橋本多佳子句集「命終」 昭和三十二年 高野行(Ⅲ)
真別処
旅人はものなめげなり沙羅落花
沙羅双樹ぬかづくにあらず花拾ふ
夏行秘苑泉のこゑに許されて
沙羅落花傷を無視してその白視(み)る
沙羅双樹茂蔭(しげかげ)肩身容れるほど
夏行秘苑僧の生身(いきみ)のねむたげに
「脚下照顧」かなぶんぶんが裏がへり
一燭の饒舌夏行の僧の眼に
夏行秘苑指しびる清水魚生きて
[やぶちゃん注:「真別処」「しんべつしよ(しんべっしょ)」と読む。円通律寺のこと。高野山金剛峯寺奥の院一の橋手前の高野山蓮花谷の南六百メートルの山中にある真言宗の僧侶を目指す者の修行寺院で、現在も厳格な規律を守って原則、女人禁制、一般人は通常は立入禁止である。この寺院は弘法大師の甥で天台宗の智証大師が修行した跡とされ、東大寺再建で有名な俊乗坊重源上人が荒廃したこの地に専修往生院を建立したが、後に再び荒廃を極め、江戸幕府第二代将軍徳川秀忠の側近山口修理亮重政が登山して出家し、智証・重源の旧跡を慕って堂を再興、密教と律宗の兼学道場となった。現在は高野山真言宗の修行寺院であるが、律宗を兼学した当時の名残りとして寺号に「律」の字がそのまま残っている。山門の前は現在、薄暗い杉林になっているが、重源が活躍した時代は一帯に念仏聖が無数の庵を構えていたと伝えられる(以上は和歌山県観光連盟公式サイト内の「観音巡礼の面影を遺す石畳道」に拠った)。女人禁制と書いたが、尼僧が受戒を受ける際と、旧暦四月八日の釈迦の誕生を祝う花祭りの際には一般公開されて女性も立ち入ることが出来、この時は先に注した通り、多佳子は、この昭和三二(一九五七)年八月十五日に三星山彦(当時、高野山在住であったと思われる『ホトトギス』の同人)の案内で、特別に円通寺を参観出来たのであった。
「ものなめげなり」「なめげなり」は「無礼気なり」などと書く形動動詞。「無礼だ」「失礼だ」「不作法だ」の意の形容詞「なめし」の語幹に、如何にもそのような感じに見えるの意を添える接尾語「げ」のついたもの。無礼なさま、無作法に見えるさまをいう。
「沙羅双樹」「沙羅」は「さら」若しくは「しやら(しゃら)」と読み、ツバキ目ツバキ科ナツツバキ
Stewartia
pseudocamelli の別名である。本邦には自生しない仏教の聖樹フタバガキ科の娑羅樹(さらのき アオイ目フタバガキ科
Shorea 属サラソウジュ Shorea
robusta )に擬せられた命名といわれ、実際に各地の寺院にこのナツツバキが「沙羅双樹」と称して植えられていることが多い。花期は六月~七月初旬で、花の大きさは直径五センチメートル程度で五弁で白く、雄しべの花糸が黄色い。朝に開花し、夕方には落花する一日花である(ここは主にウィキの「ナツツバキ」及び「サラソウジュ」に拠った)。
「夏行」「げぎやう(げぎょう」と読む。狭義には夏安居(げあんご)のことを言う。元来はインドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにゃ:寺院)の内に籠って座禅修学することを言った。本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。安居の開始は結夏(けつげ)といい、終了は解夏(げげ)というが、解夏の日は多くの供養が行われて僧侶は満腹するまで食べることが出来る。雨安居(うあんご)・夏安居(げあんご)ともいう(平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした)。多佳子の参拝は八月十五日であるから、この「夏行」とは狭義の夏安居の時期ではなく、夏安居に相当する暑い夏の静寂に満ちた真別処円通律寺のそれを詠じたもの。
「秘苑」女人禁制の円通律寺の幽邃な庭園をかく言ったものであろう。
「脚下照顧」「きやくかせうこ(きゃっかしょうこ)」と読む禅語。「脚下」は足元の意から転じて本来の自分・自分自身の意、「照顧」は反省してよくよく考える、また、よくよく見るの意。「己れ自身をよくよく見つめよ」という意で、他に向かって悟りを追い求めることなく、まずは自信の本性をよくよく見定めよ、という戒めの語である。転じて、他に向かって理屈を言う前に、まず自分の足元を見て自分のことをよくよく反省せよ、足元に気をつけよという一般の故事成句となったが、ここは無論、原義である。「照顧脚下」とも言う。
個人的には、
夏行秘苑僧の生身のねむたげに
「脚下照顧」かなぶんぶんが裏がへり
一燭の饒舌夏行の僧の眼に
の三句が映像的にすこぶる素晴らしい。]