『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 報國寺
●報國寺
報國寺は功臣山(こうしんざん)建忠報國寺と號す。杉本の南向にあり。關東の諸山なり。開山は佛乘禪師天岸慧廣。源尊氏の祖父伊豫守家時の建立なり。家時の木像あり。本尊は釋迦。文殊。普賢。迦葉。阿難。迦葉は宅間法眼か作なり。宅間の迦葉とて名高し。此邊を宅間ケ谷と云なり。宅間か舊居歟。開山塔を休耕菴といふ〔相摸風土記に云當時畫工宅間左近將監爲行と云者居住の地にして此名ありと云へり〕
足利家時墓 後山老松の樹根に方石あり。之を斥て云ふ。
[やぶちゃん注:臨済宗建長寺派。開創は幕府滅亡の建武元(一三三四)年と伝えるが、足利家時は文保元(一三一七)年(或いはそれ以前。彼の死因については切腹自害とされ得宗時宗への殉死説などはっきりしない)に没したともされ、寺所蔵の「報告寺記」に上杉重兼(宅間宅間上杉家の祖で上杉氏初代重房の頃より足利家とは姻戚関係にあった家系)を開基とする旨の記載があることから、現在では南北朝期に足利家と関係の深かった上杉重兼上が開いたと考えられている。
「諸山」五山制度に基づく寺格の一つで五山・十刹の下。元亨元(一三二一)年に元執権北条得宗家当主北条高時自らが鎌倉弁ヶ谷(べんがやつ)に建立した崇寿寺(廃寺)を五山に次ぐ寺として「諸山」の称号を与えたのが最古とされる。参照したウィキの「諸山」によれば、『以後、五山・十刹に加えられなかった禅林に対して与えられた。原則的には五山と同様に室町幕府の将軍御教書によって指定されることになっていたが、特に上限を設けなかったために多くの禅林に諸山の称号が与えられ、北朝上皇の院宣や果ては敵である南朝による諸山称号が追認されたものまであったと言われている』とある。
「佛乘禪師天岸慧廣」(てんがんえこう 文永一〇(一二七三)年~建武二(一三三五)年)臨済僧。武蔵国比企郡(現在の埼玉県)出身。無学祖元に師事、高峰顕日の法嗣で、元応二(一三二〇)年に物外可什(もつがいかじゅう)らと元に渡り、古林清茂(くりんせいむ)らに学んだ。元徳元(一三二九)年に明極楚俊(みんきそしゅん)・竺仙梵僊(じくせんぼんせん)・可什と帰国、報国寺を開いた。俗姓は伴、仏乗禅師は諡号。著作に「東帰集」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
「相摸風土記に……」「宅間ケ谷」の注。以下は「新編相模国風土記稿 巻之九十四」「噀里部 鎌倉郡巻之二十六」の「山之内庄」の「浄妙寺村」(現行の地名は「浄明寺」)報国寺の条の前にある「宅間谷」の冒頭記載である。]