橋本多佳子句集「命終」 昭和三十二年 大阪伝法川
大阪伝法川
施餓鬼舟黒煙を吐く船に曳かれ
施餓鬼の波芥引寄せ引放つ
海までの穢川よ施餓鬼のもの青赤
卒塔婆流す穢川の舟に偕(とも)に乗り
[やぶちゃん注:「偕(とも)に」俱(とも)に。一緒に。]
施餓鬼舟より享けよと紅き毬流す
施餓鬼卒塔婆流す入日の波寄り来る
裏返り穢川に施餓鬼卒塔婆の白
施餓鬼幡鉄打つ音にうなだれづめ
落日に群衆が透く川施餓鬼
施餓鬼僧蝙蝠(かうもり)の両(ふた)つ袖ひろげ
[やぶちゃん注:「伝法川」ウィキの「伝法川」によれば、『かつて大阪府大阪市此花区』(このはなく)『に存在した河川で』、現在はそう呼称する川筋は存在しない模様である(事実、地図や検索に実在する「伝法川」としては見出せない)。『旧淀川の分流である正蓮寺川から分かれ、大阪湾に注いでいた。沿岸は大坂の町へ出入りする水運の拠点となり栄えていた』が明治四三(一九一〇)年に『新淀川が開削されたときに下流部の土地が利用されたために新淀川に流入する形にな』り、その後、高潮対策のために昭和二六(一九五一)年から埋め立てが始められ、『現在は新淀川に注ぐ部分のみが漁港として残されている』に過ぎないとある。地図上で見ると、新淀川の河口の新伝法大橋から六百メートル強下った右岸(伝法五丁目と西島二丁目の境に陥入する港湾があり、大阪市漁協もあるから、ここが旧伝法川河口と考えられる(後掲する正蓮寺は湾奧から東南へ二百メートル強の位置にある)。底本年譜の昭和三二(一九五七)年八月の条に、『大阪伝法川で、施餓鬼舟に乗り、施餓鬼を見る』とあるから、この昭和三十二年の段階では、辛うじて伝法川の川の流れが残っていたものか。
「施餓鬼舟」大阪市公式サイト内の「正蓮寺の川施餓鬼」に、『施餓鬼(せがき)とは、餓鬼道(がきどう)にあって飢えと渇きに苦しむ餓鬼に飲食を施し、仏に供養することによって餓鬼を救済し、自身も長寿することを願う仏事をいい、特に川辺で死者の霊を弔う施餓鬼を川施餓鬼という。川辺や船を用いて行われ、施餓鬼法要の後に、水死者の法名を記した経木(きょうぎ)や供物(くもつ)などを川に流す。本来は時期を限ったものではなかったが、盆行事と結び付き精霊(しょうりょう)送りや納涼の要素が大きくなっていった』と概説した後、かつてこの伝法川で川施餓鬼を行っていたのは正蓮寺で、同寺は寛永二(一六二五)年に開創された日蓮宗の寺院で、『寺伝では川施餓鬼は第七世寂行院日解上人(じゃっこういんにっかいしょうにん)が』享保六(一七二一)年に始めたと伝えるとり、安政年間(一八五四年~一八六〇年)に成立した「摂津名所図会大成」には、『例年七月廿六には、当地正蓮寺といふ日蓮宗の寺院に施餓鬼の法会ありて、浪花中より宗門の男女、船にて群集して、いたって賑わし。是を伝法の施餓鬼とて、天神祭に彷彿たる舟行の大紋日也』とあって、『天神祭とならぶ夏の大きな祭となっていたことが分かる』と記す。現行の同施餓鬼舟の行事は八月二十六日の午前十時から新盆会特別法要から始まり、『続いて唱題(しょうだい)行進が行われ、塔婆(とうば)・経木供養、法話・説教、稚児大法要・焼香、練供養(ねりくよう)、船渡御(ふなとぎょ)、経木流しの順に行事が進行』、午後三時頃から、『練供養をして乗船場(新淀川閘門繋船場(こうもんけいせんじょう))へ向かう。行列は先見(せんけん)、金棒(かなぼう)、旗幡(はた)、纏(まとい)、稚児、御輿(みこし)、大太鼓、僧侶、団扇太鼓(うちわたいこ)、檀信徒の順である。日蓮聖人(にちれんしょうにん)立像を納めた御輿には多数の経木も納められる。行列が乗船すると、玄題旗(げんだいき)と吹き流しを立てた船団は新淀川の中央まで進み、先頭の船の舳先(へさき)で導師が読経をしながら経木を流し、それに合わせて参列者が御題目を唱えながら経木を流す』とあるから、これらの句柄の作品内時間も。夕刻少し前ということになろうか。また、『正蓮寺川で行われていた川施餓鬼では、川の中に五色の幣(へい)を付けた笹、塔婆を立てた棚が数多く設けられた。笹と精霊棚(しょうりょうだな)の前を船渡御の船列が進むというもので、多くの見物の船が出て大いに賑わった』が、精霊棚の設置は昭和一八(一九四三)年以降は行われておらず(従ってこのロケーションにもない)、『さらに、地盤沈下によって橋の下を船が運航できなくなったので』、昭和四二(一九六七)年からは『新淀川に移動して行事を行っている』。『日蓮聖人が萬霊供養のため、川まで出向く行事の形式をとり、諸霊を送り出す経木流しが組み合わされた盆行事であり、かつてはいくつかの寺院で行われていた、水都大阪らしい行事の遺風を今日に伝えている』とある(下線やぶちゃん)。]