拙作怪談集「淵藪志異」三への三十七年後の附記
淵藪志異 三――三十七年後の附記
三
我飮友の某かつて日吉に住みけるに或夜酒氣醒まさんとて東急東横線日吉驛邊迄出でつ。深夜なれば終電車もとくに過ぎ驛螢光燈のみ點き人無し。通例閉ぢられたる入口の怪しくも開きてあり。ぶらぶらと驛構内へ入りたるも人影無く靜寂なりしがホームへ通づる階段に至りて某眼を疑へり。そには人數多立ち居線路へ零れ落ちんばかりにてさんざめく人聲響きたり。某這這の體にて逃げ出でて車を止め逗子が友人宅迄飛ばしたるとぞ。蒼白なる某が面相にそが友人も狂言には當たらずと認めしことなり。昭和五十三年冬某本人より聞き書きす。
その語り口の確かさ某酒に醉ひたれども幻覺也とは一蹴し難し。某曰く日吉近邊彼の東京大空襲の折如何と。
○平成二七年五月七日藪野直史附記
平成二七年五月六日附朝日新聞二十一頁が湘南版に連載せる「かながはの戰後七〇年 第三部 空襲の記憶」六にて記者宮嶋加菜子氏の書かれし「日吉臺地下壕保存の會」に關はる記事を讀みたり。そが中に戰爭末期一九四四年に慶應大學日吉校舍には日本海軍連合艦隊司令部の置かれ地下壕の掘られしとあり。そが故かは未だ不詳乍ら敗戰に至る迄横濱なる日吉が街周邊は此三度の空襲を受けたることを今知れり。記事に添へられたる同會の古くより住まひせる地域住民の聲を元に作成せる日吉空襲地圖を見しにB二十九が編隊は南西方向より侵入東急東横線日吉驛及びそが驛東に廣がれる商店街幷びに驛東慶應大學周邊域なる住宅地に向け激しき空爆を加へそれらを悉く燒失せしめんことの髣髴たり。記事冒頭昭和二十年四月四日日吉周邊を襲ひし空襲が慘狀を當時六歳なる男子の以下の如く語られし詞を掲げり。漢字は正字へアラビア數字は漢數字へ仮名は正仮名遣へ代へしは許されたし。『せうゆ屋をやつてゐたのですが、母屋や藏などに落されました。家族四人が即死してゐます。母親とおば二人、働いてゐた若い衆さんです』。かの我飮友某日吉驛にて體驗っし怪異を語りし後ぽつりと我に云ひし「日吉近邊彼の東京大空襲の折如何と」の言葉昨日三十七年振りに思ひ出だせば附記せずんばならざる想ひの募りてなむ敢へて記しぬる。]
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