甲子夜話卷之一 35 松平左近將監【老中】、黑田豐州へ申達間違のときの上意
35 松平左近將監【老中】、黑田豐州へ申達間違のときの上意
松平左近將監【乘邑】は、德廟の時の老職にして出頭人なり。或時黑田豐前守御暇のとき、御目見、上意の後、乘邑拜領物を申渡す。因て儕輩退出の後、黑田は扣居たり。此黑田の領邑は近地なれば、例拜領物無きこと也。然を乘邑心得違て申渡せり。因て其過誤を同列より言上に及び、乘邑指扣を伺たり。其時上意には、老職の申渡は重きこと也とて、黑田には臨時に拜領物仰付られ、乘邑は指扣に及ばずとなり。
■やぶちゃんの呟き
・「松平左近將監」松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)は肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。老中。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに『わたり徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。後に財政をあずかる勝手掛老中水野忠之が享保一五(一七三〇)年に辞した後、『老中首座となり、後期の享保の改革をリードし』、元文二(一七三七)年には『勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭が老中に就くと、老中首座から次席に外れ』た。『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が』第九代『将軍となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年、『家重が将軍に就任すると直後に老中を解任され』、加増一万石を『没収され隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた』(以上はウィキの「松平乗邑」を参照した)。「酒井忠恭」は「ただずみ」と読む。
「黑田豐州」常陸下館藩主・上野沼田藩初代藩主で久留里藩黒田家初代の黒田直邦(寛文六(一六六七)年~享保二〇(一七三五)年)であろうか? 享保八(一七二三)年、奏者番に就任し、寺社奉行を兼任する。享保一七(一七三二)年三月には五千石を加増されて下館から沼田に移封された。同年七月に西の丸老中に就任し、武蔵国内で五千石を加増された。三万石を領することになった。同年十二月には侍従に任官、享保二〇(一七三五)年三月に江戸で死去している(以上はウィキの「黒田直邦」に拠る)。
「德廟」吉宗。最後の彼らしい粋な計らいが、いい。
「出頭人」老中首座。
「儕輩」「さいはい」或いは「せいはい」で同輩。
「扣居たり」「ひかへをりたり」。
「領邑は近地なれば、例拜領物無きこと也」「領邑」は「りやういう」。黒田直邦常陸下館藩は現在の茨城県筑西市で、上野沼田藩は現在の群馬県沼田市西倉内町である。こういう規定があったものらしい。
「然を」「しかるを」。
「心得違て」「こころえちがへて」。
「同列」老中の同僚。吉宗側近の勝手掛老中らと確執があったらしい。
「指扣」「さしひかへ」。
「伺たり」「うかがひたり」。伺いを立てたのは誤りに気付いた乗邑自身であろう。