組に組み上げたものとした太刀。「長覆輪太刀(ながふくりんのたち)」と呼ばれる、鞘全体を板金で包み、彫刻を施した板状の金具で鞘の上下を挟んで固定した形式のものが多く、後には専ら装飾性を重視した拵として儀仗用の太刀の代表的な拵となり、寺社への奉納用として多数が製作された』。『なお、本来の字は「兵具(ひょうぐ)」であったが、後世に訛って「兵庫」と変化したという説が有力である』。グーグル画像検索「兵庫鎖太刀」をリンクしておく。如何にも古形、そもそもこの太平の世に実用の太刀というところからも古式と言えよう。「白太刀」は「しろだち」「しろたち」で柄や鞘などの金具を総て銀製とした太刀。銀(しろがね)作りの太刀のこと。
「佩られける」「おびられける」。
「關白殿」当時の関白は一条忠良(ただよし)。
「傳奏衆」朝廷内に置かれた役職。もともとは伝奏自体が治天の君(上皇)に近侍して奏聞・伝宣を担当した者を指したが、ここは「衆」とあり、御覧は仁孝天皇だけでなく光格上皇も含まれていようから、ここは定員二名の武家伝奏の他、上皇のための院伝奏らも含めた謂いのように思われる。
「その袋さヘ古製に叶ふやうに、かねて造り置れしかば」所謂、古代裂(こだいぎれ)で調整した太刀袋であったのである。
「譜第」譜代。家康は関東に入部すると、東国の押さえとして譜代の大久保忠世を小田原城主に据えた。
○連哥(れんが)に不審の事ありて問ふとき、其の書にあり、又は何れの事なりと答(こたふ)るに、疑しき事なりとも、再應聞(きか)ざるが連哥の法也。連歌師江戶住居(すまひ)すれ共旅宿の申立(まうしだて)也。江戸住居といふはなりかたき事なりとぞ。
寺をかへ宗旨を改る等の事
○寺をかへ宗旨をかふるなどいふとき、寺へ言入るに、親類のものをもちて云入(いひいる)れば相濟(あひすむ)也。たとひ他人なりとも親類のよしをいふべし。親類ならでは承引せざる事寺の法也。
[やぶちゃん注:当時は幕府の宗門改や寺請制度といった檀家制度によって家単位での宗旨替えは原則上は認められていなかった(即ち、江戸時代は宗教団体による布教自体は表立っては認められていなかったことを意味する)。但し、個人が一代限りで別の宗派を信仰することはかなり自由に認められていたし、そもそもが国替えが行われた場合、新藩主の中には自身が許容し得ない宗派寺院を特定地域内にあることを認めなかったり、寺院の宗派や名称が変更になったりするケースがままあったし、特に日蓮宗(同宗派には幕府が特に禁教としたファンダメンタルな不受不布施派が知られる)は江戸中期以降にも活発な折伏や弘教を展開していたから、こうした宗旨替えを家単位で望むことも実際には結構あったものと私は考える。
「言入る」は「こといるる」と読むか。「言」は「ことわり」と読んだ方が分かりはよいが、そこまでは無理か。]
日本の詩人
現質的ロマンチスト
原則的に言つて、佛蘭西には ADVENTURE の詩人が多く、独逸には SENTIMENT の詩人が多い。そこで傳説的にも、佛蘭西の詩人は主知派に屬し、獨逸の詩人は感傷派に屬すると言はれるのである。(しかし感傷的ロマンチストの典型人は、何と言つてもトルストイ等の露西亞小説家であるだらう。)
所で一體、日本の詩人はどつちだらうか。日本の昔の詩歌人たちは、「物のあはれ」のぺーソスを主題として歌つて來た。それは一種のセンチメンタリズムであるかも知れない。しかしこの日本的文學感は、明白に獨逸的センチメンタリズムとちがつて居る。日本文學のぺーソスは、情緒的であるよりも趣味的であり、觀念的であるよりも感覺的である。即ちこの點に於て、それはむしろ佛蘭西の詩精神に近いのである。日本人の「物のあはれ」は、獨逸語や露西亞語の感傷でなく、もつと佛蘭西語のアンニュイやサンチマンに似てゐるかも知れないのである。
日本人といふ人間は、民族性の血液から見て、最も佛蘭西人に似て居る所が多いのである。日本人はパッショネートの感激性を持つてるけれども、決して西洋風の意味でのSENTIMENTALIST ではない。SENTIMENTALISTであるべく、日本人はあまりにレアリスチックで、常識的實際家にすぎるのである。すべての感覺的のものは物質的である。そして佛蘭西人が感覺的である如く、日本人もまた感覺的であり、それ故に物質的、實證主義的の國民である。獨逸ロマン主義の文學は、過去の日本に於て生育しなかつた如く、現代に於ても發育の見込みがない。日本に昔あつた詩文學は、佛教的ぺーソスによつて匂ひ籠められたところの、驚くべくレアリスチックの抒情詩だつた。日本の俳句の如く、モラルやロマン性を持たない反感傷主義の現實的ポエヂイは世界にない。
日本の詩人は、西洋風の意味に於ての主知主義者ではない。だが同時にまた、西洋風の意味に於ての感傷主義者でもない。これは全く特殊な別世界の存在である。もしロマン的現實人間(現實的ロマンチスト)といふ言葉があるとすれば、日本の詩人は正しくそれに當るのである。過去の歌人や俳人もさうであつたし、現時のいはゆる新しい詩人たちもさうである。
そこで僕等の意志することは、かうした傳統の詩人であるところの、あまりに現實的にすぎるプラグマチック・ロマン人間の一種屬を、現代の日本文化から抛棄することに存してゐる。それは不可能の夢かも知れない。なぜなら僕等自身が、あまりに多く傳統の日本人でありすぎるから。
しかしながら尚、それを理念するだけでも好いのである。
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年九月号『文学界』に発表され、後に第一書房昭和十二年三月刊の「詩人の使命」に所収された。異同はない。]
○武藏守泰時鑒察 付 博奕禁止
同八月十八日の早朝に、武藏守泰時は榎島(えのしま)の明神に參詣ありける所に、前濱に死人あり、年の比二十餘(はたちあなり)の男なりけるが、刺殺されたる者なりけり。泰時不便(ふびん)の事に思はれ、御神拜(ごじんはい)を差置(さしお)きて、直(すぐ)に御所へぞ參られける。評定衆を召して、沙汰を經られ、御家人等に仰せて、武藏大路、西濱、名越坂(なごやざか)、大倉、横大路(よこおほぢ)以下諸方の口々を堅めさせ、家々を搜して、犯科人(ぼんくわにん)をぞ求められける。かゝる所に、名越邊に、或男てづから、直垂(ひたゝれ)の袖に付きたる血を洗ひけるを怪しみて、岩平(いはひら)左衞門尉、この男を搦捕(からめとつ)て參らせけり。水火の拷問に及びしかば、ありの儘に白狀を致しける。「今夜ある人の家に集り、五六人博奕(ばくえき)して、勝負を爭ひ、潛(ひそか)に刺殺して捨て候。その血の付きたるを洗ひたりけるに、運命盡きて、顯れ候」とぞ申しける。是に依て、牢獄に入れられ、博奕停止(てうじ)の觸(ふれ)をぞ行はれける。泰時の鑒察(かんさつ)は、神(しん)に通じ給ひけりと、皆、感嘆せられけり。夫(それ)博奕の獘(へい)は世を以て大(おほい)なりとす。正直廉讓の人といへども、忽(たちまち)に奸僞(かんぎ)の者となり、武士は臆病起り、僧侶は道德を失ふ。君子の誡むる所、小人の好む所、貧困口論(こうろん)の根となり、盗賊放蕩の基(もとゐ)たり。國家政務の邪魔となる事、是に過ぎたるはなしとて、強く禁制(きんぜい)せられしは。理(ことわり)とぞ申し合ひける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十九の天福元(一二三三)年八月十八日の条に基づく。
「鑒察」「鑒」は「鑑」と同字。現在の「監察」(取り締まり、調べること)と同義。
「榎島の明神」江ノ島明神。現在の江島(えのしま)神社の古称。同神社の濫觴は天照大神が須佐之男命と神産み比べをした際に生まれた三姉妹の女神、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと/奥津宮に祭祀)・市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと/中津宮)・田寸津比賣命(たぎつひめのみこと/辺津宮)を祀ってこれを江島大神、江島明神と呼んだ。後に仏教との習合による本地垂迹説により三女神は弁財天女とされ、江島弁財天として信仰されるに至った。
「前濱」現在の由比ヶ浜の滑川河口から西部分及びそこに含まれる坂ノ下海岸の当時の称。巨視的には鶴岡八幡宮(或いはその前身である若宮)の「前」、或いは創建が遙かに古いとされる甘繩神明社の「前」の謂いであろう。
「武藏大路」諸説あって定まらぬ大路名であるが、最も有力なのはほぼ若宮大路と並行して、西口の市役所前を南北に走る道で、南行すれば御成小学校前・裁許橋を経て六地蔵で現在の由比ヶ浜通りに接し、北行すれば寿福寺前で横須賀線踏切を越えて、亀ヶ谷や化粧坂の切通を越えてまさに武蔵に至る道である。
「西濱」現在の材木座海岸及び飯島ヶ崎の東側一帯を指す古称。
「名越坂」現在の大町の名越(なごえ)にあった鎌倉七切通の一つ。三浦への重要な古道であったが、現在は寸断されたものが部分的に残るのみである(私は三十七年前の二十一の時、私は蜘蛛の巣と擦り傷だらけになって踏破したことがあるが、近年はかなり整備された模様である)。横須賀線の現在の名越トンネルの上部を越えていた。
「大倉」当初の大倉幕府(現在の清泉小学校附近)を中心とし、西は鶴岡八幡宮まで、東は浄妙寺辺まで(白井永二編「鎌倉事典」は朝比奈切通までとする)、南は滑川左岸、北は瑞泉寺辺りまでを指す古い地域名。
「横大路」現在の鶴岡八幡宮三の鳥居前の東西の道に比定されるが、「吾妻鏡」の叙述を見る限りでは、古くはもっと北の八幡宮内、現在の流鏑馬が行われる馬場辺りにあったのではないかと考えられる。
「岩平左衞門尉」「岩手左衞門尉」の誤判読か誤刻。後掲する「吾妻鏡」参照。人物不祥。「吾妻鏡」ではここ以外には見えない。
「奸僞」悪知恵をめぐらして巧みに取り繕うこと。
以下、「吾妻鏡」天福元 (一二三三)年八月十八日の条を示す。
○原文
十八日庚寅。早旦。武州爲奉幣于江嶋明神出給之處。前濱有死人。是被殺害者也。不遂神拜給。直參御所給。即召評定衆。被經沙汰。先令御家人等。武藏大路。西濱。名越坂。大倉。横大路已下。固方々途路。有犯科者否。可搜求其内家之由。被仰下之間。諸人奔走。而名越邊。或男洗直垂袖。其滴血也。成恠。岩手左衞門尉生虜之。相具參御所。推問之刻。所犯之條無所遁。是博奕人也。仍殊可停止其業之由。下知云々。]
○やぶちゃんの書き下し文
十八日庚寅。早旦、武州、江嶋明神(えのしまみやうじん)に奉幣せんが爲に出で給ふの處、前濱(まへはま)に死人有り。是れ、殺害(せつがい)せらるる者なり。神拜を遂げ給はず、直(すぐ)に御所に參り給ふひ、即ち、評定衆を召し、沙汰を經(へ)らる。先づ御家人等(ら)をして、武藏大路・西濱・名越坂・大倉・横大路已下、方々の途路(とぢ)を固めしめ、犯科者(はんくわしや)有りや否や、其の内の家を搜(さぐ)り求むべきの由、仰せ下さるの間、諸人、奔走す。而して名越の邊に、或る男、直垂(ひたたれ)の袖を洗ふ。其の滴(したたり)は血なり。恠(あや)しみを成して、岩手左衞門尉、之れを生虜(いけど)り、相ひ具して御所に參ず。推問(すゐもん)の刻(きざみ)、所犯の條、遁(のが)る所無し。是れ、博奕人(ばくえきにん)なり。仍つて殊に其の業を停止(ちやうじ)すべきの由、下知すと云々。]
「今昔物語集」卷第二十七 於内裏松原鬼成人形噉女語 第八
[やぶちゃん注:これは私の偏愛する短篇である(その理由は注の最後で明らかにしよう)。本話は池上氏の岩波文庫版には所収しないので、小学館昭和五四(一九七九)年刊の馬淵和夫・国東文麿・今野達校注「日本古典文学全集 今昔物語集四」の原文を底本とし、片仮名を平仮名に直し、恣意的に漢字を正字化して示した。ルビは私が当初の凡例に準じて取捨選択した(底本のルビは歴史的仮名遣)。]
内裏の松原にして、鬼、人の形と成りて、女を噉(くら)ひし語(こと)第八
今昔、小松の天皇の御代に、武德殿の松原を若き女(をむな)三人(みたり)打群れて内樣へ行けり。八月十七(じふしち)日の夜の事なれば、月は極めて明(あか)し。
而る間、松の木の本に男一人出來たり。此の過(すぐ)る女の中に一人を引(ひか)へて、松の木の木景(こかげ)にて女の手を捕へて物語しけり。今二人の女は、「今や物云畢(ものいひをはり)て來(きた)る」と待立てりけるに、やや久しく見えず。物云ふ音(こゑ)もせざりければ、「何(いか)なる事ぞ」と怪しく思(おもひ)て、二人の女寄(より)て見るに、女も男も無し。此(これ)は何(いづ)くへ行(ゆき)にけるぞと思て、吉(よ)く見れば、只(ただ)女の足手許(ばかり)離れて有り。二人の女此れを見て、驚(をどろき)て走り逃て、衞門(ゑもん)の陣に寄て、陣の人に此の由を告(つげ)ければ、陣の人共驚て、其の所に行きて見ければ、凡そ骸(かばね)散りたる事無くして、只足手のみ殘(のこり)たり。其の時に人集り來(きたり)て、見喤(みのの)しる事無限(かぎりな)し。「此れは鬼の、人の形と成(なり)て、此の女を噉(くひ)てけるなりけり」とぞ人云ける。
然れば、女然樣(さやう)に人離れたらむ所にて、不知(しらざ)らむ男の呼(よば)むをば、廣量(くわうりやう)して不行(ゆく)まじき也けり。努々(ゆめゆめ)可怖(おそるべ)き事也、となむ語り傳へたるとや。
□やぶちゃん注
本話の内容は、宇多天皇の勅命により藤原時平らが撰した延喜元(九〇一)年成立した歴史書「日本三代実録」の最後の第五十巻に載る、仁和三(八八七)年八月十七日の条に記す以下の記録に出るものと同じ事件を扱っている(以下は『岩手大学教育学部附属教育実践研究指導センター研究紀要』(第五号・一九九五年)に載る中村一基氏の「鬼譚の成立 <仁和三年八月一七日の鬼啖事件>をめぐって」の冒頭に引用されているものの、句読点の一部を改変して示した。同論文はまさにこの奇怪な出来事を細部まで徹底的に掘り下げたが記述論文で必読である)。
*
○十七日戊午。今夜亥時、或人告、「行人云、武德殿東松原西有美婦人三人、向東歩行。有男在松樹下、容色端麗。出來與一婦人携手相語、婦人精感、共依樹下。數尅之間、音語不聞。驚恠見之。其婦人手足折落在地、無其身首。」。右兵衞右衞門陣宿侍者、聞此語往見、無有其屍、所在之人、忽然消失。時人以爲、鬼物變形、行此屠殺。又明日可修轉經之事。仍諸寺僧披請、宿朝堂院東西廊。夜中不覺聞騷動之聲、僧侶競出房外。須臾事靜、各問其由、不知因何出房。彼此相性云。是自然而然也。是月。宮中及京師、有如此不根之妖語、在人口。卅六種、不能委載焉。
*
「亥時」は午後十時頃であるが、これは事件の起こった時間ではなく、この怪奇事件を「或人」が報告した時間である。従って事件そののもは最低でも三十分以上は前のことであるから、私は事件の発生は午後八時かそれ以前ではなかったかと想定している。「精感」とは「精(まこと)に感じて」とでも訓ずるか。私は――如何にも親しげに――程度の意味で採る。但し、底本日本古典全集の冒頭解説では、『しかし、本話が直接それに依拠したかどうかは疑問で、寧ろ両者間には仲介的文献を配慮すべきか』とも述べてある。
寧ろ、これを後半部も含めてほぼそのまま書き改めたと思しいものが、「古今著聞集」巻十七の「變化」第二十七の冒頭の一篇(体系本通し番号五百八十九)である。以下に、西尾・小林校注になる新潮日本古典集成版を底本としつつ、恣意的に正字化して示す。
*
仁和三年八月武德殿の東松原に變化の者出づる事
仁和三年八月十七日、亥の時ばかりに、あるもの道行人に告げけるは、武德殿の東の松原の西に、見めよき女房三人東へゆきけり。松下に容色美麗なる男いできて、一人の女の手をとりて物語しけるが、數刻(すこく)をへて聲もきこえずなりぬ。おどろきあやしみて見ければ、その女、手足をれて地にあり、頭は見えず。右衞門左兵衞陣に宿侍(しゆくじ)したる男、この事をきゝて、ゆきて見ければ、そのかばねもなかりけり。鬼のしわざにこそ。
次の日、寺の僧を請ぜられて讀經の事ありけり。その僧どもは、朝堂院の東西の廊に宿侍したりけるに、夜中ばかりに騷動のこゑのしければ、僧ども坊の外へ出て見れば、やがてしづまりて、なに事もなかりけり。「これはされば何の事によりていでつるぞ」と、おのおのたがひに問ひけれども、たれもわきまへたる事なかりけり。物にとらかされたりけるにこそ。この月に、宮中京中かやうの事どもおほく聞へけり。
*
広範の話柄の「朝堂院」は八省院とも言い、変事のあった松原の南直近の豊楽院の東、大内裏中央南寄りに位置する。北部分に大極殿があってその南庭であり、十二同堂が置かれた朝政の場。松原の南西直近である。「とらかされたり」の「とらかす」(盪す・蕩す)は金属を火にかけて溶かすの意の「とろかす」の転訛で、迷わす・たぶらかすの意。
・「小松の天皇の御代」第五十八代光孝天皇(天長七(八三〇)年~仁和三(八八七)年)。陽成天皇が藤原基経によって廃位された後の元慶八(八八四)年三月に五十五歳の高齢で即位、実質的な在位は四年に満たなかった。質朴な文化人として知られるが、彼はまさにこの怪事件の翌月、八月二十六日に崩御している。この大内裏内での凄惨な猟奇的事件が事実とすれば、魔界が大内裏の中にまで侵入している顕著な証しで、これらの多発したという怪事と翌月の薨去とが結びつけられたりはしなかったのであろうか?
・「武德殿の松原」「武德殿」は大内裏の西の中央やや北に或殷富(いんおう)門を入って右近衛府(北側)と右兵衛府(南側)の間を抜けた直近にある小さな凸方をした小さな殿舎で、駒牽き・騎射・競(くら)べ馬などを天覧する際に用いられた。弓場殿(ゆばどの)とも読んだ。そこと宜秋門(エントランス状の通路を経て内裏の西の中央門である陰明門に繋がる)と間に、本事件の発生した「松原」、非常に広い「宴(えん)の松原」と称された広場がある。ここで我々は、かの資料集の復元地図でご大層に書かれていた大内裏の中が、この当時、普通に市井の民の通路になっていたことが分かる。いや、それどころか、「今昔物語集」の他の複数の怪異譚を読むと、まさにこの「宴の松原」は平安後期に於いて既に狐狸妖怪の類いが盛んに出没する立派な心霊スポットとして超弩級に有名であったことが分かるのである。私も高校時代からお世話になっている京都書房の「新版国語総覧」(一九九二年刊)によれば、「宴の松原」とは言うものの、『宴会に用いられた事例は知られず、寧ろ早くから』かく狐狸の棲む『ような恐ろしい場所とされ』、『平安末期の大火以後、官衙の債権が行われないまま大内裏は衰微して野原となり、中世では内野と呼ばれるようにな』ってしまったとある。この四神相応の鉄壁の平安京の、その神聖の中心たるはずの大内裏の中に大きな魔界への入口が黒々と開いていたのである。いや、寧ろ神聖不可侵の聖なる空間の周縁にこそそれに相応した魔が召喚されてしまうのが民俗社会の常なのである。
・「内樣」東の内裏方向。
・「八月十七日の夜」実録にある仁和三(八八七)年八月十七日はユリウス暦で九月八日、グレゴリオ暦に換算すると九月十二日に相当する。
・「若き女三人」そもそもがこの悪所の呼び名高い「宴の松原」を仮に宵の頃であったとしても、女だけの三人連れで行くというのは、如何にも解せない。ここで一人の女が非常に仲のいい馴染みの男(に化けた鬼)に逢うというのも変である。この女たちは所謂、体を鬻いでいる連中であったのだと思う。残りの二人が話し終るのを待っていたのというのは、彼女の商談がつくのを待っていたのである(但し、その場合、女が妙にその男と親しそうに話していたところから彼が以前にその引かれた女郎仲間を買ったことのある馴染みだと思った可能性はある)。幾らなんでも、こんなおどろおどろしい場所でナニをやらかそうとは女二人も思わぬからである。或いはこの殺された女が三人の姐さん格で、三人連れで遊ぼうというのを期待して待っていたものとも考えられよう。ともかくも、学者先生たちはこうしたことについて分かり切ったことだからなのか、一言も注しておられない。私がずっとアカデミストの注が不審にして不満なのはそうした事実によるのである。
・「衞門の陣」左右衛門府の役人の詰所(左近衛府は大内裏の反対側の東の陽明門を入ったすぐ北にあった)。右衛門の陣は先に示したように、豊徳院から宴の松原を真東に突っ切った宜秋門のすぐ内側にあった(左衛門の陣はやはり反対側の建春門内にあった)。彼らが事件に遭遇した場所を「宴の松原」の真ん中辺りと仮定すると、ここまでは恐らく二町(二百五十メートル)程しか離れていなかったはずである。
・「此れは鬼の、人の形と成て、此の女を噉てけるなりけり」私は鬼は女を食ったのではないと考えている。かといって、ここで昨今起きているような猟奇的なシリアル・キラーを比定しようというのではない。私はこの話をやはり殊の外偏愛する「長谷雄草紙」の確かな、サイド・ストーリー、一種のスピン・オフとして読むのである。……公卿で文人として知られ、「竹取物語」の作者の一人とも目される双六の名手紀長谷雄(きのはせお 承和一二(八四五)年~延喜一二(九一二)年)が主人公。彼は鬼の化けた男と朱雀門楼上で双六で勝負をして勝ち、鬼が賭けた絶世の美女をまんまと手に入れる。鬼は百日の間、この女に触れてはならぬ、という忠告とともにその女を長谷雄に与えるが、八十日が過ぎる頃、辛抱我慢のならなくなった長谷雄はつい女を抱いてしまう。すると女は、みるみるうちに水と変じて消えてしまうのであった。この女は実は、鬼が数々の人の死体から目・鼻・胸・腰の良いところばかりを集めて合成したものであって、惜しいかな、百日を経れば真の人間となるはずであった、という奇っ怪い極まるストーリーである。……そうだ……私はまさにこの朱雀門に巣くっていた鬼こそが、本話の鬼であった、その彼が、謂わば「フランケンシュタインの花嫁」を創るために、この女の首と胴体を奪った、と読みたいのである。「長谷雄草紙」の成立は鎌倉から南北朝頃とされるが、その遠い濫觴の一つを例えばこの話に求めるということが、私には強ち、見当違いなこととは思われぬのである。……
□やぶちゃん現代語訳
内裏の松原に於いて鬼が人の姿に変じて女を喰らった事 第八
今となっては……昔のことじゃ……小松の天皇(すめらみこと)の御代のこと、武徳殿の松原を、若き女が三人、うち連れて内裏の方へと歩いておったと。八月十七日の夜(よ)のことなればのぅ、月影のこれ、まっこと、明るぅ御座った。……
すると、とある松の木下闇(こしたやみ)より男が一人出でて参って、通り過ぎんとしておった三人の女の中の一人に、声をかけて引きとめ、松の木の木蔭に誘って、その女の手を親しげに取り、何やらん、如何にも親しげに話をし始めた。残りの二人の女は、
「じき、話をつけて戻って来はるやろ。」
とその近くで立ちんぼうして待っておったが、これ、なかなか戻って来ぬ。
それどころか、先ほどまで聴こえて御座った二人の話し声もこれ、全く聴こえずなって御座ったによって、
「どないしたんやろ?」
と怪しゅう思うて、その二人の女、かの松の下へと行って見たところが、女も男も、これ、おらぬ。
これは、いったい何処へ行ってしもうたんかと思うて、木下闇の辺りをよぅく見てみて御座ったところが……ただ……
――女の足と手(てぇ)ばかりが
――それも
――それぞれ
――恐ろしく
――遠いところに
――ばらばらになって
離れて落ちておった!……
二人の女はこれを見るや、驚くまいことか、脱兎の如く先へ先へと走り逃げ、幸いにも、すぐ東の門の内にあった衛門(えもん)の陣へと駆け込んで、陣に御座った侍に件(くだん)の由を慌てふためいて告げたによって、陣の者どもも大きに驚き、女どもの申す場所へと馳せ参じたところが、およそ屍(かばね)の首や胴は一向、見当たらず、確かに、ただ、散じたる足や手(てぇ)だけが残っておったのじゃった。……
それを聴いて、またまた人々がそこへ雲霞の如く集まり来たって、惨状を見ては、口々に勝手なことを申し、大騒ぎと相い成って御座った。
大方の者どもは、
「……こ、これは……お、鬼が……人の姿となって……そ、その女を……く、喰ろうて、しもうたのじゃ!……」
と噂し合ったと申す。
されば、女は、このように人気のないような所で、見知らぬ男に声をかけられたる折りには、うかうか気を許してついて行くようなことはこれ、あってはならぬ、よくよく、気をつけねばならぬことじゃと、かく、語り伝えているとかいうことである。
そもそもが「反時代的」とは「時代」が誤っていないという妄想に過ぎない――
若いふたりもの
尾形龜之助
私達は
×
二人が
夫婦であることをたまらないほどうれしく思つてゐる
×
妻は私が大切で
私は妻が大切で
二人は
いつまでもいつまでも仲が良い
×
私はいつもへたな畫をかくが
私も妻も
近い中に良い畫がかけると思つてゐる
私達の仕事は樂しい
×
二人は
まだ若いからなかなか死なない
×
その中に
可愛いい子が生れる
×
私達二人は
良い父と
良い母とになる
(大正一一(一九二二)年四月発行『玄土』第三巻第四号)
[心朽窩主人注:尾形亀之助はこの前年、大正一〇(一九二一)年五月に福島県伊達郡保原町の開業医の長女森タケ(十八歳)と結婚している。この大正一一(一九二二)年一月には仙台からタケを伴って上京し、本郷白山上に転居、日本未来派美術協会会員となり(前年十月の第二回未来派美術協会展で既に会友とはなっていた)、同協会の第三回展の準備運営に当っていた。本詩以降の三篇はそうした密月の最後の名残のように思われる。しかし、この詩の発表直後の五月に早くもタケとは不和となり、家出するように旅に出ている。長女泉は大正一三(一九二四)年四月の、長男猟は大正一五(一九二六)年十二月の誕生であり、その間、龜之助には別な女性への恋慕といった女性関係も生じて、タケとは昭和三(一九二八)年三月別居、同年五月に協議離婚している。僅か七年の結婚生活であった。しかも七箇月後の同年十二月には十一歳年下の芳本優(十七歳)と同棲を始めている。]
年轻的一对夫妻
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
我们……
×
我们俩
因为我们是一对夫妻所以幸福极了
×
妻子爱我
我爱妻子
我们俩
永久地永久地要好
×
我画画儿画得不好
我和妻子
都相信近将来我会画得更好
我们工作做得很开心
×
我们俩
因为很年轻所以不会死掉
×
不久
会生可爱小宝宝
×
我们俩
会成为好爸爸
和好妈妈!
[心朽窝主人附注:前一年(一九二一年)五月,尾形龟之助跟福岛县伊达郡保原町的开业医生的长女森Take(十八岁)结婚。一九二二年一月他跟新娘从仙台到东京,搬到本乡白山上,成为日本未来派美术协会会员(前一年十月的第二届未来派美术协会展览会时已成为会友),从事该协会第三届展览会的准备工作。这篇诗以后的三篇作品可以认为这样的蜜月时期的最后果实。但是公开这篇诗之后不久的五月份,诗人跟Take闹翻,像出奔一样地去旅行。长女泉一九二四年四月出生,长男猎一九二六年十二月出生,这一段期间里诗人产生对于另一个女人的恋爱感情,一九二八年三月和Take分开居住,五月成立协议离婚。就意味着仅仅七年的结婚生活。顺便说七个月后的一九二八年十二月诗人开始和比他小一十一岁的芳本优(十七岁)的同居。]
*
矢口七十七/摄
●滑川
滑川は上にては胡桃川といひ。淨妙寺の前より下までを滑川といふ。其下文覺屋敷の邊にては座禪川といふ。文覺此に居て座禪する故に名くといふ。其下小町にて夷堂川といふ。其下延命寺の脇大鳥居の邊にてはすみうり川といふ。其下閻魔堂の前にては閻魔川と云ふ。一川六名あり。太平記に載(の)する所を見るに靑砥左衞門藤綱が屋敷此邊にありけるか。
[やぶちゃん注:朝比奈峠旧切通しや鎌倉霊園方向の丘陵部を水源とし、総延長六キロメートルを超える旧市内では最も大きい川で、一般的な通称である「滑川」(なめりかわ)は中上流部分に於いて川床が主に凝灰砂岩であるために、川水が滑るように流れることに基づくという。
「夷堂川」は左岸の橋畔にある(復元)正覚寺の夷堂に由来する。
「すみうり川」この左岸に炭商人がいたことによるとされる。定かでないが、鎌倉時代、この一帯は市井の商人の居住区域ではあった。
「閻魔堂」九品寺横の海岸通りを西に行った河畔にはかつて新居閻魔堂(現在の円応寺の前身)が建っていた。現在の円応寺の本尊である閻魔大王像もここに祀られていたが、元禄一六(一七〇三)年の元禄大地震とその津波によって倒潰したため(この時本尊閻魔像も首を除いて流出したとされる)、宝永元(一七〇四)年に山ノ内建長寺前に移されたと伝えられている。
「靑砥左衞門藤綱が屋敷此邊にありけるか」報国寺及び浄妙寺前から金沢街道を朝比奈方向へ三百メートルほど行くと、右手に滑川に架かる青砥橋があるが、そこを渡った住宅地の道路脇(浄明寺五丁目)に鎌倉青年団の「青砥藤綱邸旧蹟」の碑は建つ。但し、彼の実在自体が実際には疑わしい。御不満の向きは、私の「耳嚢 巻之四 靑砥左衞門加増を斷りし事」の注及びそこに貼られた更なる私のリンク先をご覧あれ。……さても……近々やらかそうと考えているテクストもこれ……彼に関わるのぅ……♪ふふふ♪……]
黒海鼠 〔クロナマコ〕
黃海鼠〔キナマコ〕
乙未(きのとひつじ)八月晦日(みそか)、行德(ぎやうとく)魚商善が父、之れを持ち來たる。之れを求め、眞寫す。
海鼠〔一種 アカナマコ〕
午十二月廿八日納め。眞寫し、筆(ひつ)す。
[やぶちゃん注:梅園自筆の「介譜」の「海鼠」は一品を既に掲げてあるが、これは同冊に別に二丁連続(「27」・「28」コマ目)で出る図である。鮮度の高い活ナマコ三個体(現行の通称でクロナマコ(上図上方個体一つ)・アオナマコ(本図では「キナマコ」と呼称している上図下方個体一つ)・アカナマコ(下図/下方の個体の刎部の触手の色の全体の形から同一個体の腹部と背部を二様に描いたものと思われる。上部が管足のある腹側で下図が背側である)の身震いするほどの実感覚で迫った実体図である。ここでは最新の知見に基づき、この「クロナマコ」「アオナマコ」の前二種を、
棘皮動物門 Echinodermata ナマコ綱 Holothuroidea 楯手亜綱 Aspidochirotacea 楯手目 Aspidochirotida シカクナマコ科 Stichopodidae マナマコ属マナマコ Apostichopus armata
とし、後者の「アカナマコ」を、
マナマコ属アカナマコ Apostichopus japonicas
と同定することにする。実は従来、流通では厳然と区別して販売されているこれらは、長い間、分類学上は全くの同種マナマコ Stichopus japonica の色彩変異体に過ぎないとされ、青色や緑色及び黒色を呈するものは一般には静かな内海の砂泥地に、赤色のものは外洋の砂礫帯や岩礁帯に多いなどと記載されてきたのであるが、実は近年、マナマコ Apostichopus japonicus(Selenka, 1867)とされていた種類には、真のマナマコ Apostichopus armata(Selenka, 1867)とアカナマコ Apostichopus japonicus(Selenka, 1867)の二種類が含まれている事実が判明しており、Kanno et al.(2003)により報告された遺伝的に異なる日本産 Apostichopus 属の二つの集団(古くから区別していた通称の「アカ」と、「アオ」及び「クロ」の二群)と一致することが分かっているからである(但し、この記載にも運用上の問題がある。詳しくは「本朝食鑑」の「海鼠」の私の注及びリンク先を参照されたい。リンク先の記載は現在の私の海鼠についての注では最新のものである。なお、正直、この図には、恍惚としてくるのだ! 離れて見て、実にリアルだ! 最大に拡大してもその質感や、超リアル! 特にアカナマコの管足の立体感を見よ! 紙のその奥で(!)あたかもそれらが蠢くのが見えるようではないか!!!
