カテゴリ「今昔物語集」を読む 始動 / 卷第三十一 人見酔酒販婦所行語第三十二
カテゴリ『「今昔物語集」を読む』を創始する。
最初期のはっきりとした記憶は、中学の国語の教科書で巻二十五第十二の「源頼信の朝臣の男頼義、馬盗人を射殺したる語」を原型とする「馬盗人」の現代語翻案であろうか。実に愛読して四十五年の永い付き合いである。本格的に本朝部を通読したのは、芥川龍之介に耽溺し出した十代の終りであった。
ネット上には「今昔物語集」の電子テクストや抄訳はゴマンとあるが、その中で飛び抜けるには本文を正字正仮名とすること、オリジナルの注で読解も差し挟むこと、現代語で繋ぎの悪い部分は大胆にオリジナル翻案をすることであろう。そこで以下、僕の偏愛する話を概ねランダムに引き、僕にしか出来ない切り口でオリジナルに訳注して「楽しみ」たい。それがこのコンセプトだ。――実は「耳袋」1000話が終わってから、どうにも心に風穴が空いた気分なんである。それを埋めたいためでもあるんである。――
底本は基本、読み易く原典の片仮名を平仮名に直した池上洵一編「今昔物語集」(岩波文庫二〇〇一年刊)の全四巻を用いるが、恣意的に正字化し、読みは( )が五月蠅いので歴史的仮名遣で甚だ読みが振れるか或いは判読の困難なものにのみ、独自に禁欲的に附すこととし、それ以外のやや問題のある読みはなるべく注で示すこととする(底本は現代仮名遣)。記号の一部も変えてある。それ以外にも数種の校本を所持しており、注や訳でそれらを自在に参考にするが、なるべくアカデミックなものから微妙にずらしてやぶちゃんらしい面白くマニアックな注を心掛けるつもりである(それらから大きく引用する場合、訳に頼った場合は必ず引用元等を示す)。底本を変更した場合(岩波版は全体の四割の抄出)もそれぞれの箇所で示すこととする。訳では読み易さを考え、適宜改行した。
最初は、意想外のものを選ぼう。
巻第三十一の「人見酔酒販婦所行語第三十二」である。
私は人が生理的に気持ち悪がるものが好きな変態的天邪鬼である――
*
人、酒に醉ひたる販婦(ひさきめ)の所行を見たる語
第三十二
今昔、京に有ける人、知たる人の許に行けるに、馬より下(おり)て其の門(かど)に入ける時に、其の門の向(むかひ)也ける古き門の、閉(とぢ)て人も不通(かよは)ぬに、其の門の下に販婦の女、傍に物共入れたる平(たいら)なる桶を置て臥せり。『何(いか)にして臥たるぞ』と思て、打寄て見れば、此の女、酒に吉(よ)く醉たる也けり。
此(か)く見置て、其の家に入て暫く有て出て、亦馬に乘らむと爲る時に、此の販婦の女、驚き覺(さめ)たり。見れば、驚くまゝに物を突くに、其の物共入れたる桶に突き入れてけり。「穴穢な」と思て見る程に、其の桶に鮨鮎の有けるに突懸(つきかけ)けり。販婦「錯(あやまち)しつ」と思て、怱(いそぎ)て手を以て、其の突懸たる物を、鮨鮎にこそ韲(あへ)たりけれ。此れを見るに、穢しと云へば愚也や。肝も違(たが)ひ、心も迷ふ許(ばかり)思へければ、馬に急ぎ乘て、其の所を逃去にけり。
此れを思ふに、鮨鮎、本より然樣(さやう)だちたる物なれば、何にとも見えじ。定めて、其の鮨鮎賣にけむに、人食はぬ樣(やう)有らじ。
彼の見ける人、其の後(のち)永く鮨鮎を食はざりけり。然樣に賣らむ鮨鮎をこそ食はざらめ、我が許(もと)にて、慥(たしか)に見て、鮨せさせたるをさへにてなむ不食(くは)ざらめ。其れのみにも非ず、知(しり)と知たる人にも、此事を語て、「鮨鮎な不食(くひ)そ」となむ制しける。亦、物など食ふ所にても、鮨鮎を見ては、物狂はしきまで唾を吐てなむ、立て逃ける。
然れば、市町(いちまち)に賣る物も、販婦の賣る物も、極て穢き也。此れに依て、少も叶(あなひ)たらむ人は、萬(よろづ)の物をば、目の前にして慥に調(ととのへさ)せたらむを食ふべき也となむ語り伝へたるとや。
□やぶちゃん注
本話の最終段落の評言は、実は本話の前にある話をも含んだ言いである。この前の巻第三十一の「太刀帶陣賣魚嫗語 第三十一」(太刀帯(たてはき)の陣に魚を売る嫗(おうな)の語(こと)第三十一)も類似した、やはり女の行商人が乾した蛇を干魚を偽って売っていたというトンデモ食品暴露物なのである。これは芥川龍之介が「羅生門」で老婆の語りの中の素材の一つに用いた話柄であるから、誰もがご存じであろう。さても懐かしい。次回はそれを取り上げようと思っている。
