甲子夜話卷之一 37 井伊家馬場の事
37 井伊家馬場の事
外櫻田なる井伊家の邸は、昔より主人寢所の前乃馬場にて、毎早朝家中の諸士せめ馬を爲ることなり。其もの音にて主人目を醒すと云。さすが御當家格別の家の風と謂べし。然に明和の頃大老勤られし代より、改て尋常の庭の體にかはりたりと云。惜むべきことなり。
■やぶちゃんの呟き
「外櫻田なる井伊家の邸」近江彦根藩井伊家は永田町邸(現在の国会前交差点から国会正門前の前庭一帯)を上屋敷としていた。切絵図を見てみると、屋敷の東北はサイカチ(皀角)河岸を挟んで江戸城の桜田濠(ぼり)となっているから、馬場はこの東北にあったものかなどと想像した。なお、井伊直弼はこの上屋敷から出て、桜田門外で襲撃されている。この距離、実測してみたが四百メートルもない。想像だにしていなかった短い距離であったことを今日初めて知った。先日の大河ドラマの「花燃ゆ」を見ていて不審に思ったとある描写が氷解した。
「乃」「すなはち」。「が、まさに」の意。
「せめ馬」攻め馬。平常時の日々の馬の走り込みの調教を言う。現在でもかく表現する。
「明和の頃大老勤られし代より」明和(一七六四年~一七七一年)の頃には該当人物はいないので(大老は政務を総理する幕府最高職であったが臨時非常職で常に置かれていたわけではない)、恐らくは天明四(一七八五)年十一月二十八日に大老職に就任している近江彦根藩第十二代藩主井伊直幸(なおひで 享保一四(一七二九)年~寛政元(一七八九)年)のことであろう。この男、ウィキの「井伊直幸」によれば、『幕政では田沼意次と共に執政していたが、田沼に賄賂を積んで大老の座を手に入れたという噂もあった』とあり、また天明六(一七八六)年に『将軍・家治が死去すると、若年寄で同族の井伊直朗や大奥と共謀して次の権力の座を狙ったが政争に敗れ』て、天明七(一七八七)年には『大老職を辞』任することとなったとあって、如何にも印象がよろしくないから、寧ろ却って、ここの、なんだかなー当主に相応しい気がする。