「乙未八月晦日」天保六(一八三五)年。同年の八月は大で八月三十日はグレゴリオ暦で十月二十一日である(この年は閏七月があった)。現在のナマコの流通では最も扱い量が少ないのが十月であるが、実際には海鼠に旬はなく(冬場は身が締まるし、産卵を控える冬から初春に肥えるとは言える)、寿命も五年から十年と、恐らくは想像されるよりもずっと長生きであるし、年中、棲息していて、年中、食える。ただ、夏場は転石下や砂泥中に潜り込んでおり、漁師もことさらに無理して捕ろうとはしないだけである。
「行德」現在の千葉県市川市の南部、江戸川放水路以南の地域名(江戸時代は船橋の一部まで含んだ)。ウィキの「行徳」によれば、『かつて行徳塩田と呼ばれる広大な塩田が広がっていたことで知られ』たが、『漁業も行徳の伝統産業である。江戸時代にはバカガイがたくさん獲れたことから、「馬鹿で人擦れがしている」という意味で「行徳の俎」という言葉が生まれ、夏目漱石の『吾輩は猫である』にも登場する』。『高度経済成長期には水質の汚濁や埋め立てによって漁獲量が激減したが、現在でも三番瀬において主に海苔の養殖とアサリ漁が行なわれている。ただし三番瀬埋め立て計画や第二東京湾岸道路建設計画があり、今なお行徳の漁業は存続の危機に立たされているといってもよい』とある。
「行德魚商善が父」梅園の他の図譜のクレジットにもこの行徳の魚屋が登場する。そこでは「善」とあるから、これは「魚善」(「うをよし」か「うをぜん」)というこの魚屋の屋号のように思われる。恐らくは親子で営んでおり、珍らしい海産動物などが揚がった時には、真っ先に好事の博物学者の許へ運んだのではなかったか? 珍奇なものであればあるほど、相応の対価を梅園は支払ったに違いないから、とびっきりのご贔屓筋だったはずである。これもその「魚善」の親父の方が、新鮮なクロ・アオの大物のナマコを生け捕ったことから、息子は行商に出て留守なればこそ、「こいつぁあ! イキのいいうちに梅園先生のとこへ持って行かにゃ!」と、飯台に海水を注いで、大事大事にナマコを入れると、すたこら自ら持って来た――なんて情景を想像すると、何だか私はすっかり楽しくなってしまうのである。
「午十二月廿八日納め」これは前年の天保五年甲午(きのえうま)の年も押し詰まった十二月二十八日(グレゴリオ暦では一八三六年一月二十五日)。この月は大で大晦日は二日後の三十日。「納め」は筆納めで、これをその年の博物画の描き納めとしたということであろう。キャプションにはないが、私は、もしかするとやっぱり、かの「魚善」が正月用のお祝いにと、とびっきり活きのいいアカナマコを歳暮として持って来たものかも知れない――何てまた考えちゃうんである。]
冬日
尾形龜之助
冬になつて
私達は白い空にまるい小さい太陽のあるのを見た
(太陽はシヨーウヰンドウの中に飾られた)
[心朽窩主人注:本篇は思潮社一九九九年刊「尾形亀之助全集 増補改訂版」の「補遺」という項で初めて公になった一篇で、『太平洋詩人』第二巻第一号(昭和二(一九二七)年一月発行)に掲載された、一九九九年版の元版である同思潮社一九七〇年版の「尾形亀之助全集」以降に発見された作品である。これは翌二月二日発行の『銅鑼』(十号)に載った同題の改作と思われるものでは、
冬日
冬になつて私は太陽を見る寂しいくせがついた
そして ガラスのやうな花粉をあびて眼を細くした
雪どけのする街は
一ところに賣り出しの旗を立ててきたならしい花を咲かしてゐる
と、大きく書き換えられている。]
冬天的太阳
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
到了冬天
我们发现白色的天空里又小又圆的太阳
(太阳已布置在玻璃柜里了)
[心朽窝主人附注:上面的诗篇是在《尾形龟之助全集 增补修订版》(思潮社 一九九九年刊)的补遗章中首次正式公开的。一九九九年刊的根据版:《尾形龟之助全集》(思潮社一九七〇年刊)出版后被发现的作品。在《太平洋诗人》第二卷第一号(一九二七年一月刊)上被发现的。《铜锣》十号(一九二七年二月二日刊)上的同样标题的大改编版如下
冬天的太阳
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
到了冬天看太阳成为凄凉的习惯了
于是 受到像玻璃一样的花粉眯缝眼睛
雪融时期的街头
有一个地方竖立开始出售的旗子,就像肮脏的花开着呢……]
*
矢口七十七/摄
〈昭和十四年・冬〉
藪の端に大年移る月錆びぬ
燈して祝典の姫花嚔(はなひ)りぬ
遊龜公園
白鵞泛き八方の樹々冬かすむ
[やぶちゃん注:「泛き」は「うき」(浮き)と読む。]
暾あまねし温室を出て寄る藁焚火
[やぶちゃん注:「暾」は数例前出するが、やはり「ひ」と訓じていよう。朝日の謂い。]
寒禽に寄生木の雲ゆきたえぬ
瀧川の冬水迅くながれけり
湯ざめして卓の寳玉ひたに愛づ
窓掛に苑の凍光果(くわ)をたもつ
絨毯の跫音吸うて冬日影
ふところに暮冬の鍵(かぎ)のぬくもりぬ
冬もみぢ端山の草木禽啼かず
凍て強しなが蔓に搖る山鴉
たちばなに冬鶯の影よどむ晝
[やぶちゃん注:「冬鶯」は「とうあう(とうおう)」と音読みしていよう。]
神農祭聖(きよ)らなる燈をかきたてぬ
[やぶちゃん注:「大辞泉」には、漢方医が冬至の日に医薬の祖である神農氏を祭る行事とあり、用例にはズバリ本句が引かれてある。]
凍光に放心の刻(とき)ペチカもゆ
祝祭の嶺々嚴しくて寒の入り
足袋白くすこしも媚態あらざりき
在家法要
燭もえて僧短日の餉に興ず
[やぶちゃん注:「餉」は「け」と訓じていよう。かれい・かれいいで、ここは法要の礼膳。]
壁爐燃えこゝろ淫らなるにも非ず
絨毯にフラスコ轉び寒の内
我執偏狹
容顏をゆがめて見入る冬鏡
日輪に薔薇はかなくて氷面鏡
[やぶちゃん注:「氷面鏡」は「ひもかがみ」と読む。凍った水面が鏡に譬えた語。冬の季語。]
樹氷群れ蒼天星によみがへる
枝槎枒と寒禽の透く雲凝りぬ
[やぶちゃん注:上五は「えださがと」と読む。「槎枒」は木の枝がごつごつと角ばって入りくんでいるさまを言う。槎牙。]
その中に寒禽顫ふ影のあり
鷹まうて神座(じんざ)の高嶺しぐれそむ
註――神座山はわが郷東南の天に聳ゆ
[やぶちゃん注:「神座山」山梨県笛吹市の御坂山地にある。標高一四七四メートル。]
溪すみて後山間近く時雨けり
動物園にて 二句
楡時雨れ金鷄(きんけい)は地をあゆむのみ
山椒魚うごかず澄める夕しぐれ
[やぶちゃん注:「動物園」大正八(一九一九)年開園(本邦の動物園では四番目)の甲府市遊亀公園附属動物園か。]
煙たえて香爐の冷える霜夜かな
賀名生村
蒟蒻掘る泥の臭(か)たてて女夫(めをと)仲
蒟蒻掘妻(め)と吉野山常に偕(とも)
蒟蒻掘顔をあげるを鴉まつ
蒟蒻掘る尻がのぞきて吉野谷
天が下土と同色蒟蒻掘
蒟蒻掘る顔を妻があげ山鳩翔つ
蒟蒻掘る穴に吐き捨つ夫(を)の言葉
蒟蒻掘る夫婦に吉野山幾重
蒟蒻負ひ馴れしこの道この傾斜
蒟蒻負ふ泥の重さも背に加へ
*
柿盗りの蹠(あうら)に老の樹のよき瘤
柿盗りを全樹の柿がうちかこみ
柘榴の裂けすでに継げざるまで深く
茸山に入る身を細め身を屈し
これが茸山うつうつ暗く冷やかに
[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三二(一九五七)年に、『晩秋、柿取りを見たく、柿の産地の賀名生(あのう)村に、清子と行く。時季遅れで柿無く、蒟蒻(こんにゃく)掘りを見る。僻地で、バスは日に二三回しか無く、ヒッチハイク式に、多佳子は手を上げて、「森本組」と書いた、土建業者の車に乗せてもらって帰る』とある。ウィキの「賀名生」によると、賀名生は和歌山線五条駅の南南東六・七キロメートルの『奈良県五條市(旧吉野郡西吉野村)にある丹生川の下流沿いの谷である。南北朝時代(吉野朝時代)、南朝(吉野朝廷)の首都(ただし行宮であるため正式な首都ではない)となった地域の一つ』。『もと「穴生」(あなふ)と書いたが、後村上天皇が皇居を吉野(吉野山)からこの地に移した際に、南朝による統一を願って叶名生(かなう)と改め、さらに』正平六/観応二(一三五一)年、一旦、『統一が叶うと(正平一統)「賀名生」に改めたという。明治になって、読みを「かなう」から原音に近い「あのう」に戻した。後村上天皇の遷幸より前の』延元元/建武三(一三三六)年十二月二十一日に後醍醐天皇は京都の花山院から逃れ出て、同月二十三日には『穴生に至ったが、皇居とすべきところがなかったのと高野山衆徒の動向を警戒してここに留まるのを断念』、同月二十八日に『吉野山に至った』が、正平二/貞和三(一三四七)年に『正月に楠木正行が四条畷で戦死したのち、南朝では北朝方(室町幕府、足利軍)の来襲を防ぎ得ないのを知り、吉野を引き払い穴生に移った(皇居は総福寺であろうという)』(中略。リンク先にはこの間の詳細な歴史的経緯と南朝方の移動が記されてある)。『のち長慶天皇を経て後亀山天皇が践祚するに及び』、文中二/応安六(一三七三)年八月より、住吉から『また賀名生を皇居とし以後』元中九/明徳三(一三九二)年に『京都に帰って神器を後小松天皇に伝えるまで』の二十年の間、『賀名生は南朝の皇居の所在地であった』とある。『明治以降は吉野郡賀名生村が存在したが』、多佳子が訪れた二年後の昭和三十四(一九五九)年、『合併し西吉野村となった。日本国有鉄道五新線が通る予定で、途中の阪本まで建設が進められていたが中止され、用地の一部はバス専用道路に転用された』。その後、西吉野村は二〇〇五年の市町村合併で五條市の一部になって、一九五九年以降は『「賀名生」という地名は通称としてのみ使われていたが』、二〇一一年に『西吉野町和田地区の一部が西吉野町賀名生と変更され、住所表記として賀名生が復活し』ている。『賀名生の皇居は、従者の住まいだった一部が現存する』。『南北朝時代から賀名生梅林が有名であり、明治以降は実を収穫するための植林もされた。さらに』、大正一二(一九二三)年に当時の『東宮(後の昭和天皇)成婚を記念して』五千本の『梅が植林された。現在は柿の生産も盛んである』とあり、交通の項には『奈良交通バス五條西吉野線(五新線用地)賀名生バス停下車、または八木新宮線賀名生和田北口バス停下車』とある。それぞれのバス停の時刻表を見ると、後者は一日三便しかないが、前者は五本運行している。
「蒟蒻」単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科コンニャク属コンニャク Amorphophallus konjac 及びその球茎。]
]
蓼蠃 又辛螺ト云本草拾遺ニ載通志曰大如拇
指有刺味辛如蓼
○やぶちゃんの書き下し文
蓼蠃 又、辛螺と云ふ。「本草拾遺」に載す。「通志」に曰く、『大いさ、拇指のごとく、刺、有り。味、辛くして蓼のごとし。』と。
[やぶちゃん注:「辛螺」は外套腔から浸出する粘液が辛味(苦味)を持っている腹足類のニシ類を指す語であるが、辛味を持たない種にも宛てられている科を越えた広汎通称で、
直腹足亜綱 Apogastropoda
下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目新腹足下目アッキガイ上科アッキガイ科アカニシ(赤辛螺)Rapana
venosa
吸腔目テングニシ科テングニシ(天狗辛螺)Hemifusus
tuba
等を含むが、特に
腹足目イトマキボラ科 Fusinus 属ナガニシ(長辛螺)Fusinus
perplexus
及び、実際に強い苦辛味を持つ
腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目新腹足下目アッキガイ上科アッキガイ科レイシガイ亜科レイシガイ属イボニシ(疣辛螺)Thais
clavigera
を指すことが割合に多いように思われる。ただ、ここでは大きさを親指ほどしかないと言っている点、刺を有するという点からは、成貝が殻高二~四センチメートルの紡錘形で殻表に多数の低い結節を持つ(ただ私はあれを「刺」とは表現しないが)イボニシ
Thais
clavigera 及びその仲間を同定候補としてよいように思われる。ウィキの「イボニシ」によれば、『他のアッキガイ科と同様、外套腔内部の鰓のすぐ横には鰓下腺(さいかせん:別名パープル腺)がある。この腺の分泌液には6,6’-ジブロモインディゴ(C16H8O2N2Br2)と呼ばれる物質が含まれており、神経を麻痺させる作用があるため、捕食者に対する防御や餌の貝類を攻撃するのに利用されるほか、卵嚢にも注入することで卵が他の生物に食われないようにしていると言われる。この液は紫外線の下で酸化すると紫色に変化することから、古代から他のアッキガイ科貝類とともに貝紫として染色に利用されてきた。また、乾燥などで内部の卵や胚が死滅した卵嚢では色素の発色が起こり、紫色を呈する』とある。所謂、貝紫で、『独特の苦味があるが、塩茹でや、煮付け、味噌汁の具などに利用されるほか、殻のまま潰して作るニシ汁などに利用される。但し、一般的に広く流通することはほとんどなく、産地で消費される事が多い。また、前述のとおり他のアッキガイ科と同様、外套腔内の鰓下腺(パープル腺)からの分泌液を利用して貝紫染めに利用されることがある。この染色はかつては実用とされていたが、今日では博物館などの体験学習として行われることが多い。他には貝細工にも利用されることがある』とある。
「蓼蠃」中国の本草書からの引用であるから「ラウラ(リョウラ)」と読んでいるか。「蠃」は「螺」に同じく、にな・にしの意で、螺旋状の殻を持つ貝の古称である。因みに部首は虫部。
「辛螺」本邦ではこれで「ニシ」と訓ずるが、やはり中国の本草書からの引用に終始していることから、「シンラ」と音読みしているかも知れない。
「本草拾遺」唐代の医師で本草学者の陳蔵器(六八一年?~七五七年?)が開元年間(七一三年~七四一年)に編纂した博物学的医書。「本草綱目」に盛んに引かれている。
「通志」「八閩通志」明の黃仲昭らの纂修になる福建地方の地誌。八閩は福建省の別称。全八十巻。一四九一年序を持つ。
「蓼」ナデシコ目タデ科
Persicarieae 連イヌタデ属サナエタデ節 Persicaria に属する特有の香りと辛味を持つタデ類。]
攝州多田にて溺死の者蘇生さする法の事
○攝州多田にて溺死の人を治(じ)せし事。先(まづ)死人を女牛(めうし)の背にうつぶけにくゝり付(つけ)、牛のしりをたゝけば牛おどりありく、その度ごとに死人のはらをおさるゝ故、口鼻より水を出す也。さてよく水を出し置(おき)てのち、牛の背よりとき卸(おろ)し、死人をわらの次の上に寢させ、前後よりわらをたきてあたゝむれば、息をふきかへす。氣付(きつけ)の藥などあたへ、粥抔すゝめ療治せしに、しばらくして蘇生せしとぞ。
[やぶちゃん注:思うに、これは実際には溺れて多量の水を飲む前に心臓麻痺を起して一時的に心肺停止状態になった者を、暴れる牝牛の背に乗せ、そこで与えた衝撃が心肺機能を回復させたように見える。即ち、ロディオが一種のAED(自動体外式除細動器:Automated External Defibrillator)の役割をしたのではなかったか。因みに、多くの溺死は実際には心臓麻痺によるものではなく、耳管に流れ込んだ水の圧によって耳の三半規管を取り囲む錐体骨が骨折し、その錐体内出血によって平衡感覚が喪失した結果、遊泳不能となって溺れることが知られている。そこでは必ず耳からの出血が見られる。
「攝州多田」摂津国多田庄。旧兵庫県川辺郡多田村で、現在の川西市の中部多田地区。]
37 井伊家馬場の事
外櫻田なる井伊家の邸は、昔より主人寢所の前乃馬場にて、毎早朝家中の諸士せめ馬を爲ることなり。其もの音にて主人目を醒すと云。さすが御當家格別の家の風と謂べし。然に明和の頃大老勤られし代より、改て尋常の庭の體にかはりたりと云。惜むべきことなり。
■やぶちゃんの呟き
「外櫻田なる井伊家の邸」近江彦根藩井伊家は永田町邸(現在の国会前交差点から国会正門前の前庭一帯)を上屋敷としていた。切絵図を見てみると、屋敷の東北はサイカチ(皀角)河岸を挟んで江戸城の桜田濠(ぼり)となっているから、馬場はこの東北にあったものかなどと想像した。なお、井伊直弼はこの上屋敷から出て、桜田門外で襲撃されている。この距離、実測してみたが四百メートルもない。想像だにしていなかった短い距離であったことを今日初めて知った。先日の大河ドラマの「花燃ゆ」を見ていて不審に思ったとある描写が氷解した。
「乃」「すなはち」。「が、まさに」の意。
「せめ馬」攻め馬。平常時の日々の馬の走り込みの調教を言う。現在でもかく表現する。
「明和の頃大老勤られし代より」明和(一七六四年~一七七一年)の頃には該当人物はいないので(大老は政務を総理する幕府最高職であったが臨時非常職で常に置かれていたわけではない)、恐らくは天明四(一七八五)年十一月二十八日に大老職に就任している近江彦根藩第十二代藩主井伊直幸(なおひで 享保一四(一七二九)年~寛政元(一七八九)年)のことであろう。この男、ウィキの「井伊直幸」によれば、『幕政では田沼意次と共に執政していたが、田沼に賄賂を積んで大老の座を手に入れたという噂もあった』とあり、また天明六(一七八六)年に『将軍・家治が死去すると、若年寄で同族の井伊直朗や大奥と共謀して次の権力の座を狙ったが政争に敗れ』て、天明七(一七八七)年には『大老職を辞』任することとなったとあって、如何にも印象がよろしくないから、寧ろ却って、ここの、なんだかなー当主に相応しい気がする。
風
尾形龜之助
風は
いつぺんに十人の女に戀することが出來る
男はとても風にはかなはない
夕方 ――
やはらかいシヨールに埋づめた彼女の頰を風がなでてゐた
そして 生垣の路を彼女はつつましく歩いていつた
そして 又
路を曲ると風が何か彼女にささやいた
ああ 俺はそこに彼女のにつこり微笑したのを見たのだ
風は彼女の化粧するまを白粉をこぼしたり
耳に垂れたほつれ毛をくはへたりする
風は
彼女の手袋の織目から美しい手をのぞきこんだりする
そして 風は
私の書齋の窓をたたいて笑つたりするのです
风
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
风 能够
跟十个女人同时谈恋爱
男人绝对敌不过它
傍晚 ——
它抚摸埋在软和披肩里的她脸蛋
于是 她端庄地走过篱笆旁边的路去了
然后
她拐弯它跟她低声私语了什么话了
啊!那瞬间我看见她的微笑了
有时候她化妆时风把她的香粉撒掉
咬一咬她耳朵边的蓬乱一撮头发
风
也有时候从她手套的线码窥视她美丽的手
还有 风
会敲打我书房的玻璃窗而笑起来
*
矢口七十七/摄
十一月の午後
尾形龜之助
窓をあけたので
部屋の中に風が吹き初めた
私は窓に花と鳥を飾らう
そして
やはらかい寢椅子を買つて來てパインアツプルの鑵を切らうよ
きらきらする陽も窓から入れて
私は靑い空を見て一人で午後を部屋の中にゐる
[心朽窩主人注:本篇は思潮社一九九九年刊「尾形亀之助全集 増補改訂版」の「補遺」という項で初めて公になった一篇で、底本クレジットもない。一九九九年版の元版である同思潮社一九七〇年版の「尾形亀之助全集」以降に発見された作品である。同一九九九年刊「尾形亀之助全集 増補改訂版」の「補遺」に於いて次に記されている「昼の花」と同じ底本であるとすれば、詩誌『京都詩人』(第二巻第一号・昭和二(一九二七)年一月発行)に所収するものとなるが、解説もなく不明である。]
十一月的下午
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
把窗户推开了
屋子里刮起风来了
我要在窗边摆好花和小鸟
还有
买来一把睡椅,打开菠萝罐头吧!
当然把灿烂的阳光从窗户射进来
我在房间里凝望蓝天,一个人度过整个下午
*
矢口七十七/摄
愚かしき月日
尾形龜之助
夕方になつてみても
自分は一度飯に立つたきりでそのまゝ机によりかゝつて煙草をのんでゐたのだ。
そして 今
机の下の蚊やりにうつかり足を触れて
しんから腹を立てて夜飯を食べずに寢床に入つてしまつた
何もそんなに腹を立てるわけもないのに
こらえきれない腹立たしさはどうだ
まだ暮れきらない外のうす明りを睨んで
ごはんです――と妻がよぶのにも返事をしないでむつとして自分を投げ出してゐる態は……
俺は
「この男がいやになつた」と云つて自分から離れてしまいたい
[心朽窩主人注:「こらえる」「しまいたい」はママ。]
愚蠢的日子
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
到了傍晚
我还是依靠矮桌抽烟……除了白天去隔壁吃饭今儿一直这样虚度。
现在——
不小心脚尖碰了碰蚊香
从心里生了气而不吃晚饭直接钻进被窝里了
按理说用不着这么生气
不过到底为什么忍不住怒火?
怒视着外头薄暮景色
吃饭了!——虽然老婆给我招呼,我却不答应而忍怒报自弃的态度……
俺——
想要说“这家伙真讨厌”当场离开自己
*
矢口七十七/摄
遅巻き乍ら、「本朝食鑑」には和漢の本草記載の違いを考察する「華和異同」という別項が各部の終りに附されていることに気づいたので、その本文に準じて追加することとした。まず「海鼠」から。但し、本文とダブる箇所が甚だ多いので注は最小限に留めてある。以下の他項目(「老海鼠」「海月」「烏賊」。「海馬」には「華和異同」がない)の追加分は既記事に追加する形のみ示す。
*
◆華和異同
□原文
海鼠
崔禹錫食經曰海鼠似蛭而大者也李東垣食物本
草曰海生參東海海中其形如蠶色黒身多瘣※一
[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「畾」。]
種長五六寸表裏俱潔味極鮮美功擅補益殽品中
之最珍者也一種長二三寸者割開腹内多沙雖刮
剔難盡味亦差短今北人又有以驢皮及驢馬之陰
莖贋爲狀味雖略同形帯微扁者是也謝肇制五雜
俎曰海參遼東海濱有之一名海男子其状如男子
勢然淡菜之對也其性温補足敵人參故曰海參按
俱是爲今之海鼠者無疑東垣初言五六寸者今之
生海鼠乎後言二三寸者今武相江上多者乎東垣
能知二者有別謝氏亦能知其佳然不言其腸者爲
恨耳近有以土肉爲海鼠者此亦相似御覧臨海水
土物志曰土肉正黒如小児臂大長五寸中有腹無
口自有三十足如釵股大中食是郭璞江賦所言者
乎南産志有沙蠶土鑽是亦此類耶
□やぶちゃんの書き下し文
海鼠
崔禹錫が「食經」に曰く、『海鼠、蛭に似て大なる者なり』と。李東垣が「食物本草」に曰く、『海參は東海海中に生ず。其の形、蠶(かいこ)のごとし。色、黒く、身に瘣※(いぼ)多し[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「畾」。]。一種、長さ五、六寸、表裏俱に潔く、味はひ、極めて鮮美なり。功、補益を擅(ほしひまま)にす。殽品(かうひん)中の最も珍なる者なり。一種、長さ二、三寸の者は、割り開きて、腹内、沙、多くして、刮剔(くわつえき)すと雖も、盡き難く、味も亦、差(やゝ)短し。今、北人、又、驢(ろば)の皮及び驢馬の陰莖を以つて贋して狀(かたち)を爲すこと有り。味はひ、略(ほゞ)同じと雖も、形、微(いささ)か扁(へん)を帯ぶる者、是れなり。』と。謝肇制(しやてうせい)が「五雜俎」に曰く、『海參は遼東海濱に之れ有り、一名、海男子、其の状(かたち)、男子の勢のごとし。然も、淡菜の對(つゐ)なり。其の性、温補、人參に敵するに足れり。故に海參と曰ふ。』と。按ずるに、俱に是れ、今の海鼠と爲る者、疑ひ無し。東垣、初めに言ふ、五、六寸なる者は、今の生海鼠か。後に言ふ、二、三寸なる者は、今、武相江上に多き者なるか。東垣、能く二つの者の別有ることを知る。謝氏も亦、能く其の佳なることを知る。然れども其の腸(わた)を言はざる者(こと)を恨みと爲すのみ。近ごろ、土肉を以つて海鼠と爲(す)る者、有り。此れも亦、相ひ似たり。「御覧」に、『「臨海水土物志」に曰く、土肉は正黒、小児の臂(ひぢ)の大いさのごとし。長さ五寸、中に腹、有り。口、無し。自(おのづか)ら三十足有りて、釵股(さこ)の大いさのごとく、食に中(あ)つ。』と。是れ、郭璞が「江賦」に言ふ所の者か。「南産志」に沙蠶(ささん)・土鑽(どさん)有り。是れも亦、此の類か。
□やぶちゃん注
・『崔禹錫が「食經」』唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」。現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。順の「倭名類聚鈔」に多く引用されている。
・『東垣が「食物本草」』元の医家李東垣(りとうえん 一一八〇年~一二五一年:金元(きんげん)医学の四大家の一人。名は杲(こう)。幼時から医薬を好み、張元素(一一五一年~一二三四年)に師事し、その技術を総て得たが、富家であったため、医を職業とはせず、世人は危急以外は診て貰えず、「神医」と見做されていた。病因は外邪によるもののほかに、精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとする「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると、百病が生じる」との「脾胃論」を主張し、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。後の朱震亨(しゅしんこう 一二八二年~一三五八年:「陽は余りがあり、陰は不足している」という立場に立ち、陰分の保養を重要視し、臨床治療では滋陰・降火の剤を用いることを主張し、「養陰(滋陰)派」と称される)と併せて「李朱医学」とも呼ばれる)の著(但し、出版は明代の一六一〇年)。但し、名を借りた後代の別人の偽作とする説もある。
・「刮剔」掻き抉り取ること。
・『謝肇制が「五雜俎」』謝肇淛「五雜組」が正しく、「せい」は「せつ」とも読む。明末の文人官人であった謝肇淛(一五六七年~一六二四年)の随筆集。全十六巻。天・地・人・物・事の五部に分けて古今の文献や実地見聞などに基づいた豊富な話題を、柔軟な批評眼で取り上げている。特に民俗に関するものには興味深いデータが多く、本邦でも江戸時代に広く愛読されて一種の百科全書的なものとして利用された。謝は有能な行政官でもあり、多才な詩人でもあった。「五雑組」とは五色の糸で撚(よ)った巧みな美しい組み紐の意である(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
・「勢」陰茎。
・「淡菜」斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ Mytilus coruscus 。女性の会陰に酷似していることで知られる。古来、海鼠を東海男子と別称したのに対し、胎貝(いがい)は東海夫人と呼称された。私の『毛利梅園「梅園介譜」 東海夫人(イガイ)』や『武蔵石寿「目八譜」の「東開婦人ホヤ粘着ノモノ」』の図を参照されたい。
・「東垣、初めに言ふ、五、六寸なる者は、今の生海鼠か。後に言ふ、二、三寸なる者は、今、武相江上に多き者なるか」人見は海鼠をその大きさで別種と判断していることが見てとれる。無論、これらはマナマコ Apostichopus armata 或いはアカナマコ Apostichopus japonicas であって別種ではない。
・「御覧」「太平御覧」宋の類書(百科事典)。李昉(りぼう)ら十三名の手に成り、全千巻に及ぶ。太祖の勅命により六年を費やして太平興国八(九八三)年に成った宋代の代表的類書である。内容は天・時序・地・皇王に始まる五十五部門に分類され、各部門がさらに小項目に分けられて各項目に関連する事項が古典から抜粋収録されている。
・「臨海水土物志」「臨海水土異物志」。三国時代の呉の武将沈瑩(しんえい ?~二八〇年)の書いた浙江臨海郡の地誌。世界最古の台湾(原典では「夷州」)の歴史・社会・住民状況を記載するという(但し、この比定には異議を示す見解もあるようである)。
・「釵股」刺股/指叉(さすまた)。U字形の鉄金具に二~三メートルの柄をつけた金具で相手の喉・腕などを塀や地面に押しつけて捕らえる警棒。先端金具の両端及びその下部の柄の付根附近には棘(返し)が出ており、それらが黒色で、そうした先頭部が如何にも海鼠然としている。U字部分は或いは口辺部の触手をイメージして似ていると言っているもので、ここは柄を外した先端の金具部分をのみ想起すべきところである。
・「南産志」「閩書(びんしょ)南産志」。南北朝時代の南朝の宋の官僚で文人の沈懐遠(しんかいえん)が広州に流罪となった際の見聞になる地誌で、現在のベトナム北部の地誌である「南越志」と並ぶ彼の著作。
・「土肉」ナマコと同義。「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」の私の注を参照のこと。
・「沙蠶(ささん)」は漢籍ではゴカイ一般を指す。
・「土鑽(どさん)」同じくゴカイの仲間か、或いは、環形動物の一種と思われる。海底或いは潮間帯の泥土に穴を穿って住むの謂いだからね。
□やぶちゃん現代語訳
海鼠
崔禹錫(さいうしゃく)の「食経(しょくけい)」に曰く、『海鼠は蛭(ひる)に似て大きなものである』と。李東垣(りとうえん)の「食物本草」に曰く、『海参は東海の海中に棲息する。その形は、蠶(かいこ)のようである。色は黒く、体中に疣(イボ)が多くある。一種に、長さが五、六寸で、表裏ともに砂泥等を附着しない至って清澄なものがおり、その味わいは、極めてすっきりとして美味い。その効用としては、自由自在に補益を促す。酒の肴の中では最も珍味なるものである。一種に、長さ二、三寸の者があるが、これは身を立ち割って開いてみると、腹中に多量の砂を含んでいて、どんなにそぎ落とし、抉り出してみても、身のあらゆる部分に砂が入り込んでいて取り尽くすことが難しく、味もまた、やや劣る。現在、内陸の北方の人々は、また、驢馬の皮及び驢馬の陰茎を用いて、贋物(にせもの)を作り、干した海鼠そっくりの形状に真似ることがある。味わいはほぼ同じであっても、形がいささか偏平に見える干し海鼠は、この贋物である。』と。謝肇制(しゃちょうせい)の「五雑俎」に曰く、『海参は遼東地方の海浜に棲息しており、一名、海男子と称し、その形状はまさに男性の陰茎にそっくりである。まさに女性の会陰と酷似する淡菜と一対をなすものである。その性質は温補で、漢方に於ける妙薬たる朝鮮人参に匹敵する効果を十分に保持している。ゆえに「海参」と称する。』と。按ずるに、「食経」「五雑俎」の記載はともにこれ、現在の海鼠とするものと考えて間違いない。「食物本草」の最初の部分で東垣が言っている五、六寸のものというのは現在の一般的な海鼠であろうか? また、その直後に記すところの二、三寸なるものという有意に小さなものは、現在、武州や相州の入り江に多く産する別種の海鼠を指すものであろうか? 東垣は、よく、この酷似した二つの種が別種であるということを認識している。謝氏もまたよく、海鼠の美味であることを認識している。しかれども、彼ら二人が、文字通り肝心の、その珍味なるところの腸(はらわた)について、一切言及していない点、これ、甚だ遺憾と言わざるを得ない。なお、近頃、「土肉」を以って「海鼠」であると記すことがある。これもまた、相い似たものである。「太平御覧」に、『「臨海水土物志」に曰く、土肉は真っ黒で、小児の臂(ひじ)ぐらいの太さを呈するものである。長さは五寸、体内に腹部が存在する。しかし口はない。体部から生えた三十本の足があって、まさに刺股(さすまた)の先端の金具ほどの大きさであって、食用に当てる。』と、ある。これはかの郭璞の「江賦」に詠まれたところの海鼠の仲間なのではなかろうか? 「閩書南山志」に「沙蠶(ささん)」・「土鑽(どさん)」という記載がある。これもまた、やはり海鼠の仲間なのではなかろうか?
