『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 胡桃谷 / 附 道興准后「廻国雑記」鎌倉パート翻刻
●胡桃谷
胡桃谷は淨妙寺の東の谷なり。廻國雜記に此地名見ゑたり。曰く。
くるみか谷にて
住馴し鎌倉山の山からや胡桃か谷に秋を經ぬらん
[やぶちゃん注:白井永二編「鎌倉事典」に、『永享の乱による永安寺』(ようあんじ:この浄妙寺東の背後の尾根(東のピークを胡桃山と呼んだ)を越えた二階堂紅葉ヶ谷、瑞泉寺門外向って右の谷にあった臨済宗の寺。廃寺。永福寺とは別な寺なので混同されないように。)『炎上の際にはこの谷も類焼して、ここにあった律宗大楽寺は焼けて二階堂に移ったという』(明治になって廃寺か)『東側の山裾にはやぐらが多い。現在は』宅地造成のため、『昔の景観が失われた』とあるが、というより、完膚なきまでに殆ど消失してしまっているとした方が正しい。
「廻國雜記」道興准后が著した紀行文。道興は関白近衛房嗣の次男で、聖護院第二十四代門跡・新熊野検校などに任ぜられた。大僧正。後、職を辞して詩歌の道へ入り、足利義政・寛正六(一四六五)年、准三后に補任(准后は「じゅごう」と読み、公家(「后」とあるが女性に限らない)の最高称号の一つである)、それ以降、道興准后と呼ばれ、将軍足利義政の護持僧となり、義尚にも優遇された。本書は文明一八(一四八六)年の六月から北陸道を経て越後に至り、関東から甲斐、さらに奥州の松島に至る凡そ十ヶ月に亙る旅について記したもの。漢詩・和歌・俳諧連歌を交えた紀行文は、その文学的価値もさることながら、当時の各地の修験者の動向を知る資料として貴重である(以上は主に平凡社「世界大百科事典」の記載に補足を施してある)。本歌は谷尽くしの和歌群に現われるのであるが、ここで思い切って同書の相模国の鎌倉周辺のパートを一括して掲げておくこととする。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの大月隆編「廻國雜記」(文学同志会明三二(一八九九)年刊)の画像を視認した。踊り字「〱」は正字化し、一部に句読点を変更増補した。
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新羽を立て、鎌倉にいたる、道すがら、さまざまの名所ども、くはしくしるすに、をよび侍らず。かたびらの宿といへる所にて、
いつきてかたひのころもをかへてましかせうらさむきかたびらのさと
岩井の原を、すくるとて、
すさましき岩井のはらをよそに見てむすふそ草のまくらなりける
もちゐ坂といへる所にて、俳諧の歌、
ゆきつきてみれとも見えすもちゐ坂たゝわらくつにあしをくはせて
すりこばち坂といへる所にて、又俳諧歌をよみて人に見せ侍りける、
ひだるさにやどいそぐとやおもふらむみちより名のるすりこはちざか
はなれ山といへる山あり、まことにつゞきなる尾上(おのへ)も見え侍らねば、
あさまだきたびたつさとのをちかたにその名もしるきはなれ山かな
鎌倉中、かなたこなた、巡見し侍りて、まつやつやつを人にたづね侍り。龜か井のやつにてよめる、
いくちとせ鶴か岡邊にともなひてよはひあらそふ龜か井のやつ
扇がやつにて、
秋たにもいとひし風をおりしもあれあふきかやつは名さへすさまじ
うつし繪のあふぎがやつやこれならん月はうな原ばらゆきはふじのね
ささめがやつ、
霜さやくさゝめがやつのふしの間にひとよのゆめもあらしふくなり
梅がやつ、
冬がれの木たちさびしき梅かやつもみちもはなもおもかげぞなき
うりがやつ、
ひとなつはとなりかくなりくれすぎて冬にかかれるうりがやつかな
霧がやつ、
このさとのふる井のもとのきりがやつおち葉ののちはくむ人もなし
くるみがやつ、
すみなれしかまくら山のやまがらやくるみがやつに秋をへぬらん
へにがやつをとほりて、けはひ坂をこゆとて俳諧、
かほにぬるへにがやつよりうつりきてはやくもこゆるけはひさかかな
鶴岡の八幡官に、參詣し侍れば、つたへきゝ侍りしにも、すぐれたる宮たちなり。まことに、信心肝に銘して、たつとく覺え侍る。そもそも、當社別當、祖師隆辨僧正、經曆(けいれき)年久し。その階弟道瑜准后(だうゆうじゆんこう)、號をば、大如意寺といひ、兩代かの職に補し侍りき。由緒無雙(ぶそう)なることを、おもひ出て、神前に奉納の歌、
神もわかむかしの風をわすれすは鶴かをかへのまつとしらなん
由井の濱にさかりて、鳥居なと見侍りて、しはらくみなみなあそひ、侍りけるに、
くちのこる鳥居のはしらあらはれてゆゐの濱邊にたてるしらなみ
このつゐでに、建長圓覺以下の五山を、巡見し侍りて、これより、瀨戸金澤といへる、勝地の侍るを、たつねゆくに、瀨戸のおきに、漁舟あまた、みえけるを、
よるべなき身のたくひかな波あらき瀨戸のしおあひわたるふなびと
磯山づたひ、のこりの紅葉、見所おほかりければ、
冬されは瀨戸の浦わのみなと山いくしほみちてのこるもみぢぞ
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