・「販婦」女性の行商人。当時は清音で「ひさぐ」と濁るのは近世以後である。そもそも「ひさく」という古語はもともとは「売る」という語の雅語であった。訳では「鬻(ひさ)ぎ女(め)」とした。「鬻」は無論、「売る」の意であるが、これは全く私自身が「ひさぐ」というと、この字でないと落ち着かないからである。悪しからず。
・「物を突く」物を吐く。嘔吐する。
・「其の物共入れたる桶」その売り物などを入れている桶。この副助詞「など」は、この時点ではその売り物を現認していない主人公の視線(販婦との距離間)を、すこぶるよく示して効果的であると私は思う。
・「穴穢な」「穴」は感動詞「あな」の借字。「穢な」は、「きたなし」という形容詞の語幹の用法で詠嘆。
・「鮨鮎」鮎の熟(な)れ鮨。(すしあゆ)は塩漬けや酢漬けにした鮎の腹を開いて、骨などを除去し、そこに飯を詰めたものを、桶に笹の葉を敷いて魚を乗せ、さらに笹で覆って重石をし、暫く置いて発酵させたもの。形状は現在の、私の嫌いなブリを用いた蕪鮨(かぶらずし)や氷頭鱠、さらには私の好きな琵琶湖名産の「ふなずし」が近い。
・「錯しつ」「錯」には「誤る・間違える」の意があるが、しかしこの用字は私にはすこぶる面白。何故なら、この「錯」の字の原義は「まじる・まぜる・みだれる・乱す」の意だからである。「あ~あ、しくじった!」のニュアンスに、「あ~あ、まぜちゃった!」のイメージが被るようになっていると私は思うのである。
・「怱」音「ソウ」。急ぐ・慌てるの意の「悤」の俗字。
・「韲たり」音「セイ」。和える。同時に本字には突き砕く・細かにするの意もあって、映像がよりリアルになるとも言える。
・「と云へば愚也や」言語に絶する事態、尋常な表現では不可能な現象に対して用いられる当時の常套表現で、「今昔物語集」では頻発する決まり文句である。直下の「肝も違ひ」(心胆が捩じれてしまう・でんぐり返る)「心も迷ふ」も同レベルの紋切表現であるから、それらが三重に重ねられているここは驚愕の現実の真実に対する猛烈な生理的嫌悪感が遺憾なく発揮されていると言えるのである。
・「人食はぬ樣有らじ」もともと発酵食品であって酸っぱい独特の匂いがし、前にあるようにその見た目もこれ、すこぶる「それ」と似ていて、区別がつかないから、何か、変だぞ、と感じて食わないなどということはおよそあるまいよ、というのである。そうしてこれらの筆者による感覚が、実は目撃してしまった主人公がそこから忌避して逃げ去る間に脳内に想像された関係想念(妄想ではない)の再現であることに注意しなくてはならない。その結果がトラウマとなって、以下の彼の鮎鮨に対する異常な生理的嫌悪感・忌避行動というこの目撃に由来する典型的なPTSD(Posttraumatic stress disorder:心的外傷後ストレス障害)の発症を引き起こすこととなるのである。普通の食事をしている所で他者の席に鮎鮨が出るのを見つけても忌避するというのは、殆んど強迫神経症、一種の鮎鮨フォビア(恐怖)と言ってもよく、たかがされど、の深刻な心傷であったのである。
・「鮨せさせたる」この部分、校訂者によって異なる。小学館の日本古典文学全集版では『鮨(すし)せたる』とあり、サ行下二段動詞で「鮨にさせる」の意の「鮨す」の連用形に完了の助動詞「たり」が続いた形と採っているらしいが、この解には少し無理があるように思われる。
・「然樣に賣らむ鮨鮎をこそ食はざらめ、」この末尾はかように読点でなくてはならない。古文の試験によく出る「~こそ……(已然形)、――」の逆接用法の変格文脈である。「鮎食はざらむ」は「食はざるべけれ」で、この時のように街路や、また店頭で売られている何が入っているか分からぬような鮎鮨は「食わぬのは当然であるけれども、そうでなくて、と下へ逆接で続くのである。
・「唾を吐てなむ、立て逃ける」ここは現代人なら生理的な不快感の表現として読み過ごすところであろう。実際に彼は、PTSDから鮨鮎売の姿を見ただけで気持ちが悪くなって事実酸っぱいものが喉の奥から上って来るのでもあろうけれども、寧ろ、これは呪的な動作であるように私には思われる。唾は「古事記」以来、その人の魂が籠っている神聖にして霊力なものであった。唾はある対象とある対象を接合する呪力があるから、「唾を吐き捨てる」という行為は逆に、ある忌まわしい対象との関係を絶つ力があるということである。だからアウトローである世間との道徳的関係を絶つところのヤクザは盛んに唾するのである。そう、「思い出ぽろぽろ」の不良を気取る、あの少年を思い出せばよい……