昔、愛した女を――今――も愛している……でなくては僕は僕で……あるまいよ――
36 有德廟の大奥踊の事
予が少時、祖母夫人のもとに、大奧の人とて、肥大にして長高く髮白き老婦の來たり、いかなる緣に由てか、又何勤の人か、少時ゆゑこれを辨ぜず。名はおこなとか云し。此人に祖母君の彼是と饗せられ、種々の談話し給ふ中、有德院樣のときの御踊を孫兒に見せ給るべしと有ければ、心得候とて、即起舞しが、手を右左に上げ下して、又其掌を拍ち輪の如く行き囘るばかりなり。歌は自唱して、そこで松坂こへしと云し。予少時の心に面白くなき踊と思居たるが、松坂踊など云ものにてもありしや。今念へば古風なりしことをと追慕せり。
■やぶちゃんの呟き
「有德廟」第八代将軍吉宗。彼は寛延四(一七五一)年に没している。
「予が少時」松浦静山(本名、清)は吉宗の死後九年後の宝暦一〇(一七六〇)年一月二十日の生まれである。因みに彼の父政信は、本来ならば静山の祖父で肥前国平戸藩第八代藩主松浦誠信(さねのぶ)の跡を継ぐはずであったが、明和八(一七七一)年八月に早世、静山はその長男ではあったものの、側室の出生であったがために、父の死まで松浦姓を名乗れず松山姓を称していたから、本話柄当時は「松山」姓であった。同明和八年十月二十七日に祖父誠信の養嗣子となって、安永三(一七七四)年四月十八日に吉宗の直孫第十代将軍徳川家治に御目見、同年十二月十八日に従五位下壱岐守に叙任されて安永四(一七七五)年二月十六日に祖父の隠居によって松浦家家督を相続するという経緯を辿っている(以上はウィキの「松浦清」に拠る)。
「祖母夫人」静山の祖母である、松浦誠信の正室久昌(きゅうしょう)夫人。宮川氏の娘。
「長高く」「たけたかく」。
「何勤」「なにづとめ」。大奥での担当職のこと。
「松坂踊り」「大辞林」に、盆踊りの一つで伊勢の古市(ふるいち:三重県伊勢市の地名。ウィキの「古市」によれば、古くは寒村であったが、『伊勢参りの参拝客の増加とともに遊廓が増え歓楽街として発達し、宇治古市として楠部郷から分かれ』、『江戸時代前期に茶立女・茶汲女と呼ばれる遊女をおいた茶屋が現れ』て、元禄(一六八八年~一七〇三年)頃には『高級遊女も抱える大店もできはじめた』。寛政六(一七九四)年に発生した『大火で古市も被害を受けたものの、かえって妓楼の数は増え、最盛期の』天明(一七八一年~一七八九年)頃には妓楼七十軒、遊女千人、『浄瑠璃小屋も数軒、というにぎやかさで、「伊勢参り 大神宮にもちょっと寄り」という川柳があるほどに活気に溢れて』、『十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場し』ているとある)に於いて享保(一七一六年~一七三六年)頃から行われた伊勢節(松坂節)の盆踊りが、伊勢参宮の流行で各地に普及したもの、とある。「おこな」さまは必ずしもこの古市の出の方ではないのかも知れぬが、何かこの素朴な舞いに、私は何かしみじみとしたものを感じてしまうのである。
螺 類多シ不可勝計辛螺光螺甲香刺螺梵貝チシヤ
コ。ガウカヒ。サヾヱ。河貝子等皆螺ノ屬ナリ本草集解蘓
頌曰海中螺類絶有大者珠螺瑩潔如珠鸚鵡螺
形如鸚鵡頭並可作杯○范成大桂海蟲魚志曰
鸚鵡螺如蝸牛殻磨治出精采亦雕琢爲杯○今
按海中ノ螺大サ徑三四寸ナル者アリ其内極美好
瑩潔如珠如范成大蘓頌所言光彩有テ珍奇ナル
奇玩ナリ是珠螺鸚鵡螺ノ屬ナルヘシ相州ノ海ニモア
リ其外猶所々ニアリヤ未詳相州ニテハ名ヲウケツト
云○本草ニノセタル海※ハバイノ大ナルモノ歟甲香ト云
[やぶちゃん字注:「※」=「贏」の「貝」を「虫」に変えた字。]
又本草ニ曰有小甲香狀若螺子取其蔕修合成也
トアルハ今ノバイト云モノナルヘシ是ハ小螺ナリ大サ橘子ノ
如ニシテ長シ○子安ト云螺アリ殻扁ク厚ク圓ニシテ
内ニ有光彩大如掌孕婦コレヲ取レハ産シヤスシ故子安
貝ト云○常熟懸志云螺多種殻尖長者曰鑽螺其
味辛曰辣螺〔云云〕又有深海中可爲酒杯者曰鸚
鵡螺○海濱ニミナト云小螺アリ田螺ニ似テ小ナリ
二種アリ一種圓ニシテ殻厚ク葢厚シ一種ハ殻モ葢モ薄
シ又細長ナル螺アリ形辛螺甲貝ニ似タリ是亦別
種也右ノ二種ト其形異リ河貝子ノ形ノ如シ皆小
ニシテ不堪食又小螺ノ極小ニシテ米粒ホトナルアリ其類多
○やぶちゃんの書き下し文
螺 類、多し。計〔(かぞ)〕ふるに勝へず。辛螺・光螺・甲香・刺螺・梵貝・チシヤコ・カウガヒ・サヾヱ・河貝子(ミナ)等、皆、螺の屬なり。「本草」の「集解」に蘓頌の曰く、『海中の螺の類、絶(はなは)だ大者なる有り。珠螺、瑩潔〔(えいけつ)〕して珠のごとく、鸚鵡螺、形、鸚鵡の頭のごとく、並びに杯と作〔(な)〕すべし。』と。范成大「桂海蟲魚志」に曰く、『鸚鵡螺は蝸牛の殻のごとし。磨(みが)き治めて精采を出だす。亦、雕琢(ちやうたく)〕して杯と爲す。』と。今、按ずるに、海中の螺、大いさ、徑三、四寸なる者あり。其の内、極めて美好瑩潔、珠のごとく、范成大・蘓頌の言ふ所のごとく、光彩、有りて、珍奇なる奇玩なり。是れ、珠螺・鸚鵡螺の屬なるべし。相州の海にもあり。其の外、猶ほ所々にありや、未だ詳らかならず。相州にては名を「ウケツ」と云ふ。「本草」にのせたる海蠃は「バイ」の大なるものか。甲香と云ふは又、「本草」に曰く、『小甲香、有り。狀、螺子のごとし。其の蔕〔(へた)〕を取り、修合して成するなり。』。とあるは今の「バイ」と云ふものなるべし。是れは小螺なり。大いさ橘子のごとくにして長し。子安と云ふ螺あり、殻、扁〔(ひらた)〕く厚く、圓〔(まどか)〕にして内に光彩、有り。大いさ掌のごとし。孕婦〔(ようふ)〕、これを取れば、産、しやすし。故に子安貝と云ふ。「常熟懸志」に云く、『螺、多種。殻、尖り長き者を鑽螺〔(さんら)〕と曰ふ。其の味、辛にして辣螺〔(らつら)〕と曰ふ、云云。又、深海中、酒杯と爲すべき者、有り。鸚鵡螺と曰ふ。』と。海濱に「ミナ」と云ふ小螺あり。田螺に似て小なり。二種あり、一種、圓かにして、殻、厚く、葢(ふた)、厚し。一種は殻も葢(ふた)も薄し。又、細長なる螺あり。形、辛螺・甲貝に似たり。是れ亦、別種なり。右の二種とは其の形、異なり、河貝(ミナ)子の形のごとし。皆、小にして食ふに堪へず。又、小螺の極小にして米粒ほどなるあり、其の類、多し。
[やぶちゃん注:現行の軟体動物門 Mollusca 腹足綱 Gastropoda に属する類の総説(但し、益軒は以下に「オウムガイ」を入れるのはよしとしても、「ワレカラ」を入れるというとんでもない誤りを犯している)。
「辛螺」通常はこれで「ニシ」と訓ずるが、ここは以下の別種との並列されていることから、「シンラ」と音読みしているかも知れない。外套腔から浸出する粘液が辛味(苦味)を持っている腹足類の貝類を指す語であるが、辛味を持たない種にも宛てられている科を越えた広汎通称。直腹足亜綱 Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目新腹足下目アッキガイ上科アッキガイ科アカニシ(赤辛螺)Rapana venosa・吸腔目テングニシ科テングニシ(天狗辛螺)Hemifusus tuba 等を含むが、特に腹足目イトマキボラ科 Fusinus 属ナガニシ(長辛螺)Fusinus perplexusや、実際に強い苦辛味を持つ腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目新腹足下目アッキガイ上科アッキガイ科レイシガイ亜科レイシガイ属イボニシ(疣辛螺)Thais clavigera を指すことが割合に多いように思われる。各項で詳細に考察する。以下、同じ。
「光螺」ネットで調べると、現代中国語では腹足綱有肺目 Pulmonata に属するナメクジ類(太白山光螺 Xesta taibaishanensis sp. 等)にこの名が使われているが、一見、内面に美しいサザエなどの真珠光沢を有する腹足類を総称しているように思われるが、後で独立項を読むと分かるように「ツベタ」とルビを振るので、吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ属ツメタガイ Glossaulax didyma を指していることが分かる。確かにビーチ・コーミングでは貝表面の光沢が他の貝に比して有意にあり、漢字で「砑螺貝」と書くことからも納得出来る。
「甲香」音では「カフカウ(コウコウ)」或いは「カヒカウ(カイコウ)」(「貝香」の当字)、または「へなたり」と訓ずる。吸腔目カニモリガイ上科キバウミニナ科 Cerithidea 属 Cerithideopsilla 亜属ヘナタリ Cerithidea(Cerithideopsilla) cingulata 及びウミニナ(類形を有する複数の別種の通称)の仲間で、特にこれらの持つ角質の蓋を燻して香に利用した種群の総称である。
「刺螺」「シラ」と音読みしていよう。吸腔目アッキガイ科 Murex 属ホネガイ Murex pecten 及び前水管溝が棘状に長く発達した同形の別種類を総称する名であろう。
「梵貝」吸腔目フジツガイ科ホラガイ Charonia tritonis 。仏教に強く習合された修験道で邪気を払う音声器「法螺貝」として用いられたことに由来する呼称で一目よく同定出来るのであるが、現行では「ホラガイ」の和名としては見かけない表記である。
「チシヤコ」キサゴ。古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科キサゴ亜科サラサキサゴ属ダンベイキサゴ(団平喜佐古) Umbonium giganteum・サラサキサゴ属キサゴ Umbonium costatum 或いはイボキサゴ Umbonium moniliferum を総称したものであろう。
「カウガヒ」甲貝か。とすると、先の「甲香」の仲間で蓋を有するものとなる。しばしば同定で参考にさせて頂いている「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の、先に出した吸腔目テングニシ科テングニシ Hemifusus tuba のページに、現在でもテングニシを『熊本県上天草市では「こうかい(甲貝)」』と呼ぶと記されてある。
「サヾヱ」古腹足目サザエ科リュウテン亜科リュウテン属サザエ亜属サザエ Turbo cornutus 及び同類型を成す種群。
「河貝子」独立項では「ミナ」とルビする。淡水産の吸腔目カニモリガイ上科カワニナ科カワニナ Semisulcospira libertina 及びその仲間を指す。但し、後の独立項を読むと、海産の同形のウミニナ類も一緒くたに「ミナ」と呼称していたことが分かるが、薬方としては海産のそれらとは厳然と区別してもいる。
「本草集解」という書もあるが、ここは「本草綱目」の「海螺」の「集解」の項を指している。その、
*
頌曰、『海螺即流螺、厴曰甲香、生南海。今嶺外、閩中近海州郡及明州皆有之、或只以台州小者爲佳。其螺大如小拳、靑黃色、長四五寸。諸螺之食之。「南州異物志」云、甲香大者如甌、面前一邊直攙長數寸、圍殼眾香燒之益芳、獨燒則臭。今醫家稀用、惟合香者用之。又有小甲香、狀若螺子、取其蒂修合成也。海中螺類絶有大者。珠螺螢潔如珠、鸚鵡螺形如鸚鵡頭、並可作杯。梭尾螺形如梭、今釋子所吹者。皆不入藥。』。
*
のうちの下線部の引用である。「南州異物志」は呉の萬震の撰になる地誌。
「珠螺」古腹足目サザエ科リュウテン属リュウテンサザエ(龍天栄螺)Turbo petholatus を指しているように思われ、現代中国語でも当該種を指すようである。
「瑩潔」美しく光り輝くことを言っているものと思われる「潔」は一般には白く清いであるが、ここはあくまで貝表面の光沢や質の美をかく言っているものと判断する。
「鸚鵡螺」頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属 Nautilus のオウムガイ Nautilus pompilius 及び近縁種。
「徑三・四寸」螺の直径九・一~一二センチメートル。
「美好」美しい。
「范成大」(一一二六年~一一九三年)は南宋の政治家・詩人・学者。南宋四大家の一人。石湖居士と号した。膨大な著作を残しており、百三十六巻に及ぶ「石湖集」の他、「桂海虞衡志」「呉郡志」等、五十巻に及ぶ地誌をも撰している。但し、益軒のこの叙述が彼のどの著述によるものかは不明。
「ウケツ」相模国での当時のオウムガイの別名らしいが、不詳。識者の御教授を乞う。
「海蠃」これは「本草綱目」の「海螺」の冒頭の「釋名」に、
*
流螺〔圖經〕、假豬螺。
時珍曰、蠃與螺同、亦作蠡。蠃從蟲、羸省文、蓋蟲之羸形者也。厴音掩、閉藏之貌。
*
とあるのを言っているものらしい。但し、「海蠃」の文字列では出ない。
「バイ」現行の吸腔目バイ科バイ Babylonia japonica 及びバイ属 Babylonia の貝類を指すが、ここで益軒は甲香を得る種を大型の「バイ」と称していることから、ここは広義の、特に概ね尖塔型の巻貝を「バイ」と言っているように私には思われれる。
「小甲香、有り。狀、螺子のごとし。其の蔕を取り、修合して成するなり」前掲引用した「本草綱目」の「海螺」の「集解」の項を参照されたい。「修合」は生薬を合わせて製剤することを言う。
「橘子のごとくにして長し」「橘子」の音は「キツシ(キッシ)」であるが「みかん」と読みたい。現代中国語でも蜜柑の意である。この謂いを見ると、中央部がずんぐりとして蜜柑の形のようで、螺の上下が長いという風にまず読めてしまうから、そうするとこれはもう腹足目イトマキボラ科 Fusinus 属ナガニシ Fusinus perplexus ということになるのであるが、「橘子」の色、蜜柑色に着目すると、私は俄然、アッキガイ科アカニシ Rapana venosa の、殻口の赤黄色が蜜柑にぴったりという気がしてならなくなってしまうのである。
「子安と云ふ螺」吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae に属する広範な巻貝の総称。
「常熟懸志」これは「常熟縣志」の誤りと思われる。明の鄧韍(とうふつ)と馮汝弼(ひょうじょひつ)の纂修になる蘇州常熟(現在の江蘇省常熟)の地誌と思われる。
「鑽螺」「鑽」は錐の意で、これは前鰓亜綱新腹足目イモガイ超科タケノコガイ科 Terebridae の仲間及び同形状をしたまさに錐状の円錐形をした巻貝類を指しているものと思う。現代中国語でも同種の貝類を指す名として使用されている。
「云云」この「云々」は中略を示すと思われるが、原文がそうなのか、益軒が中略したものなのかは不詳。
『海濱に「ミナ」と云ふ小螺あり』以下の記載がなかなか難しい。単に現行の淡水産カワニナ類に対する海産のウミニナ類とする訳には行かないからである。
「田螺」原始紐舌目タニシ科 Viviparidae に分類される巻貝の総称。
「一種、圓かにして、殻、厚く、葢、厚し」ポイントは蓋が厚いという点である。これは古腹足目サザエ科リュウテン亜科リュウテン属 Turbo に属する石灰質で円形の蓋を有する多くの種群を指すと考えるべきである。
「一種は殻も葢も薄し。又、細長なる螺あり。形、辛螺・甲貝に似たり」こちらを真正の海の「ニナ」、吸腔目カニモリガイ上科ウミニナ科ウミニナ属に属するウミニナ Batillaria multiformis 及び主に汽水域の干潟に棲息する塔形のウミニナに似て非なる複数の科にまたがって存在する多様な種を指すと考えるべきものである。本邦では現在でもこうした多量の多様な別種を含んで「ウミニナ」「ウミニナ類」と呼称しているからである。詳しくはウィキの「ウミニナ」の「日本産”ウミニナ類”」の項を参照されたい。
「小螺の極小にして米粒ほどなるあり」当時としては観察にルーペ使用を必要とするような微小貝類に益軒が着目している点は評価しなくてはならない。]
○江戸にて火事御役加役など仰付(おほせつけ)らるゝ時は、堺町ふきや町等の三芝居の座本太夫祝儀にまいる例なり。庭一すぢ畫(かく)して界をたて置(おき)、品川淺草の乞兒(かたゐ)の長松右衞門・善七、たちつけ羽織にて、玄關の左右の土間に坐し、式臺に手をかけながら、此度結構なる御役儀蒙らせられ、恐悦に存じ奉るよしを述(のぶ)る。用人玄關に坐して禮をうくる。扨詞儀(しぎ)畢(をはり)て三芝居の者共御祝儀に參上致(いたし)候よしを相述(あひのべ)、松右衞門・善七左右にわかれ向ひ坐する時、勘三郎・羽左衞門・勘禰等(ら)、席上下にて門のくゞりより入(いり)、土間のさかひを立置(たておき)たる所に坐し、同樣に祝詞(のりと)を述て後(のち)退出する事なり。
[やぶちゃん注:「堺町ふきや町」堺町と葺屋町現在の日本橋人形町。堺町と葺屋町は現在の日本橋人形町三丁目の人形町通り西側で、歌舞伎小屋の中村座と市村座が、また、薩摩浄瑠璃(薩摩座)や人形芝居(結城座)もあった。一般には人形遣いが多く住んでいたことから人形町と名付けられたとされているが、江戸時代には「人形町」は通りを指す呼称で、昭和八(一九三三)年に正式にこの周辺の町を総称して「人形町」という町名に変更されたとウィキの「日本橋人形町」にある。
「三芝居」中村座・市村座・森田座(当時は木挽町五丁目、現在の中央区銀座六丁目にあった)の江戸三座。
「座元太夫」座本太夫とも書き、櫓主(やぐらぬし)或いは太夫元ともいう。当時の歌舞伎興行権を持つ者の称。
「火事御役加役」江戸市中の刑事組織として恐れられた火付盗賊改役(これも本来は先手組の加役)でも、火事の発生し易い十月から翌年三月まで、先手組が割り当てられて務めた増員組の火付盗賊改役加役のことと思われる。正確には火付盗賊改役の「当分加役」と称し、従来の火付盗賊改役は区別して「本役」と言ったとサイト「畝源三郎の捕物小説に役立つ知識」の「火付盗賊改」にある。
「品川淺草の乞兒の長松右衞門・善七」底本注には、『近世ではエタ非人などの賤民は特別に頭目を設けて自治的支配をさせた。浅草の車善七と品川の松右衛門は江戸の非人頭であった。町人百姓外なので、芝居役者も一応はその支配下に入ったのである』とある(「乞兒」は「乞食」と同義で「子」の意ではない)。部落解放同盟東京都連合会公式サイト内の「非人」によれば、非人の長吏頭であった弾左衛門(言葉上の誤解を生む嫌いがあるので注しておくと彼は、穢多・非人集団内の長であり支配者だったのであって、差別支配をしていた武士階級の側の上位支配者ではない)の支配下にあった四人(一時期は五人)の有力な非人頭の中でもこの車善七は特に有力で、享保四(一七一九)年以降になると弾左衛門や各地の長吏頭の支配から独立しようと幕府に訴えを繰り返したが、しかし弾左衛門を超える経済力・政治力(江戸中期まで弾左衛門は歌舞伎を興行面でも支配していた)を持っていなかった彼ら非人たちは、結局、最後まで弾左衛門の支配下に置かれ続けた、とある。なお、同サイト内には車善七のルーツを武家とする自筆の上申書『「浅草非人頭車千代松由緒書」(天保一〇(一八三七)年)』が載る(千代松は車善七の幼名)。必読である。そこには、また『非人頭として車善七につぐ勢力を持っていた品川非人頭松右衛門も、その元祖は三河出身の浪人三河長九郎であるという家伝を伝えてい』るともある。「弾左衛門を超える経済力・政治力」というのは、江戸中期まで弾左衛門が歌舞伎を興行面でも支配していたことを指す。但し、同サイトの「歌舞伎と部落差別の関係」には、『歌舞伎は大衆芸能として大きな人気を誇り、大奥や大名にまでファン層を拡大』すると、『歌舞伎関係者は、こうした自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざし』、宝永五(一七〇八)年に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、遂に「独立」を果たしたものの、『しかし、歌舞伎役者は行政的には依然差別的に扱われ』、『彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受け』、『歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことで』あった、とある。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞録で、既に弾左衛門支配からは脱却して最低でも七十年近くは経っていたものの、本話で沢山の当時の歌舞伎の名優たちが車善七や松右衛門に従うように祝儀の挨拶に参るというのは、恐らくはそうした嘗て上位の弾左衛門の旧支配構造上の存在や、まさに歌舞伎役者らへの差別被差別の構造支配の深層的な根深い名残が依然としてあったことを示唆するものと考えてよいであろう。
「たちつけ」
裁ち着け。袴(はかま)の一種。膝から下の部分を脚絆のように仕立てたもので、旅行の際などに用いた。]
大阪伝法川
施餓鬼舟黒煙を吐く船に曳かれ
施餓鬼の波芥引寄せ引放つ
海までの穢川よ施餓鬼のもの青赤
卒塔婆流す穢川の舟に偕(とも)に乗り
[やぶちゃん注:「偕(とも)に」俱(とも)に。一緒に。]
施餓鬼舟より享けよと紅き毬流す
施餓鬼卒塔婆流す入日の波寄り来る
裏返り穢川に施餓鬼卒塔婆の白
施餓鬼幡鉄打つ音にうなだれづめ
落日に群衆が透く川施餓鬼
施餓鬼僧蝙蝠(かうもり)の両(ふた)つ袖ひろげ
[やぶちゃん注:「伝法川」ウィキの「伝法川」によれば、『かつて大阪府大阪市此花区』(このはなく)『に存在した河川で』、現在はそう呼称する川筋は存在しない模様である(事実、地図や検索に実在する「伝法川」としては見出せない)。『旧淀川の分流である正蓮寺川から分かれ、大阪湾に注いでいた。沿岸は大坂の町へ出入りする水運の拠点となり栄えていた』が明治四三(一九一〇)年に『新淀川が開削されたときに下流部の土地が利用されたために新淀川に流入する形にな』り、その後、高潮対策のために昭和二六(一九五一)年から埋め立てが始められ、『現在は新淀川に注ぐ部分のみが漁港として残されている』に過ぎないとある。地図上で見ると、新淀川の河口の新伝法大橋から六百メートル強下った右岸(伝法五丁目と西島二丁目の境に陥入する港湾があり、大阪市漁協もあるから、ここが旧伝法川河口と考えられる(後掲する正蓮寺は湾奧から東南へ二百メートル強の位置にある)。底本年譜の昭和三二(一九五七)年八月の条に、『大阪伝法川で、施餓鬼舟に乗り、施餓鬼を見る』とあるから、この昭和三十二年の段階では、辛うじて伝法川の川の流れが残っていたものか。
「施餓鬼舟」大阪市公式サイト内の「正蓮寺の川施餓鬼」に、『施餓鬼(せがき)とは、餓鬼道(がきどう)にあって飢えと渇きに苦しむ餓鬼に飲食を施し、仏に供養することによって餓鬼を救済し、自身も長寿することを願う仏事をいい、特に川辺で死者の霊を弔う施餓鬼を川施餓鬼という。川辺や船を用いて行われ、施餓鬼法要の後に、水死者の法名を記した経木(きょうぎ)や供物(くもつ)などを川に流す。本来は時期を限ったものではなかったが、盆行事と結び付き精霊(しょうりょう)送りや納涼の要素が大きくなっていった』と概説した後、かつてこの伝法川で川施餓鬼を行っていたのは正蓮寺で、同寺は寛永二(一六二五)年に開創された日蓮宗の寺院で、『寺伝では川施餓鬼は第七世寂行院日解上人(じゃっこういんにっかいしょうにん)が』享保六(一七二一)年に始めたと伝えるとり、安政年間(一八五四年~一八六〇年)に成立した「摂津名所図会大成」には、『例年七月廿六には、当地正蓮寺といふ日蓮宗の寺院に施餓鬼の法会ありて、浪花中より宗門の男女、船にて群集して、いたって賑わし。是を伝法の施餓鬼とて、天神祭に彷彿たる舟行の大紋日也』とあって、『天神祭とならぶ夏の大きな祭となっていたことが分かる』と記す。現行の同施餓鬼舟の行事は八月二十六日の午前十時から新盆会特別法要から始まり、『続いて唱題(しょうだい)行進が行われ、塔婆(とうば)・経木供養、法話・説教、稚児大法要・焼香、練供養(ねりくよう)、船渡御(ふなとぎょ)、経木流しの順に行事が進行』、午後三時頃から、『練供養をして乗船場(新淀川閘門繋船場(こうもんけいせんじょう))へ向かう。行列は先見(せんけん)、金棒(かなぼう)、旗幡(はた)、纏(まとい)、稚児、御輿(みこし)、大太鼓、僧侶、団扇太鼓(うちわたいこ)、檀信徒の順である。日蓮聖人(にちれんしょうにん)立像を納めた御輿には多数の経木も納められる。行列が乗船すると、玄題旗(げんだいき)と吹き流しを立てた船団は新淀川の中央まで進み、先頭の船の舳先(へさき)で導師が読経をしながら経木を流し、それに合わせて参列者が御題目を唱えながら経木を流す』とあるから、これらの句柄の作品内時間も。夕刻少し前ということになろうか。また、『正蓮寺川で行われていた川施餓鬼では、川の中に五色の幣(へい)を付けた笹、塔婆を立てた棚が数多く設けられた。笹と精霊棚(しょうりょうだな)の前を船渡御の船列が進むというもので、多くの見物の船が出て大いに賑わった』が、精霊棚の設置は昭和一八(一九四三)年以降は行われておらず(従ってこのロケーションにもない)、『さらに、地盤沈下によって橋の下を船が運航できなくなったので』、昭和四二(一九六七)年からは『新淀川に移動して行事を行っている』。『日蓮聖人が萬霊供養のため、川まで出向く行事の形式をとり、諸霊を送り出す経木流しが組み合わされた盆行事であり、かつてはいくつかの寺院で行われていた、水都大阪らしい行事の遺風を今日に伝えている』とある(下線やぶちゃん)。]
〈昭和十四年・夏〉
風鈴の夜陰に鳴りて半夏かな
[やぶちゃん注:「半夏」雑節の一つである半夏生(はんげしょう)のこと。太陽が黄経百度にある日で、夏至から数えて十一日目、現在の七月二日頃に相当する。この頃に梅雨が明けて、田にはカラスビシャク(烏柄杓)(単子葉植物綱ヤシ亜綱サトイモ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク
Pinellia ternata :開花期は初夏で単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目サトイモ科テンナンショウ属ウラシマソウ Arisaema urashima を小さくしたような緑色の仏炎苞を持つ)が生えるが、それが古くは田植えの終期とされてきた。このことからカラスビシャクには「ハンゲ」の別名が与えられている。]
はたとあふ眼の惱みある白日傘
[やぶちゃん注:「目病み女と風邪ひき男」「夜目遠目傘の内」を意識しながら、白昼のハレーションのような眩暈を引き出す何か幻想味さえ感じさせる鬼句と思う。以下の二句とは別景のようにも見えなくはないが、意識上は一種の連作で、美事である。]
あながちに肌ゆるびなきうすごろも
窶る婦の白眼にしてうすごろも
[やぶちゃん注:「窶る」は「やつる」と訓ずる。]
更衣爬蟲のいろに蜂腰(すがるごし)
[やぶちゃん注:今一つ、情景を把握し得ないが、私は中七下五は庭に出で飛ぶ蜥蜴や蜂の実景のクロース・アップと読む。次句とともにやはり仄かに蛇笏調の鬼趣を嗅ぐ。]
更衣地球儀靑き夜を愛づる
陽炎のゆれうつりつゝ麥熟れぬ
墓濡れて桐さくほどの地温あり
某家に老病者を訪ふ
白蚊帳に亡くなるといふ身をしづむ
夏ふかく樹々愁ふ翳あるごとし
大阪木野町さくら花壇
撒水す娘に夕影は情(こゝろ)あり
[やぶちゃん注:現在の大阪市東成区鶴橋木野(この)町か。「さくら花壇」は不詳。識者の御教授を乞う。「娘」は「こ」と訓じていよう。]
花桐に機影を惜しみ蹴鞠す
水馬(みづすまし)はね風ふく浮葉ひるがへる
山盧庭前
梅桃(ゆすら)とる童に山鵲は搖曳す
註――山鵲は三光鳥なり
[やぶちゃん注:「梅桃」バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa 。サクランボに似た薄甘い味のする赤い小さな実がなる。「山鵲」は「さんじやく(さんじゃく)」と読む。現在、この「サンジャク」を正式和名とするのはスズメ目カラス科サンジャク Urocissa erythrorhyncha であるが、サンジャクは「三光鳥」とは呼ばない。蛇笏はわざわざ「三光鳥なり」と注しているから、これは囀声が「ツキヒーホシ(月日星)ホイホイホイ」と聞えることから命名されたスズメ目カササギヒタキ科サンコウチョウ Terpsiphone atrocaudata か、或いはやはり似た鳴き声をすることから「三光鳥」の別名を持つスズメ目アトリ科イカル Eophona personata とである。この場合、句柄の「搖曳す」からは繁殖期の♂の尾が体部の三倍になる姿から真正のサンコウチョウ Terpsiphone atrocaudata を指すようにも読めるのだが、どうも童子の採る同じ梅桃の木に揺れ動くとなると、これは少し大き過ぎるし、サンコウチョウは昆虫食で、寧ろ木の実を芽を常食とする小型のイカルの方がしっくりくるようには思われる。ウィキの「イカル」には『波状に上下に揺れるように飛翔する』とあって、「搖曳す」という表現とも一致するように思われる。私の同定に誤りがある場合は、御指摘戴けると恩幸これに過ぎたるはない。]
草しげり藜の古色暾に濡れぬ
[やぶちゃん注:「藜」は「あかざ」と読む。ナデシコ目ヒユ科Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ Chenopodium album変種アカザ Chenopodium
album var. centrorubrum
。春から初夏にかけて若葉や中心部の芽が赤紫色となり、初夏には淡緑・紅紫の小花を房状につける。「暾」は音「トン」で「日の出」「朝日」「朝日が対象を照らす」の意であるから、「暾(ひ)に濡(ぬ)れぬ」と訓じているものと判断する。次句も同じ。]
桃果とる籠さはやかな暾に濡れぬ
うす紅に映えて桃熟る聖地かな
[やぶちゃん注:「聖地」不詳。次句と並べて見ての単なる思いつきであるが、句集「靈芝」に出る、山梨県南巨摩郡身延町の日蓮宗総本山身延山久遠寺での景か? 識者の御教授を乞うものである。]
法體(ほつたい)のすきものめきて桃果啖(た)ぶ
くちふれて肉ゆたかなる桃果かな夏(四)
樹々黝(くろ)み日照雨に桃果闌熟す
虹映えて税關の牕夏立ちぬ
[やぶちゃん注:「牕」は「まど」で「窻」(=窓)の同字。]
波のたり大繫索に夏日灼く
宙に浮くかもめに船は夏來たり
白晝(ひる)灯る船豪華なる驟雨かな
繫船に星ちりばめて初夏の闇
街頭瞥見
インディアン脣くれなゐに夜涼かな
[やぶちゃん注:直感であるが、西部劇の映画のキッチュな看板画をモンタージュしたものではなかろうか?]
