日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十九章 一八八二年の日本 お雇い外国人送別会で
図―613
六月十五日。ネットウ、チャプリン、ホウトンの諸教授を送る晩餐会に出席した。この会は、芝公園に新しく建てられた紅葉館という、日本人の倶楽部(クラブ)に属する家で行われた。部屋はいずれも非常に美しく、古い木彫の驚く可き細工が、極めて効果的な方法でそれ等の部屋に使用してある。晩餐は、よい日本の正餐がすべてそうである如く、素晴しいものであった。食事なかばに、古い日本の喜劇が演じられたが、その一つは、一人の男が蚊の幽霊と争闘するものだった。また琴を弾く者達が、不思議な音楽をやった(私は一人の日本人に、ミュージックの日本語は、直訳すると「音のたのしみ」を意味するということを聞いた)。食事が済むと、ゲイシャ連が踊ったり歌ったりし、私が三年前に見た老人の手品師が一芸当をやって見せた。退出に際して、私は菓子と砂糖菓子とが入った箱を貰った。箱は八フィート四方で、薄い白木の板で出来、蓋についた小さな柄は緑色の竹から切り取ったものである(図613)(私は高嶺から、竹が一年で成長するものであることを聞き知った)。
[やぶちゃん注:「六月十五日」明治一五(一八八二)年六月十五日。
「ネットウ」クルト・アドルフ・ネットー(Curt Adolph Netto 一八四七年~一九〇九年)お雇い外国人。ドイツ人。明治六(一八七三)年に工部省官営小坂鉱山冶金技師として来日、明治一〇(一八七七)年、東京大学理学部採鉱學及び冶金学教師に就任。
「チャプリン」既注。ウィンフィールド・スコット・チャプリン(Winfield Scott Chaplin 一八四七年~一九一八年)お雇い外国人。アメリカ人。土木工学教授。「第九章 大学の仕事 7 上野東照宮神嘗祭を真直に見るⅠ」や「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 22 アイヌの土器 / モース先生は地震フリークだった!」を参照。
「ホウトン」ウィリアム・アディソン・ホートン(William Addison Houghton 一八五二年~一九一七年)お雇い外国人。アメリカ人。英文学担当。
「紅葉館」は「こうようかん」と読む。明治から昭和の永きに亙って芝区芝公園二十号地にこの前年の明治一四(一八八一)年の二月十五日に開店したばかりであった高級料亭。参照したウィキの「紅葉館」によれば、三百名限定の『会員制料亭として設立され、豪商・中沢彦吉等が社長を務めた』。国賓迎賓館であった鹿鳴館が明治二三(一八九〇)年にわずか七年で消滅した後は、専らこの紅葉館が『条約改正を睨んだ外国人接待の場、政治家・実業家・文人・華族・軍人の社交場として使われ、東京名所図会や東京銘勝会にも収録された』が、昭和二〇(一九四五)年三月十日の東京大空襲で焼失、六十四年の歴史に終止符を打った。四千六百坪に達した広大な敷地は、『日本電波塔株式会社に売却され、跡地には東京タワーが立っている』とある(下線やぶちゃん)。
「一人の男が蚊の幽霊と争闘するもの」原文も確かに“Before we were through some old Japanese comic acting was
introduced, one act being a man fighting the spirit of a mosquito.”となっているが、このような落語を私は知らない。切に識者の御教授を乞うものである。【2015年5月29日追記】公開後の翌日、早速、ツイッターで相互フォローさせていただいている
Mekerere 氏より、『落語ではなくて、狂言の蚊相撲でしょう』というお答えを頂戴、壺齋散人氏のブログ「続壺齋閑話」の『狂言「蚊相撲」』で細かな梗概を読んだところ、これと確信した。考えてみると、私が食事中に演ぜられた“old Japanese comic acting”を勝手に落語と思い込んだのであって、これは狂言の舞台だったのだ! 何なる愚かさであろう。とはいえ、一見落着である。Mekerere 氏にこの場を借りて心より御礼申し上げる。
「私が三年前に見た老人の手品師が一芸当をやって見せた」これは「第十一章 六ケ月後の東京 23 日本料理屋での晩餐と芸妓の歌舞音曲そして目くるめく奇術師の妙技」に登場するからくり芸人と思われる。
「八フィート」トンデモ誤訳。流石に二・四メートルの菓子折りは流石に見たことないし、持てません! 石川先生! 原文は“eight inches square”で二十センチメートル四方。]