■やぶちゃん現代語訳
さる人、酒に酔った鬻(ひさ)ぎ女(め)の驚愕の所行を見てしまった事
第三十二
今となっては昔のことじゃ……京に住まいしておったお人が、知人の家へ行き、馬より降りて、その屋敷の門(もん)を入ろうとしたその折り、その門の、道を隔てた向いのところに古き門のあって――そこはもう、とうに閉じられたままなるものにして、人も行き来致さぬ門で御座ったが――その門のところで、一人の鬻ぎ女が、傍らに売り物なんどを入れた平らなる桶を置いて、ごろりと横になっておるのを見かけた。
『……こんな昼日中、何で寝ておるのか?』
と思うて、近くへ寄って行ってみると、この女、昼間っから酒をかっ喰ろて、したたかに酔っ払い、うたた寝しているのが見てとれた。
なんとまあ――とあきれ果てて、そのまま取って返し、かの知人の家へと上がって用を済ませ、暫くあって出でて門のところに置きおいた馬に乗ろうとしたところ、馬の動きて馬具の鳴ったが耳にでも入ったものか、かの鬻ぎ女、はっと目を覚ました様子。男が馬の蔭からそっと見てみると、目を覚ましたとたんに、呑み過ぎたのであろ、
――ぐぅえっつ!!
と嘔吐を催し、こともあろうに、売りものなどを入れてあるらしい桶に反吐(へど)をすっかり吐き入れてしまった。
『ああっ! 何て汚い!』
と思うて凝っと見てみると、あろうことか、女はこれ、女が鬻いでいるところの鮨鮎(あゆずし)を入れた桶の中に、己がゲロを吐き入れてしまったのであった。
鬻ぎ女は如何にも、
『ああっ! やっちまったよぉう!……』
といった表情をしていたが、次の瞬間、男が覗き見ていることも知らず、何と!
――慌てて、手を桶に突っ込むや!
――其の吐き下したる物を!
――その鮨鮎にぐちゃぐちゃと掻き混ぜてしまった!
――これ、見てしまえば、汚い汚くないどころの騒ぎにてはこれ、御座ない!
――胆っ玉のでんぐり返(がえ)り!
――身も心も夢現(うつつ)の境に彷徨(さまよ)うて……急いで馬に跨ると、その場を遠く逃れ去ったのであった。……
――――――
これに就いて考えてみると、鮨鮎というものはこれ、もとより〈その〉ような様子を成したる食品であるからして、〈こうした〉真相を知らざれば、〈こき混ぜよったそれ〉を見ても何んとも思わぬに違いない。間違いなくこの鬻ぎ女は〈この鮨鮎〉を売ったと見て間違いない。しかも〈その買った鮎鮨〉を何かおかしいぞなんどと感じて、食うのをやめたという御仁もこれ、一人として、おらなんだに違いない。
また、かの驚天動地の現場を見てしまったお人はこれまた、その後(のち)ずっと鮨鮎を食わなくなったというのである。しかも、そのように市井で売られているところの怪しい鮨鮎を食わなくなったなったのは当然であろうけれども、そうではなくて、自分のところで一から確かに見、問題なく健全なる熟(な)れ鮨に致いたものをさえもこれ、決して食ずなった、というのである。いや、それだけではない、知人という知人にも、この一件をつい今しがた見たように生き生きと再現しては語り、最後には必ず、
「――鮨鮎は!――決して食ってはならぬッツ!!」
と、年がら年中、人をつかまえては、きっと戒め制するのであった。いや、それだけではまだ終わらぬ。彼は普通に食事をとるような場所にあっても、そこで他の客に鮨鮎が出されたりしたのに気がつくや、狂ったようになって辺りへ、
――ぺっぺ! ぺっぺ!
と唾(つばき)を吐き撒きつつ、即座にそこを立って逃げ出すのを常としたのである。
されば、市井の店頭にて売る食い物も、鬻ぎ女の売る食い物も、これ極めて汚ないものなのである。こういうことであるからして、少しでも経済的に余裕のあるお人は、食物に就いてはこれ、あらゆる素材を、必ず目の前に於いて確かに調理させ、それを食うようにせねばならないと、かく、語り伝えているとかいうことである。
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