晴るゝ日も嶽鬱々と厚朴咲けり
[やぶちゃん注:「厚朴」は「ほほ(ほお)」と読む。モクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ Magnolia
obovata の生薬名(樹皮)。通常、樹名は「朴」。]
天體の幽らみをめでて夏帽子
[やぶちゃん注:「幽らみ」は「くらみ」。]
芭蕉に「深川夜遊」と前書する唐辛子の名句あり
大夏の靑果を籠に夜遊かな
[やぶちゃん注:前書は、「深川集」等に載る、
深川夜遊
靑くてもあるべきものを唐辛子
の句を指す。元禄五(一六九二)年九月の作。この月の十六日、近江膳所の門人洒堂が深川芭蕉庵に来訪(翌正月まで芭蕉に滞在した)、これを機に嵐蘭(らんらん)・岱水(たいすい)の四人で四吟歌仙を巻いた、その発句(脇は洒堂で「提(さげ)ておもたき秋の新ラ鍬」)。この時の洒堂の長期滞在は自身の立机を芭蕉に相談する意図があったものらしく、そうした思いにはやる愛する弟子洒堂に対し、師として危ぶむ思いを含めた警喩句ともされる。いわば、唐辛子の本性は辛さにあるのであって、色ではない、若き青さのままでよいものを、熟れて唐辛子のように赤くなぜなろうとするのか、一つ考えてみよ、といったニュアンスが感じられる(ここは講談社学術文庫二〇一二年刊の山本健吉「芭蕉全句」の解説に主に拠った)。「大夏」は「おほなつ(おおなつ)」と訓じているか。]
夕虹に蜘蛛のまげたる靑すすき
大阪K-氏より贈られた燈籠を前栽
の苔蒸したる巖に据ゑて
葉がくりに陶の燈籠梅雨入り時
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「梅雨入り時」は「ついりどき」と読む。]
嶽麓河口湖
水すまし交るみたかぶる富士颪
蔬菜園土冷めたくて蚯蚓いづ
註――禮記月令に曰、孟夏の月蚯蚓出づ
[やぶちゃん注:「礼記(らいき)」月令(がつりょう:一年間に行われる定例の政治・儀式等を月の順に記録したもの)に立夏の初候に「螻蟈鳴」(雨蛙が鳴き始め)、次候に「蚯蚓出」(蚯蚓が地上に這い出る)とある。]
挘(も)ぐ蕃茹ぬくみて四方に雲群れぬ
[やぶちゃん注:「挘」は、むしる、捥(も)ぐ。「蕃茹」はトマトのこと。ルビはないが、私は「トマト」と読みたい。]
菜園の暑氣鬱として踏まれけり
隱棲の蟬絶えまなき雨月かな
會釋して炎天の女童(めろ)ふとあはれ
[やぶちゃん注:「めろ」という読みは「女郎」で関西方言で女性の卑称。]
岐阜市長より贈られたる提灯を夜々書窓に吊る
たまきはるいのちにともるすゞみかな
岐阜長良
梅雨のまのひととき映ゆる金華山
翠巒に何花かをる薄暑かな
瀧霧にほたる火沁みてながれけり
螢火を愉しむ童女顏寄せぬ
大阪木野町さくら花壇 二句
浪花女の夏風邪ひいて座に耐へぬ
夏衿をくつろぐるとき守宮(やもり)鳴く
紀州元の脇海岸
礁貝の潮がくり咲く薄暑かな
[やぶちゃん注:「元の脇海岸」和歌山県日高郡美浜町の紀伊水道を臨む海岸沿いに「元の脇」という地名を見出せる(和歌山県御坊市湯川町小松原のJR西日本紀州鉄道御坊(ごぼう)駅の西南西約四キロメートルの位置にある。三句後の前書に「御坊町」と出る)。日の岬の東の根で、調べて見ると岬方向には岩礁帯が認められるのでここである。「礁貝」は「いそがひ(いそがい)」と訓じているか。]
饗宴の夕 二句
なりふりにかまけて遲る葭戸かな
[やぶちゃん注:「葭戸」は「よしど」で、葦簀(よしず)張りの透き戸。夏に涼をとるために襖や障子などを外して代わりに使う。]
夏の灯に蠱(まじ)のくちびる臙脂濃し
[やぶちゃん注:「蠱」蠱物(まじもの)。人を惑わすもの、魔性のものの意。イメージの鬼趣の句。私の好きな句である。]
御坊町N―旅館
夏館老尼も泊りながし吹く
素裸に寢溺れにける白蚊帳
落日
尾形龜之助
ぽつねんとテーブルにもたれて煙草をのんでゐる
部屋のすみに菊の黄色が浮かんでゐる
[心朽窩主人注:第二詩集「雨になる朝」に所収された改稿版。初出は『銅鑼』十号(昭和二(一九二七)年二月発行)で、そこでは、
落日
ぽつねんとテーブルにもたれて煙草をのんでゐると
客はごく靜かにそつと歸つてしまつて
私はさよならもしなかつたやうな氣がする
部屋のすみに菊の黄色が浮んでゐる
肅々となごりををしむ落日が眼に溜つてまぶしい
となっている。]
落日
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
一个人孤单单地靠在桌子上抽烟
在房间角落那边儿漂浮着菊花的黄颜色
[心朽窝主人附注:上面是第二诗集《转雨的早晨》刊载的修改版。首次出现的《铜锣》十号(一九二七年二月刊)上的初稿如下
落日
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
一个人孤单单地靠在桌子上抽烟
客人就悄悄地走回家
觉得……我没道别
在房间角落那边儿漂浮着菊花的黄颜色
落日又庄严又恋恋不舍——眼睛里充满着它的阳光而炫目……]
*
矢口七十七/摄
恐らくはこのよく知られた短い一篇に、未だ嘗て誰も附したことがない内容を注で考証したという特異点に於いて、自信作であると言える。――
太刀帶(たてはき)の陣に魚を賣る嫗(おうな)の語(こと)第三十一
今昔、三條の院の天皇の春宮(とうぐう)にておはしましける時に、太刀帶の陣に常に來(きたり)て魚賣る女ありけり。太刀帶共此れを買はせて食ふに、味ひの美(うま)かりければ、これを役(やく)と持成(もてな)して菜料(さいれう)に好みけり。干したる魚の切〻(きれぎれ)なるにてなむ有ける。
而る間、八月ばかりに、太刀帶共小鷹狩に北野に出て遊けるに、この魚賣りの女出來たり。太刀帶共、女の顏を見知りたれば、「此奴(こやつ)は野にはなにわざするにか有らむ」と思ひて、馳寄(はせより)て見れば、女、大きやかなる蘿(したみ)を持たり。亦楚(すはえ)を捧げて持ちたり。この女、太刀帶どもを見て、怪しく逃目(にげめ)を仕ひてただ騷ぎに騷ぐ。太刀帶の從者(ずさ)ども寄て、「女の持たる蘿には何の入たるぞ」と見むと爲(す)るに、女惜しむで見せぬを、怪がりて引き奪て見れば、蛇を四寸(しすん)許に切りつゝ入たり。奇異(あさまし)く思ひて、「此(こ)は何の料ぞ」と問へども、女さらに答ふる事無くて□□て立てり。早う此奴のしけるやうは、楚を以て藪を驚かしつつ、這出る蛇を打ち殺して切りつゝ、家に持行て、鹽を付て干て賣ける也けり。太刀帶共、其れを不知(しら)ずして、買はせて役と食ひけるなりけり。
これを思ふに、「蛇は、食つる人惡し」と云ふに、何(な)ど蛇の不毒(どくせ)ぬ。
然れば、その體(てい)※(たしか)に無くて切〻ならむ魚賣らむをば、廣量(くわうりやう)に買ひて食はむ事は可止(とどむべ)しとなむ、此れを聞く人云繚(いひあつらひ)けるとなむ語り傳へたるとや。
[やぶちゃん字注:「※」=「忄」+「遣」。]
□やぶちゃん注
前の条の注でも述べた通り、芥川龍之介はかの「羅生門」で、女の死骸から髪を引き抜く老婆を問い詰めたシークエンスで老婆が自己合理化の釈明をするシーンの老婆の台詞に登場する話として人口に膾炙している。老婆を抑え込んで「今までけはしく燃えてゐた憎惡の心を、いつの間にか冷ましてしま」い、「或仕事をして、それが圓滿に成就した時の、安らかな得意と滿足と」に浸っている優位な下人が「老婆を見下しながら、少し聲を柔らげて」質すシーンから引く(底本は岩波旧全集版。読みは必要と思った箇所にのみを採った)。
*
「己は檢非違使の廳の役人などではない。今し方この門の下を通りかゝつた旅の者だ。だからお前に繩をかけて、どうしようと云ふやうな事はない。ただ、今時分、この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話(はなし)しさへすればいゝのだ。」
すると、老婆は、見開いてゐた眼を、一層大きくして、ぢつとその下人の顏を見守った。眶の赤くなつた、肉食鳥のやうな、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、殆、鼻と一つになつた唇を、何か物でも嚙んでゐるやうに、動かした。細い喉で、尖つた喉佛の動いてゐるのが見える。その時、その喉から、鴉の啼くやうな聲が、喘あえぎ喘ぎ、下人の耳へ傳はつて來た。
「この髮を拔いてな、この髮を拔いてな、鬘(かつら)にせうと思うたのぢや。」
下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。さうして失望すると同時に、また前の憎惡が、冷やかな侮蔑と一しよに、心の中へはいつて來た。すると、その氣色が、先方へも通じたのであらう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪(と)つた長い拔け毛を持つたなり、蟇(ひき)のつぶやくやうな聲で、口ごもりながら、こんな事を云つた。
「成程な、死人(しびと)の髮の毛を拔くと云ふ事は、何ぼう惡い事かも知れぬ。ぢやが、こゝにいる死人どもは、皆、その位な事を、されてもいゝ人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髮を拔いた女などはな、蛇を四寸ばかりづゝに切つて干したのを、干魚(ほしうを)だと云うて、太刀帶(たてはき)の陣へ賣りに往んだわ。疫病(えやみ)にかかつて死ななんだら、今でも賣りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の賣る干魚は、味がよいと云うて、太刀帶どもが、缺かさず菜料(さいれう)に買つてゐたさうな。わしは、この女のした事が惡いとは思うてゐぬ。せねば、饑死(うゑじに)をするのぢやて、仕方がなくした事であろ。されば、今又、わしのしてゐた事も惡い事とは思はぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするぢやて、仕方がなくする事ぢやわいの。ぢやて、その仕方がない事を、よく知つていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
老婆は、大體こんな意味の事を云った。
*
この原話を「羅生門」の授業の中で実際に読むことは、存外、ないと言ってよい。私は教育実習を含めて都合、十数回「羅生門」の授業をしているが、この原話を読ませた記憶がない。高校一年生相手の「羅生門」というのは、実はそれでなくてもなかなかに時間がかかるもので(私は「羅生門」は高校一年生向きの分かりの良い教材ではないと考えている。寧ろ「鼻」に差し替えるべきであるとさえ考えている。――今もどこかの若い教師が「闇に消えた下人はこの後どうしたでしょう?」などという見当違いのテクストの外へ向かって道徳の授業のように問いかける姿を想像しただけで、「黑洞々たる闇」以上に気味が悪くなるのを常としている――)、とてもそんな余裕はないし、これは今も変わらないであろう。さればこそ、せめて私はここでその出来なかったことをやろうというのだよ。……私に高校一年生の時に「羅生門」を教わった諸君。……
そもそもがこれを「羅生門」の授業で参考資料として挙げるには物理的な時間以外にも、私は出したくない理由があるのである。それは本話の構成上の問題で、「羅生門」が明らかに人間の生存に関わる必要悪、ひいては人間の存在悪を突きつけるのであってみれば、本話の詐欺の実相の暴露が結局、この反道徳的な鬻ぎ女が断罪されたであろう推測を容易にしてしまうプチ構成にある。彼女が公的に処罰されたかどうかは問題ではない。そうではなくて、「羅生門」の悪の哲学を考察するには、この事実提示は寧ろ、邪魔でしかない、ということである。理屈を捏ねる背高の若造に限って、この原話を提示すると、その構成を捉えて、因果応報どころか、正義は必ず事実を明らかにせずんばならずという、私に言わせれば、すこぶる退屈な独り合点を引き出させかねないからである。
さて、蛇は説話集にあっては忌まわしき執念のシンボルのチャンピオンであるものの、それがかくも女に反用されると、その執拗(しゅうね)きパワーも日干しにされて美味い干し魚ともなる言という点では面白く、いつも驕り高ぶっていたに違いない武士(もののふ)の太刀帯どもも、いい面の皮で痛快ではある。が、私はまた、『奇異(あさまし)く思ひて、「此は何の料ぞ」と問へども、女さらに答ふる事無くて□□て立てり』という辺りには鋭いリアリズムが漂っていて、何か穏やかならざる映像が髣髴としてくる気もしないでもないのである。公的に処断された可能性はどうかといえば、本文に出る「蛇は、食つる人惡し」という当時の一般通念を杓子定規に当て嵌めるなら、これは馬鹿馬鹿しいものの十分にあり得るであろう。しかし寧ろ、相手が老女とはいうものの、騙されていた太刀帯らの激怒を考える時、私刑としてのリンチの如き、何やらん、おぞましい光景も見えては来ぬか? 小学館の日本古典全集の解説には、『行商婦の詐欺的商売を摘発し、読者に注意を喚起しながらも、どこかに哀れさの残る話で』とするが、この附言に私はすこぶるつきで共感出来るのであるが、それは恐らく解説者の意識とは幾分ずれたところでの私の『哀れさ』でもあるのである。この女が「さらに答ふる事無くて□□て立てり」という何とも言えずセピア色になった草原のシーンが、私には確かにある不吉な哀しさの風音を伴って妙に鮮烈に見聴きされてくるのである。
・「太刀帶の陣」「太刀帶」は平安時代以前、春宮坊(皇太子に奉仕し、それに係わる事務を執った役所。内裏の東にあった。東は陰陽五行説で春に当たることから東宮の「東」に「春」の字を当てても書かれたのである)に属して帯刀して皇太子の警護に当たった武官。舎人(とねり)の中から武芸に優れた者が選ばれた。底本の脚注に『定員は当時は三十人』とある。その詰め所が「太刀帯の陣」。
・「三條の院の天皇の春宮にておはしましける時」第六十七代三条天皇(天延四(九七六)年~寛仁元年五(一〇一七)年)。当時は居貞(おきさだ/いやさだ)親王。冷泉天皇の第六十三代第二皇子で第六十五代花山天皇の異母弟に当たる。ウィキの「三条天皇」によれば、例の藤原兼家や息子道隆・道兼らの策略によって花山天皇が寛和二(九八六)年六月二十三日に出家し、七歳の懐仁(やすひと)親王に譲位して一条天皇が即位した。一条天皇は居貞親王の従弟に当たったことから兼家の後押しによって、同年七月十六日にこの居貞親王が十一歳で春宮となっている。冷泉・円融両統の迭立(てつりつ:代わる代わる立てること)に基づく立太子であったが、春宮の方が天皇より四歳年上であったために、「さかさの儲けの君」といわれた。『この立太子の理由は次の様に考えられている。すなわち、兼家は冷泉・円融の両天皇に娘を入内させていたが、円融天皇と不仲であったこと、冷泉天皇は』超子との間に三人の『親王を儲けていたことから、冷泉系をより重要視していた』。『また、孫(一条帝)は天皇、娘詮子は皇太后となり、自らは摂政となった兼家の自己顕示欲によって、もう一人の孫である居貞親王も東宮とされた』。『外祖父兼家に容姿が酷似し風格があったといい、兼家の鍾愛を受けて育ったことが『大鏡』に見える』ともある。眼病を患ったため、『仙丹の服用直後に視力を失ったされる』とあり、在位は寛弘八(一〇一一)年~長和五(一〇一六)年)と頗る短い。以上から、本話の時制は彼が春宮となった寛和二(九八六)年七月十六日から即位した寛弘八(一〇一一)年六月十三日までの閉区間の出来事となる。
・「役と」これで副詞。専ら・殊更・大層の意。
・「持成して」珍しいもの、素晴らしいもの、美味いものとしてもて囃す、言いたてるの意。
・「八月」新暦では八月下旬から十月上旬頃に当たるロケーションは秋の野をイメージされた方がよい。この時期の蛇類は越冬のためにエネルギーを蓄える時期で、肥えて脂も乗ってくると言え、但し、現在の十月頃になると蛇類は一斉に冬眠モードに入り始めて姿を見かけなくなるから、この時の「八月」は現在の九月頃と想定した方がよい。
・「小鷹狩」小振りの鷹を用いて鶉(うずら)や雲雀(ひばり)などの比較的小さな鳥を対象にして秋に行った鷹狩り。初鳥狩(はつとがり)とも言った。冬に行った鶴・雉子・雁(かり)などの大型の鳥類を獲る「大鷹狩(おほたかがり)」の対語である。
・「北野」大内裏の北側の野の意で、現在の京都市上京区の北野天満宮付近の地名。
・「蘿(したみ)」竹で編んだ、底が四角で上部が丸い形をした駕籠や笊(ざる)。古くは汁や酒を漉すのに用い、後には釣った魚を入れておく魚籠(びく)に用いられたから、干魚との連関が認められる。
・「楚(すはえ)」原義は細く真っ直ぐな若枝で、主に刑罰などに鞭として用いた。笞(しもと)。
・「逃目(にげめ)」逃げるようとする目つきや素振りを見せることを言う。
・「四寸」約十二センチメートル。蛇を開き干して干魚として誤魔化すには丁度よい長さではある。彼女は獲った傍から、まずぶつ切りにしたらしい。恐らくはその後に開いて生皮を引き剝いだ上で干したもののであろう。蛇の皮は生の方が綺麗に剥けるように私には思われる。
・「□□て」底本注では、『「あきれ」の漢字表記を期した欠字』とある。私は説話集の欠字にしばしば見られる、この『漢字表記を期した欠字』という説明に実は昔からかなり疑問を持っている。「期する」という語は、必ず実現しようと決めておくことを言うのであるが、だとすると、書いている時に具体的な人名地名が不明であったからとか、言葉が浮かばないか、漢字が思い出せなかったから、後で書き入れようとしてそのまま欠字となってしまったというニュアンスなのであるが、寧ろ、こうし欠字のうちには、特に人名や地名が特定出来ないよう、また、あまりにおぞましい様態や憚られる表現である場合、それを伏せることを殊更に意識的に「期した」欠字とも感じられることがままあるように感じられるからである。ここも寧ろ、読者にその詐欺女の居ても立ってもいられぬ様を読者に想像させるために確信犯で欠字にしたというニュアンスが大きいと私には思われるのだが? 研究者はまさにそういう意味で「期する」を持ちいているようにも見える場合もあるけれども、「期する」にはそうした確信犯的ニュアンスはないように私には思われる(なお私はこれらの「期する」は「きする」と読み、「ごする」とは読んでいない)。私が馬鹿なのか、「きする」「ごする」の読みも含め、研究者の方の御教授を是非とも乞うものである。現代語訳は「あきれて」(強烈な当惑や驚きを意味する古語としての「呆(あき)る」)で採った。
立てり。早う此奴のしけるやうは、楚を以て藪を驚かしつつ、這出る蛇を打ち殺して切りつゝ、家に持行て、鹽を付て干て賣ける也けり。太刀帶共、其れを不知(しら)ずして、買はせて役と食ひけるなりけり。
・「蛇は、食つる人惡し」本草書類では概ね、薬餌としての記載が多い。寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」を見ると(細かな語注はリンク先の私の注を参照されたい)、まず、「うはばみ ※蛇」(「※」=「虫」+「冉」)の項に、「本草綱目」から引いて、
*
土(ところ)の人、其の肉を截り、膾(なます)に作りて食ふ。其の膾、醋に着くれば、能く人の筯〔(はし):箸。〕に卷きて、終に脱すべからず。惟だ芒草(かや)を以て筯(はし)と作(な)さば、乃ち可なり。
*
とあるが、本種を私は本邦にいないヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科ニシキヘビ属ビルマニシキヘビ
Python molurus bivittatus と考えている(但し、寺島は『本朝にも深山の中に之有り』とする)。次の「やまかゞち おろち 巨蠎」の条でも、「本草綱目」を引き、
*
土人、殺して之を食ふ。膽を取りて疾治す。黄鱗なる者を以て上と爲す。甚だ之を貴重とす。
*
とするが、これもやはり本邦産ではないニシキヘビ科ニシキヘビ属
Python の大型個体或いはニシキヘビ科ニシキヘビ属アミメニシキヘビ Python
reticulatus を私は同定している。次の「しろくはじや 白花蛇」も「本草綱目」から引き、
*
長さ一~二分(ぶ)、腸(はらわた)の形、連珠のごとく、多く石楠藤に上に在り。其の花葉を食ひて、人、此れを以て、尋ね獲る。先づ沙土一把を撒く。則ち蟠(わだかま)りて動かず。叉(さすまた)を以て之を取る。繩を用ひて懸け、※1刀(かつふり[やぶちゃん字注:※1=「蠡」+「刂」。])を起て、腹を破り、腸物を去り、則ち尾を反し、其の腹を洗ひ滌(すゝ)ぎ、竹を以て支へ定め、屈曲盤起して、紮縛(くゝ)り、炕(あぶ)り乾かす。[やぶちゃん注:中略。]
肉【甘鹹、温。毒有り。】風藥と爲(す)ること、諸蛇より速(すみや)かなり【頭尾、各々一尺に大毒有り。只だ中段を乾せる者を用ふ。酒を以て浸し、皮肉を去る。其の骨の刺(はり)、須らく遠く之を棄つべし。人を傷つくる其の毒、生者と同じ。】。
*
として蛇類では初めて服用薬であるが、「肉」の項が初めて出する。但し、これも私は本邦には産しないクサリヘビ科マムシ亜科ヒャッポダ
Deinagkistrodon acutus を同定している。しかしその製法は、本条の注に相応しいとは思う。少し飛んで、「さとめぐり 黄頷蛇」辺りから本邦産が登場するように私には思われる。そこではまず「本草綱目」から、
*
丐-兒(ものもらひ)、多く養ひて戯弄(ぎろう)と爲し、死すれば則ち之を食ふ。』と。
*
と引いた後に、良安の言として、
*
△按ずるに、黄頷蛇は、人家に竄(かく)れ棲(す)んで、鼠及び燕子を呑む。人を嚙まず、倉廩に有りて米を食ふがごとき者は、長大にして二~三丈の者有り。捕へて三~四尺ばかりの者を丐兒女(こじきむすめ)の頸に纏(まと)はしめ、「因果の所業」と稱して錢を乞ふの類、和漢共に然り。
*
とあって、食用記載ではないものの、当時の日本人が蛇をそうした因業なる生き物として捉えていた事実は本注に記して意味があろう。次に「はみ まむし はんび 蝮蛇」の項を見ると、
*
肉【甘、温。毒有り。】 活きたる者一枚を取り、醇酒(じゆんしゆ)一斗を以て浸し封じ、馬の溺處(いばりするところ)に埋み、周年にして取り開き、蛇、已に消化して酒の味、猶ほ存すといへども、一升以來に過ぎず。以て飲まば、當に、身、習習として、病、愈ゆることを覺ゆべし。最も癩病を治す。此の疾ひは、天地肅殺の氣を感じて成る惡疾なり。蝮蛇は、天地陰陽の毒烈の氣を稟(う)けて生ずる惡物なり。毒物を以て毒病を攻む。
*
と「本草綱目」を基にしたマムシ酒の効能が出現し、さらに続く良安の解説では、
*
毎(つね)に好んで山椒の樹に蟠まる。故に蝮の身に山椒の氣香(かざ)有り。土人、之を取るに、皮を剝ぐ。但だ上下唇を以て之を裂けば、則ち、皮・肉・骨、分かち三段と爲る。肉、潔白にして雪のごとし。寸寸(ずたずた)に切りても亦、能く蠢動(うごめ)く。梅の醋を用ひ、蓼に浸し、食ふ。甘美なり。氣力を益し、神志を強くす。又、黑燒にして藥と爲す。名を隱して五八草と曰ふ【又、十三草と名づく。】。能く血を止め、惡瘡を治す【其の燒粉、若し雨に値(あ)はば変じて小虫と成る。】。
*
と、遂に明確な食品としての調理法や見た目、その味わいの記載を見出せるのである。しかも「甘美」と断定していることに注意されたい。但し、やはりそれは「名を隱」さねばならぬどことなく忌まわしきものであったことも同時に窺えることにも着目したい(下線部やぶちゃん)。
まあ、こんなもんだろうと思っておられる御仁のために言っておくと、元禄一〇(一六九七)年刊の本邦最初の本格的食物本草書である人見必大の「本朝食鑑」には「蛇蟲類」の項があり、そこにはちゃんと「蛇」の項があることも述べおきたい(当該書は本草書であるから薬物として載っているわけだが、それでも本邦の「食物」として彼がしっかり「食」として名指している事実は重く受け止める必要がある)。但し、その蝮についての記載を見ると、良安が引いた「本草綱目」の効能を挙げた上で、
*
凡山野之人毎謂食蛇及眞蟲則氣盛志猛予未試之。
(凡そ山野の人、毎(つね)に謂ふ、「蛇及び眞蟲を食ふ時は、則ち、氣、盛んに、志し、猛けん」と。予、未だ之を試みず。)
*
と告解しているのが面白い。さらに見ると、東日本に稀におり、西南日本に多く見られる「烏蛇(からすへび)」という種を挙げて、
*
野人食之者多言甘平無毒予未試之。
(野人、之を食ふ者、多し。言ふ、甘平(かんへい)にして、毒、無しと。予、未だ之を試みず。)
*
ともある。この「烏蛇」というのは、ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ
Elaphe quadrivirgata の黒化型(melanistic:メラニスティック)個体の別名と考えてよい(通常のシマヘビは淡黄色の体色に四本の黒い縦縞模様が入る)。されば、かつてはシマヘビ食も地方で頻繁に行われていたことが窺える。なお、さらに「本朝食鑑」では、鰻ほどの大きさで黄黒色で纈紋(けつもん:鹿子絞りの紋様)が体表にある「水蛇」という種を掲げ、
*
釣鱔者儘得之識者不食之不識者混而炙食亦中毒少矣。
(鱔(うなぎ)を釣る者、儘(まま)、之を得て、之を識る者は食はず、之を識らざる者は混じて炙り食す。亦、毒に中(あ)てらるは少なし。)
*
とするのであるが、私は鰻と蛇を混同して食べてしまうことはまずあり得ないから、これは恐らく条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目タウナギ目タウナギ科タウナギ
Monopterus albus を指していると私は推定していることを言い添えておく。
・「何ど蛇の不毒ぬ」当時の本邦の有毒蛇である二種、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ
Gloydius blomhoffii 及びヘビ亜目ナミヘビ科ヤマカガシ Rhabdophis
tigrinus (毒牙は上顎の奥歯にあって非常に短いことから深く咬まれるないと注入されないことから長く毒蛇として認識されていないが、実際にはマムシ毒の三倍の毒性を持つとされている)生食して毒腺や毒液をじかに飲んで、しかもその飲食者の口腔や内臓に傷があった場合に限って中毒する可能性はある。しかし、女は洗浄して干していたであろうから、その可能性はゼロと言える。されば、『これを思ふに、「蛇は、食つる人惡し」と云ふに、何ど蛇の不毒ぬ』と疑問を感じた筆者のそれは、本邦に一般的な蛇食文化を開き得る一歩となっていたかも知れないのである。私はそれを幽かに残念に思う。クジラやイルカを食うことを、ウシやブタをずっと昔から食い続けてきた野蛮人が、野蛮な文化だと指弾する昨今、そんなことをふと思った。
・「※(たしか)に」(「※」=「忄」+「遣」。)「※」の字は不詳(「廣漢和辭典」にも不載る)。底本・諸本ともにかく訓じている。意味は「確か」にと同じものとして訳した。
・「廣量に」形容動詞。軽率に行動したり、うっかり気を許すさま。
・「云繚(いひあつらひ)」「云ひ扱ふ」に同じ。噂する。取り沙汰する。
■やぶちゃん現代語訳
太刀帯(たてわき)の陣に魚(さかな)を売る嫗(おうな)の話 第三十一
今となっては昔のことじゃ……そうさ、あれは、三条の院さまが天皇(すめらみこと)の春宮(とうぐう)さまであらせられた頃のことじゃった……
太刀帯の陣に、いつも来たっては魚(さかな)を売る女の御座った。太刀帯どもはこの女の売れるものを従者(ずさ)に買いとらせては食うて御座ったが、これがまた、その味わい、すこぶる美味(うも)ぅ御座ったによって、専らこれを珍重なし、好んで飯のおかずに致いておったと申す。それは――干した魚(うお)にて――食べ易き大きさに切れ切れに致いたもの――にて御座った。
さても、八月頃のことで御座った。
太刀帯ども、小鷹狩りとて、北野に出でて遊んでおったところが、かの魚売りの女が、原の中ほどより、ふっと出でて参ったに出逢った。
その場にあった太刀帯やそのお附きの者どもは皆これ、この女の顔をよぅ見知っておったによって、誰もが、
『……こやつ……魚を鬻(ひさ)いでおるに……このようなる草深き野っ原にては何をしておるものか?……』
と不審に思うたによって、馳せ寄りて取り囲んで見れば、女は、如何にも大振りなる蘿(したみ)を持っておって、また、高く揚げたる長き楚(すわえ)をも一本持っておった。
しかもこの女、太刀帯どもを見るや、怪しいことに、逃げ腰となり、尻もすっかり退(の)いて、何やらん、しきりに慌てふためいておるのが分かった。
太刀帯の従者(ずさ)どもが、さらに円陣の中へと踏ん込(ご)んできっと寄り、
「ワレ! 持ったるその、えろう大きな蘿(したみ)には、これ、何んが入とるんじゃ?」
と、覗き見ようとしたところが、女はしきりに身を屈め、手にて覆い隠しては見せようとせなんだによって、皆々ますます怪しく思うて、一人の従者(ずさ)が、無理矢理、その蘿(したみ)引き奪って中を覗いてみたところが……その中にはこれ……蛇を――四寸(しすん)許りの大きさに――ぶつぶつに斬り刻んだものが――これ仰山、詰っておった。……
あまりの惨状に驚き呆れて、
「……こ、これは……な、何(なん)に、す、す、するもんじゃいッツ!……」
と問うたれども、女はこれ、ぎゅうっと唇を噛んだまま、一言も発することのぅ、如何にも、意外なところで意外なものを見られたという風に、ただただ、途方に暮れて立ち竦んでおるばかりであった。……
何と! こ奴がこの北野の原にて致いたおったことは、楚(すわえ)を以って藪を打ち叩き打ち叩きしては、そこに潜みおる蛇を驚かして這い出たを、これまた、楚(すわえ)を以って頭(ず)をさんざんに敲いて殺し、やおら、それをぶつ切りに致いて、家に持ち帰り、それに塩をつけて干し――「干し魚(うお)」と称して売っておった――ので、御座ったじゃ。……
太刀帯どもは、それを知らずに、買わせては食い、しきりに美味い美味いと言うて、食うては買わせておったのじゃった、と。……
この一件について思うことはまず、「蛇は、食った人はこれ、必ず毒にあたる」と言い慣わしておるにも拘わらず、どうして太刀帯らは蛇の毒にやられなかったのか? という疑問である。
また――されば、その見た姿形が最早分からずなっておるような魚の切り身を売っておる場合には、これを安易に買(こ)うて食うなどということは、ゆめゆめせぬがよろしい――と、この一件を聴いた人々はしきりに取り沙汰して御座ったと、かく、語り伝えているとかいうことである。
かの「ひっこりひょうたん島」で知られる人形劇団ひとみ座創立メンバーであり、公益財団法人現代人形劇センター創立者であり、私の父の古くからの盟友であった宇野小四郎氏が4月19日に永眠されていた。心より追悼の意を表するものである――
サイト「鬼火」HPの「父のアトリエ」の「落葉籠」を父の盟友宇野小四郎氏の逝去に伴い、父が改稿したものに差し替えた。PDFファイルからWord文書に変更になって容量が18MBと大きく、ダウンロードに時間を要するので注意されたい。
ここに添えた写真は小学生の時、宇野さんと父と三人で父が発見した戸塚影取の休耕畑にあった縄文遺跡を発掘しに行った際の宇野さんと僕のスナップである――
奇しくも昨日 吉田玉男襲名披露公演「一谷嫩軍記」を見たり――熊谷直実の頭(かしら)の眼力 美事 かのおぞましき大阪男を敗北に突き落したる 快哉!――玉男(直実)・勘十郎(藤の局)・和生(相模)てふ同志豪華絢爛――見落とすはこれ一生の損たり――
黄色の夢の話
尾形龜之助
私の前に立つてゐる人はいつたい誰でせう
チヨツキに黄色のぼたんをつけてゐるからあなたの友人でせうか
それとも
何年か前の私のチヨツキを着てゐる人でせうか
それが
影ばかりになつて佇んでゐるのですが
[心朽窩主人注:最後の行を独立させたのは詩集「色ガラスの街」を視認した私の判断からで、現行のそれらは「それら」に繋がってしまっている。太字は底本では傍点「ヽ」。中文訳では無視した。]
黄颜色的梦的故事
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
站在我前面的是谁啊?
因为背心上有黄颜色的纽扣所以你的朋友?
还是
穿着几年前的我的背心的人?
