毛利梅園「梅園介譜」 老海鼠
漢語抄
老海鼠〔ほや ほやほや 仙臺〕
ほや 其身甲蟲(かうちう)に似て甲蟲にあらず、
蛤の類にもあらず、只だ水牛皮(すいぎうひ)の生(なま)なるが如
く堅硬(かた)くして※1※2(いぼいぼ)ありて萬年青(おもと)
の實の如く、目・口なく、肉の形・色、あかゞひに
似たり。奥州仙臺にほやほや笑ふと云ふに
因りて佳節(せつく)・吉事の時、必ず用ふ。相州の海
稀に出づ。
[やぶちゃん注:「※1」=「疒」+「咅」。「※2」=「疒」+「畾」。底本の画像の表記が「※2」の字体を意味することは、本文の「蟲」の表示で納得戴けるものと考える。踊り字「〱」は正字化してある。]
天保八丁酉(ひのととり)年孟春
四月 筆始め 眞寫
[やぶちゃん注:ゴカイと思しいものを仮根に纏わらせるという如何にも私好みの脊索動物門 Chordata 尾索動物亜門 Urochordata ホヤ綱 Ascidiacea マボヤ目 Pleurogona マボヤ亜目 Stolidobranchiata マボヤ(ピウラ)科 Pyuridae マボヤ属 Halocynthia マボヤ Halocynthia roretzi (von
Drasche) の美事な一個体(掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの自筆本「梅園介譜」の保護期間満了画像をトリミングしたもの)。
「漢語抄」「和名類聚抄」にしばしば引用される、奈良時代の養老年間(七二〇年頃)に成立したと考えられている漢字辞書「楊氏漢語抄」。漢語を和訳し、和名を附した国書であるが、現在は散逸。
「甲蟲」この「甲」現行の甲殻類の「甲」とほぼ等しい用法で、蟹や海老類のような、現行で言うところの外骨格を持った生物を指す(但し亀類を含む)。これに似ているというのは本文でも述べるように、「生」の「水牛皮」にそっくりなホヤのやや堅い皮革状の被嚢の性質に基づく。
「蛤」この場合は、内部の筋体部分を斧足(二枚貝)類の内臓に似ていることを指していると考えられる。思えば、斧足類の入水管と出水管も、マボヤの特徴的な入水口と出水口の突起部分と相似する。実際にホヤの未だに貝類と思い込んでいる人は存外に多い(というか、脊索動物や尾索動物という語を出してもピンと来る方は普通、いない。
「萬年青の實」単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科スズラン亜科オモト属オモト Rohdea japonica の実は秋に鈴なりに紅色の実をつけ、確かに似ていないとは言えない。梅園はキャプションに於いても、一般の人々が目にする機会の少ないこの奇体な形の生物であるホヤの様態を、なるべく分かり易く伝えんとして、理解し易い比喩を重ねていることに注意されたい。彼は無味乾燥な瘦せたアカデミストではなかった。ホヤのあのみずみずしい体液が香ってくるような、生き生きとした博物学者であったのである。
「あかゞひ」斧足綱フネガイ目フネガイ科アカガイ属アカガイ Anadara broughtonii 。これも似ていなくもない。香りも古い記載ではホヤの独特のあの匂いを透頂香(ういろう)臭と称するのを見かけるが、アカガイも同様な微かな金属的臭気を持っているように私には感じられる。
「奥州仙臺にほやほや笑ふと云ふ」とあるが、これは仙台限定の方言ではない(但し、使ったことはない)。小学館「日本国語大辞典」に「ほやほや」は副詞として載り、顔をほころばせるさま。いかにも嬉しそうに笑うさまを表わす語とある。何故、仙台なのだろうと不審に思っていたところ、同引用例を見て何となく納得してしまった。そこには浄瑠璃から『俄に作るほやほや笑顔』とあったのだが――その外題――「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」なんだもの。……
「相州」相模国。
「天保八丁酉」西暦一八三七年。
「孟春」「孟」は初めの意で春の初め、初春。]
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