甲子夜話卷之一 36 有德廟の大奥踊の事
36 有德廟の大奥踊の事
予が少時、祖母夫人のもとに、大奧の人とて、肥大にして長高く髮白き老婦の來たり、いかなる緣に由てか、又何勤の人か、少時ゆゑこれを辨ぜず。名はおこなとか云し。此人に祖母君の彼是と饗せられ、種々の談話し給ふ中、有德院樣のときの御踊を孫兒に見せ給るべしと有ければ、心得候とて、即起舞しが、手を右左に上げ下して、又其掌を拍ち輪の如く行き囘るばかりなり。歌は自唱して、そこで松坂こへしと云し。予少時の心に面白くなき踊と思居たるが、松坂踊など云ものにてもありしや。今念へば古風なりしことをと追慕せり。
■やぶちゃんの呟き
「有德廟」第八代将軍吉宗。彼は寛延四(一七五一)年に没している。
「予が少時」松浦静山(本名、清)は吉宗の死後九年後の宝暦一〇(一七六〇)年一月二十日の生まれである。因みに彼の父政信は、本来ならば静山の祖父で肥前国平戸藩第八代藩主松浦誠信(さねのぶ)の跡を継ぐはずであったが、明和八(一七七一)年八月に早世、静山はその長男ではあったものの、側室の出生であったがために、父の死まで松浦姓を名乗れず松山姓を称していたから、本話柄当時は「松山」姓であった。同明和八年十月二十七日に祖父誠信の養嗣子となって、安永三(一七七四)年四月十八日に吉宗の直孫第十代将軍徳川家治に御目見、同年十二月十八日に従五位下壱岐守に叙任されて安永四(一七七五)年二月十六日に祖父の隠居によって松浦家家督を相続するという経緯を辿っている(以上はウィキの「松浦清」に拠る)。
「祖母夫人」静山の祖母である、松浦誠信の正室久昌(きゅうしょう)夫人。宮川氏の娘。
「長高く」「たけたかく」。
「何勤」「なにづとめ」。大奥での担当職のこと。
「松坂踊り」「大辞林」に、盆踊りの一つで伊勢の古市(ふるいち:三重県伊勢市の地名。ウィキの「古市」によれば、古くは寒村であったが、『伊勢参りの参拝客の増加とともに遊廓が増え歓楽街として発達し、宇治古市として楠部郷から分かれ』、『江戸時代前期に茶立女・茶汲女と呼ばれる遊女をおいた茶屋が現れ』て、元禄(一六八八年~一七〇三年)頃には『高級遊女も抱える大店もできはじめた』。寛政六(一七九四)年に発生した『大火で古市も被害を受けたものの、かえって妓楼の数は増え、最盛期の』天明(一七八一年~一七八九年)頃には妓楼七十軒、遊女千人、『浄瑠璃小屋も数軒、というにぎやかさで、「伊勢参り 大神宮にもちょっと寄り」という川柳があるほどに活気に溢れて』、『十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場し』ているとある)に於いて享保(一七一六年~一七三六年)頃から行われた伊勢節(松坂節)の盆踊りが、伊勢参宮の流行で各地に普及したもの、とある。「おこな」さまは必ずしもこの古市の出の方ではないのかも知れぬが、何かこの素朴な舞いに、私は何かしみじみとしたものを感じてしまうのである。