它——
只有它的影子伫立着……
*
矢口七十七/摄
カテゴリ『「今昔物語集」を読む』を創始する。
最初期のはっきりとした記憶は、中学の国語の教科書で巻二十五第十二の「源頼信の朝臣の男頼義、馬盗人を射殺したる語」を原型とする「馬盗人」の現代語翻案であろうか。実に愛読して四十五年の永い付き合いである。本格的に本朝部を通読したのは、芥川龍之介に耽溺し出した十代の終りであった。
ネット上には「今昔物語集」の電子テクストや抄訳はゴマンとあるが、その中で飛び抜けるには本文を正字正仮名とすること、オリジナルの注で読解も差し挟むこと、現代語で繋ぎの悪い部分は大胆にオリジナル翻案をすることであろう。そこで以下、僕の偏愛する話を概ねランダムに引き、僕にしか出来ない切り口でオリジナルに訳注して「楽しみ」たい。それがこのコンセプトだ。――実は「耳袋」1000話が終わってから、どうにも心に風穴が空いた気分なんである。それを埋めたいためでもあるんである。――
底本は基本、読み易く原典の片仮名を平仮名に直した池上洵一編「今昔物語集」(岩波文庫二〇〇一年刊)の全四巻を用いるが、恣意的に正字化し、読みは( )が五月蠅いので歴史的仮名遣で甚だ読みが振れるか或いは判読の困難なものにのみ、独自に禁欲的に附すこととし、それ以外のやや問題のある読みはなるべく注で示すこととする(底本は現代仮名遣)。記号の一部も変えてある。それ以外にも数種の校本を所持しており、注や訳でそれらを自在に参考にするが、なるべくアカデミックなものから微妙にずらしてやぶちゃんらしい面白くマニアックな注を心掛けるつもりである(それらから大きく引用する場合、訳に頼った場合は必ず引用元等を示す)。底本を変更した場合(岩波版は全体の四割の抄出)もそれぞれの箇所で示すこととする。訳では読み易さを考え、適宜改行した。
最初は、意想外のものを選ぼう。
巻第三十一の「人見酔酒販婦所行語第三十二」である。
私は人が生理的に気持ち悪がるものが好きな変態的天邪鬼である――
*
人、酒に醉ひたる販婦(ひさきめ)の所行を見たる語
第三十二
今昔、京に有ける人、知たる人の許に行けるに、馬より下(おり)て其の門(かど)に入ける時に、其の門の向(むかひ)也ける古き門の、閉(とぢ)て人も不通(かよは)ぬに、其の門の下に販婦の女、傍に物共入れたる平(たいら)なる桶を置て臥せり。『何(いか)にして臥たるぞ』と思て、打寄て見れば、此の女、酒に吉(よ)く醉たる也けり。
此(か)く見置て、其の家に入て暫く有て出て、亦馬に乘らむと爲る時に、此の販婦の女、驚き覺(さめ)たり。見れば、驚くまゝに物を突くに、其の物共入れたる桶に突き入れてけり。「穴穢な」と思て見る程に、其の桶に鮨鮎の有けるに突懸(つきかけ)けり。販婦「錯(あやまち)しつ」と思て、怱(いそぎ)て手を以て、其の突懸たる物を、鮨鮎にこそ韲(あへ)たりけれ。此れを見るに、穢しと云へば愚也や。肝も違(たが)ひ、心も迷ふ許(ばかり)思へければ、馬に急ぎ乘て、其の所を逃去にけり。
此れを思ふに、鮨鮎、本より然樣(さやう)だちたる物なれば、何にとも見えじ。定めて、其の鮨鮎賣にけむに、人食はぬ樣(やう)有らじ。
彼の見ける人、其の後(のち)永く鮨鮎を食はざりけり。然樣に賣らむ鮨鮎をこそ食はざらめ、我が許(もと)にて、慥(たしか)に見て、鮨せさせたるをさへにてなむ不食(くは)ざらめ。其れのみにも非ず、知(しり)と知たる人にも、此事を語て、「鮨鮎な不食(くひ)そ」となむ制しける。亦、物など食ふ所にても、鮨鮎を見ては、物狂はしきまで唾を吐てなむ、立て逃ける。
然れば、市町(いちまち)に賣る物も、販婦の賣る物も、極て穢き也。此れに依て、少も叶(あなひ)たらむ人は、萬(よろづ)の物をば、目の前にして慥に調(ととのへさ)せたらむを食ふべき也となむ語り伝へたるとや。
□やぶちゃん注
本話の最終段落の評言は、実は本話の前にある話をも含んだ言いである。この前の巻第三十一の「太刀帶陣賣魚嫗語 第三十一」(太刀帯(たてはき)の陣に魚を売る嫗(おうな)の語(こと)第三十一)も類似した、やはり女の行商人が乾した蛇を干魚を偽って売っていたというトンデモ食品暴露物なのである。これは芥川龍之介が「羅生門」で老婆の語りの中の素材の一つに用いた話柄であるから、誰もがご存じであろう。さても懐かしい。次回はそれを取り上げようと思っている。
・「販婦」女性の行商人。当時は清音で「ひさぐ」と濁るのは近世以後である。そもそも「ひさく」という古語はもともとは「売る」という語の雅語であった。訳では「鬻(ひさ)ぎ女(め)」とした。「鬻」は無論、「売る」の意であるが、これは全く私自身が「ひさぐ」というと、この字でないと落ち着かないからである。悪しからず。
・「物を突く」物を吐く。嘔吐する。
・「其の物共入れたる桶」その売り物などを入れている桶。この副助詞「など」は、この時点ではその売り物を現認していない主人公の視線(販婦との距離間)を、すこぶるよく示して効果的であると私は思う。
・「穴穢な」「穴」は感動詞「あな」の借字。「穢な」は、「きたなし」という形容詞の語幹の用法で詠嘆。
・「鮨鮎」鮎の熟(な)れ鮨。(すしあゆ)は塩漬けや酢漬けにした鮎の腹を開いて、骨などを除去し、そこに飯を詰めたものを、桶に笹の葉を敷いて魚を乗せ、さらに笹で覆って重石をし、暫く置いて発酵させたもの。形状は現在の、私の嫌いなブリを用いた蕪鮨(かぶらずし)や氷頭鱠、さらには私の好きな琵琶湖名産の「ふなずし」が近い。
・「錯しつ」「錯」には「誤る・間違える」の意があるが、しかしこの用字は私にはすこぶる面白。何故なら、この「錯」の字の原義は「まじる・まぜる・みだれる・乱す」の意だからである。「あ~あ、しくじった!」のニュアンスに、「あ~あ、まぜちゃった!」のイメージが被るようになっていると私は思うのである。
・「怱」音「ソウ」。急ぐ・慌てるの意の「悤」の俗字。
・「韲たり」音「セイ」。和える。同時に本字には突き砕く・細かにするの意もあって、映像がよりリアルになるとも言える。
・「と云へば愚也や」言語に絶する事態、尋常な表現では不可能な現象に対して用いられる当時の常套表現で、「今昔物語集」では頻発する決まり文句である。直下の「肝も違ひ」(心胆が捩じれてしまう・でんぐり返る)「心も迷ふ」も同レベルの紋切表現であるから、それらが三重に重ねられているここは驚愕の現実の真実に対する猛烈な生理的嫌悪感が遺憾なく発揮されていると言えるのである。
・「人食はぬ樣有らじ」もともと発酵食品であって酸っぱい独特の匂いがし、前にあるようにその見た目もこれ、すこぶる「それ」と似ていて、区別がつかないから、何か、変だぞ、と感じて食わないなどということはおよそあるまいよ、というのである。そうしてこれらの筆者による感覚が、実は目撃してしまった主人公がそこから忌避して逃げ去る間に脳内に想像された関係想念(妄想ではない)の再現であることに注意しなくてはならない。その結果がトラウマとなって、以下の彼の鮎鮨に対する異常な生理的嫌悪感・忌避行動というこの目撃に由来する典型的なPTSD(Posttraumatic stress disorder:心的外傷後ストレス障害)の発症を引き起こすこととなるのである。普通の食事をしている所で他者の席に鮎鮨が出るのを見つけても忌避するというのは、殆んど強迫神経症、一種の鮎鮨フォビア(恐怖)と言ってもよく、たかがされど、の深刻な心傷であったのである。
・「鮨せさせたる」この部分、校訂者によって異なる。小学館の日本古典文学全集版では『鮨(すし)せたる』とあり、サ行下二段動詞で「鮨にさせる」の意の「鮨す」の連用形に完了の助動詞「たり」が続いた形と採っているらしいが、この解には少し無理があるように思われる。
・「然樣に賣らむ鮨鮎をこそ食はざらめ、」この末尾はかように読点でなくてはならない。古文の試験によく出る「~こそ……(已然形)、――」の逆接用法の変格文脈である。「鮎食はざらむ」は「食はざるべけれ」で、この時のように街路や、また店頭で売られている何が入っているか分からぬような鮎鮨は「食わぬのは当然であるけれども、そうでなくて、と下へ逆接で続くのである。
・「唾を吐てなむ、立て逃ける」ここは現代人なら生理的な不快感の表現として読み過ごすところであろう。実際に彼は、PTSDから鮨鮎売の姿を見ただけで気持ちが悪くなって事実酸っぱいものが喉の奥から上って来るのでもあろうけれども、寧ろ、これは呪的な動作であるように私には思われる。唾は「古事記」以来、その人の魂が籠っている神聖にして霊力なものであった。唾はある対象とある対象を接合する呪力があるから、「唾を吐き捨てる」という行為は逆に、ある忌まわしい対象との関係を絶つ力があるということである。だからアウトローである世間との道徳的関係を絶つところのヤクザは盛んに唾するのである。そう、「思い出ぽろぽろ」の不良を気取る、あの少年を思い出せばよい……
■やぶちゃん現代語訳
さる人、酒に酔った鬻(ひさ)ぎ女(め)の驚愕の所行を見てしまった事
第三十二
今となっては昔のことじゃ……京に住まいしておったお人が、知人の家へ行き、馬より降りて、その屋敷の門(もん)を入ろうとしたその折り、その門の、道を隔てた向いのところに古き門のあって――そこはもう、とうに閉じられたままなるものにして、人も行き来致さぬ門で御座ったが――その門のところで、一人の鬻ぎ女が、傍らに売り物なんどを入れた平らなる桶を置いて、ごろりと横になっておるのを見かけた。
『……こんな昼日中、何で寝ておるのか?』
と思うて、近くへ寄って行ってみると、この女、昼間っから酒をかっ喰ろて、したたかに酔っ払い、うたた寝しているのが見てとれた。
なんとまあ――とあきれ果てて、そのまま取って返し、かの知人の家へと上がって用を済ませ、暫くあって出でて門のところに置きおいた馬に乗ろうとしたところ、馬の動きて馬具の鳴ったが耳にでも入ったものか、かの鬻ぎ女、はっと目を覚ました様子。男が馬の蔭からそっと見てみると、目を覚ましたとたんに、呑み過ぎたのであろ、
――ぐぅえっつ!!
と嘔吐を催し、こともあろうに、売りものなどを入れてあるらしい桶に反吐(へど)をすっかり吐き入れてしまった。
『ああっ! 何て汚い!』
と思うて凝っと見てみると、あろうことか、女はこれ、女が鬻いでいるところの鮨鮎(あゆずし)を入れた桶の中に、己がゲロを吐き入れてしまったのであった。
鬻ぎ女は如何にも、
『ああっ! やっちまったよぉう!……』
といった表情をしていたが、次の瞬間、男が覗き見ていることも知らず、何と!
――慌てて、手を桶に突っ込むや!
――其の吐き下したる物を!
――その鮨鮎にぐちゃぐちゃと掻き混ぜてしまった!
――これ、見てしまえば、汚い汚くないどころの騒ぎにてはこれ、御座ない!
――胆っ玉のでんぐり返(がえ)り!
――身も心も夢現(うつつ)の境に彷徨(さまよ)うて……急いで馬に跨ると、その場を遠く逃れ去ったのであった。……
――――――
これに就いて考えてみると、鮨鮎というものはこれ、もとより〈その〉ような様子を成したる食品であるからして、〈こうした〉真相を知らざれば、〈こき混ぜよったそれ〉を見ても何んとも思わぬに違いない。間違いなくこの鬻ぎ女は〈この鮨鮎〉を売ったと見て間違いない。しかも〈その買った鮎鮨〉を何かおかしいぞなんどと感じて、食うのをやめたという御仁もこれ、一人として、おらなんだに違いない。
また、かの驚天動地の現場を見てしまったお人はこれまた、その後(のち)ずっと鮨鮎を食わなくなったというのである。しかも、そのように市井で売られているところの怪しい鮨鮎を食わなくなったなったのは当然であろうけれども、そうではなくて、自分のところで一から確かに見、問題なく健全なる熟(な)れ鮨に致いたものをさえもこれ、決して食ずなった、というのである。いや、それだけではない、知人という知人にも、この一件をつい今しがた見たように生き生きと再現しては語り、最後には必ず、
「――鮨鮎は!――決して食ってはならぬッツ!!」
と、年がら年中、人をつかまえては、きっと戒め制するのであった。いや、それだけではまだ終わらぬ。彼は普通に食事をとるような場所にあっても、そこで他の客に鮨鮎が出されたりしたのに気がつくや、狂ったようになって辺りへ、
――ぺっぺ! ぺっぺ!
と唾(つばき)を吐き撒きつつ、即座にそこを立って逃げ出すのを常としたのである。
されば、市井の店頭にて売る食い物も、鬻ぎ女の売る食い物も、これ極めて汚ないものなのである。こういうことであるからして、少しでも経済的に余裕のあるお人は、食物に就いてはこれ、あらゆる素材を、必ず目の前に於いて確かに調理させ、それを食うようにせねばならないと、かく、語り伝えているとかいうことである。
無形國へ
尾形龜之助
降りつゞいた雨があがると、晴れるよりは他にはしかたがないので晴れました。春らしい風が吹いて、明るい陽ざしが一日中緣側にあたつた。私は不飮不食に依る自殺の正しさ、餓死に就て考へこんでしまつてゐた。
(最も小額の費用で生活して、それ以上に勞役せぬこと――。このことは、正しくないと君の言ふ現在の社會は、君が餘分に費ひやした勞力がそのまゝ君達から彼等と稱ばれる者のためになることにもあてはまる筈だ。日給を二三圓も取つてゐる獨身者が、三度の飯がやつとだなどと思ひこまぬがいゝ。そのためには過飮過食を思想的にも避けることだ。そしてだんだんには一日二食以下ですませ得れば、この方法のため働く人のないための人不足などからの賃銀高は一週二三日の勞役で一週間の出費にさへ十分になるだらう。世の中の景氣だつて、むだをする人が多いからの景氣、さうでないからの不景氣などは笑つてやるがいゝのだ。君がむだのある出費をするために景氣がよい方がいゝなどと思ふことは、その足もとから彼等に利用されることだけでしかないではないか。働かなければ食へないなどとそんなことばかり言つてゐる石頭があつたら、その男の前で「それはこのことか」と餓死をしてしまつてみせることもよいではないか。又、絹糸が安くて百姓が困ると言つても、なければないですむ絹糸などにかゝり合ふからなのだ。第三者の需要に左右されるやうなことから手を離すがいゝ、勿論、賃金の增加などで何時ものやうにだまされて「圓滿解決」などのやうなことはせぬことだ。貯金などのある人は皆全部返してもらつて、あるうちは寢食ひときめこむことだ。金利などといふことにひつかゝらぬことだ。「××世界」や「××之友」などのやうに「三十圓收入」に病氣や不時のための貯金は全く不要だ。細かいことは書きゝれぬが、やがて諸君は国勢減退などといふことを耳にして、きつと何だかお可笑しくなつて苦笑するだらう。くどくどとなつたが、私の考へこんでゐたのは餓死に就てなのだ。餓死自殺を少しでも早くすることではなく出來得ることなのだ。
[心朽窩主人注:太字「する」は原詩では傍点「ヽ」。中文訳では無視した。第二段落冒頭にある丸括弧「(」の終り(「)」)は存在しない。同じく中文訳では無視した。]
往无形世界
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
好几天连续下的雨终于停了,那就没法儿天不晴,因此是个大晴天儿了。刮了春天应该刮的春风,明亮的阳光整天射进到廊子来了。我深思“不饮不食”的自杀的合理性和饿死这行为。
用最少的经费生活下去而绝不会去劳动——。你认为这种做法现代社会里完全不对,不过这意味着你格外费出的劳力都是为了你们说的“他们”那些人的。日薪达到二三日元这么高水平的独身男人,不应该认为得过且过,为了这个目的你必须避开“过饮过食”的想法。如果人们渐渐地习惯一天吃饭两次以下的生活,由于劳力供不应求的原因产生的薪水过高的问题肯定会云消雾散,一周两三天的劳动维持得了一周的所有经费。话说景气不景气,由于浪费金钱的过多的景气,不够的不景气什么的,你不如嗤笑啊!你想一想,因为你浪费钱所以景气好,那只不过是你被“他们”利用罢了吧!如果你碰到一个人主张——不劳动者不得食——的死脑筋,你就说——是不是这个?——而当场饿死,这也是一个好主意,是不是?再说了,蚕丝太便宜老百姓面对经济困难,也可以说是管一个毕竟不必有的蚕丝那种东西而产生的现象,人们不用管会受到局外人的影响的东西,当然人们不要照常被“提薪”这句话骗而跟公司的交涉得到圆满成功,有存款的人应该提全款而靠寝食,听到利息这个词时千万不要受骗。《某某世界》,《某某之友》等刊物说得不对,对于“收入三十日元”的人绝对不需要为预测不了的病或万一的经济准备。我在这儿写不完细节,不过将来你们会听到“国力衰退”这句话时一定不得不露出苦笑。我遗憾的是上面啰嗦地解释,可是我深思的就是饿死,想说的不是应该尽早饿死而是我们做得到饿死。
*
矢口七十七/摄
■やぶちゃん現代語訳
中務大輔(なかつかさのたいふ)の娘、近江の郡司の婢(はしため)となったる話 第四
今となってはもう……昔のことじゃが……中務大輔(なかつかさのたいふ)であられた何の何某と申さるる御仁の御座った。男の子はのうて、娘子ただ独りだけがおられた。
その頃には既に家内(かない)不如意にて御座られたが、兵衛佐(ひょうえのすけ)何の誰彼(たれかれ)と申さるる御方を、その娘に娶(めあ)わせて婿となし、年月(としつき)を過ごしておられた。この間(かん)、貧しき中(うち)にも、これ、なんやかやと遣り繰りしては、婿殿のお世話をなさっておられたによって、かの婿も、その娘の許を去りがとぅ思うておるうち、中務大輔殿、これ、亡くなられてしもうた。されば後見は御母堂一人ぎりとなって、娘は何かと心細く思うておるうち、その母君もじきに病いにお臥しになられ、永く患いついて御座られたによって、娘はたいそう深ぅ悲しみ歎いておった。ところが結局、その御母堂も亡くなってしもうたによって、娘独り、取り残され、泣き悲しんでおったものの、最早、かくなってはどうにもならなんだ。
すると、次第に家内に仕えておった者どももこれ、皆々、出て行ってしまい、すっかり人気(ひとけ)ものぅなってしもうたによって、娘は夫の兵衛佐に、
「……親のあらしゃいましたうちは、なんとか致いては、あなたさまのお世話をし申し上げて参りましたものの、このように、たよれる生計(たつき)の方もおらずなりましたによって、最早、あなたさまのお身の回りのお世話をさえ叶わずなりましてございまする。……どうして……宮仕えにお見苦しいお姿であらっしゃるなんどということが許されましょう。……これよりは、ただ……あなたさまの――よきように――おとり計らいなさられて下されませ……」
と申したによって、男はこれを聴き、ひどぅ不憫に思うて、
「……どうして! そなたを見棄てるようなことをするものか。」
なんどと答えては、なおも女の屋敷にともに住んではおったものの、じき、出仕の装束(しょうぞく)なんども見苦くなったかと感じたかと思うと、みるみるうちに、みすぼらしゅうなりゆくことの著(しる)ければ、妻は、
「……どこか外の方へ移られなさっても……妾(わらわ)をいとおしゅう思し召された折りなどには、またお訪ね下さいませ。……どうして……どうして、このようなお姿にて宮仕えなさるることのできましょうや。あまりに見苦しゅうございまする……」
と、しきりに勧めたによって、男は遂に屋敷を去って行った。……
さればこそ、女独りとなり、いよいよこの上もなきほどに、悲しく心細き思いをつのらせておった。家もがらんとして、人気も、これ、ない。……ただ独り残っておった幼き女童(めのわらわ)が一人御座ったものの……これもまた、着る物にも、もの食うことにも事欠くありさまとなったなれば……ふと気づいた時には、どこぞへ去(い)んで、姿の見えずなって御座った。……
さてもかの夫はと申せば、これ、初めのうちこそ『如何にも不憫』と、思うて気にはかけてはおったものの、じき、他の女の婿になったによって、かの女へ手紙を送ることさえものうなって御座った。女の方も、手紙の来ずなったことへの不満なんどを表立って言い遣ることなど、これもまた、思いの外のことで御座ったれば、結局、出でて行ったきり、二度と、かの女の許を訪ぬることは絶えてしもうたと申す。されば女は、これ、見るもおぞましく壊(こぼ)ったる寝殿の片隅に、ひっそりと独り、住まうておった。……
さて、その寝殿のまた片端に、これ何時の頃よりか、一人の年老いたる尼の住みつくようになって御座ったが、この尼、かの女の境涯を気の毒に思うて、時に、果物やら食い物やらの余れるもののあれば、それをもち来たっては恵んでおった。されば、ひとえにその恩恵を唯一つの糧となして、女は年月暮らしておったのであった。ところがそのうち、この尼の許へ、近江国(おうみのくに)より長宿直(ながとのい)と申す役に当たったとして、とある郡司(ぐんじ)の子なる、一人の若き男が上京して参り、宿をとった。さてもこの若者、とある日のこと、その尼に向って、
「――体(からだ)を持て余しておる女童(めのわらわ)でも一人、これ、世話して下さらぬかのぅ?」
と申した。尼は、
「……我れらは年老いて外歩きなんどもようせねば、何処に女童のおるかというようなことも知らぬ。……じゃが……そうじゃ!……このお屋敷にこそ、たいそう見目麗しくあらっしゃいます、姫君の、たった独り、いかにも現(うつつ)にあらんこともなきように……あらっしゃいますがのぅ……」
と応じたによって、男はそれを聴くや、
「――そ、その女、我らに会わせて下さっしゃれ!……さてもさても!……そのようにお心細くてお過しになさるるよりは――事実、ほんに、お美しいお方ならばこそ――一つ、国へ連れ下って、我らが妻にもしようとぞ思う!!」
と大乗り気に言うたれば、尼は、
「ならば、近々、その旨、伝えてみましょうぞ。」
と請けがった。
この男、こう言い出してよりそのかた、尼に――先の話は通して下さったか?――何?――まだ?――何故、まだお話下さらぬのじゃ?!――早う早う!……と、頻りにせっついては責め立て参ったによって、尼は仕方なく、かの女の許に、いつものように果物などもて行きたるついでに、
「……このように……このままこうして……いつまでもお独りにて身過ぎなさっておらるるわけにも、これ、参りますまいに……」
などと水を向けた後(あと)、
「……さても……実はここに、近江より然るべき御身分の御方の御子(おんこ)の、上京しておられまするが、この度、このお屋敷の御主(ごしゅ)であらるる、あなたさまのことをお話申し上げましたところが、『そのように不如意のままに御座(おわ)しまさるるよりも、自分の国へとともにお連れ申し上げたいものじゃ』と、これがまあ、すこぶる熱心に申しておられますのじゃが……一つ、そのようにさせなさいまし。……このように……何もなさることものぅ、お淋しきままに、お暮らしなさいまするよりは……」
と慫慂したところが、女は、
「……ど、どうして……どうしてそのようなること、これ、出来ましょう。」
ときっぱり否んだによって、尼はその場は引き下がって帰った。……
この男は、尼より事の不首尾を聴くや、いやさかに女への思いを切(せち)に募らせ、その日の夜になるや、弓なんどを携え、その女の対(たい)の屋のほとりへと参った。されば、辺りにおった野良犬のこれを嗅ぎつけ、大きに吠えたてたによって、女は普段にもまして、もの怖しゅう感じ、もの凄き思いに怯えて御座った。夜(よ)の明けて後(のち)、かの尼、また何食わぬ顔をして、女の許へと訪れたところが、かの女の曰く、
「……昨夜は、もう……まっこと……どうにも……もの怖ろしゅうて……なりませなんだ……」
と訴えた。されば、尼、すかさず、
「だから申し上げたので御座いまする!――かのように申す者に、うち具してお下りなさいませ――と。……かく身過ぎなされておられたのでは……これ、やりきれぬことばかりしか、起きは致しませぬのでは、御座いますまいか?……」
と、上手くまたしても水を向け得たによって、女も『まことに一体どうしたらよかろうか』と思うままに、如何にも逡巡する気色を見せて御座った。さればこそ尼はこれを察し、その夜(よ)――こっそりと――かの男を女の対の屋へと導き入れたので御座った。……
それより後(のち)、男はすっかり女に夢中になった。――田舎の侍なれば、こうした京のやんごとなき娘のそれは、初めての味わいにて御座ったによって、もう一夜(ひとよ)にして離れがたく思うて、長宿直(ながとのい)の明くるや、早々に近江へと連れ下って御座った。女も『かくなっては最早、致し方のないこと』と思うて、ともに下ったのであった。ところが、近江に着いて見れば、この男、前々より国元に既に妻を持って御座ったことの知れた。女は取り敢えず、父郡司が家に住むこととなったものの、その本妻たる者、じきにこの女のあるを聴き知り、ひどく妬み、男を激しく罵ったによって、男は結局、この京から連れ帰った女の許へは一向、寄りもつかずなってしもうたのじゃった。されば、この京の人、親の郡司に使われて、身過ぎ致すことと相い成って御座った。すると、そのうち、その国に新しき国守の決まって、お下りになられるということになったによって、これはもう、国を挙げての大騒ぎと相い成って御座った。
そうこうするうち、
――早や、守殿(こうのとの)が国府へお着きになられた!
という報知のあれば、女が仕えておった郡司の家内も大騒ぎとなって、果物やら食べ物などの饗応の品々を立派に調え揃え、国司の館(やかた)へと運ぶ込むことと相成った。――その頃、この京の人のことを父郡司の家では〈京の〉と名づけて、郡司のお気に入りとして永年、婢(はしため)として使っていたのであったが――館へその物品々を運ぶに際し、多くの男女(なんにょ)が要ったがため、この〈京の〉にも、物を持せて館へと向かわせたのであった。
さても、守(かみ)は館にあって、多くの下々の者どもが、これ数多(あまた)の品々を持ち運び来たるを眺めて御座った。すると、その中に、他の下人らとは異なり、これ、なんとも言えずそそらるる面持ちをしたる〈京の〉が、守に目に留まった。されば、守は御自身の小舎人童(こどねりわらわ)を召し出だして、こっそりと、
「あの女は如何なる者であるか? それを訊ねて――今宵――我らが方へ連れて参れ。」
と命じられた。小舎人童が仕切を致いておる下役人に訊ねたところが、しかじかの郡司の婢(はしため)なることが知れた。されば小舎人童はその場に参上して立ち会って御座った郡司に、
「……かくの如く、守殿(こうのとの)の、女をご覧じなられて……かく仰せられておられまする。……」
と耳打ちした。
郡司は大きに驚きて、家にとって返すや、ともに連れ帰った〈京の〉に湯浴みをさせるやら、髪を洗わせるやら、大働きの世話をなし、頭の天辺から足先に至るまで、これ、念入りに磨き立ててやった。その装いの成ったるを、郡司、いちいち点検した末、己れの妻に向って、
「これ見よ! 〈京の〉の着飾ったるこの見目の、なんとまあ! 麗しさを!」
と感嘆したと申す。
さても、その夜、衣(きぬ)などをも羽織らせ、守のおらるる国守の館へと、この〈京の〉をさし出したのであった。
――ところが! さてもまあ、なんと! この新任の近江守(おうみのかみ)と申さるる御方はこれ、かの〈京の〉の本の夫、兵衛佐(ひょうえのすけ)であられた御仁の、大成なされたお姿で御座ったんじゃ!――……さても守は、この〈京の〉を近くへお召し寄せになられ、とくと見ようとしたところが、如何にも不思議なことに、いつかどこかで見たことがあるようにお感じなられたによって、この〈京の〉を抱(だ)いて添い臥したところ……なにか……まっこと……親し気で懐かしい感じが……身体(からだ)から伝わって来るのであった。されば、
「……お前は一体……如何なる素性の者じゃ?……何とも不思議なことに……いつかどこかで逢ったことのあるように、これ、思えてならぬのじゃが。……」
と女の耳元に口を寄せて囁いたが、女はしかし――この男がまさかかつての夫兵衛佐であろうなどとは思いもよらざれば――、
「……妾(わらわ)はこの国の者にては御座いませぬ……かつては……確かに京におりました者にては御座いまする……」
と言葉少なに答えるばかりであった。守は、『……京の者が田舎へと落ちて参り、郡司の館に使われておるに過ぎぬということなのだろう……』と勝手に想像したりして御座ったが、この女の麗しさが如何にも希有のものに感ぜられたによって、それより、毎夜、召し出しては、夜伽させた。すると、なおも、身も心も摩訶不思議に異様な懐かしさの貫くを覚え、どうもやはり、一度逢ったことのある女のように思われてならなかった。されば、守は女に向い、
「――さても、京にては如何なる身分の者で御座った? さるべき前世より結ばれし因縁に依るものにてもあろうか、実はなんとも、しみじみと、いとおしく思わるればこそ、こうして問うておる。一つ、隠さずに言うてみよ。」
と質(ただ)したによって、女は、もはや、隠すことの出来ずなって、
「……実は、まことは……しかじかの者にてございまする……もしや……あなたさまは……妾(わらわ)の古き殿方であられたお方の……その所縁(ゆかり)のお方などにても、あらっしゃるかとも存じましてございましたによって……このお召しを受けてよりこのかた、それを口に致すことを、これ、憚ってございましたが……そのように強いてお訊ねになられましたれば……お答え申し上げましてございまする…………」
と、ありのままに語って、そのまま、泣き伏してしまった。守は、
『……さればこそ! 不思議に懐かしく思われておったも道理!……こ、この女は、やはり! わ、私の――昔の妻――であったのだ!!……』
と思うにつけても、何とも言えず、胸の詰まって、ともすると涙が零れ出でんとするを、女に気取られぬよう、さり気なく振る舞(も)うて御座った。
すると――
その時――琵琶湖の湖水の浪の音(おと)が、聴こえてきたのだった。
女は、これを耳にすると、
「……こ、この……音は……何の音なのかしら?……ああっ! 怖しいこと!……」
としきりに怯えて御座ったによって、守はそこで、かく和歌を詠んだ。
これぞこのつひにあふみをいとひつつ
世にはふれどもいけるかひなみ
そうしてすぐに、
「――我れは――まっこと! そなたの夫ではないか!」
と小さく叫んで、涙を流した。すると女は、
『……ああっ!……さてはやはり……この人は私の元の夫、その人であったのだ!……』
と心づいたものか、そうして……その途端に、心の内に言いようのない哀しみと恥ずかしさが怒涛の如く襲い来たって……遂には……それに耐えられずなったものか……ふっと……ものも言わずなって……守が咄嗟に抱き寄せた、その身は……意識も、すでになく……手足も痙攣して硬直し……そのまま……ただただ、冷えに冷え入ってゆくばかりであった。…………
守は、
「……こ、これは! いったい! どういうことかッツ!?……」
と喚き騒いでいるうち、女は儚(はかな)くなっていた。…………
――――――
筆者の思うに、この主人公の女、これ、まことに哀れな存在である。女は『……ああっ!……さてはやはり……この人は私の元の夫その人であったのだ!……』と心づくや、己(おの)れが前世より業(ごう)として背負うてきた因縁の思いやられて、その哀しさと恥かしさに耐えきれずに遂には死に至ったのである。守(かみ)なる男には、最も大切な、傷心の女への思いやりの心が決定的に欠けていたのである。その事実――自分が元の夫であるという事実――を明らかにせず、ただただ、この幸薄かった女を引きとり、よく世話をなしてやればよかったものを、と思うのである。
なお、この事件については、女が死して後(のち)、この男がどうしたかについては、これ、よく分からぬと、かく、語り伝えているとかいうことである。
■原典
[やぶちゃん注:以下は堀辰雄が本「曠野」の原拠とした「今昔物語集」巻第三十「中務大輔娘成近江郡司婢語第四(なかつかさのたいふむすめあふみのぐんじのひとなることだいし)」である。底本は池上洵一編「今昔物語集 本朝部 下」(岩波文庫二〇〇一年刊)を用いたが、恣意的に漢字を正字化し、読みは必要と思われる箇所に歴史的仮名遣でオリジナルに附し(一部、底本に従わない読みを附した)、一部は私が追加した(底本は現代仮名遣)。また、記号の一部を変更した。]
中務の大輔の娘、近江の郡司の婢と成れる語 第四
今昔(いまはむかし)、中務(なかつかさ)の大輔(たいふ)□の□と云ふ人有(あり)けり。男子(をのこご)は無くて、娘只獨(ひとり)のみぞ有ける。
家貧(まづし)かりけれども、兵衞(ひやうゑ)の佐(すけ)□の□□と云ける人を其の娘に會(あは)せて、聟(むこ)として年來(としごろ)を經(へ)けるに、此彼(とかく)構(かまへ)て有(あら)せけるに、聟も去難(さりがた)く思(おもひ)て有ける程に、中務の大輔失(うせ)にければ、母堂(ぼだう)一人して、萬(よろづ)を心細く思(おもひ)けるに、其れも指次(さしつづき)煩(わづらひ)て、日來(ひごろ)に成(なり)にければ、娘、糸(いと)哀れに悲(かなし)く歎(なげき)ける程に、母堂も失(うせ)にければ、娘獨り殘居(のこりゐ)て、泣悲(なきかなし)びけれども甲斐(かひ)無し。
漸(やうや)く家の内に人も無く出畢(いではて)にければ、娘、夫(をうと)の兵衞の佐に「祖(おや)御(おは)せし限(かぎり)は、此彼(とかく)構(かまへ)て有(あら)せ聞えしを、此(か)く便(たより)無く成(なり)にたれば、其(そこ)の御繚(おほむあつかひ)なども不叶(かなはず)。宮仕(みやづかへ)は何(いか)でか見苦くても御(おは)せむ。只、何(い)かにも吉(よ)からむ樣(やう)に成り給へ」と云ければ、男、糸惜(いとほし)くて、「何(い)かで見棄(みすて)むずるぞ」となど云て、尙(なほ)棲(すみ)けれども、着物(きもの)なども見苦く、只成りに成り持行(もてゆ)けば、妻(め)、「外也(ほかなり)とも、糸惜(いとほし)と思(おもひ)給はむ時は、音信(おとづれ)給へ。何(い)かでか、此(かく)ては宮仕へはし給はむ。見苦き事也」と、强(あながち)に勸(すすめ)ければ、男、遂に去(さり)にけり。
去れば、女獨りにて、彌(いよい)よ哀れに心細き事限無(かぎりな)し。家も澄(すみ)て、人も無かりければ、只幼き童(わらは)一人なむ有けるも、衣(きぬ)着る事も無く、物食ふ事も難(かた)くて、破無(わりな)かりければ、其れも出て去にけり。
男も、然(さ)こそ、「糸惜(いとほし)」と云けれども、人の聟に成にければ、音信(おとづれ)をだに不爲(せ)ざりければ、出(いで)て其れも云はむや、來る事は絕(たえ)にけり。然れば、樣惡(さまあし)く壞(こぼれ)たる寢殿(しむでん)の片角(かたすみ)に、幽(かすか)にてぞ獨り居たりける。
其の寢殿の片端(かたはし)に、年老たる尼の宿(やどり)て住(すみ)けるが、此の人を哀れがりて、時〻菓子(くだもの)・食物(くひもの)など見(み)けるをば、持來(もてき)つゝ志(こころざし)ければ、其れに懸りて年月を經(へ)ける程に、此の尼の許(もと)に、近江國(あふみのくに)より長宿直(ながとのゐ)と云ふ事に當(あたり)て、郡司(ぐんじ)の子なる若き男の上(のぼり)たりけるが宿(やどり)て、其の尼に、「徒然(つれづれ)なる女の童部(わらはべ)求めて得させよ」と云ければ、尼、「我れは年老て行(ありき)も不爲(せ)ねば、女の童部の有らむ方も知らず。然(さ)て、此の殿(との)にこそ、糸(いと)嚴氣(いつくしげ)に御(おは)する姫君は、只獨り有難氣(ありがたげ)にて御(おは)すれ」と云ければ、男、耳を留(とどめ)て、「其れ己(おのれ)に會(あは)せ給へ。然(さ)て、心細くて過(すぐ)し給はむよりは、實(まこと)に嚴(いつくし)くは、國に將下(ゐてくだり)て妻(め)にせむ」と云ければ、尼、「今、此の由を云はむ」と受けり。
男、此(か)く云ひ始めて後(のち)は、切(しきり)に切(しきり)て責(せ)め云ければ、尼、彼(か)の人の許に菓子(くだもの)など持行(もてゆき)たる次(つい)でに、「常には何(い)かでか此(かく)ては御(おはし)まさむと爲(す)る」など云て後に、「此(ここ)に、近江より、可然(しかる)べき人の子の上(のぼり)たるが、「然(さ)て御(おはし)ますよりも、國に將下(ゐてくだ)り奉らむ」と、切々(せちにせち)に申し候ふを、然樣(さやう)にもせさせ御(おはせ)ませかし。此(か)く徒然(つれづれ)に御(おはし)ますよりは」と云ければ、女、「何(い)かでか然(さ)る事はせむ」など云ければ、尼返(かへり)ぬ。
此の男、此の事を切(せち)に思(おもひ)て、弓など持(もち)て、其の夜、其の邊(ほとり)を行(ゆき)ければ、狗(いぬ)吠(ほえ)て、女(をむな)、物怖しく常よりも思えて、侘しく思ひて居たりける程に、夜明(あけ)て、尼亦(また)行(ゆき)たるに、其の人云く、「今夜(こよひ)こそ物怖しく破無(わりな)かりつれ」と。尼、「然(さ)ればこそ申し候へ、『然(さ)申す者に打具(うちぐ)して御(まし)ませ』とは。侘しき事のみこそ御(まし)まさむずれ」と云成(いひな)しければ、女、「實(まこと)に何(いか)がせまし」と思(おもひ)たる氣色を、尼見て、其の夜忍(しのび)て此の男を入れてけり。
