『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 滑川
●滑川
滑川は上にては胡桃川といひ。淨妙寺の前より下までを滑川といふ。其下文覺屋敷の邊にては座禪川といふ。文覺此に居て座禪する故に名くといふ。其下小町にて夷堂川といふ。其下延命寺の脇大鳥居の邊にてはすみうり川といふ。其下閻魔堂の前にては閻魔川と云ふ。一川六名あり。太平記に載(の)する所を見るに靑砥左衞門藤綱が屋敷此邊にありけるか。
[やぶちゃん注:朝比奈峠旧切通しや鎌倉霊園方向の丘陵部を水源とし、総延長六キロメートルを超える旧市内では最も大きい川で、一般的な通称である「滑川」(なめりかわ)は中上流部分に於いて川床が主に凝灰砂岩であるために、川水が滑るように流れることに基づくという。
「夷堂川」は左岸の橋畔にある(復元)正覚寺の夷堂に由来する。
「すみうり川」この左岸に炭商人がいたことによるとされる。定かでないが、鎌倉時代、この一帯は市井の商人の居住区域ではあった。
「閻魔堂」九品寺横の海岸通りを西に行った河畔にはかつて新居閻魔堂(現在の円応寺の前身)が建っていた。現在の円応寺の本尊である閻魔大王像もここに祀られていたが、元禄一六(一七〇三)年の元禄大地震とその津波によって倒潰したため(この時本尊閻魔像も首を除いて流出したとされる)、宝永元(一七〇四)年に山ノ内建長寺前に移されたと伝えられている。
「靑砥左衞門藤綱が屋敷此邊にありけるか」報国寺及び浄妙寺前から金沢街道を朝比奈方向へ三百メートルほど行くと、右手に滑川に架かる青砥橋があるが、そこを渡った住宅地の道路脇(浄明寺五丁目)に鎌倉青年団の「青砥藤綱邸旧蹟」の碑は建つ。但し、彼の実在自体が実際には疑わしい。御不満の向きは、私の「耳嚢 巻之四 靑砥左衞門加増を斷りし事」の注及びそこに貼られた更なる私のリンク先をご覧あれ。……さても……近々やらかそうと考えているテクストもこれ……彼に関わるのぅ……♪ふふふ♪……]
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