其の後、男馴睦(なれむつ)びて、不見習(みなら)はぬ心に難去(さりがた)く思(おもひ)て、近江へ將下(ゐてくだり)ければ、女も、「今は何(いか)がはせむ」と思て、具して下(くだり)にけり。其れに、此の男、本(もと)より國に妻(め)を持(もち)たりければ、祖(おや)の家に住(すみ)けるに、其の本の妻、極(いみじ)く妬(ねた)み喤(ののしり)ければ、男、此の京の人の許には寄(より)も不付(つか)ず成(なり)にけり。然(しか)れば、京の人、祖(おや)の郡司に被仕(つかはれ)て有ける程に、其の國に新(あたらし)く守(かみ)成(なり)て下(くだり)給ふとて、國擧(こぞり)て騷ぎ合(あひ)たる事限無(かぎりな)し。
而る間、「既に守(かう)の殿(との)御(おはし)ましたり」とて、此の郡司の家にも騷ぎ合(あひ)て、菓子(くだもの)・食物(くひもの)など器量(いかめし)く調へ立(たて)て、館(たち)へ運びけるに、此の京の人をば、「京(きやう)の」と付(つけ)て、郡司年來(としごろ)仕(つかひ)けるに、館(たち)へ物共(ども)運(はこび)けるに、男女(なんによ)の多く入(いり)ければ、此の京のに物を持せて館(たち)へ遣(やり)けり。
而る間、守(かみ)、館(たち)にて多(おほく)の下衆共(げすども)の物を持運(もちはこ)ぶを見ける中(なか)に、異下衆(ことげす)にも似ず、哀れに故有(ゆゑあり)て京のが見えければ、守(かみ)、小舍人童(こどねりわらは)を召(めし)て、忍(しのび)て、「彼の女は何(いか)なる者ぞ。尋(たづね)て夕(ゆふ)さり參らせよ」と云ければ、小舍人童尋ぬるに、然〻(しかじか)の郡司の徒者(とものもの)也。聞(きき)て、郡司に、「此(かく)なむ、守(かう)の殿御覽じて仰せらるる」と云ければ、郡司驚て、家に返(かへり)て、京のに湯浴(ゆあみ)し、髮洗(あらは)せ、と返〻(かへすがへ)す傅立(かしづきた)て、郡司、妻(め)に、「此れ見よ、京のが爲立(したち)たる樣の美(うるはし)さを」とぞ云ける。然(さ)て、其の夜、衣(きぬ)など着せて奉てけり。
早(はよ)う、此の守(かみ)は、此の京のが本(もと)の夫(をうと)の兵衞(ひやうゑ)の佐(すけ)にて有し人の成たりける也けり。然(さ)れば、此の京のを近く召寄(めしよ)せて見けるに、怪(あやし)く見し樣(やう)に思(おぼ)えければ、抱(いだき)て臥(ふし)たりけるに、極(きはめ)て睦ましかりければ、「己(おのれ)は何(いか)なる者ぞ。怪しく見し樣に思ゆるぞとよ」と云ければ、女、然(さ)も否(え)心不得(こころえ)ざりければ、「己(おのれ)は此の國の人にも非ず。京なむ有(あり)し」なむ許(ばかり)云ければ、守(かみ)、「京の者の來(きたり)て、郡司に被仕(つかはれ)けるにこそと有らめ」など、打思(うちおもひ)て有けるに、女の娥(うるはし)く思(おぼ)えければ、夜〻(よなよな)召(めし)けるに、尙(なほ)怪(あやし)く物哀れに、見し樣(やう)に思(おぼ)えければ、守、女に、「然(さ)ても、京には何也(いかなり)し者ぞ。可然(さるべ)きにや、哀れに糸惜(いとほし)と思へば云ふぞ。不隱(かく)さで云へ」と云ければ、女、否不隱(えかく)さで、「實(まこと)に然〻(しかじか)有(あり)し者也。若し、舊(ふる)き男(をとこ)にて有(あり)し人の故(ゆゑ)などにてもや御(おはし)ますらむと思(おぼ)ゆれば、日來(ひごろ)は申さざりつるに、此(か)く强(あながち)に問はせ給へば申す也」と、有(あり)のまゝに語(かたり)て泣(なき)ければ、守(かみ)、「然(さ)ればこそ、怪(あやし)く思(おもひ)つる者を。我が舊(ふる)き妻にこそ有けれ」と思ふに、奇異(あさまし)くて淚の泛(こぼるる)を然(さ)る氣無(けな)しに持成(もてな)して有る程に、江(え)の浪(なみ)の音(おと)聞えければ、女、此れを聞(きき)て、「此(こ)は何(な)にの音(おと)ぞとよ。怖(おそろ)しや」と云ければ、守、此(かく)なむ云ける。
これぞこのつひにあふみをいとひつゝ
世にはふれどもいけるかひなみ
とて、「我れは、實(まこと)然(さ)には非ずや」と云て泣ければ、女、「然(さ)は此(こ)は我が本(もと)の夫(をうと)也けり」と思けるに、心に否(え)や不堪(たへ)ざりけむ、物も不云(いは)ずして、只(ただ)氷(ひえ)に氷痓(ひえすくみ)ければ、守、「此(こ)は何(いか)に」と云て騷(さはぎ)ける程に、女(をむな)失(うせ)にけり。
此れを思ふに、糸(いと)哀れなる事也。女、「然(さ)にこそ」と思けるに、身の宿世(しくせ)思ひ被遣(やられ)て、恥(はづ)かしさに否不堪(えたへ)で死にけるにこそは。男(をとこ)の心の無かりける也(なり)。其の事を不顯(あらは)さずして、只(ただ)可養育(やういくすべ)かりける事を、とぞ思(おぼ)ゆる。
此の事、女死(しに)て後(のち)の有樣は不知(しら)ず、となむ語り傳へたるとや。
■やぶちゃん注
以下に示す「伊勢物語」第六十二段は圧縮されているが、シチュエーションと隠されたロケーション(近江)の酷似から本話の源泉を共にする異伝と考えられよう。
*
昔、年ごろおとづれざりける女、心かしこくやあらざりけむ、はかなき人の言(こと)につきて、人の國なりける人に使はれて、もと見し人の前に出で來てもの食(く)はせなどしけり。夜さり、「このありつる人たまへ」と、あるじに言ひければ、おこせたりけり。男、「われをば知らずや」とて、
いにしへのにほひはいづら櫻花
こけるからともなりにけるかな
といふを、いと恥づかしと思ひて、いらへもせでゐたるを、「などいらへもせぬ」と言へば、「淚のこぼるるに、目も見えず、物も言はれず」といふ。
これやこのわれにあふみをのがれつつ
年月(としつき)ふれどまさりがほなき
といひて衣(きぬ)ぬぎて取らせけれど、捨てて逃げにけり。いづちいぬらむとも知らず。
*
この「伊勢」の和歌を注しておくと、「いづら」不定代名詞で「どこ」であるが、ここは感動しての「おや、まあ、どうした。」の意をも含ませるものである。「こけるから」は「扱(こ)ける幹(から)」で「花を扱(しご)き落してしまった桜の枝」、女の容色のすっかり衰えたことを指す。「あふみ」夫たる私と「逢ふ身」に「近江」を掛けるから、ここの「近江」はこの元の夫と住まいしていた所であったのであろう。「まさりがほ」は「優り顔」で、他の誰より幸せである、暮らし振りがよい、といった顔つき。本話とは異なり、男のねちねちとした恨み節が不快である。寧ろ、まだ「伊勢」で、この二つ前にある類型話をカップリングさせると、本話の濫觴の風景が見えてくるようにも思われる。以下にその第六十段も示しておく。
*
昔、男ありけり。宮仕へいそがしく心もまめならざりけるほどの家刀自(いへとうじ)、まめに思はむといふ人につきて人の國へいにけり。この男宇佐(うさ)の使(つかひ)にて行(い)きけるに、ある國の祇承(しぞう)の官人(くわんにん)の妻(め)にてなむあるとききて、「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飮まじ」といひければ、かはらとりていだしたりけるに、肴(さかな)なりける橘(たちばな)をとりて、
五月(さつき)待つ花橘の香(か)をかげば
昔の人の袖の香ぞする
といひけるにぞ思ひ出でて、尼になりて山に入りてぞありける。
*
これも少し注しておくと、前に「宮仕へいそがしく」とあることから分かるように、「心もまめならざりける」というのは「家刀自」(妻)に対して夫が多忙を口実に誠実ではなかったことを指している。「宇佐の使」は豊前国(大分県宇佐市)にある宇佐八幡宮へ天皇の即位や国家の大事・天変地異などの際に奉幣をする勅使で、「祇承の官人」(「祇承」は慎み仕えるの意)とはこうした勅使らに供奉して接待役を勤めるところの地方役人を指す。「かはらけとらせよ」「瓦笥(かはらけ)」は素焼きの杯であるが、「かはらけとる」で酒を勧めるの意。「橘」柑子蜜柑は上古より酒の肴とされた。「いだし」ゲストたる勅使は簾中に居る。まだしも本話の方がマシであるのがお分かり戴けよう。
・「中務大輔」中務省の次官(同省長官である「卿(きょう)」に次ぐ)で正五位上相当。天皇補佐及び詔勅宣下・叙位など朝廷に関する職務の全般を担っていた中務省は八省中最も重要な省とされた。
・「兵衞の佐□の□□」「兵衞の佐」兵衛府の次官(同府長官である「督(かみ)」に次ぐ)で従五位上相当。御所警衛・行幸の供奉・京師の巡視などを司った。兵衛府は左兵衛府と右兵衛府の二府があり、左右の近衛府(大内裏の中でも宣陽門・承明門・陰明門・玄輝門の内側の警備を担当し、行幸などの際の護衛や皇族・高官の警護も担当した近衛兵団)と衛門府(大内裏の外郭の中で建春門・建礼門・宜秋門・朔平門より外側で陽明門・殷富門・朱雀門・偉鑒門より内側の警備を担当すること職掌だったが、後には検非違使庁によって奪われ、有名無実化した)と合わせて五衛府を構成した。「の」以下の「□□」は、底本の注によれば、実際には文字が詰めてあるものの欠字があったと推定される部分である。
・「此彼(とかく)構て」「此彼」の二字で「とかく」と読ませる。あれこれと気を配って。妻問婚であったこの当時、婿の衣食住の世話は妻の家で調えるのが常識であった。
・「煩て、日來に成にければ」病いに伏せるようになって、それが永がの患いとなってしまったので、の意。
・「便無く成」父母の死して経済的援助受ける背景を喪失してしまったことを指す。
・「繚(あつかひ)」「繚」はまとう・まつわるの意で、「其(そこ)」(対称の人称代名詞)、夫の身辺周囲、その日常の世話を指す。
・「何でか見苦くても御せむ」以下の夫の台詞の「何かで見棄むずるぞ」、同じ妻の台詞「何かでか、此ては宮仕へはし給はむ」と同じく、反語。
・「吉(よ)からむ樣」あなたが良いと思われるように。あなたがこうしたいと思う通りに。
・「只成りに成り持行けば」ただもう矢継ぎ早に見苦しくなってゆくばかりなので。
・「外也(ほかなり)とも」他所へお出でになったとしても。あなたが他の女性とお暮らしになられたとしても。
・「家も澄て」がらんとして。
・「音信」手紙。
・「出て其れも云はむや」底本の池上氏の脚注には、『(女の方から)表面に出て手紙が来ない不満など言うはずもなく。このあたり解釈に諸説がある』とし、小学館日本古典全集(馬淵和夫他訳注昭和五一(一九七六)年刊)「今昔物語集四」の頭注によれば、『この一句、意・接続ともに不明。あるいは、前後に脱文あるか』とする。
・「長宿直」当時は地方荘園の侍が、京の当該荘園の領主の邸宅に於いて長期間に渡って宿直(とのい:警固役。)の当番を勤めるために上った。
・「嚴氣」美(いつく)し気(げ)。元来は、威厳を持っている・堂々として立派であるの意であったが、容姿・態度が優れている・美しい・心が穏やかで非の打ち所がないの意となった。
・「將下(ゐてくだり)て」「將る」(「将」の原義は「率いる」「従える」である)は「率(ゐ)る」とも書く。
・「切(しきり)に切(しきり)て」前は「頻(しき)りに」で副詞、程度の甚だしいさま、ひどくの意、後の「しきり」は動詞「頻(しき)る」で度重なる・何度も続いて起こるの意。
・「何かでか然る事はせむ」反語。どうしていままでの京での暮らし方を変えることなど出来ましょうや、いえ、出来ませぬ、という申し出への拒絶である。
・「弓など持て、其の夜、其の邊を行ければ」これはこの男が女を怖がらせて、次のステップへと向かうために行った戦略である(私は流れから見て尼の提案によるものと考える)。足音や物音、それに感じた「狗」の「吠」え声と、ホラー効果を否応なく上げて女を恐怖させるのである。弓は自身の護身・魔除け(鳴弦用)のためであろう。
・「喤(ののしり)」原義は小児の泣き立てる声で、そこから怒る・喧(かまびす)しいの意となった。
・「男、此の京の人の許には寄も不付ず成にけり」以下、父郡司の家の婢となっていることから見て、男は京から、この女を連れて近江に戻ったが、自分は正妻の家に戻って、連れて来た彼女は実父である郡司の館に住まわせておいたと推定出来る。
・「新く守成て下給ふ」郡司の上司である国守(国司)の任期は四年(初期は六年)。
・「國擧て騷ぎ合たる事限無し」小学館日本古典全集の頭注には、『新しい国守を迎えることはその地方の人々にとっては政治そのものが新しくなることであり、租税その他のことで期待と不安があった』とある。
・「守(かう)の殿(との)」「かう」は「かみ」の転音で高官のこと。国守の敬称。
・「器量(いかめし)く調へ立(たて)て」盛大な饗応の準備をして。
・「京の」彼女の呼称。「京の者」の謂いであろう。
・「年來(としごろ)」郡司の息子に捨てられて相応の時間が経過していることを示す。
・「異下衆」彼女以外の他の下人。
・「小舍人童(こどねりわらは)」貴人の雑用係の少年。特に近衛の中将・少将(三衛(近衛府・中衛府・外衛府)における三将官制官職の第二位・第三位。平安初期の衛府制改革によって三衛が左右近衛府に整理統合されて以降は左右近衛中将を指す。ともに四等官制の次官に当たる)が召し使った少年を指す。彼女の元夫は、夫であった頃に兵衛の佐であったから、そこから着実に転任・累進したことが分かる。
・「然々の郡司の徒者也」底本の池上氏の脚注には『「従者」が正か』とある。
・「傅立(かしづきた)て」「傅」は音「フ」で、大切に種々の世話をすることを意味する。
・「早う」副詞で、なんと、驚くべきことに。ある事態に初めて気づいたことを示すが、後文に「然も否(え)心不得(こころえ)ざりければ」とあることから分かるように、これに気づくのは本話柄の語り部である点に注意されたい。
・「睦ましかり」近親のように親しく心惹かれる、の意。
・「とよ」格助詞「と」+間投助詞「よ」。文末に用いると詠嘆の意を添える。
・「京なむ有らめ」底本脚注に『「になむ」が正か』とある。
・「なむ許云ければ」底本脚注に『「なむど」または「など」が正か』とある。
・「被仕けるにこそと有らめ」底本脚注に『「と」は衍字か』とあり、小学館日本古典全集の頭注には、衍字かとした後、『あるいは、……というのだろうかぐらいの気持で用いられたものか』と附す。
・「娥(うるはし)く」「娥」(音「ガ」)は単漢字では美しい・器量が良い・見目良いの意。小学館日本古典全集の頭注には、「今昔物語集」では特に麗しい『女の形容』や『香の匂い』『など、女性的な感じを受ける場合に用いられ』ているとある。
・「可然きにや、哀れに糸惜と思へば云ふぞ」底本脚注に、『しかるべきわけ(前世からの因縁など)があるのだろうか、しみじみいとしく思』えばこそかく言うのであるぞ、とある。
・「舊き男にて有し人の故などにてもや御ますらむと思ゆれば」小学館日本古典全集には、『前の夫であった人の縁故の方などでいらっしゃるかと思いましたので。昔の夫と少しも気づかず、また知られないように意識している心情であろうが、数年前に別れた男女がお互いにわからなくなるという筋立てはいささか無理。』『いくら風体は変わっていても、昔の人と気づくのが自然であろう』と注するが、これは寧ろ「いささか」無粋な注と言いたくなる。
・「奇異(あさまし)くて」原義の吃驚するほど意外だの意。後に意味として付帯してくるところの批判的ニュアンスはない、と私は読む。
・「然る氣無しに持成して有る程に」小学館日本古典全集の頭注には、『元の妻が零落したことに対する心の驚きを無理に押えた態度をとっている時に』とある。
・「江」近江。
・「怖しや」小学館日本古典全集の頭注には、『京の相当の身分の妻のだった女にとって、ひなびた地方の海のような荒々しい音は恐ろしかったのである』とある。当時の近江の国府は滋賀県大津市大江神領にあったことが分かっている。ここは琵琶湖の南端瀬田川に掛かる現在の瀬田大橋右岸側から一・二キロメートルしか離れていない。郡司が近江国のどの郡であったかは分からないが、少なくとも琵琶湖の沿岸ではなかったことが知れる。
・「これぞこのつひにあふみをいとひつゝ世にはふれどもいけるかひなみ」「あふみ」は男女が逢瀬をするその二人の「逢ふ身」と「近江」の掛詞で、さらに生きる「甲斐」に琵琶湖の「貝」を掛ける。底本注で池上氏は『これこそ近江の湖の音だよ。これまで逢う身(近江)を避けて過ごしてきたが、あなたと一緒でなければ、生きている甲斐がない』と通釈されておられ、また小学館日本古典全集では、『男が女を前妻と知って、自分が真に愛情を抱いていたことを今確認したと告白し、逢う瀬を喜び、夫であることを名のる歌』と解説している。……しかしこの手放しの言祝ぎの歌こそが、ざわざわとひた寄せる妖しい水界と逢魔が時に感応して、悲しみと恥ずかしさの余り、魂(たま)も消え入らんとしている女のそれを増幅させ、遂にはその命をも奪ってしまうのである……
・「氷痓(ひえすくみ)ければ」「痓」は音「シ」で手足の引き攣ることを言う。小学館日本古典全集では『死後硬直』とするが無粋である。これは重度の痙攣症状、ヒステリー弓を指していると私は読む。
・「男の心の無かりける也」小学館日本古典全集の頭注はここを批判して、『もともと歌を中心に作られた物語であろうから、これを「男の心なさ」で締めくくるのは酷で、編者の文学的感覚の乏しさを語ることになろうか』と評しておられるが、説話集としての型として教訓を附すのが定式化している「今昔物語集」にあって、かく指弾すること自体が寧ろ、私には「酷」と思われる。但し、確かに「男の心の無かりける也。其の事を不顯さずして、只可養育かりける事を、とぞ思ゆる」という二文は本話にあっては聊か瑕疵とは言える。
四
しかしその郡司の息子には、國元には、二三年前にめとつた妻が殘してあつた。さうして親達の手まへもあり、息子は、その京の女をおもてむき婢(はしため)として伴れ戾らなければならなかつた。
「そのうちまた、わたくしは京に上るはずです。」息子は女を宥(なだ)めるやうにして言つた。「その折にはきつと妻として伴れて往きますから、それまで辛抱してゐて下さい。」
女はそんな事情を知ると、胸が裂けるかと思ふほど、泣いて、泣いて、泣き通した。――すべての運命がそこにうち挫かれた。
が、一月たち二月たちしてゐるうちに、――殆ど誰にも氣どられずに婢として仕へてゐるうちに、――かうしてゐる現在の自分がその儘でまるきり自分にも見ず知らずのものでもあるかのやうな、空虛(うつろ)な氣もちのする日々が過ごされた。いままでの不爲合せな來しかたが自分にさへ忘れ去られてしまつてゐるやうな、――さうして、そこには、自分が橫切つてきた境涯だけが、野分(のわき)のあとの、うら枯れた、見どころのない、曠野(あらの)のやうにしらじらと殘つてゐるばかりであつた。「いつそもうかうして婢(はしため)として誰にも知られずに一生を終へたい」――女はいつかさうも考へるやうになつた。
此處に、女は、まつたく不爲合せなものとなつた。
山一つ隔てただけで、こちらは、梢にひびく木がらしの音も京よりは思ひのほかにはげしかつた。夜もすがら、みづうみの上を啼き渡つてゆく雁もまた、女にとつては、夜々をいよいよ寢覺めがちなものとならせた。
それから數年後の、或年の秋、その近江の國にあたらしい國守が赴任して來て、國中が何かとさわぎ立つてゐた。
國内の巡視に出た近江の守の一行が、方方まはつて步いて、その郡司の館のある湖(みづうみ)にちかい村にかかつたときは、ちやうど冬の初で、比良(ひら)の山にはもう雪のすこし見え出した頃だつた。
その日の夕ぐれ、丘の上にあるその館では、守(かみ)は郡司たちを相手にして酒を酌みかはしてゐた。
館のうへには時をり千鳥のよびかふ聲が銳く短くきこえた。――すつかり葉の落ち盡した柿の木の向うには、枯蘆のかなたに、まだほの明るいみづうみの上がひつそりと眺められた。
守(かみ)は、すこし微醺を帶びたまま、郡司が雪深い越(こし)に下つてゐる息子の自慢話などをしてゐるのをききながら、折敷(をしき)や菓子などを運んでくる男女の下衆(げす)たちのなかに、一人の小がらな女に目をとめて、それへぢつと熱心な眼ざしをそそいでゐた。他の婢と同樣に、髮は卷きあげ、衣も粗末なのをまとつてはゐたが、その女は何處やら由緖ありさうに、いかにも哀れげに見えた。その女をはじめて見たときから、守の心はふしぎに動いた。
宴の果てる頃、守は一人の小舍人童(こどねりわらは)を近くに呼ぶと、何かこつそりと耳打ちをした。
その夜遲く、京の女は郡司のもとに招ぜられた。郡司は女に一枚の小袿(こうちぎ)を與へて、髮なども梳いて、よく化粧してくるやうにと言ひつけた。女は何んのことか分からなかつたが、命ぜられたとほりの事をして、再び郡司の前に出ていつた。
郡司はその女の小袿姿を見ると、傍らの妻をかへりみながら、機嫌好さそうに言つた。「さすがは京の女ぢや。化粧させると、見まちがふほど美しうなつた。」
それから女は郡司に客舍の方へ伴れて往かれた。女は漸つと事情が分つて來ても、押し默つて、郡司のあとについてゆきながら、何か或强い力に引きずられて往きでもしてゐるやうな空虛な自分をしか見出せなかつた。
守の前に出されると、ほのぐらい火影(ほかげ)に背を向けた儘、女は顏に袖を押しつけるやうにしてうづくまつた。
「おまへは京だそうだな。」守はそこに小さくなつてゐる女のうしろ姿を氣の毒さうに見やりながら、いたはるやうに問うた。
「……」女はしかし何とも答へなかつた。
さうして女は數年まへのことを思ひ出した。――數年まへには、田舍上りの見ず知らずの男に身をまかせて京を離れなければならなかつた自分が自分でもかはいさうでかはいさうでならなかつた。さうしてそのときは相手の男なんぞはいくらでもさげすめられた。が、こんどと云ふこんどは、その相手がかへつて立派さうなお方であるだけに、さういふ相手のいひなりにならうとしてゐる自分が何だか自分でもさげすまずにはゐられないやうな――さうしていくら相手のお方にさげすまれても爲方のないやうな――無性にさびしい氣もちがするばかりだつた。女にしてみると、かうして見出されるよりは、いままでのやうに誰にも氣づかれずに婢としてはかなく埋もれてゐた方がどんなに益(ま)しか知れなかつた。……
「己はおまへを何處かで見たやうなふしぎな氣がしてならない。」男はもの靜かに言つた。
女は相變らず袖を顏にしたぎり、何んといはれやうとも、懶(ものう)げに顏を振つてゐるばかりだつた。
館のそとには、時をりみづうみの波の音が忍びやかにきこえてゐた。
そのあくる夜も、女は守(かみ)のまへに呼ばれると、いよいよ身の置きどころもないやうに、いかにもかぼそげに、袖を顏にしながら其處にうづくまつてゐた。女は相變らず一ことも物を言はなかつた。
夜もすがら、木がらしめゐた風が裏山をめぐつてゐた。その風がやむと、みづうみの波の音がゆうべよりかずつとはつきりと聞えてきた。をりをり遠くで千鳥らしい聲がそれに交じることもある。守はいたはるやうに女をかきよせながら、そんなさびしい風の音などをきいてゐるうちに、なぜか、ふと自分がまだ若くて兵衞佐だつた頃に夜每に通つてゐた或女のおもかげを鮮かに胸のうちに浮べた。男は急に胸騷ぎがした。
「いや、己の心の迷いだ。」男はその胸の靜まるのを待つてゐた。
突然、男の顏から淚がとめどなくながれて女の髮に傳はつた。女はそれに氣がつくと、いかにも不審に堪へないやうに、小さな顏をはじめて男のはうへ上げた。
男は女とおもはず目を合わせると、急に氣でも狂つたやうに、女を抱きすくめた。「矢張りおまへだつたのか。」
女はそれを聞いたとき、何やらかすかに叫んで、男の腕からのがれようとした。力のかぎりのがれようとした。「己だと云ふことが分かつたか。」男は女をしつかりと抱きしめた儘、聲を顫はせて言つた。
女は衣(きぬ)ずれの音を立てながら、なほも必死にのがれようとした。が、急に何か叫んだきり、男に體を預けてしまつた。
男は慌てて女を抱き起した。しかし、女の手に觸れると、男は一層慌てずにはゐられなかつた。
「しつかりしてゐてくれ。」男は女の背を撫でながら、漸つといま自分に返されたこの女、――この女ほど自分に近しい、これほど貴重(だいじ)なものはゐないのだといふことがはつきりと身にしみて分かつた。――さうしてこの不爲合せな女、前の夫を行きずりの男だと思ひ込んで行きずりの男に身をまかせると同じやうな詮(あき)らめで身をまかせてゐたこの慘めな女、この女こそこの世で自分のめぐりあふことの出來た唯一の爲合せであることをはじめて悟つたのだつた。
しかし女は苦しそうに男に抱かれたまま、一度だけ目を大きく見ひらいて男の顏をいぶかしそうに見つめたぎり、だんだん死顏に變りだしてゐた。……
三
それから半年ばかり立つた。
近江の國から、或郡司(ぐんじ)の息子が宿直のために京に上つて來て、そのをばにあたる尼のもとに泊ることになつたのは、ちやうど秋の末のことだつた。
それから何日かの後、郡司の息子が異樣に目を赫(かが)やかせながら言つた。「きのふの夕方、向うの壞れ殘りの寢殿(しんでん)に焚きものを搜しに往きますと、西の對にちやうど夕日が一ぱいさし込んでゐて、破れた簾(すだれ)ごしにまだ若さうな女のひとが一人、いかにも物思はしげに臥せつてゐるのがくつきりと見えましたので、私はおどろいてその儘歸つて來てしまひましたが、あれはどなたなのですか。」
尼は當惑さうに、しかしもう見つけられてしまつては爲方がないやうに、その女の不爲合せな境涯を話してきかせた。郡司の息子はさも同情に堪へないやうに、最後まで熱心に聞いてゐた。
「そのお方にぜひとも逢はせて下さい。」息子は再び目を異樣に赫やかせながら、田舍者らしい率直さで言つた。「そのお方のはうでもその氣になつて下されば、わたしが國へ歸るとき一緖にお伴れして、もうそのやうなお心細い目には逢はせませんから。」
尼は、それを聞くと、まあこんな自分の甥ごときものがと思ひながら、それでも彼の言ふやうに女も一そそんな氣もちにでもなつた方が行末のためにもなるのではないかと考へもした。
尼はいくぶん躊躇しながらも、何時かその甥の申出を女に傳へることを諾(うべな)はないわけにはいかなかつた。
或野分(のわき)立つた朝、尼はその女のもとに菓子などを持つて來ながら、いつものやうに色の褪めた衣をかついだ女を前にして、何か慰めるやうに、
「あなた樣もどうして此の儘でいつまでも居られませう」と言ひだした。「こんなことはわたくしとしては申し上げ惡いことですけれど、いまわたくしの所に近江からいささか由緣(ゆかり)のありますものの御子息が上京せられて來てをられますが、そのものがあなた樣のお身の上を知つて、ぜひとも國へお伴れしたいと熱心にお言ひになつて居りますけれど、いかがでございませうか、一そそのもののお言葉に從ひましては。此の儘かうして入らつしやいます[やぶちゃん注:ママ。]よりは、少しはましかと存じますが。」
女はそれには何にも返事をしないで、空しい目を上げて、ときをり風に亂れてゐる花薄の上にちぎれちぎれに漂つてゐる雲のたたずまひを何か氣にするやうに眺めやつてゐたが、急に「さうだ、わたくしはもうあの方には逢はれないのだ」とそんなあらぬ思ひを誘はれて、突然そこに俯伏してしまつた。
夜なかなどに、ときをり郡司の息子が弓などを手にして、女の住んでゐる對の屋のあたりを犬などに吠えられながら何時までもさまよふやうになつたのは、そんな事があつてからのことだつた。夜もすがら、木がらしが萩や薄などをさびしい音を立てさせてゐた。どうかすると、ひとしきり時雨の過ぎる音がそれに交じつて聞えたりした。さうでなければ、郡司の息子が、ときどき自分の怖ろしさを紛らせようとでもするのか、あちこちと草の中を步きまはつてゐた。……
そんな夜每に、女は妻戶をしめ切つて、ともし火もつけず、身の置きどころもないかのやうに、色の褪めた衣をかついだまま、奧のはうにぢつとうずくまつてゐた。かくも荒れはてた棲み家では、奧ぶかくなどにぢつとしてゐると、その儘何かの物のけにでも引つ張り込まれていつてしまひさうな氣がされて、女は怯え切り、殆ど寢られずに過ごすことが多いのだつた。
或しぐれた夕方、尼は女のところに來ると、いつものやうに沁々(しみじみ)と話し込んでゐた。
「ほんたうにいつまで昔のままのお氣もちでいらつしやるのでございませう。」尼はことさらに歎息するやうに言つた。「それは今のやうにでもして居られますうちはまだしも、此のわたくしでも若しもの事がございましたら、どうなさるお積りなのですか。しかし、やがてさういふときの來ることは分かつてゐます。」
女は數日まへのことを思ひ出した。――數日まへ、尼にその話をはじめて切り出されたとき、突然はつとして「自分はもうあのお方には逢はれないのだ」と氣づゐたときのいまにも胸の裂けさうな思ひのしたことを思ひ出した。あのときから女の心もちは急に弱くなつた。それまでのすべての氣强さは――畢竟、それはいつかは男に逢へると思つての上での氣强さであつた。――女はもう以前の女ではなかつた。
その晚、尼は郡司の息子をその女のもとへ忍ばせてやつた。
それから夜每に郡司の息子は女のもとへ通ひ出した。
女はもう詮方盡(せんかたつ)きたもののやうに、そんなものにまですべてをまかせるほかなくなつた自分の身が、何だかいとほしくていとほしくてならないやうな、いかにも悔(く)やしい思ひをしながら、その男に逢ひつづけてゐた。
漸く任が果てて、その冬のはじめに近江へ歸らなければならなくなつたときには、郡司の息子はもうすつかり此の女に睦(むつ)んで、どうしてもその儘女を置きざりにして往く氣にはなれずにしまつた。
女はそれを强ひられる儘に、京を離れるのはいかにもつらかつたけれど、しかし自分の餘りにもつたなかつた來しかたに抗(あらが)ふやうな、さうして何か自分の運を試(た)めしてみるやうな心もちにもなりながら、その郡司の息子について近江に下つていつた。
二
男が默つてふいに立ち去つてから、それでも女はなほ男を心待ちにしながら、幾人かの召使ひを相手に、さびしい、便(たよ)りない暮らしを續けてゐた。が、それきり男からは絕えて消息さへもなかつた。女にとつては、それは自分から望んだこととはいへ、たまらなく不安だつた。待つことの苦しみ、――何物も、それを紛(まぎ)らせてはくれなかつた。それでも女はまだしもそのなかに一種の滿足を見いだし得た。――だが、いつまで立つても、男のかへつて來るあてのないことが分かつて來ると、わづかに殘つてゐた召使ひも誰からともなく暇をとり出し、みな散り散りに立ち去つて往つた。
一年ばかりのあとには、女のもとにはもう幼い童が一人しか殘つてゐなかつた。その間に、寢殿(しんでん)は跡方もなくなり、庭の奧に植わつてゐた古い松の木もいつか伐り取られ、草ばかり生い茂つて、いつのまにか葎(むぐら)のからみついた門などはもう開(ひ)らかなくなつてゐた。さうして築土のくづれがいよいよひどくなり、ときをり何かの花などを手にした裸か足の童がいまは其處から勝手に出はひりしてゐる樣子だつた。
なかば傾いた西の對(たい)の端に、わづかに雨露をしのぎながら、女はそれでもぢつと何物かを待ち續けてゐた。
最後まで殘つてゐた幼い童もとうとう何處かに去つてしまつた跡には、もう一方の崩れ殘りの東の對の一角に、この頃田舍から上つてきた年老ゐた尼が一人、ほかに往くところもないらしく、棲(す)みついてゐた。それは昔この屋形(やかた)で使はれてゐた召使ひの緣者だつた。さうしてその尼は此の女をかはいさうに思つて、ときどき餘所から貰つてくる菓子や食物などを持つて來てくれた。しかしこの頃はもう女にはその日のことにも事を缺くことが多くなり出してゐた。――それでもなほ女はそこを離れずに、何物かを待ち續けてゐるのを止めなかつた。
「あの方さへお爲合せになつてゐて下されば、わたくしは此の儘朽(く)ちてもいい。」
さう思ふことの出來た女は、かならずしも、まだ不爲合せではなかつた。
男にとつては、その一二年の月日はまたたく間に過ぎた。
しかしその間、男は一日も前の妻のことを忘れたことはなかつた。が、何かと宮仕が忙しかつた上、あらたに通ひ出してゐた伊豫(いよ)の守(かみ)の女の家で、懇ろに世話をせられてゐると、心のまめやかな男だつただけ、彼等を裏切らないためにも、男はつとめて前の妻のところからは遠ざかり、胸のうちでは氣にかけながらも、音信さへ絕やしてゐた。
最初のうちは、それでも男は幾たびか、人目に立たないやうにわざと日の暮を選んで、前の女のゐる西の京の方へ往きかけた。が、朝夕通ひなれた小路に近づいて來ると、急に何物かに阻(こば)まれるやうな心もちで、男はその儘引つ返して來た。男はこんなことで、心にもなく女とも別れなければならなくなる運命を考へた。
しかし、その儘女にも逢はずに月日が立つにつれ、もう忘れていてもいいはずのその女のことを何かのはずみに思ひ出すと、その女の、袖を顏にした、さびしい、俯伏した姿が前にも增して鮮明に胸に浮んで來てならなかつた。さうしてとうとう[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]しまひには、その女のさうしてゐるときの息づかひや、やさしい衣(きぬ)ずれの音までがまざまざと蘇るやうになり出した。
その春も末にちかい、或日の暮れがた、男はとうとう女戀しさにゐてもたつてもゐられなくなつたやうに、思ひ切つて西の京の方へ出かけて往つた。
其處いらは小路の兩側の、築土も崩れがちで、蓬(よもぎ)のはびこつた、人の住まつてゐない破れ家の多いやうなところだつた。漸く以前通ひなれた女の家のあたりまで來て見ると、倒れかかつた門には葎(むぐら)の若葉がしげり、藪には山吹らしいものがしどろに咲きみだれてゐた。
「こんなに荒れてゐるやうでは、もう誰もここにはゐまい。」男は心のなかでさう考へた。
おそらくその女も他の男に見いだされて餘所に引きとられてしまつたのだらうと詮(あきら)めると、その女戀しさを一層(ひとしほ)切に感じ出しながら、その儘では何か立ち去りがたいやうに、男はなほあたりを步いてゐた。すると、築土のくづれが、一ところ、童でもふみあけたのか、人の通れるほどになつてゐた。男は何の氣なしに其處からはひつて見ると、もとは何本もあつた大きな松の木は大てい伐り倒されて、いまは草ばかりが生ひ茂つてゐた。古池のまはりには、一めんに山吹が咲きみだれてゐ、そのずつと向うの半ば傾いた西の對(たい)の上にちやうど夕月のかかつてゐるのが、男にははじめてそれと認められた。その對(たい)の屋(や)の方は眞つ暗で、人氣はないらしかつた。それでも男はそちらに向つて女の名を呼んで見た。勿論、なんの返事もなかつた。さうなると男は女戀しさをいよいよ切に感じ出し、袖にかかる蜘(くも)の網(い)を拂ひながら、山吹の茂みのなかを搔き分けていつた。男はもう一度空しく女の名を呼んだ。男はそのとき思ひがけず反對の側にある對の屋からかすかな灯の洩れてゐるのを見つけた。男は胸を刺されるやうな思ひをしながら、そちらの方へさらに草を搔き分けて往つて、最後に女の名を呼んだ。返事のないのは前と變りはなかつた。男は草の中から其處には一人の尼かなんぞゐるらしいけはひを確かめると、頭を垂れた儘、もと來た道をあとへ引つ返した。もう昔の女には逢はれないのだと詮め切ると、それまで男の胸を苦しいほど充たしてゐた女戀しさは、突然、いひ知れず昔なつかしいやうな、殆ど快いもの思ひに變りだした。……
なかば傾ゐた西の對の、破れかかつた妻戶(つまど)のかげに、その夕べも、女は晝間から空にほのかにかかつてゐた纖(ほそ)い月をぼんやり眺めてゐるうちに、いつか暗(やみ)にまぎれながら殆どあるかないかに臥せつてゐた。
そのうちに女は不意といぶかしさうに身を起した。何處やらで自分の名が呼ばれたやうな氣がした。女の心はすこしも驚かされなかつた。それはこれまでも幾たびか空耳にきいた男の聲だつた。さうしてそのときもそれは自分の心の迷ひだとおもつた。が、それからしばらくその儘ぢつと身を起してゐると、こんどは空耳とは信ぜられないほどはつきりと同じ聲がした。女は急に手足が竦(すく)むやうに覺えた。さうして女は殆どわれを忘れて、いそいで自分の小さな體を色の褪めた蘇芳(すはう)の衣のなかに隱したのが漸つとのことだつた。女には自分が見るかげもなく瘦せさらばへて、あさましいやうな姿になつてゐるのがそのとき初めて氣がついたやうに見えた。たとひ氣がついてゐたにせよ、そのときまでは殆ど氣にもならなかつた、自分のさういふみじめな姿が、そんなになつてまだ自分の待つてゐた男に見られることが急に空怖ろしくなつたのだつた。さうして女は何も返事をしようとはせず、ただもう息をつめてゐることしか出來なくなつてゐる自分の運命を、われながらせつなく思ふばかりだつた。それからまだしばらく池のほとりで草の中を人の步きまはつてゐる物音が聞えてゐた。最後に男の聲がしたときは、もう女のゐる對の屋からは遠のいて、向ひの尼のゐる對の屋の方へ近づき出してゐるらしかつた。それからもう何らの物音もしなくなつた。
すべては失はれてしまつたのだ。男は其處にゐた。其處にゐたことはたしかだ。それを女にたしかめでもするやうに、男の步み去つた山吹の茂みの上には、まだ蜘の網(い)が破れたままいくすぢか垂れさがつて夕月に光つて見えた。女はその儘荒(あば)らな板敷のうへにいつまでも泣き伏してゐた。……
一日
尾形龜之助
君は何か用が出來て來なかつたのか
俺は一日中待つてゐた
そして
夕方になつたが
それでも 暗くなつても來るかも知れないと思つて待つてゐた
待つてゐても
とうとう君は來なかつた
君と一緒に話しながら食はふと思つた葡萄や梨は
妻と二人で君のことを話しながら食べてしまつた
一整天
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
你是不是发生了某个事情而没来的?
我一整天等着你的到来……
一直等着
到了黄昏时刻
我 因为觉得天黑了以后你还有可能来所以接着等你的……
虽然等了
你却终于没有来的……
我本来想跟你一起吃葡萄和梨子——
可惜,我和妻子一边谈你的一边吃这些,最后吃掉全部……
*
矢口七十七/摄
個人のサイトへの転送ソフトFFFTPが接続しなくなった。ファイアーウォールの設定を変え、パソコンの復元も試みたが、だめ。途方に暮れた――
【2015年5月17日追記】これはニフティ側のトラブルであることが判明した。それにしても未だ復旧せず、遅!!!
美くしい街
尾形龜之助
私は美しい少女と街をゆく
ぴつたりと寄りそつてゐる少女のかすかな息と
私の靴のつまさきと
少しばかりの乾いた砂と
すつかり私にたよつてしまつてゐる少女の微笑
私は
街に醉ふ美しい少女の手の温くみを感じて心ひそかに
―― 熱心に
少女に愛を求めてゐる
×
私はいつもの街の美しい看板を思ふ
そして 遠く街に憧れて空を見てゐる
[注:「美くしい」「温くみ」はママ。]
华丽城市
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
我和一个美丽少女在街上一起走下去
贴近我的那少女,她的轻微呼吸节奏——
我鞋脚尖——
一撮干沙——
已完全依靠我的那少女,她的微笑——
我感觉
陶醉在华丽街头的少女——她那只手的温暖——热诚地
期待着少女……她的
爱
×
我心中想起经常看到的美丽广告牌
于是 从远方憧憬着华丽城市而眺望天空
*
矢口七十七/摄
カテゴリ『神田玄泉「日東魚譜」』を始動する。
「日東魚譜」全八巻は本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもので、魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)。但し、幾つかの版や写本があって内容も若干異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである(以上は主に上野益三「日本動物学史」平凡社一九八七年刊に基づく『東京大学農学部創立125周年記念農学部図書館展示企画 農学部図書館所蔵資料から見る「農学教育の流れ」』の谷内透氏のこちらの解説に拠ったが、後で見るように、それよりも序についてみるともっと古い版がある模様)。多様な写本類については「Blog版『MANAしんぶん』」の「日東魚譜について」が詳しい。
著者神田玄泉(生没年不詳)は江戸の町医。出身地不詳。玄仙とも。他の著作として「本草考」「霊枢経註」「痘疹口訣」などの医書がある(事蹟は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。
本文底本は国立国会図書館デジタルコレクションの請求番号「特7-197」の版の画像を視認した。割注は〔 〕同ポイントで示した。原文白文を一行字数を原画と合わせて電子化した後に(漢字の判読で迷ったものは正字を採った)、訓点を参考に私がかなり自由に書き下したものを示した。原典のカタカナの読みはそのままカタカナで附し、それ以外の平仮名のそれは独自に、しかも注を出来る限り制限する目的を主に、歴史的仮名遣で私が恣意的に附したものである。読み易さを考え、適宜改行した。その後に簡単な同定と注を附した(他の電子テクストで何度も附したものはもはやくどくどしいのでなるべく省略した。悪しからず)。
附図画像については当該写本のそれ(彩色)を用いた(同画像は国立国会図書館デジタルコレクションの保護期間満了の自由使用許可のものである)。それ以外に、ネットで視認出来る「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の「日東魚譜」(享保四(一七一四)年序の写本であるが刊行は嘉永七(一八五四)年刊のもの)を一部でリンクさせた。同データベースは学術目的のためのリンクは申請の必要がない(因みに私はアカデミズムの人間ではないものの、私のサイトが「学術的」でないとはさらさら思っていないことを附言しておく)。
まずは例によって「巻三」の「海蟲部」にある僕のフリークのホヤから始めよう。
老金鼠〔順和名抄〕
釋名保屋〔同上〕源順和
名抄作老金鼠訓保
屋也愚按此邦呼寄
生之者名保屋此物
附着于海岸如石蜐
牡蠣故名之保屋也
又作之於老金鼠此
殻有瘣※黄赤色恰
[やぶちゃん字注:「※」=「疒」+「畾」。]
似金鼠是以意會者
也全非沙噀類肉如
蚶腹中如蛤蜊腸肉
味如蚶氣似砂噀也
是故爲金鼠之老者乎凡其殻謂甲蟲而非
甲蟲又謂蛤類而非蛤類只如水牛皮生堅
硬而有瘣※如小角無口目肉形色頗似蚶
肉色而無肉帶與殻相附處有血已肉中有
腸茶褐色而如蛤蜊腸無佗腸臟生者作鱠
美味也又作脯者如薄革其色白而處々帶
紅色乾者味淡薄此者獨有奥之仙臺爾未
聞佗州有之也氣味甘温無毒主治益血補
氣止自汗盜汗
○やぶちゃんの書き下し文
老海鼠〔順(したがふ)「和名抄」。〕
釋名保屋(ホヤ)〔同上。〕。源の順「和名抄」、『老金鼠』に作り、保屋(ホヤ)と訓ず。愚、按ずるに、此の邦(くに)に寄生の者を呼びて、保屋と名づく。此の物、海岸に附着して石蜐(かめのて)・牡蠣(かき)のごとし。故に之を保屋と名づくなり。又、之を老金鼠と作ることは、此の殻、瘣※(いぼ)有りて黄赤色、恰も金鼠(きんこ)に似たり、是れを以つて意會(いくわい)する者なり。全く沙噀(なまこ)の類に非ず。肉は蚶(あかがひ)のごとく、腹中、蛤蜊(がふり)の腸(わた)のごとし。肉の味、蚶のごとく、氣は砂噀に似たり。是れ故に金鼠の老する者と爲すか。凡そ其の殻、甲蟲と謂ひて甲蟲に非ず。又、蛤類と謂ひて蛤類に非ず。只だ、水牛の皮の生(なま)なるが、堅硬にして瘣※(いぼ)有るがごとく、小角、口・目、無く、肉、形・色、頗る蚶の肉の色に似て、肉の帶、無く、殻と相ひ附く處(ところ)、血、有るのみ。肉の中、腸、有り、茶褐色にして蛤蜊(ノビガイ)の腸(ワタ)のごとくして佗(た)の腸臟、無し。生(なま)なる者の鱠(なます)に作(な)して美味なり。又、脯(ひもの)と作(な)すは、薄革(うすかは)のごとく、其の色白くして、處々に紅色を帶ぶ。乾(ひもの)は味、淡薄。此の者の獨り、奥の仙臺に有るのみ。未だ、佗州、之れ有ることを聞かざるなり。
[やぶちゃん字注:「※」=「疒」+「畾」。]
氣味 甘温。無毒。
主治 血を益し、氣を補ひ、自汗・盜汗を止む。
[やぶちゃん注:脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱マボヤ目マボヤ亜目マボヤ(ピウラ)科マボヤ
Halocynthia roretzi の成体個体と被嚢を除いた筋帯部の図(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクション「日東魚譜」の保護期間満了画像)。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」(冒頭注参照)の「日東魚譜」(こちらは巻六)の「老金鼠」の載る頁をリンクさせておく(底本版は項目名が前頁にあるが、その画像は省略した。後日、当該頁の「海燕」(タコノマクラ)を示した際にリンクさせる)。しかし乍ら按ずるに、この二つの彩色図を見ると、「肉」(筋帯部)はどうみてもマボヤのものではなく、赤みが強くてマボヤ(ピウラ)科アカボヤ Halocynthia aurantium にしか見えないのであるが、如何?
「老金鼠」ママ。「金鼠」は後注参照。普通は老海鼠で、こう記すものは珍しい。正直言うと、後掲する金海鼠(キンコ。実際にマナマコよりもずんぐりして形状はホヤにより近いとは言える)に似ているという記載から思わず、神田玄泉がうっかりこう記してしまった可能性を私は捨てきれない。
「愚」玄泉の自称卑辞。
「寄生の者を呼びて、保屋と名づく」半寄生性の灌木で他の樹木の枝の上に生育する双子葉植物綱ビャクダン目ビャクダン科ヤドリギViscum
album の古名を事実、「ほよ」と呼び、万葉集に用例がある。興味深い語源説ではある。「保屋」という漢字は確かにそうしたニュアンスを感じさせはする。但し、これは必ずしも一般的な語源説ではないので注意されたい。
「恰も金鼠に似たり」「金鼠」はナマコの仲間である樹手目キンコ科キンコ
Cucumaria frondosa var. japonica を指す。玄泉はこのホヤの記載の直後から始まる「海蟲柔魚部」という変わった分類項の中に、「沙噀」(ナマコ類)を挙げ、その後に「金海鼠」(キンコ)を掲げている(近日中に電子化する)。
「全く沙噀の類に非ず」実に明解に生物学的に正しい発言をしている点に着目すべきである。
「意會する」相同の性質に合わせて同音の命名をしたという謂いであろう。
「甲蟲」現行のエビ・カニの類を示す甲殻類の外骨格のような体制を持つ生物を指している。
「肉の帶」脂肪や筋がないことを言っているようである。但し、よく観察するならば、食用にする筋帯にはプランクトン捕食用のスクリーンの部分に細かな網目を観察出来るのであるが、と少し玄泉先生にツッコミたくはなる。
「ノビガイ」どう見ても「ノ」としか読めない。当初、「ツビガイ」かとも思ったが、「ツビ」は食用の巻貝を示す「螺」の古語であって、「蛤」には相応しくない。
「佗」他。
「自汗・盜汗」「自汗」は覚醒時の多汗の症状を、「盜汗」は寝汗の症状の呼称。]
[やぶちゃん注:先に語について注記する。
・「アカハラ」両生綱有尾目イモリ亜目イモリ科イモリ属アカハライモリ
Cynops pyrrhogaster 。
・「散兵線」は敵弾による損害を避けるため、散兵(各兵士を適当な間隔をとって散開させること)で形作る戦闘線。
・「線香遊び」「花まはし」「花わたり」という遊びは、何となく推定されるイメージはあるものの、はっきりした内容が分からない。ご存じの方は是非、お教え願いたい。
・「チシンコの葉」不詳。識者の御教授を乞う。
・「矯激」言動などが並外れて激しいこと。
・「萬やむを得なかつた」「萬」は「バン」と音読みする呼応の副詞で、通常は下に打消しの語を伴い、どうしても・なんとしても・万一(~ない)の意である。
なお、本テクストは昨日、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、680000アクセスを突破した記念として公開した。【2015年5月13日公開 藪野直史】]
花の下の井戸
このあたりの村々は、やうやく旱魃(かんばつ)の危險におびえはじめた。百姓たちは靑息吐息である。夏至(げし)が來ても雨の氣配はなく、空梅雨(からつゆ)模樣の炎天下で、田植ゑを經つたばかりの水田はひからびはて、諸所に龜裂が入つて、その乾いた土の上で、稻の苗がたよりなげに熱風に吹かれてゐた。畑の作物もまるで焙(あぶ)られたやうにひわれる始末である。人間も鷄も牛も馬も犬も猫も、口をあけ舌を出して喘(あへ)ぎ、液體を渇望した。天を望んでみても、つらなつた山々のいただきにはぎらつく入道雲が立ちならぴ、濃く塗りたくられた靑空には一點の水氣もなかつた。村を流れる川はあるが、水位が低くなつて川底が露呈し、魚たちも方々のたまりに分離されてしまつてゐる。この水をどうやつて田へ引いたらよいのか、百姓たちは方法を知らない。池も沼も涸れてゐた。わづかに川べりの水田だけが潤つてゐたが、それもほんの一部にすぎず、百姓たちの顏色は日とともに險惡に曇つて行くばかり、いらいらしながら泣き面をかかへて、むなしく枯渇(こかつ)して行く自分の田を眺めてゐるにすぎなかつた。無論、雨乞ひはしばしば行はれた。鎭守社の境内に集り、しめなはを張り、火をたき、太鼓をたたいて、神に祈りをささげた。加持祈禱(かぢきたう)と占ひの得意な神主が、狂氣のやうに神樂(かぐら)を舞ひ、三つ叉鋒(ほこ)をしごいて雨を呼んだ。けれどもどこからも雲のあらはれる氣配はなく、雷鳴もおこつて來なかつた。雨乞ひは連日つづけられた。夜もあかあかと篝火がたかれ、未明にいたるまで祈願の行事がおこなはれた。しかし、さらに效驗はなかつた。
すると、たれがいひだしたともなく、これは河童のたたりだといふことになつた。そして、それを疑ふ者がなくなり、早く河童に詫びをいひ、水をさづけてもらはなければこの村は死滅のほかはないと村議が一決した。まづ村民からひどく叱りつけられたのは一人の若者である。彼が河童と角力(すまふ)をとつて投げとばしたときには、村人は大いに彼の勇氣と力とを賞揚し、ほとんど英雄あつかひしたのに、今はもはや村全體の敵として若者を遇した。鎭守社の神主も神意をうかがつた結果、旱魃の原因がやはり河童の怒りにもとづいてゐると證言したので、庄屋が先登になつて、河童へ謝罪することになつた。この庄屋は短軀醜面で、途方もない將棋狂、村政はそつちのけで、毎日、朝から晩まで將棋をさしてゐる男であつたが、やはり代々の庄屋で權威だけは保つてゐた。下賤の河童などへ詫びをいつたり、頭を下げて賴みごとをしたりするのはいやでたまらなかつたが、村全體のためとあれば仕方がなかつた。殊に日ごろは將棋ばかりさしてゐることを村民も大目に見てくれてゐるし、これを斷れば將棋にも苦情が出て來さうなので、涙をのんで自尊心をおさへた。村民たちが勢揃ひした。河童の棲んでゐる井戸は村はづれの小高い丘の、藤の木の下にある。藤はいままつ盛りで、旱魃をよそごとのやうに、むらさき色の花びらを豐かにたらし、その花の姿を井戸の水にうつして、美しく微風にゆらめいてゐた。
河童が井戸から出て、村の子供たちと遊びたはむれてゐたことは、長い間知られなかつた。河童はただ無性に子供が好きでたまらなかつただけであるし、子供と遊んでゐれば樂しかつたので、子供の守りをしてやつてゐるなどと恩に着せるわけもなかつたのである。子供たちも河童がおとなしくて親切で、いろいろな面白い遊戲を知つてゐるので、河童と遊ぶのが愉快でたまらなかつた。子供たらは河童がどこから來てどこに歸つて行くのか知らない。藤の花の下の井戸に河童がゐることは、親たちから聞かされてはゐたけれども、附近には川も池もあるし、井戸の河童だとは思はなかつた。親たちは河童を化けものだといひ、ひどい目にあはされるから近づくな、川や池に泳ぎに行くときは尻子玉(しりこだま)を拔かれぬ用心をせよなどと、害のことばかりいひ聞かせたが、子供たちは河童をほんたうに自分たらのよい友だちだと考へてゐた。第一身體も三尺足らずだから、それだけでも親しみがわく。細い眼、とがつた嘴、背の甲羅、水かきがある花車(きやしや)な手足、それに、頭の皿、さういふものは恐しいよりも瓢逸(へういつ)で、そんな河童がやることはなんでも、滑稽に見えて、子供たちの腹をかかへさせた。逆立ちや宙がへりもうまく、子供たちと繩飛びをしたり、角力をとつたり、ときにはクイズ遊びをして時間の經つのがわからないほどであつた。笹舟を編み、胡瓜や茄子を使つて、馬、牛、豚、猪などの動物をこしらへる方法も河童から習つた。線香遊びもした。ただ、子供たちは河童の身體から發散する魚のやうな生ぐさいにほひにちよつと辟易(へきえき)したけれども、遊びの面白さと帳消しになるほどではなかつた。子供たちは河童が頭の皿の水をすこぶる大切にしてゐることに氣づいた。皿の水こそ河童の生命の根源であることについて、子供たらに深い洞察(どうさつ)もあるはずはなかつたが、逆立したり宙がへりしたりしたあと、うつかり皿の水をこぼした河童が、急にげんなりと力をうしなつて靑ざめるのをしばしば見た。そんなとき、河童はかならず大あわてでそこらの水を手にすくひ、頭の皿に入れるのだつた。すると、たらまち顏は紅潮し、元氣を快復して、さらに子供たちと新しい遊戲をはじめる。河童は子供たちの機嫌をそこなはないやうに氣を使つてゐた。角力をとつてもたいてい負けてやがるが、ときには勝つても、その勝ち方は子供の身體と自尊心とを傷つけないやうに注意した。河童はいつまでも子供たちと遊んでゐたかつた。それは井戸の中の倦怠をまぎらせる意味もあつたが、子供たちの純眞な心に接觸することによつて、自分をたしかめるよすがともすることが出來るからである。子供たちは鏡なのであつた。子供たちと遊んでゐれば、彼は自分の無能と愚鈍とが安まる氣持がし、むづかしい歷史とか、傳統とか、權威とかいふものを忘れてゐることが出來るのだつた。
彼は自分が水の豐富な美しい井戸を獨占して居られることについて、懷疑をいだいたことはない。それには歷史や傳統があり、權威とすら結びついてゐるらしいのだが、彼はそんなことは知らない。父から聞かされた記憶はあるが、父が死ぬと忘れてしまつた。そして、ただ傳説の掟に身をゆだねて、痴呆のやうに平和を樂しんでゐるだけだ。傳説の掟はきびしく、この井戸を侵略したり、纂奪(さんだつ)をたくらんだりする仲間もゐない。ひとりゐる兄は五里ほど離れた山裾のきたない沼にゐるが、兄の權利でこの井戸を乘とらうといふ考へもない。戰爭はきらひから、狡猾(かうくわつ)な腕力者が攻めて來たら、河童はたたかはずして逃げだしたかも知れないが、不心得な野心家はゐなかつた。
さらにいへば、傳統と權威とを守つてゐるのは、河童だけではない。この地方は特に退屈な人間たちが住んでゐるが、そのため平和でもあつた。無能で將棋狂の庄屋も由緒(ゆゐしよ)ある家柄の末であるため、村民はこれをあがめてなにかのときには相談相手にする。庄屋も鹿爪らしい顏つきで意見を述べると、つまらないことをいつてゐてももつともらしく聞える。自分でどうしたらよいかわからなくなると、相手に水をぶつかけたり、馬鹿野郎とどなつたりするが、それも一つの見識のやうに見える。一度中風でたふれた彼は失言することが癖のやうになつたけれども、それもどうにか取り卷きが辻褄をあはせて、庄屋を失脚させるやうなことはしない。かういふ封建性は河童にも幸した。藤の下の井戸の水を汲むな――この掟がいつ出來たか知らないが、村人はちやんと守つてゐる。水を汲めば災があるとみんなが信じきつてゐて、河童井戸に近づかなかつた。この井戸の水は深い地の底からこんこんと湧き出てゐて、鯉や鮒がたくさんゐた。山椒魚やアカハラもゐる。蟹や蛙や源五郎なども安全で住み心地のよい場所にしてゐた。河童はだれとも爭ふことがきらひなので、魚たちとも仲よくし、味のいい水を飮むだけで生きるには充分なので、別に榮養物を必要としなかつた。かういふ風にして、長い歳月が流れたのである。
しかし、この歷史に一つの變化が起つた。河童は例によつて子供たちと遊び呆けてゐたのであるが、或るとき、これに大人が介在したのである。大人といつてもまだ二十をすぎたばかりの若者であつたが、河童の存在を知つて、これを捕へようと考へたのであつた。別に理由はない。傳統を破壞しようとか、歷史を否定しようとか、大人の世界に叛逆しようとかいふ積極的な考へもなく、ただ河童に興味を持つたのである。痴呆的なアプレはいつの時代にもゐるものだから、若者は自分の行爲によつてどんな結果が生じるか、そんなことは一切念頭にはなかつた。強ひて理由をあげるならば、娘の子に封する示威(じゐ)のためであつたらう。彼の惚れてゐる娘に、まあ強いわねといつて感歎させたかつたのだ。若者は傳説を輕蔑し、武士さへも河童の復讐を受けたといふ話を嘲笑した。昔、劍豪をもつて聞えた一人の武士が河童退治を思ひたち、藤の下の井戸に行つて、上から弓の失を射こんだ。弦をはなれた數本の矢は次々にゼット機のやうな音を立てて、井戸底の水につきささつたが、そんなことで河童がやられるはずはなかつた。大きな緋鯉(ひごひ)が一匹、鰓(えら)を貫かれただけである。大體、河童自身、武士が自分を殺しに來たのだとは氣づかなかつた。そんな仕打らをうける覺えもないので、妙なことをするもんだと怪訝(けげん)の面持で見てゐただけだ。武士は意氣揚々として井戸端から引きあげて行つたが、あまり得意になつて胸をそらせてゐたせゐか、足もとが狂ひ、崖緣から落ちた。そんなに高いところでもなかつたのに、頭蓋骨にひびが入つた。死にはしなかつたが、腦ををかされて一生廢人同樣になつた。人々は河童の復讐の恐しさに戰慄したのである。これ以後、さらに河童が恐れられ、井戸に近づく者はまつたくなかつた。河童は苦笑したが、辯解する氣もおこらず、かへつてその誤解を好都合だと思つた。ところが、アプレの若者が、傲岸(がうがん)さによつてこの眞實を看破し、河童など大した神通力を持つてゐるものではないと豪語して、それを證明してみせようとこころみたのであつた。
それには一つの動機があつた。若者の弟が河童から怪我をさせられたのである。或る日、額に大きなコブをこしらへて、泣きながら歸つて來た弟を見て、若者はするどく追及した。子供ははじめは口を喊(とざ)して河童のことを語らなかつた。毎日樂しく遊んでくれる河童は、子供たちになに一つ無理もいはず、氣に入らぬこともしなかつたが、一つだけ、絶對に河童と遊んでゐることをだれにも告げてくれるなと約束させてゐた。これまで子供たちはよくそれを守つたので、長い間、愉快なときをすごすことが出來たわけである。兄の詰問にあつて、弟は困惑した。額のコブは河童と別れて歸る途中、轉んで出來たものだつたが、兄は生ぐさいほひがするといひだし、執拗(しつえう)で威丈高であつた。やはり子供である。おどかされたりなだめられたり、菓子や小使錢をあたへられたりすると、このこと、他のだれにもいはないでねと約束させて、河童のことをしやべつてしまつた。若者は會心の笑みをもらした。
次の日、若者は弟のあとを尾行して行つた。村道を行く子供たちは、まるでエレキに吸ひよせられる釘のやうに人數がふえ、壇那寺の裏にある杉林のなかへ吸ひこまれて行つた。そこは窪地になつてゐて、村のどこからも見えない位置にあつた。野薔薇の花が色とりどりに咲きみだれ、ミソサザイやツグミがしきりに鳴いてゐた。若者の弟が線香に火をつけて一本の杉の根元に立てると、子供たちは手拍子を打ら聲を揃へて、河童さん、河童さん、出ておいで、と唱ふやうに數囘はやしたてた。すると、今まで見えてゐた線香の赤い火がふつと見えなくなり、魚のやうな生ぐさい風がすうと吹いて來た。河童の姿があらはれた。深い灌木林に頑丈な身體をひそめてゐた若者は、その滑稽な姿を見てあやふくふきだすところであつた。同時に輕侮の思ひもわき、かういふたわいもない一匹の河童ごときに、村中がおそれをののいてゐることがなんと馬鹿らしくなり、この迷妄(めいまう)をとりのぞくことが若き世代に課せられた使命のやうな氣がして來たのである。若者は勇氣と功名心にあふれて機會を待ちかまへた。彼は腕力に自信があり、どんなにしたつてこんなちつぽけな河童に負けるはずはないと安堵した。
河童は子供たちと遊びはじめた。逆だち、宙がへり、繩とび、綱ひき、線香遊び、花まはし、花わたり、など、次次におこなはれるプログラムに子供たちは狂喜した。不覺にも河童は樂しさに醉ひしれてゐて、曲者の存在などまつたく氣づかなかつた、若者は怒りに燃えはじめてゐた。河童がはじめは子供たちを手玉にとつてよろこばせ、油斷させておいてから全部殺して食べてしまふ魂膽であることは明瞭だ。その證據には、河童はつねに子供たらの顏や手足に氣を配り、どれがおいしいだらうか、どこから先に食べようかと舌なめづりしてゐるのであつた。若者はあせりはじめた。そして、角力がはじまつて、自分の弟が轉がきれるのを見ると、もう我慢しきれなくなつて、野薔薇の茂みからをどりだした。
河童はおどろいた。子供たちもおどろいた。しかし、若者はうむをいはず河童の腕をとり、子供相手の角力に勝つてもいばるな、さあ一番おれとやらう、とさういひながら、お前たちも見とれといふ風に、子供たちを眺めまはした。颯爽としてゐて大角力の關脇くらゐには見えた。河童は拒んだ。角力をとる氣もなかつたし、これまでの團欒(だんらん)が破られたことと、子供たちのだれかが約束を破つたことの悲しさとで、うらひしがれてゐた。若者は腰拔け奴と叫びざま、もう取つ組んで來て、はげしく河苦を投げたふした。河童は頭の皿が充分にしみてゐれば、馬や牛を川へ引きこむほどの力を發揮出來る。いまも皿の水は乾いてはゐなかつたので、本氣になればこんな若者一人なんでもなかつたのだが、精神的に氣力が落ちてゐたので、やすやすと負けた。背の甲羅の何故かにひびが入つたやうである。若者は圖に乘つてさらに河童をとりおさへようとした。ところが、さつきから戸まどひした顏で立ちつくしてゐた子供たらが、やがてなにをなすべきかを悟つたやうに、いつせいに若者にむらがりついて來て、手取り足とりこれを引つくりかへさうとかかつた。おどろいた若者は、おいおい敵をまちがへるな、敵は河童ぢやぞと叫んだが、子供たちはなほも若者に武者ぶりつき、みんなわんわん泣きながら、蹴つたり嚙みついたりするのをやめなかつた。その間にいつか河童は逃げまり、杉の横に立てられた線香の火が冷えてゐた。二度と河童は子供たちのところにあらはれなくなつた。そして、旱魃がはじまつたのである。
ふさふさとたれた紫いろの藤の花が、微風につれて豪華にゆれる。それはみごとな眺めであつたが、今はたれ一人その美しさに關心をいだく者はなかつた。藤の下の井戸をとりまいた數百人の村民たちは、庄屋を先登に、神主、若者の順でならび、井戸の河童にむかつてしきりに謝罪をした。河童を投げたふして一時は英雄氣取りであつた若者も、旱魃がはじまるにいたつて、はじめて河童の復讐に恐れをなし、自然をも支配するその神通力に戰慄した。もともと頭腦が單純であるから轉向も早い。もつとも河童を輕んじてゐた若者がもつとも恐怖と悔恨の虜になつて、もつとも熱狂的に謝罪をし、怒りをといて村へ水をさづけて下さるようにと懇願した。しかし犧牲にまでなる氣はなかつたから、自分をどうにでもしてくれとはいはなかつた。惚れた娘は一度は所期のとほり、強いわねとつぶらな瞳をいつぱいにひつぱりあけて感歎をしたが、いまはどう考へてゐるであらうか。若者は娘から愛想づかしされることをなにより恐れ、群衆のどこかにゐる女のことが氣になつて仕方がなかつた。加持祈禱と占ひの名人である神主は山伏樣のいでたちをして御幣(ごへい)をふりまはし、後頭部からしぼりだされるやうな不思議な聲を發して呪文(じゆもん)をとなへつづけた。村民たちも口々に雨を降らして欲しいと懇請した。井戸底の河童の注意を喚起するために、太鼓をたたき、笛を吹き、鉦を鳴らした。庄屋はしかし退屈な祈禱の間に將棋の手を考へてゐた。四角な井戸の緣が將棋盤に見える。王將、金將、銀將、飛車、角などが部署に就き、兩軍の歩兵が散兵線をしいて散らばつてゐた。庄屋は頭のなかで、四八銀、八五飛、六六角、二三桂、五八玉などと駒をうごかし、ああこの玉に五八はいけない、五九玉と寄つた方がよいなどとしきりに作戰に熱中した。彼は正直にいつて雨など降らなくともちつとも困らなかつたし、旱魃も直接の影響はないので、村民とはかけはなれた氣持でゐたのだが、爲政者といふものは曲りなりにも村民の意向を體してゐるふりをしてゐなくてはならないので、ともかく井戸端へ來ただけにすぎない。旱魃がつづけば米作がなくなり、年貢がおさまらなくなるけれども、それはまだ先の話なのですこしも切實感はなかつた。現在の庄屋にとつては、五八玉とあがる五九玉と寄るかの方がおほど大切な問題だ。どちらがよいか正確な判断が出來ず、庄屋は頭がうづいた。藤の花は相かはらず美しく風にゆれ、周圍の奇怪などよめきにおどろいたやうに、ひとひらふたひらが散つて井戸の底ふかくへ落ちて行つた。
井戸底では、河童が放心した顏つきで、瘦せた膝をいだいたまま、途方に暮れてゐた。若者から投げられたときの傷がうづく。すぐにチシンコの葉をこねてこしらへた傷藥をつけたので、化膿したり擴大したりする心配はないけれども、甲羅の鱗二三枚が落ちかかるほどひどい打撃を受けたので、しばらく靜養を必要とした。人間の聲を聞きたくなかつた。それなのに、人間どもは大勢集つて來て、井戸の周圍でわいわいとがなりたてる。なんのためかよくわからないが、きつと自分を祈り殺すために攻めよせて來たものにちがひないと河童は考へた。子供たちと遊んだことがどうして惡かつたのか。人間たちはただ自分が河童であるといふだけで、敵として抹殺しようとしてゐるのだ。若者がその選手として選ばれた。彼が自分を殺しそこなつたので、村中が總動員でこの井戸を包圍したのだ。河童は腹苦しく悲しく情なかつた。河童は子供たちに感謝してゐた。あのとき、杉林のなかで子供たちが若者をさへぎつてくれなかつたら、殺されてゐたかも知れなかつた。はじめから對等ならば負けはしないが、だまし打ちのうへに氣合が拔けてゐたから不覺をとつた。命が助かつたのは子供たらのおかげだ。井戸底にゐたのでは外部の樣子はよくわからないが、友だちの河童を攻め殺さうとしてゐる大人ども見て、子供たらはなにを考へてゐるであらうか。なにをしてゐるであらうか。もう一度河童を救ふために敢然と大人とたたかはないであらうか。この大人の大軍に對してはさすがに齒が立たないのであらうか。河童は一人一人子供たちの顏を思ひ浮かべ、樂しかつた日々を囘想して、もはや二度とその幸福はかへつて來ないことに涙した。しかし彼は人間を憎み復讐のために人間とたたかふ氣持はなかつた。もともと河童の分際で人間の世界に出て行つたのがまちがひであつたと反省し、罪を内部へ求めることによつて孤獨を深めた。子供と遊んだことを楯(たて)にとつて、自分を祈り殺さうとしてゐる人間たちの殘忍さを恐しく感じたが、そんな人間の祈禱ぐらゐで、自分の生命が左右されることは絶對にないことは確信してゐたので、むしろ人間のひとりよがりが滑稽だつた。また、いかにももつともらしい神主の祈禱ぶりも腹の底を割れば處世術のためのインチキにすぎないから、どんな呪文にも所作にもあらたかな效驗などあらはれるはずはない。河童はよくそれを知つてゐた。ただ、かううるさくてはやりきれない。そつと一人にしておいてもらひたいのである。しかし、外部の騷擾(さうぜう)はけたたましさを増すばかり、日がかたむき、たそがれて來て、あたりが暗くなつても、星が出ても、月が出ても、一向にやむ樣子がなかつた。井戸のなかに棲んでゐる者たち、山椒魚、鯉、鮒、蟹、源五郎、アカハラなどもあきれた顏つきで、ひそひそとさきやきあつてゐたが、河童が浮かぬ面持で不機嫌きうにしてゐるので、だれも話しかける者はなかつた。井戸の水面には散り落ちて來る藤の花びらの數が増し、そこへ小さい宇宙が出來て、遊星がただよつてゐるかのやうに、花びらは動くともなく動いてゐた。
數日が過ぎた。
旱魃はいよいよひどくなり、井戸の中にはさかんに胡爪や茄子やたうもろこしが投げこまれた。人間たちは抽象的な呪文や歎願では貧欲な河童をうごかすことはむづかしいと考へて、買收戰術に出たのであつた。村のインテリである神主が民俗學を研究して、河童の好物を調べたのである。日照りのためそれらの野菜も出來がわるかつたけれども、相手が河童であるし、少々の腐れや蟲食ひがあつても多量に投與すれば、河童の歡心を買ふことが出來ると考へたにちがひない。しかし、河童はおどろいた。いよいよ攻擊が本格的になり、人間どもが爆彈を投下しはじめたと思つたからである。井戸はみるみる胡瓜と茄子とたうもろこしとで埋められた。恐怖にかられた河童は水底深くもぐつてゐたが、爆彈は炸裂(さくれつ)する樣子もなく、ただ水面を掩つて、天の光をさへぎつたにすぎなかつた。鯉や鮒や山椒魚がそれをつついてゐる。しかし、彼等にとつても御馳走ではなく、人間どものおせつかいや錯覺に舌打ちして、早くかういふ愚劣な騷ぎがとりやめになることを願はない者はなかつた。河童にも幾多の種類と血統があり、胡瓜や茄子を好む一族もあるであらう。特に南方の種族はそれらをたいへん愛好するらしい。しかし、この井戸の河童はただ水だけで充分なので、かかる御馳走の押し賣りは有難迷惑であつた。人間どもの智慧があさはかなのは、河童を恐れながらも河童を輕蔑し、河童の特殊性や嗜好(しかう)に對する研究が不充分のためにちがひない。河童は汚物によつて井戸がけがされることを歎きながらも、人間たらの行爲をとどめる術を知らなかつた。また、愚鈍な河童は人間たちの目的が河童を斬り殺すことにあると思つてゐたのに、食べ物をほりこんだりする意味が飮みこめず、この矛盾を解決出來ないで、次第にノイローゼ氣味になつて來た。
或る日、井戸の口から子供の屍骸が落ちて來た。やはり子供たらは河童に逢ひたくてたまらず、大人たちの祈禱の間、すきを見ては井戸に近づかうとしてゐたのであつた。そして、一人の子供が井桁(ゐげた)から下をのぞいたのだが、あやまつて落ちたのである。哀れな子供はその拍子に岩ではげしく頭を打ち、水面に到着したときには死んでゐた。河童はおどろいた。人間もおどろいた。河童の方は人間がいよいよ矯激(けうげき)さを發揮して、子供を贄(いけにえ)にしたのだと思ひ、人間の方は殘忍で貪婪(たんらん)な河童が胡瓜や茄子などでは滿足せず、子供を引きこんだと信じたのである。さすがに人間たちは動搖した。村論は二つに分れた。保守派の方はいますこし祈願をつづけるべきだといひ、革新派はただ河童を増長させるだけにすぎないから、この犧牲を最後にして打ちきつた方がよいと主張した。ところが、その議論はまだ亂鬪にいたらないうちに新しい結論を生んだ。入道雲がギラギラ光りながら立ちならんでゐる山嶽の方角に、突然遠雷のとどろきが聞えて來たからである。人々がいつせいに顏をあげ耳をすましてゐると、その雷鳴は次第に大きくなり、靑空の一角に黑雲が湧きおこつて走るやうに村の上空にひろがつて來た。ばらばらと雨が落ちて來た。村民たらは狂喜の喊聲(かんせい)をあげた。しかし、それは夕立にすぎなくて、ひとしきりそこらを濡らした後、雲は雷とともに消えて行き、さらにはげしい炎熱と太陽の直射とが地上を灼(や)いた。ちよつと黑味を帶びた田の土が紙をめくるやうに白つぽく乾き、龜裂のためかたむいた稻の苗も一瞬にしてかさかさとなつた。村人の顏は失望に曇つた。無論、この夕立が河童となんの關係もない偶然であつたことはいふまでもない。しかし、ひとつの動議が出された。神主は希望にあふれた面持をして大演説をはじめた。河童の魂膽がいまや明らかになつた。子供一人を得たためとにかく雨を降らせたが、それは思はせぶりである。もつと雨を降らせてやるから、もつと子供をよこせといふ謎にちがひない。死滅寸前にある村を救ふためには人身御供(ひとみごくう)が必要だ。河童は自分と遊んでゐた子供の贄を欲しがつてゐる。いまは河童の願望どほりにするほか村を復活せしめる方法はない。この提案に庄屋も贊成した。彼はやはりさつきから頭のなかでは將棋の手ばかり考へてゐたが、神主の動議に贊成演説をして、この案は王手飛車のやうな妙手で、河童を負かすにはこの一手しかない、自分も率先して伜を人身御供にささげたいと結んだ。庄屋は、自分が將棋ばかり指してゐる間に、女房が間男をしてこしらへた子供をもてあましてゐたので、これ幸と贄として提出したのであるが、この血肉をも犧牲にする庄屋の崇高な精神は村人を感動させずには置かなかつた。投票がおこなはれた。民主主義といふのは多數決のことだと思ひこんでゐる人たちばかりなので、選ばれた五人の子供たちはのがれることが出來なかつた。そのなかには庄屋の不義の子とともに、河童を投げたふした若者の弟もゐた。子供たちは泣き叫んだ。河童には逢ひたいけれども、井戸の中に投げこまれるのは怖(こは)かつた。しかし大人たちは決議のとほり、次々に子供たちを井戸の中に落しこんだ。長い圓筒形の井戸の内側に悲しい叫び聲がこだまし、そのこだまは井戸の上の藤の花をゆるがして、たくさんの花びらを散らせた。
河童は忍耐の限度をうしなつた。人間たちの奇怪な行動がこのむざんさに發展するにおよんで、やうやく井戸をすてる決心がついたのである。歷史と傳統と權威とによつて、永世の棲家(すみか)と定められてはゐるのだが、こんなにも荒されては、到底これ以上住むに耐へられなかつた。可愛いい子供たちには逢ひたくてたまらなかつたが、屍骸と遊ぶことは出來ない。絶望した河童は井戸の底から飛びだした。その拍子にまた多くの藤の花を散らしたが、河童の姿を見てざわめく人間たらには眼もくれず、一散に入道雲の方角にむかつて走り去つた。
五人の子供が投げこまれた後も、雨の降るきざしはなかつた。靑空と白雲と太陽とは永遠の裝置のやうに變化を見せようとはせず、村人たちの期待は裏切られた。しかし、加持祈禱と占ひの名人である神主によつて、新しい解決法がとられたのである。御幣を打ちふつて不思議な呪文をとなへてゐた神主は、霹靂(へきれき)は井戸のなかにあると宣言した。さつき河童が退散して行つたとき、自分は彼の言葉を聞いた。河童は旱魃の田を救ふためにこの井戸水を使用してもよいといつた。この深い井戸の水は數日の雨量に匹敵してゐるから、天の雨を待つ必要はない。われわれは河童の義俠心に感謝しなくてはならない。この神主の言葉に村民たちはどよめきたつた。庄屋は立ちあがつて、ただちに井戸の水を田へ移せと命令した。短軀醜面の指揮官は一向勇しく見えなかつたけれども、その金切聲は威嚴に滿ちてゐた。絶動員で灌漑作業がはじまつた。井戸から汲みあげられる水はどんどん田へ引きこまれ、白く乾いてゐた土は黑くしめり、やがて水の下に沈んだ。稻の苗も活きかへつた。神主のいつたとほり、井戸水は豐富で無盡藏の感があつた。みるみる村の田には水がそそぎこまれ、百姓たらは活氣づいてよろこびの歌をうたひだした。田とともに人間も生色をとりもどした。
井戸の緣には泣きながら母親たらがたたずんでゐた。村人たちは人身御供はすつかり河童から食べられてしまつたと信じてゐたけれども、六人ともそのままだつた。遺骸は引きあげられて手あつく葬られた。神主はきつと尻手玉が披かれてゐるにちがひないといつたが、河童はどこにも手をつけてゐる痕跡はなかつた。
埃(ほこり)の舞ひあがる炎熱の街道を、河童は喘ぎ喘ぎ歩いてゐた。もう若者から投げられたときの傷は醫えたと思つてゐたのに、歩きつづけてゐるうらにまた痛みだし、全身にそのうづきが傳はつた。背の甲羅は外れさうになつてぎすぎすと鳴り、頭の皿の水ははげしく蒸發して氣力が衰へた。しかし附近には水を補給出來る川も沼も井戸もなかつた。見わたすかぎりすべてが乾ききり、ただ陽炎(かげろう)がえんえんと燃えてゐるばかりである。花の下の井戸を追放されては行くところといへば兄のところしかない。深い森のなかのきたない泥沼で、淸澄な水に住みなれた身には快適とはいひがたいが、萬やむを得なかつた。久しぶりになつかしい兄に逢ふよろこびも手つだつて、河童は道を急いでゐた。兄へなにもかも話さうと息ふ。きつと兄も人間の仕打らについて怒るだらう。たしか兄も前になにか人間といざこざをおこして、手痛い目にあはされた經驗があるはずだ。人間と接觸して得になつたためしがない。人間の相手になるなといふのはきびしい傳説の掟になつてゐる。子供ならいいだらうと思つたのが不覺であつた。河童は早く山の沼にたどりつきたかつた。しかし皿の水の乾燥とともに疲隴困憊(こんぱい)の極に達し、あと一里はどのところに來て、もう一歩も進むことが出來なくなつた。腹も減つたし、河童は路傍の石に腰をおろして吐息をついた。瘦せこけた膝を抱いてあたりを見ました。水のにほひは相當遠くからでも鼻にかひいて來るのであるが、どこにも水氣のある氣配はなかつた。きびしい山中である。ここでのたれ死にするのかと情なかつた。どうやら日の暮れに近く、深い杉林は暗くなつて、どこかで梟(ふくろう)が鳴いてゐた。天をあふぐと、うす靑い黄昏の空に爪あとのやうな細い月が浮いてゐる。星もかがやきを増しはじめた。
河童は耳をすました。眼をかがやかした。たしかに足音だ。兄が水を持つて迎へに來てくれたのではあるまいか。河童はさつきから氣分が惡くなつて嘔氣(はきけ)をもよほし、耳鳴りまでもしはじめたので、死期が遠くないことを悟つた。けれどもいま水を持つて兄が迎へに來てくれれば充分助かる。河童は眼をこらして足音の方角を見た。すでに聽覺も麻痺してゐたのか、足音は沼とは反對の方からであつた。一人の年老いた樵夫(きこり)があらはれた。河童にひとつの思案が湧いた。足もとに生えてゐる蕗(ふき)の大きな葉を一枚もぐと、それに指の爪で手紙を書いた。いま沼に近いところまで來てへたばつてゐるから、すぐに水を持つて、迎へに來て下さい。兄への傳言である。樵夫が近づいて來ると呼びとめた。樵夫はちよつとおどろいた顏つきをしたが、へとへとになつてゐる河童の樣子を見て哀れがり、河童の依賴を引きうけた。河童はこの蕗の葉を沼のなかに投げこんで下さればいいのだといひ、頭を下げて拜む恰好をした。ふだんならうつかり頭は下げられないのだが、もう水分がほとんど涸渇してゐるので、水が流れる心配はない。樵夫は承知し、その蕗の手紙を持つて沼の方への道へ去つて行つた。日が落ちて山は暗くなつた。樵夫が鼻唄をうたひながら山道を進んで行くと、前方から一人の僧侶がやつて來た。やあ、和尚さん、今晩は、と樵夫は挨拶した。和尚はにこにこして、今お歸りかのといつたが、樵夫の持つてゐる蕗の葉に眼をとめて、妙なものを持つてゐるがそれはなんぢやねと訊(き)いた。へい、いまあそこで河童からことづかつた手紙です。その河童への手紙をどうするんぢや。沼にほりこんでくれと賴まれました。さうかい、それはをかしな賴まれごとをしたもんぢやが、あの沼にも河童が居る。なにかの連絡ぢやらう。したが、ちよつとその河童の郵便をわしに見せてみなきれ。和尚は蕗の葉をうけとり、丸い表面に爪でのたくつてある字を見た。アブストラクト模樣のやうだが、無論、和尚には讀めなかつた。しかし、神主とか坊主とかいふものはインテリで物識りといふことになつて居り、まつたくわからないでは沽券(こけん)にかかはる。また實際に和尚は民俗學の知識があり、諸國の河童の生活や言動についても多くの薀蓄(うんちく)があつた。そこで、聲をひそめものものしい樣子になつて樵夫に耳打ちした。あんたはたいへんな手紙をことづかつた。手紙には、これを持つて行く男は紫尻で、たいそうおいしい尻子玉の所有者だから、すぐに沼に引きこんでおいてくれ、自分もあとから行つて御馳走になる、と書いてあるんぢや。こんな例は前にもあつた。すんでのところで河童の餌食になるところであつたが、わしに逢つたのが佛のみちびきぢや。こんな手紙破つてすてなはれ。樵夫は仰天してすぐに蕗の葉をずたずたとちぎりすて、河童のたくらみの恐しさに今さら膽を冷した。そして、さらに草鞋(わらぢ)の下で手紙をふみにじると、道を變へ、沼を避けて家路についた。和尚は人助けしたことに滿悦し、佛の慈悲の廣大無邊に感謝しつつ、珠數をつまぐり、念佛をとなへながら、足どり輕く山をくだつて行つた。
藤の花の下の井戸の水は汲みつくされた。無盡藏のやうに見えたけれどもさうではなかつた。村の水田は生きかへったが、井戸は涸れた。藤はおしやれな花で、下に水鏡の出來る水がないと花を開かないといはれてゐる。それかあらぬか、水のなくなつた井戸の上で、その年から藤はまつたく花を咲かせなくなつた。
いま旅人はこの井戸のほとりに三つの碑を見ることが出來る。一つは將棋をさしながら死んだといふ庄屋の墓で、將棋盤の形に刻んだ四角な石の上に、駒の形の石がのせてあり、四角院金銀桂香居士の戒名が彫られてある。一つは雨乞ひの犧牲となつた六人の子供の供養塔。最後の一つは、義俠心に富んだ河童の頌德(しようとく)碑で、えらい儒者が選文したといふ碑文には、最大級の讚辭がつらねられてある。しかし、これらの碑は特に藤棚の下に建てられたといふけれども、藤はいつ枯れたのか見ることが出來ず、ただ古びはてた井戸の桁に、河童の爪痕らしいものがかすかに殘つてゐるにすぎない。
先程、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、680000アクセスを突破した。これより記念テクストにとりかかる。何故かしらん、今日は既に400超えで特異点だ――
犬の影が私の心に寫つてゐる
尾形龜之助
明るいけれども 暮れ方のやうなもののただよつてゐる一本のたての路
――
柳などが細々とうなだれて 遠くの空は蒼ざめたがらすのやうにさびしく
白い犬が一匹立ちすくんでゐる
おゝ これは砂糖のかたまりがぬるま湯の中でとけるやうに涙ぐましい
×
私は 雲の多い月夜の空をあはれなさけび聲を
あげて通る犬の群の影を見たことがある
[心朽窩主人注:最終連全体の字配は詩集「色ガラスの街」のそれを再現した(実際には三字下げで前の二連とは有意にポイント落ちであるが、ブログやSNSでは上手く表示できないので同ポイントとした。中文訳の改行は中国語の文字列として不自然にならない箇所で改行した。また、一行目の「たて」は原詩では傍点「ヽ」が附されてあるが、ブログやSNSでは表示が困難なため、ブログでは下線に、SNSでは【 】にした。但し、この傍点は平仮名表記の読み辛さを補填するために尾形が附したものと考えられるので、中文訳では無視してある。]
狗的影子映在我心中
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
很明亮可是 飘着一丝薄暮那样的气氛的一条直路 ——
柳树细枝垂头丧气 遥远的天空好像苍白的玻璃一样地凄凉
白色的一条狗呆立不动
啊! 这情景令人心酸,仿佛方块糖在微温水里溶化似的……
×
我 有一次看过发出令人怜悯的尖叫声的
狗群在挂月多云的天空上横穿过去的情景
*
矢口七十七/摄
石蜐 本草介水ニノセタリ又龜脚ト云和名カメノテト云
筑紫ニテシイト云殻トモニ煮テ肉ヲ可食貝ノ類色紫
ナリ長一寸四五分猶大ナルモアリ半ヨリ上ハ龜脚ノ皮
ノ如ク半ヨリ下ハ爪ノ如クウラ表各二三片相合テサキ
ハ尖ル海岸ニ生シ垂レテ不移動果ノ木ニ付ルカ如シホ
ヤト訓スルハアヤマレリ椎ノ實ノタレタルニモ似タリ故ニシイト云
○やぶちゃんの書き下し文
石蜐(カメノテ) 「本草」、介類にのせたり。又、龜脚と云ふ。和名、「カメノテ」と云ふ。筑紫にて「シイ」と云ふ。殻ともに煮て、肉を食ふべし。貝に類。色、紫なり。長さ一寸四・五分、猶ほ大なるもあり。半ばより上は龜の脚の皮のごとく、半ばより下は爪のごとく、うら表、各々二・三片、相ひ合して、さきは尖る。海岸に生じ、垂れて移り動かず。果(くわ)の木に付けるがごとし。「ホヤ」と訓ずるは、あやまれり。椎の實のたれたるにも似たり。故に、「シイ」と云ふ。
[やぶちゃん注:節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下(フジツボ)綱下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ
Capitulum mitella 。私は伊豆下田で数度食した。旨い。カメノテ食を伝え聞いていたイタリアのナポリと佐渡島で探してみたが、残念ながらお目にかかれていない。
「石蜐」(カメノテ)は左ルビ。「石蜐」は音「せきこふ(せきこう)」または「せきけふ(せききょう)」と読む。
『「本草」、介類にのせたり』「本草綱目」では「介之二」に入っている。寺島良安は「和漢三才図会 介貝部 四十七」の「石蜐」で(私の電子テクストより当該部分を引用)、
*
「本綱」に『石蜐、東南海中に生ず。石上の蚌蛤の屬。形、龜脚のごとく、亦、爪有り。状、殻、蟹の螯(はさみ)のごとし。其の色、紫にて、食ふべし。長さ八、九寸の者有り。春雨を得れば、則ち節に應じて花を生ず。』と。
*
と引用して、正しくカメノテに同定している。
「一寸四・五分」四・三~四・五ミリメートル。
「半ばより上は龜の脚の皮のごとく、半ばより下は爪のごとく」益軒は鱗状の鱗片で覆われていて概ね潮間帯の岩礁部の割れ目に附着する柄部を「上」、頭と捉えており、殻板の覆われた現在我々が頭状部と呼称している部分を「下」と表現しているので注意。磯で観察した際、益軒と言うように海水面に向って生えるように固着している個体を見ることが多く、寧ろ、亀の手として比喩した場合、手先相当部分を「下」と表現しても存外おかしくない。
「爪のごとく、うら表、各々二・三片、相ひ合して、さきは尖る」実際には頭状部を構成する殻板はもっと多く、ウィキの「カメノテ」によれば、『頭状部は殻板と呼ばれる大小の硬い殻が左右相称に並ぶ。このうちの先端側の4対は大きさはそれぞれに違うが先端がとがった三角で、その外側にはより小さいものが環状に』十八~二十八個並ぶ。『主要な殻は特に突出したものが3対あり、その中央よりのものが最大の長さを持つ。その前後の殻は幅の広いものと狭いものがあるため、最大のものは中央より偏って存在する。この部分に蔓脚のほとんどが収まるが、これは構造上は腹部に当たるので、幅広い殻の方向が前方に当たる。これらの殻を、前方から楯板・背板・峰板と言い、さらに楯板より前により小さな嘴板など、さらにいくつかの目立つ殻がある』とある。ウィキを認めぬアカデミズム礼讃者のために、平成七(一九九五)年保育社刊の西村三郎編著「日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」の「カメノテ」の記載を示しておくと、黄褐色で、体は頭状部と柄部に区分され、全体が石灰質殻板に覆われている。体長は一般に三~四センチメートル、大きいものは七センチメートルに達する。頭状部は八枚の長く伸びた三角形の(峰板・嘴板及び対を成す楯板・背板・側板)と、その基部にある二十を超す付随殻と呼ばれる殻板から成る。柄部は円筒形で、石灰質の柄鱗で覆われる。本州以南の潮間帯の岩礁に棲息し、主に岩の割れ目や隙間に群生する、とある。
『「ホヤ」と訓ずるは、あやまれり』この誤認に就いて私は既に『博物学古記録翻刻訳注 ■13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載』及び『海産生物古記録集■4 後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載』(孰れも「本草綱目」の「石蜐」をホヤのことではないかという誤った推定同定を行っている)に於いて詳細な誤認識の考証を行っているので参照されたい。]
無題
尾形龜之助
枯草は赤くかれて
上はくろずんでいた
俺は心細いさむさを感じてゐた
夕方は地べたが空の方へ上つてゆくのだ
暗くなつて燈がともれば
俺のこころにも細々とした燈がともり
やみの中にめ入つてゆく
なまぬるい酒を口にふくんで
眼をつぶる
ああ
何處かしら遠いところで
俺のこころは温ためられてゐる
[注:「くろずんでいた」「温ためられて」はママ。]
无题
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
枯草为红铜色
上部发黑
我感觉凄凉的寒冷
薄暮时刻地面就往上爬上去的
天黑了就点街灯
我心中也会点小小的灯
而它埋没在漆黑里
嘴里含些微温的酒
闭着眼睛……
啊!
在远处
我的心确实被温暖着……
*
矢口七十七/摄
曇天
尾形龜之助
遠くの停車場では
靑いシルクハツトを被った人達でいつぱいだ
晴れてはゐてもそのために
どこかしらごみごみしく
無口な人達ではあるがさはがしく
うす暗い停車場は
いつそう暗い
美くしい人達は
顏を見合わせてゐるらしい
[注:「美くしい」はママ。]
阴天
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
那远方的火车站里
戴蓝色大礼帽的人都满了
因此,虽然天晴
却总觉得杂乱无章
虽然都沉默寡言却嘈杂
微暗的火车站
更加昏暗
好像潇洒的人们
互相看着对方的脸呢……
*
矢口七十七/摄
* *
[心朽窩主人注:中文訳では「大礼帽」に“Silkhat”のルビを附したいのであるが、ブログやSNSではその表示が上手く出来ないので今回は見合わせた。]
空き巣にやられていた(月何度か姪夫婦が風通しに訪れて呉れているのであるが、先月はたまたま行けなかった)。
家中の引き出しをオープン(マージャン・パイのケースや御守り袋に至るまで)した泥棒は、何の獲物もなく――盗まれたものはなかった。もともと整理をしてあって金目のものは全くないのであった――去って行ったのであったが、侵入箇所に設置されたありものを組んだ台や、その如何にも整然配されてあることなどが、奇妙にも何か哀れを誘った。
鑑識が来てライトを照らしてゲソ痕を捜し、指紋採取も親しく実見、妻は照合のために指紋と掌紋をばっちり採られた。ナンバー・プレート(シール)を張って、妻が指を指して写真を撮る。ふと見れば、指紋採取用の印肉には「○○メイト」なんどという商標登録の名がついていたりする。
鑑識や一緒にいた姪夫婦の若い旦那と一緒に進入経路を推理すると、これはもう相棒の米沢になった気分で、妻のだけで僕は僕の指紋を採って呉れないのを秘かに不満に思ったほどである。
真別処
旅人はものなめげなり沙羅落花
沙羅双樹ぬかづくにあらず花拾ふ
夏行秘苑泉のこゑに許されて
沙羅落花傷を無視してその白視(み)る
沙羅双樹茂蔭(しげかげ)肩身容れるほど
夏行秘苑僧の生身(いきみ)のねむたげに
「脚下照顧」かなぶんぶんが裏がへり
一燭の饒舌夏行の僧の眼に
夏行秘苑指しびる清水魚生きて
[やぶちゃん注:「真別処」「しんべつしよ(しんべっしょ)」と読む。円通律寺のこと。高野山金剛峯寺奥の院一の橋手前の高野山蓮花谷の南六百メートルの山中にある真言宗の僧侶を目指す者の修行寺院で、現在も厳格な規律を守って原則、女人禁制、一般人は通常は立入禁止である。この寺院は弘法大師の甥で天台宗の智証大師が修行した跡とされ、東大寺再建で有名な俊乗坊重源上人が荒廃したこの地に専修往生院を建立したが、後に再び荒廃を極め、江戸幕府第二代将軍徳川秀忠の側近山口修理亮重政が登山して出家し、智証・重源の旧跡を慕って堂を再興、密教と律宗の兼学道場となった。現在は高野山真言宗の修行寺院であるが、律宗を兼学した当時の名残りとして寺号に「律」の字がそのまま残っている。山門の前は現在、薄暗い杉林になっているが、重源が活躍した時代は一帯に念仏聖が無数の庵を構えていたと伝えられる(以上は和歌山県観光連盟公式サイト内の「観音巡礼の面影を遺す石畳道」に拠った)。女人禁制と書いたが、尼僧が受戒を受ける際と、旧暦四月八日の釈迦の誕生を祝う花祭りの際には一般公開されて女性も立ち入ることが出来、この時は先に注した通り、多佳子は、この昭和三二(一九五七)年八月十五日に三星山彦(当時、高野山在住であったと思われる『ホトトギス』の同人)の案内で、特別に円通寺を参観出来たのであった。
「ものなめげなり」「なめげなり」は「無礼気なり」などと書く形動動詞。「無礼だ」「失礼だ」「不作法だ」の意の形容詞「なめし」の語幹に、如何にもそのような感じに見えるの意を添える接尾語「げ」のついたもの。無礼なさま、無作法に見えるさまをいう。
「沙羅双樹」「沙羅」は「さら」若しくは「しやら(しゃら)」と読み、ツバキ目ツバキ科ナツツバキ
Stewartia
pseudocamelli の別名である。本邦には自生しない仏教の聖樹フタバガキ科の娑羅樹(さらのき アオイ目フタバガキ科
Shorea 属サラソウジュ Shorea
robusta )に擬せられた命名といわれ、実際に各地の寺院にこのナツツバキが「沙羅双樹」と称して植えられていることが多い。花期は六月~七月初旬で、花の大きさは直径五センチメートル程度で五弁で白く、雄しべの花糸が黄色い。朝に開花し、夕方には落花する一日花である(ここは主にウィキの「ナツツバキ」及び「サラソウジュ」に拠った)。
「夏行」「げぎやう(げぎょう」と読む。狭義には夏安居(げあんご)のことを言う。元来はインドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにゃ:寺院)の内に籠って座禅修学することを言った。本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。安居の開始は結夏(けつげ)といい、終了は解夏(げげ)というが、解夏の日は多くの供養が行われて僧侶は満腹するまで食べることが出来る。雨安居(うあんご)・夏安居(げあんご)ともいう(平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした)。多佳子の参拝は八月十五日であるから、この「夏行」とは狭義の夏安居の時期ではなく、夏安居に相当する暑い夏の静寂に満ちた真別処円通律寺のそれを詠じたもの。
「秘苑」女人禁制の円通律寺の幽邃な庭園をかく言ったものであろう。
「脚下照顧」「きやくかせうこ(きゃっかしょうこ)」と読む禅語。「脚下」は足元の意から転じて本来の自分・自分自身の意、「照顧」は反省してよくよく考える、また、よくよく見るの意。「己れ自身をよくよく見つめよ」という意で、他に向かって悟りを追い求めることなく、まずは自信の本性をよくよく見定めよ、という戒めの語である。転じて、他に向かって理屈を言う前に、まず自分の足元を見て自分のことをよくよく反省せよ、足元に気をつけよという一般の故事成句となったが、ここは無論、原義である。「照顧脚下」とも言う。
個人的には、
夏行秘苑僧の生身のねむたげに